邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net
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今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。 大嘗祭の三種の御前のソースって道は阿波より始まる だけ? 林 博章(はやし ひろあき)
平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。
この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。
大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。
この場合の「ソラ」とは「山」の事です。旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,
地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。
この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。
その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,ソラの世界の発展と共に成長してきております。
船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。 新天皇の即位後、最初に行う皇室の重要儀式「大嘗祭」では、阿波の氏族「阿波忌部」が麻で織った反物「麁布(あらたえ)」を調進してきた歴史がある。
阿波忌部の子孫として大嘗祭に関わった旧家の古文書や貴族の日記から、阿波と朝廷祭事のつながりを紹介する。
阿波忌部の子孫と伝わる旧家は、美馬市木屋平の三木家住宅(国指定重要文化財)当主の三木信夫さんだ。
大嘗祭の祭祀具である麁布との関りを示す古文書(県指定文化財)を所有している。
古文書からは、三木さんの先祖が13〜14世紀の亀山・後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の各天皇に、麁布を調進(朝廷から頼まれて作り納める意味)したとされる。
どの文書にも、天皇の命を受けた都の役所が、阿波忌部に麁布の制作を頼むため、阿波国司に天皇の使者、勅使を送るという内容が記されているそうだ。
「大嘗祭の儀式は、平安時代の法令集『延喜式』でわかる。しかし、麁布を調進する際の手順は古文書でしかわからない」と三木さん。
大嘗祭は、南北朝〜江戸時代の政情不安時は中断したほか、行われた時も阿波の麁布が調進されないことがあっという。
「そうした時は、朝廷の役人が阿波忌部の代行を務めたことを示すため、麻布に『忌部所作代』と表示した」
また、南北朝時代の光明天皇以来、577年ぶりに阿波忌部の麁布調進を復活させたのが大正天皇の大嘗祭だった。
信夫さんの祖父宗治郎さんが携わり、昭和天皇にも調進。信夫さんも1990年11月、地域住民の協力を得て今上天皇の大嘗祭で奉仕した。
阿波忌部と麁布を巡る文献では、大和朝廷の初期から51代平城天皇まで麁布を調進したと記している平安時代の「古語拾遺」(807年)もある。
「これら2点が出た後、しばらくは資料が見つからない。そして11世紀になると、貴族の日記から分かるようになる」と言うのは、中世史研究者で県埋蔵文化財センターの福家清司理事長。
後鳥羽天皇に関する「山槐紀」(1184年)には「阿波の荒妙神服(あらたえかむみそ)の事だが、平家が四国に居て交通が途絶。期限のあることについてどうするのか」などと書かれているという。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. せっかく遊びに来てやったのに、三年経って1スレ消化してないって舐めてんのかよw
マイナーっていうかトンデモだろw
畿内説カルト以下w 阿波には真っ黒い顔した汚い坑夫の
寂れた集落があっただけ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 徳島は78万人の割に頑張ってるよ
畿内、九州の何分の1の人口って話 これだけ状況証拠が揃ってるのにスルーされてる四国は闇深い 徳島は朝廷との繋がりが強いので
京都人が忘れた京都弁が多いよ
お前がつこてんの実は京都弁やで >>859
>これだけ状況証拠が揃ってるのにスルーされてる四国は闇深い
発掘数が少ないにも関わらずにね。
いつまでスルーし続けるのか、ある意味たのしみ。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 倭では伊都國に王がいるんだから他の地に王はいない
伊都國の王以外で王を自称しているのは狗奴国の王だけ
伊都國の王が女王卑弥呼である。 >>863
>倭では伊都國に王がいるんだから
伊都国では代々王(筑紫忌部)がいる。 @阿波 >>863
伊都国の王は女王国に統属していると書かれている。
伊都国王が女王卑弥呼だったら、どういう意味だ? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>852
わざわざ阿波から海産物を運んでこなくても
伊勢や若狭湾の方が近くて新鮮なのに
阿波に拘る理由って >>867
それは誤読です
「皆統屬女王國」この皆は倭の国々のことで
倭の国々は皆、女王国に統属していると書かれているんです。
同じところが魏略では「其国王皆属女王也」
その(倭)国の王は皆、女王に属するなり。
皆は倭の国々又は倭国の王達です
魏志倭人伝では女王国だから倭の国々
魏略では女王だから倭の王達。 >>870
それは「恣意的」誤読です
「皆統屬女王國」この皆は伊都国のことで
伊都国の代々の王は、女王国に統属していると書かれているんです。 @阿波 >>871
三国志の魏書で世有は魏の世を指します
従って魏の世に伊都国に王が居たが本来の意味です
代々と訳しても魏の世限定です
ここで代々と訳す必要は無いんだけど
皆を伊都国の代々の王としたい人が無理に訳したのです。 >>872
>従って魏の世に伊都国に王が居たが本来の意味です
それでも別にいいんだけれど、伊都国には王がいて、邪馬台国には「女王」が居たということ。 @阿波 >>874
その伊都国の王は、筑紫の「忌部はん」 なんだけどね。 @阿波 >>876
>卑弥呼も神武も忌部なのか?
もちろん、「忌部はん」 だよ。 @阿波 >>878
>阿波には王の存在を示す威信財がない
で、どこにあるんだい? @阿波 忌部はユダヤの血が入ってたから賢く文明的で
パイオニア精神旺盛だった
ユダヤの血を恐れてヤマト朝廷から封印され
現代まで続く ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>881
>阿波に何かある?
なにが欲しい?
で、「阿波には王の存在を示す威信財がない」と言うが、
「王の存在を示す威信財」があるのはどこなんだい? @阿波 >>884
>侯王墓に副葬されるセット品のこともしらんのか
ハハハ、なんだいそれ? @阿波 徳島の米津玄師はいいけどなあ
うどん屋と他は?
四万十川で泳いでみたい
いつか >>886
>四万十川で泳いでみたい
穴吹川もお勧め。 @阿波 徳島の、穴あきレンコンと金時イモは知ってる。
あとはカワウソ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 そうか、むかしむかし徳島にもカワウソいたと聞いたが、
あれはウソだったのか
んじゃ、近年はコウノトリかな。大群で5ちゃんとレンコン畑を荒らしとるらしいが @阿波は留守がちなのか
タヌキとカワウソの墳だらけというのに、、、 >>897
カワ「ウソ」だけにw
むかしむかしなら、徳島にもたくさんいたと思うよ
カワウソが高知だっていうのは、最後の目撃場所だからだし 徳島には、婦人物の高級下着メーカーかなんかあったと聞いたが、
あれもウソだったのか @阿波は「雄叫びをあげながら九州で一日中祈祷してる」www 纏向遺跡から約500粒の大量の麻種子が発掘されたってホント?
麻といえば阿波やん 小松島市に阿波赤石駅があるけど
赤石が海を渡って明石になったの? >>907
>纏向遺跡から約500粒の大量の麻種子が発掘されたってホント?
知らんけど、とうぜん有り得る話だよ。 @阿波 古代以来、阿波は何回か南海地震と大津波に襲われたんでないの
平地の目ぼしい遺跡は、壊れて流されたんだろ 特に、県南沿岸部の貴重な遺跡は、相当数流失しただろうね。 @阿波 阿波さんがよそを荒らして回らず、ここで四国説を説明してくれるのが本当に嬉しいです。 >>914
荒らしと取るか、新事実と取るか、そこが分かれ目。 まぁ、耳が痛くなるとは思うけれどw 阿波 西暦元年頃に、超巨大津波があって、30mくらいだったそうじゃないか。
その津波の先端は、阿波市と美馬市の境くらいまで来たことになる。
その後、弥生人が復帰したとして、ま、大変だっただろう。
さらにその後も20mラインまでの津波が、2回か、3回来てるから、
残った遺跡は、北の山麓の県道と高速道路のあいだ辺りかな。。。 徳島は秦の名字が多い
天皇=渡来系を隠す為に阿波は消されたんじゃないのか 大雑把にいって、県道12号線は標高30mラインよりちょっと上を通っている。
この高さなら、大津波からセーフだったのだろう。
つまり古代人が選んだ安全陸行路を基礎に、後世の県道12号線ができたように見える。
吉野川の南は標高が低いので、あらかた全滅。
古代遺跡や古い神社の調査研究は、現代・将来の安全にも、大いに役に立つのだ。 秦氏は4世紀以降にやってきたから、大津波の伝承も恐怖感もなかったとおもう。
だから、遠慮なく平地に進出したのではないか。
山寄りに縄文顔、川筋に秦氏顔? 『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。 @阿波 県道12号線は、坂東駅付近で北に迂回している。このあたりの12号線は標高20mライン。
しかし坂東駅一帯は標高10〜15m。
帰化人たちは津波の恐ろしさを知らなかったので、
いい土地がなんぼでも空いてるじゃん・・・、といって喜んで低地に進出したのではないかな。、、 @阿波は、
正月用のアワモチ搗きと、徳島ラーメンの麺こねくりまわしと、鳴門金時を蒸かすのに忙しいのか、、、 話は全然変わるが
俺徳島県人ね
徳島ラーメンなるものが発生してびっくりした
そんなもんあるかいと思ったが帰省して食ってみた
うん
不味くはないという程度だな
てかトンコツじゃん
中華そばの美味しいのが食べたい ◇徳島・美馬で洋ランの逸品展(読売新聞・徳島版)
>全国の栽培家が手がけたシンビジウムの逸品展が、美馬市脇町の洋ラン展示・販売施設「あんみつ館」で開かれている。
>20回目となる今年は約200鉢を展示。同館によると品種、色合いとも変化に富み、
>葉と花のバランスがとれた作品が多いという。
>大賞に選ばれた西川園芸場(香川県)の「ウインターワルツ」は、花の形が均等に丸みを帯び、
>淡いピンクに縁取られた花びらで、愛らしい姿が際立つ。
ふーん、徳島は、ガラッパチばかりじゃないんだ、驚き・・・。 >>926
>ふーん、徳島は、ガラッパチばかりじゃないんだ、驚き・・・。
君の遠いご先祖様のふるさとだよ。 敬意を払いなさい。 不届き者。 @阿波 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。
忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩
「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」 @阿波
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 不届き者で〜す。
今年はもう残り少ないので、
新年からは、神道の祖アワヒトには、特に敬意を表することといたしましょうぞ。 剣山を発掘した方が早いだろう
ユダヤ人の観光客いっぱい来るよ
テレ東あたりソロモン発掘番組やらないかな〜 阿波さん、こんなとこで宣伝するよりwikiでも書きなはれ 国府の道の駅は作らないんだ
あそこ矢野遺跡だよね?残念 NHK紅白歌合戦、ラスト3に登場した米津玄師は徳島出身だってな
徳島にナウい有名人いるじゃないか
その中継は、あの大塚製薬の大塚国際美術館から。美術館としては、なんと日本一高い入場料だとさ。
世界の名画を写真に撮って陶板に焼き付けた、陶板複製展示館として有名らしい。
なんせ、陶板の色合いは2000年間持つという触れ込みで、
卑弥呼の柔肌の色合いも、現代に残る勘定だ。
アワヒト侮れぬと知ったこの年末。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>937
>あそこ矢野遺跡だよね?残念
そうだね。 あの辺り一帯、目が眩む遺跡が確実に、そして無数に眠っているのにね。 残念。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 大塚国際美術館は、標高40m余の高さにある。
巨大津波で前後の高速道路が流されても、此処だけは2000年間大丈夫だろう。
さすが超一流企業だけあって、考えるところは考え、見るところは見てるな、感心した!。 事のついでに、
宮崎市の生目古墳群は標高30〜40m、西都市の西都原古墳群は50〜60mあたりだ。
南海トラフに面する大古墳群は、古代の津波伝承の上に築かれたように思える。
その割には、近辺の市街地は低地にあるな。
次の大津波で滅びる町・村邑も、少なからずあることだろう。 >>705
垂仁天皇はイクメイリヒコ
クメということは石井の天皇かい? 矢野や石井は卑弥呼時代前後の王都だから。 @阿波
久米一族については、徳島県石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。
一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。
まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 石井には天孫降臨で登場する天津久米命を先祖とする久米族と、曽我氏の流れである
久米族が同居しているね。聖徳太子の弟君である久米王の領地伝承がやはり石井に
残っています。太子と曽我氏の関係を考慮すると曽我氏の流れである久米族の存在も
理解できます。両久米族の人たちは三好氏が阿波を支配する迄は地域の豪族でしたが、
三好氏との戦いに敗れた後、江戸時代には没落しましたが、家長的な人たちには
苗字帯刀を許された特別な人たちでした。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >石井には天孫降臨で登場する天津久米命を先祖とする久米族と、
、、
球磨地方がルーツといわれる「久米族」とは、この天津久米命だったのではないか。
地元の人たちは、球磨地方こそ久米族の狗奴国と考えているようだが、
卑弥呼の鬼道支配に対し、卑弥弓呼は弓を匠にする種族だったと理解すれば、よく符合する。、 >>940
立石が市長になったら変わるかな?
今の市長は歴史に興味あるように見えない レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。