邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net
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今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。 >>72
周防灘では距離が合わないことは畿内説で比定されたじゃないか。お前の出した説が比定された。
太平洋を手漕ぎ船で行くとなると色々と無理があるのだよ。黒潮に乗ってしまうと陸から離れてしまう。
であるなら瀬戸内海だが当時の航行は整備されておらず無理。
整備されていないのは太平洋にも言えるし太平洋だと中継地が左手にしかなく黒潮に乗ると引き離される。 >>73
>周防灘では距離が合わないことは畿内説で比定されたじゃないか。
??? なんのこっちゃ?
阿波の海人を舐めたらあかんぜよ。黒潮を操られなくて、関東へなど、進出できまっかいな。 >>75
日本海も阿波の海人の活躍の場なんですよ。 >>77
出雲に限らず、少なくとも越前まで忌部氏の痕跡が残っていますからね。
阿波国矢野古墳から出土した「碧玉」「管玉」の原産地を分析した資料では、「管玉」は出雲産であることが判明しています。
また、佐渡の猿八遺跡の「管玉」「碧玉」は出雲まで運搬されたことも判明しています。
つまり3世紀(矢野古墳造作時期)より日本海側に「鉄」「翡翠」「碧玉」等の運搬ルートは厳然と存在していたのです。 出羽の国一之宮の大物忌神社も物部氏と忌部氏に関連するのだろうね 「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も、元を辿れば全部忌部氏一族。
ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 Bs TBs
今のところ
同大かレベルが一段のお血て多摩大のバカが来た
ベニバナが畿内独特で出 多摩大の河合さんより、
多くの素人の方の邪馬台国の畿内説の方の方が学を積んでると思った
同じ、畿内説でも河合さんよりここにカキコム畿内説の方の方が優れてる・。 >>54
邪馬台国を独自に研究してるたけしも
雑誌で卑弥呼を中心とした邪馬台国四国説を言ってた 今年の27時間TVの司会はたけしで
テーマは日本史らしいね 阿波説(四国説)が徐々に、確実に認知され始めました。
地道な郷土史家の研究に頭が下がります。 昨夜のBSTBSの邪馬台国番組で取り上げられなかったやん>四国説 TBSに取り上げられるより、たけしに取り上げられた方が値打ちがあるんとちゃう? >>87
徐福、飛騨王朝、出雲王朝、九州王朝、阿波王朝、騎馬民族、日ユ同祖論
などネタはいっぱいあるぞ >>85
しかし阿波徳島に北野家の先祖のルーツがあったなんて
以外すぎてビックリした >>92
阿波には、大概の資料・物・者が揃っておりますです。 ハイ これだけ面白いのに徳島はなんでもっと発掘しないのよ?
音楽より考古学っしょ 昔と違って、最近は少しづつ発掘が進んでいます。
若杉山遺跡は33年ぶりに再調査が始まるようです。
また、若杉山に関連する「加茂宮ノ前遺跡 水銀朱の精製工房跡」
奈良に先立つ郡里廃寺遺跡(飛鳥寺院)関連遺跡「中山路遺跡」
の発掘講演が実施されます。
まぁ、遅かれ早かれ「阿波」から真実が現れるでしょう。 @阿波
阿南市は、平成29年度から若杉山遺跡の国史跡指定を目指して、より詳細な発掘調査を計画しているとのこと。 観光スポットになって、邪馬台国気運が高まるだろ?
徳島県人さえ、「其山有丹」知らない人多いから。 三好長慶や三好三人衆の認知がいまいち。大河ドラマにでも取り上げられれば観光スポットになるんだろうが。
それと、まだ発掘中でもあり、観光スポットにはなっていない。
それより、阿波国内で古事記ツアー組むと面白いんだが。古事記ストーリーを巡るバスツアーとか。
なんせ、阿波国内を躍動した跡が至る所にあるからね。 イザナギ逃避行巡りとか、出雲国譲り巡りとか、天孫降臨ルート巡りとか、神武東征ルート巡りとか
モモソ媛移動ルート巡りとか、壬申の乱移動ルート巡りとか、歴代天皇宮都・陵墓巡りコースとか
まぁ、他説では絶対無理なお話。 邪馬台国とか言わずに古事記だけでやってれば
支持する人も多いだろうに >>105
古事記は仕方なく、しぶしぶ譲るが、邪馬台国だけは諦め切れない心境か? 古事記の舞台が徳島って誰も知らない
徳島人ですら知らない
もっと宣伝しないと
全国テレビで特番でも作ってくれたらいいんだが
竹田あたりを呼んで >>106
いや、古事記の舞台は阿波だと思ってるからこそなんだが 竹田の古事記研究会は徳島スルーされてるね
愛媛支部はあるのに ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 山口敏太郎が阿波風土記は蜂須賀家に残ってる
って日曜のイベントで言っていたな なんで山口敏太郎がそんなこと、知り得たんだろうか? 対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。
・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)
☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。
対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)
潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。
壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)
極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%)
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%) 魏使は呼子に上陸してるし
元寇も呼子・唐津を含む肥前沿岸一帯に襲来してるよ
朝鮮通信使は呼子・唐津経由してないけどこれは目的地が江戸だからだろうな。 >>119
>元寇も呼子・唐津を含む肥前沿岸一帯に襲来してるよ
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。 推して知るべし @阿波 >>119
よって、対馬海流に流されて、「邪馬台国は伊都と平原遺跡」は有り得ない。 @阿波 文永の役(1274)
10月5日 対馬に襲来
10月14日 壱岐に上陸
10月16日 肥前沿岸の松浦郡・平戸(長崎県)・鷹島(伊万里)に襲来
松浦党一族が防戦するも全員戦死
呼子どころか
平戸や伊万里へ襲来している。 対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。
・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)
☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。
対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)
潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。
壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)
極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%)
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%) >>122
>呼子どころか
>平戸や伊万里へ襲来している。
「相島経由」で襲来ですね。 襲来されて喜んでいてもだめですよ。
対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。 推して知るべし
よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。 @阿波 文永の役(1274)
10月5日 対馬に襲来
10月14日 壱岐に上陸
10月16日 肥前沿岸の松浦郡・平戸(長崎県)・鷹島(伊万里)に襲来
10月20日 博多へ襲来
松浦党一族が防戦するも全員戦死
呼子どころか
平戸や伊万里へ襲来している。 「対馬海流が壱岐九州間では日によって向きが変わる事実」から逃げ続ける阿波説
「楽浪土器が伊都までしか来ていない事実」から逃げ続ける阿波説
元寇や朝鮮通信使を持ち出して誤魔化してもだめですよ。
阿波説=事実と向き合えない嘘つき 確定 >>126
対馬海流に乗って相島まで来れば、あとは沿岸航行で平戸や伊万里へ襲来。
バカじゃね?w
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。 推して知るべし
対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。
よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。 @阿波 @そもそも相島に元寇は襲来していない
A相島は博多湾を越えた東側
そこを足場にして沿岸航行で
16日に平戸攻略
20日に博多攻略
ということは全くありえない。
完全なる阿波説のミスリード。
適当に口から出まかせの阿波説。
阿波説=事実と向き合えない嘘つき 確定
文永の役(1274)
10月5日 対馬に襲来
10月14日 壱岐に上陸
10月16日 肥前沿岸の松浦郡・平戸(長崎県)・鷹島(伊万里)に襲来
10月20日 博多へ襲来 対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。
・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)
☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。
対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)
潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。
壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)
極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%)
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%) 今さら議論する問題じゃなくって、
固定座標が決まっているから、結果も最初から決まっているでしょ。
対馬・壱岐は固定
伊都の三雲南小路遺跡も考古学的に固定
壱岐から千里という条件と
三雲南小路から五百里という条件
これも固定
地図を見たら、唐津を直角点とした、
壱岐・三雲・唐津を頂点とする、辺が2対1の直角三角形なわけで、
その固定条件を満たす場所は、唐津になる。
なんのことはない、単純明快な解答だよ。
漢と伊都の交流が密だったことは三雲の楽浪土器や硯が証明しているのだから、
三雲南小路や井原鑓溝の縮小版王墓である
宇木汲田や桜馬場の被葬者は、
漢代における唐津国際港の長官だったわけだ。
東アジアが動乱期に入ると唐津長官がいなくなるということは、
公孫氏との交流も
魏との交流も
晋との交流も
「漢代に比べると」疎だったことも考古学的にわかる。 「対馬海流が壱岐九州間では日によって向きが変わる事実」から逃げ続ける阿波説
「楽浪土器が伊都までしか本格分布していない事実」から逃げ続ける阿波説
元寇も壱岐から松浦平戸伊万里へ襲来。
阿波説=事実と向き合えない嘘つき 確定 >>131
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。 推して知るべし
対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。
よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。 @阿波 >>132
泡君、嘘は何回言っても嘘だよ
君の信用がなくなるだけ 徳島はでっかい吉野川があるから大きな文明があったとしてもおかしくないな すいません
小野妹子がどうやってヤマトに使者を案内したか
推測してる記事を見つけたのでぺたり
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/55301087.html
私は
阿波=倭説を支持します!
少なくとも
隋代は倭の都は阿波にあったと。 「郡里廃寺跡 (白鳳寺院)」
吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。
早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果「法起寺」式伽藍配置をとるものであることが判明した。
塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。
塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。
心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。
金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、
その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。 「石井廃寺跡」
石井廃寺は、南に緩く傾斜する段丘面上にある古代寺院である。
古くから瓦の出土などにより寺院の存在が推定されていた。
1957年(昭和32年)〜1959年(昭和34年)発掘調査が行われ、東に塔、西に金堂が並ぶ
法起寺式の伽藍配置であることが分かった。
また、明瞭な遺構は確認されないものの、二つの伽藍の北に講堂、南に中門が存在した
と推定されている。
出土遺物には瓦・土師器・須恵器の他に瓦塔などがある。
瓦の文様などから奈良時代前半に建立されたと考えられる。 「入田瓦窯跡」
http://goutara.blogspot.jp/2011/06/blog-post_25.html
内御田窯跡群の中のひとつであり、気延山南の東斜面にある。奈良時代に屋根瓦を焼いた
窯跡で、外に須恵器も焼かれている。
18段の小さい段状の燃焼部と煙出し部分が確認されているが、燃料を燃やす焚き口部分は
残っていない。全長10m、幅1.3m、勾配45度の瓦窯様式である。
軒丸瓦と軒平瓦が出土しており、阿波国分寺跡・阿波国分尼寺跡・石井廃寺跡などで見つ
かっていることから、瓦を供給されるために作られたことが分かる。
奈良時代から平安時代初頭と案内の看板には記されているが、石井廃寺跡出土瓦
と同形式であるならば白鳳文化と呼ばれる頃と推測される。 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 ありがとう
もっと知りたいぜ
忌部氏は学術的には、太玉命が祖で
五十猛(天香山)と一緒に安芸 伊予 阿波と来たみたいね。
今日は
忙しいのでまた明日聞きます。では これまで「忌部」の研究が不足していたため、歴史の中で有名なその他の氏族のみで仮説・ストーリーが立てられてきた側面がある。
今後の研究が進み関係が明らかになることを期待する。 ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 >>143
もちろんそのつもり
忌部は新撰姓氏録では神別つまり皇別天皇家に随伴したとされる古代氏族のなかで最も全国満遍なく敷衍した族で
神話に近い時代の古族だから実態が分析しきれてないのが現状
ただわかってる範囲では
物部氏と随伴する古族ということ
安芸に繁衍する拠点があったこと
安芸から宇佐、伊予
宇佐からは筑紫忌部
伊予を経由して阿波忌部や讃岐忌部
阿波忌部から摂津三島に入った系から三上祝が
また東国房総、北上して陸奥にも一大根拠地を持ち一族は多い。 >>144
>物部氏と随伴する古族ということ
日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社
鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)
『先代旧事本紀』によれば、伊加賀色許賣命・伊加賀色許雄命 両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”)
とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。
このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、
物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。
しかし、
@ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること
A 伊加々志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること
B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること
C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること
などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。
※同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性もあるのである。 阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、やがて諸国の忌部を統括することになる。 これが中央忌部である。
阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。 母国からの調進である。
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。
「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。
また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一「神祇官扱い」になるなど、超絶した扱いとなっているのは、記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、
また大神自らも織られたとする「神御衣」と見立てているからであり、それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しし、
大神から、日嗣の認承を賜る「物実」(正当な皇位継承者であることを大神の御前で証明するための品)と観念されたからである。 都合よすぎるぐらい凄いでしょ、忌部はん(阿波では、いんべはん)。 @阿波 >>144
出羽国の一宮が大物忌神社だし陸奥だけじゃなく出羽もね
大物忌神社がある鳥海山は海に近い高い山で山頂付近でのかがり火が灯台の役目を果たし日本海交易の要所だったと思われます 祭物を管掌し各地で集めるのが忌部なんだから、どこにだっているだろ
うちの方にも地名が残ってるよ
服部も刑部も建部も弓削も・・・鳥取だってそうだろ
そんなことが、とにかくすごい阿波忌部氏すごいの理由になるのかよ >>150
ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 >>152
>それもう忌部氏じゃなくね?ムー的な何かだろ
当時の諸地域にとっては、そんな「スーパー頭脳集団」に映ったことだろう。 @阿波 >>152
忌部氏は
>>151
阿波氏がおっしゃるように
中央に進出した時点の中央忌部氏が王権中枢にあって
現代に至るまで阿波に残った本家とつながりを保ってきた。
アワが古代から唯一阿波と安房 二つ国があるように 阿波土佐紀伊伊勢伊豆そして房総への太平洋ルートを長く一族のつながりを持って今に至る
物部氏との繋がりが深いことは既出の通り。
物部氏は軍事氏族の印象が強いが
物部はそもそも物実を扱う部民を構成したことからもわかるように、要するに養蚕 機織 冶金 鍛治と道具の生産技術を保っていた そのうちの
神祇儀礼品の生産部隊が忌部氏であろう。
物部氏のあるところ忌部あり。 >>154
>アワが古代から唯一阿波と安房 二つ国があるように 阿波土佐紀伊伊勢伊豆そして房総への太平洋ルートを長く一族のつながりを持って今に至る
出雲、北陸への、日本海ルートも掌握しています。 @阿波
>物部氏のあるところ忌部あり。
忌部氏のあるところ物部・中臣・蘇我・葛城あり。 @阿波 >>150
確かに
阿波忌部がすごいわけではないな。
ただ今回の件でいろいろ調べなおして
阿波という土地には未解明の何かがあると思う。
>>155
最近の分子遺伝学の成果によると
阿波である徳島県にはハプロNとOの祖型NOが特異的に多い。
ハプロNとOは四川省で分岐したことがわかってるそうでハプロNの人たちはおおむねウラル語族の人たちだという。
Oの人は台湾経由してそこから
オールトロネシア語族の一大分派を形成して太平洋諸島に進出したことがわかってる。
阿波の大宜津比売は南洋に同じ話があるから
たぶん、そういう古い人たちが阿波にたどり着いて生活してたんだろう。 >>155
氏族系譜をみると
物部と穂積の祖が ウツシコオ。
穂積はのち臣姓、物部は一貫して連なので
血族的には穂積が本宗。
阿波近くの穂積氏の拠点がわからんけど
ヤマトの土蜘蛛に臍見の祝というものがいるから
そのあたり在地に穂積と近い地名があった可能性が残る。
阿波国になるまえには長国造がおかれたし
長国造の系譜にナガスネヒコに相当しそうな人物もいる。
ウツシコオはニギハヤヒを祖として
在地に入婿してうましまじが生まれてその後裔がウツシコオだから、いろいろ整合してるだけはある 昨日調べてまたびっくりしたのは、
和邇氏の祖とされる孝昭天皇
御名 ミマツヒコカエシネ であるが
同じような名前のミマツヒコイロトを祭神とするミマツヒコ神社がなんと阿波にはある。
これは実は実に系譜として怪しいと言われる
海部氏勘中系図に
倭宿禰の系の一方でその孝昭天皇の皇后となったおきつよその妹 が出る
おきつよそは丹波与謝在地の母系であろうが
海部氏は 丹波からヤマトに来る前に東播磨を経由したとみられ
ヤマトが直接奈良盆地を指すのではなく
阿波に来たのなら
出雲口承でいう
海部氏の村雲がヤマトの初代大王で
安寧天皇までは登美家から三代続けて后妃を出したから磯城王朝と呼ばれたが
いきなり断絶してミマツヒコカエシネ孝昭天皇が
登場することと整合するのである
なんとなれば安寧天皇の子に和知津見がおり
これが「淡路宮にいた」ということとも整合する 村雲の後の系は
葛城から嫁をもらって尾張氏になる。
尾張氏はヤマトにいたときは高尾張村にいたというが奈良盆地葛城山麓にはその高尾張の地名の痕跡がないのです。
まさか
阿波にあったり? >>158
それと
出雲口承では
まず出雲族本宗のクシヒカタの登美家がヤマトの開拓をし
後から丹波 播磨経由で 村雲が丹波人をヤマトに連れて来たから 登美家は 「磯城」つまり三輪山山麓にうつったという。
奈良盆地内の移動という先入観があったが
これも阿波から三輪山への移動の可能性も?
和邇氏の奈良盆地での拠点は奈良盆地の北である。孝昭天皇が宮を葛城山麓の奈良盆地西南部に置いたのと整合しないのである。そこはアジスキタカヒコネを祖神とする高鴨家がいたはずなのである。
阿波ヤマトから、両出雲族が押し出されて奈良を開拓した、という可能性が、出て来たのではと! 民族の移動は常に玉突きなのであって
自ら外を求めて移動したりしない。
移動せざるを得ない状況が、あるから移動するのである。 >>160
倭人伝・記紀は倭国(阿波)を記しています。
そういった事例は阿波では珍しくありません。
阿波は実に面白い所なんですよ。 @阿波 >>159
>まさか
>阿波にあったり?
まさかではありません。
徳島県阿波市土成町高尾
徳島県板野郡板野町高尾山(標高270m) 麓に特異な「黒谷川郡頭遺跡」がある。 @阿波 >>163
>>>159
>>まさか
>>阿波にあったり?
>
>まさかではありません。
>徳島県阿波市土成町高尾
>徳島県板野郡板野町高尾山(標高270m) 麓に特異な「黒谷川郡頭遺跡」がある。 @阿波
おや、黒谷川郡頭遺跡。
工房あとで有名なところですな。
かつらぎ
あるいは
かずら
がないですか。 >>163
高尾では少し関係が薄いキモ。
尾張は
オワリですが現代では
奈良時代にはオハリだった。
小墾田 これはオハリダですが
尾治 これでもオハリで尾張です >>165
結局は、大和も伊勢も尾張も阿波が出自ですから。 @阿波 >>164
葛城神社
鎮座地 徳島県鳴門市北灘町粟田
ご祭神 葛城 一言主神 別称 言離神《ことさかのかみ》 >>167
いろいろキーワード検索していたら
阿波徳島の古代に関していろいろ活動してる方がいらっしゃるんですね。
葛城は鳴門にあると。葛城も奈良に移遷できると。
すげぇなぁ。
現存系譜はうましまじの後に
おおへそきがありますが
麻植 が
実体 日鷲の後裔ということで。
物部氏と混同されてる嫌いがあると。 尾張の元は河内の南部、二上、葛城山の西麓にあるのだが。
視野が狭いと九州バカと同じ間違いをするよ。 >>169
>尾張の元は河内の南部、二上、葛城山の西麓にあるのだが。
河内の南部、二上、葛城山の西麓も尾張も阿波が出自ですから。 @阿波 何の根拠もなく言い張るのはまるで九州バカと同じだねw
まぁ別キャラなのはバレバレなんだが。 >>169
おお!今で言うとどの辺りでしょう!
石切駅あたりですか?! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています