邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう! 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の
被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を
行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように
新規創作することが難しいであろう、ということである また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと
考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと
思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など
先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など
本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、
敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかった
という推測すら成り立つ余地があろう。 こっちのスレまで妄想を垂れ流すな。
これだから畿内説の妄信者は手に負えない。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。 この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。 テンプレを自スレだけでなく他にも貼って回るとは、ひどい荒らし方だな。 おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 吉スレ主、ってのは縁起がいいのかい?
大吉スレ主とかもいるの? >>145
>吉スレ主が出張中
キウス
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。 >>136
今どきどんな風に「共立」を理解してる学者はいないねw
>>144
無益だよw
魏志にかかれた統治システムからみて倭国の統合性の水準が高いのは明白 >>149
>魏志にかかれた統治システムからみて倭国の統合性の水準が高いのは明白
「国内」はそうだが、倭種の領域全体ではそうでもない。 ちゃんと統治されている畿内のようなところもあれば、それぞれの首長が好き勝手にやっているところもある >>151
畿内が誰に統治されていた?
その根拠は? あれ? 以前は東遷厨のスレあったんだけど今ないのか
…東遷厨にネタ振ろうと思ったのに…w >>152
>畿内が誰に統治されていた?
>その根拠は?
畿内第V様式土器の時代に、「大和、河内+環大阪湾」の範囲で、土器形式の
統一が見られ、それまでの在地の土器が消失する
これは、背景に文化、経済圏、流通の統一によるものと想定でき、その経済流通圏の
一体性を国とみなすことができる
これは後に、布留式土器の時点で北部九州も含め列島の広範囲で見られる土器形式の
統一と同じ事象だと考えられる
一つの国としてまとまることを、統治の存在の根拠としている
誰に、というのは、金石文でも出ない限り、個人名での指摘は無意味
統一形式の土器製作地の首長を、統治者とみなすことになる >>154
>畿内第V様式土器の時代に、「大和、河内+環大阪湾」の範囲で、土器形式の
統一が見られ、それまでの在地の土器が消失する
その理由:倭国(阿波)からの東阿波型土器(畿内第V様式土器)工法の畿内拡散の為。 @阿波 >>154
>これは、背景に文化、経済圏、流通の統一によるものと想定でき、その経済流通圏の
一体性を国とみなすことができる
その経済流通圏の中心が倭国(阿波)ということ。 @阿波 >>153
>あれ? 以前は東遷厨のスレあったんだけど今ないのか
>…東遷厨にネタ振ろうと思ったのに…w
「♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]©2ch.net」は、
4月7日に倉庫送りになってるね
今、お鏡さんが伊都国東遷スレとか立ててるから、遊んでやったら?w ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の
機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を
支配する首長たちの利益共同体であろう。 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。
その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、
寒冷化が進んだ時期であることが知られている。 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を
決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、
世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった。
倭国乱もこの時期である。 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、
潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。 >>154
>これは後に、布留式土器の時点で北部九州も含め列島の広範囲で見られる土器形式の
>統一と同じ事象だと考えられる
なんで畿内説は後世の話ばかり持ち出すの?
>誰に、というのは、金石文でも出ない限り、個人名での指摘は無意味
史書を信頼できないとか言って無視し続けた結果だよね?
自分たちが日本の歴史に暗黒のベールを被せていることに気がつかない? >>160
貧弱な遺跡しかない土地をこんな風に言いくるめるなら、どこだって都にできてしまう。
こんなものは根拠にならない。
これが伊勢でも近江でも出雲でも諏訪でも成り立ってしまうからだ。 >>163
> 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、
>寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
奈良は寒いぞー。 >>166
>なんで畿内説は後世の話ばかり持ち出すの?
畿内第V様式は、邪馬台国より前だ >>166
>史書を信頼できないとか言って無視し続けた結果だよね?
>自分たちが日本の歴史に暗黒のベールを被せていることに気がつかない?
史書にも絶対年代は付いていないから、結局、十分な信頼性を担保して
考古学的な事象との対応付けを行うことはできない
それだけのこと
大国主の宗像三神との妻問い記事をもって、出雲と北部九州の交流の反映と
見ることは可能ではあるが、大国主と宗像三女神を実在の同時代人と見るのは
意味がない >>167
>貧弱な遺跡しかない土地をこんな風に言いくるめるなら、
例えば、唐子・鍵遺跡より充実した弥生時代の拠点集落は、そうそうないと思うぞ?
どこだかで、ワシントンDCとニューヨークの関係がどうたらと言ってる人がいたが、
纏向遺跡がワシントンDCで、唐子・鍵遺跡がニューヨークみたいなものだ >>171
>例えば、唐子・鍵遺跡より充実した弥生時代の拠点集落は、そうそうないと思うぞ?
はあ?
あんなど田舎の遺跡、どう充実しているんだよ。
しかも古墳時代前期には放棄され衰退する。
そもそも魏の使いが滞在した九州北部と弥生時代には交流がないから、魏から存在すら認識されていなかったろう。
銅鏡文化圏の九州に対して唐古・鍵遺跡は銅鐸文化圏であり、卑弥呼の時代には滅亡する遺跡だ。
それがどうやったら邪馬台国になるんだ? >>172
>あんなど田舎の遺跡、どう充実しているんだよ。
個人の感想ですね!
例えば吉野ヶ里よりも、集落遺跡部分は唐子・鍵の方が広いんですよ
吉野ヶ里を大集落というなら、唐子・鍵はそれ以上に充実した大集落
>しかも古墳時代前期には放棄され衰退する。
>>166 で
「なんで畿内説は後世の話ばかり持ち出すの?」って書いてたのは>>172じゃないの?
古墳時代のことは、後世の話なんじゃないですかね?
>そもそも魏の使いが滞在した九州北部と弥生時代には交流がないから、魏から存在すら認識されていなかったろう。
そんなことはない
北部九州には、畿内第V用式土器の時代から、ずっと継続して畿内様式甕が流入し続けている
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
九州北部と畿内には土器を伴う人の交流がずっと続いてるよ
九州北部のみの倭国は、通用しない >>172
>銅鏡文化圏の九州に対して唐古・鍵遺跡は銅鐸文化圏であり、卑弥呼の時代には滅亡する遺跡だ。
銅鐸の廃絶時期は難しいが、標準的な多数説では、畿内第V様式に変わる時期に画期があり、
その画期に銅鐸祭祀が終了したと考えられている
卑弥呼の時代は、その後、余裕を持って迎えられるよ
>それがどうやったら邪馬台国になるんだ?
纏向遺跡の前身と言ったらおかしいが、近江の野洲川下流域の伊勢遺跡の廃絶と
纏向遺跡の建設開始がほぼ時を同じくして起こる
ここに、畿内第V様式の国の始まりという画期に続く、一つの画期があるのは確実で
これが卑弥呼の共立を契機とする新しい秩序の始まりと考えるのが畿内説の考え方だ >>173
>九州北部と畿内には土器を伴う人の交流がずっと続いてるよ
>九州北部のみの倭国は、通用しない
畿内といっても、纒向を除く、だろ。
しかも九州北部へは西日本全域から一極集中。 >>176
>畿内といっても、纒向を除く、だろ。
「畿内」の本来の範囲は何度も何度も書いているが、
「大和+河内〜環大阪湾」の畿内第V様式の段階で共通の土器を
使うようになった共同体の領域のことだ
纒向は、その王都として「新しく」「計画的に」作られた都市
建設前は何もなかったというのがどうして批判になると思えるのかが不思議
>しかも九州北部へは西日本全域から一極集中。
港町だからね
成田空港は通過人口は大きいし、空港の売店には各地から持って来た土産物を
売っているけれど、特に成田が都市として栄えている訳ではないし、
もちろん首都でも何でもない
北部九州は、倭国外との出入り口として重要だけれど、それがその土地の実力を
示す訳ではない >>177
>纒向は、その王都として「新しく」「計画的に」作られた都市
王都であったという根拠は?
邪馬台国と関係あるという根拠は? >>177
>売っているけれど、特に成田が都市として栄えている訳ではないし、
>もちろん首都でも何でもない
成田は空港の外が未だに田舎だが、博多奴国は2万戸の大都市だったわけで、比較にならんよ。
纒向が各地と交流して物資をやり取りしていたから王都だという主張は引っ込めたのかい?
関西の中でも周囲との交流がむしろ乏しい奈良盆地が王都なわけないだろ。 摂津や河内ならまだ瀬戸内海をまとめる要所だったが、纒向では擁護のしようがない。
そんなところを持ち上げるのは町おこしの役人だけ。 >>179
>博多奴国は2万戸の大都市だったわけで、比較にならんよ。
都が置かれた邪馬台国は7万戸で、奴国の3.5倍の大都市
奴国が女王の都、邪馬台国じゃないのははっきりしてるじゃないか
それを、各地の土器が集まるから都って言ってるから間違いだって
書かれているんだよ
成田は都じゃなくても、玄関口の港町なら文物が集まるという例であって
街の大きさが本論じゃないだろ
反論のポイントが、ずれてる
見当違い >>178
>王都であったという根拠は?
弥生終末期の最大規模の遺跡で、かつ新しく作られた都であること
多くの地域からの土器が検出されており、広範囲の人的交流の拠点であったと認められること
纏向大溝から建設が始まるなど、自生的な都市ではなく計画都市であること
以上を整合的に説明するには、「広範囲に影響を与える存在」の号令によって建設が
始まったとするのが最も合理的
「広範囲に影響を与える存在」は、古代国家においては第一義的に「王」を想定する
ことになるのが当然
以上より、纏向遺跡は王都であると考えるのが普通
>邪馬台国と関係あるという根拠は?
弥生終末期に、倭国において王とされているのが卑弥呼である以上、
上記の王が卑弥呼であると考えるのが最も蓋然性が高い
また、纏向遺跡では東西に軸線を合わせて作られた大規模建物が検出されており
さらにそれを囲む柵列がある
この居館域の広さは最低でも東西150m、南北100m前後の規模
大型祭祀土壙SK-3001がこの建物群に付随して発掘されており
宗教的行事が行われた痕跡として確認できる
宗教的権威として共立された卑弥呼の存在を、
祭祀遺構から直接推定できる遺跡でもある
根拠としては、十分だろ >>180
>摂津や河内ならまだ瀬戸内海をまとめる要所だったが、纒向では擁護のしようがない。
>そんなところを持ち上げるのは町おこしの役人だけ。
九州のような、地域王権の発達の遅れる地域ばかり見ていると理解できないんだろうな
大和+河内〜環大阪湾の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う一つの経済流通圏を
作っている
摂津や河内と大和を分けて考えるのは、ためにするごまかしだよ
その畿内第V様式の国の首都として作られたのが、纏向遺跡だ
そこに卑弥呼がいたなら、そのまま倭国の王都ということになる >>182
>多くの地域からの土器が検出されており、広範囲の人的交流の拠点であったと認められること
でも魏と確実に繋がりがあった筑紫からの土器はないでしょ?
魏と交流がなかった田舎ですね。
>「広範囲に影響を与える存在」は、古代国家においては第一義的に「王」を想定する
>宗教的権威として共立された卑弥呼の存在を、
>祭祀遺構から直接推定できる遺跡でもある
根拠なし。
期待?妄想? >>183
>大和+河内〜環大阪湾の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う一つの経済流通圏を
>作っている
纒向はその流通から取り残された空白地域だよ。 >>183
>そこに卑弥呼がいたなら、そのまま倭国の王都ということになる
循環論法? >>184
>でも魏と確実に繋がりがあった筑紫からの土器はないでしょ?
でも、大陸王朝の出先の楽浪郡と確実につながりがあった出雲の土器は出てるよ
筑紫の土器を大和に運ぶ理由がなかったんだよ
筑紫の人間が、大和に来るときは吉備か出雲を経由するし、筑紫の土器に
特段の価値がなければ、大和までわざわざ運ぶ理由がない
逆に、同じ距離で吉備や出雲を経由するのに、畿内様式の土器が九州で
出土するのは、畿内様式土器がスタンダードだからだよ
>魏と交流がなかった田舎ですね。
魏と交流がなかったら、魏の年代を入れた鏡は作りません >>185
>纒向はその流通から取り残された空白地域だよ。
新しい都を作るために、空いてる土地に作ったんだから、纏向で都市建設が
始まる前は空白地域だよ
何を当たり前のことを言ってるんだ?
そして、邪馬台国7万戸の範囲は、「大和+河内〜環大阪湾」の畿内第V様式の国
それだけ面積の範囲なら、山のてっぺんとか、扇状地で水が得にくいところとかに
人のいないところも当然にある
その中で、三輪山信仰に都合のいい扇状地の空白地帯を選んで、纏向の
建設を始めているんだよ
なんだか、反論というかケチの付け方が的外れなんだよな >>186
>循環論法?
>>182とセットで読んでね >>184
>根拠なし。
北部九州で、確実な祭祀遺構があったら教えてね
祭祀跡として確実な遺跡ってのは珍しいんだよ
十分な根拠だ >>184
3世紀に関西地方と魏との交流の形跡は全く無いですからね。 >>187
三角縁神獣鏡は北部九州で作られて全国に配られたものだろう。 祭祀跡の遺跡が出たらなんで邪馬台国になるのん?
キナイコシの世界はわからんわあ >>192
>三角縁神獣鏡は北部九州で作られて全国に配られたものだろう。
そんなこと言うヤツは、九州説の嘘つきしかいないよ?
書けばいいってもんじゃない >>193
つまり鬼道をよくした(事鬼道能惑衆)とされる
卑弥呼の祭祀を思わせる遺跡は「九州にはない」んだね >>194
後世の記念品。
キナイコシは卑弥呼より後のことばかり根拠にしようとする。 >>198
江戸を持ち出して16世紀以前から首都だったと主張しているようなもんだよな。 >>157
お鏡さん?
お鏡、句読点連続男、岡上、伊都屑ってぜんぶ同一人物であってる? >>197
>平原遺跡に古代神道の祭祀の跡があるよ。
その柱跡が、きちんと長方形になっていないんだよ
歪んで、平行四辺形になってる
建て方がかなりいい加減
いろんなところに発掘記録の平面図があるから自分でも確かめてごらん
金印をもらった女王の墳墓祭祀がそんないい加減っていうのは「ない」よな
この辺も平原1号墓が卑弥呼の墓ってのはないという理由だ
そして、神道には鏡を割る儀式はないよ
天照大神を祀る神明社のご神体が鏡なんだから 最近はまた地震が頻繁に起こっているが、吾等が倭国は先史より大きな天変地異の被害を被って来た。
前期旧石器時代、倭国には人類が居なかった…と推察されているらしいが果たして其うなのか。
其れは喜界カルデラ等の巨大噴火に依って列島全域が酸性土に覆われ痕跡が残らなかっただけでは無いのか。
縄文時代の人口分布は見つかった人骨だけのものなのか(其れからまた推察されたモノなのか)、今の関東から東北地方が其の密度は高いとされているが…。
南西諸島のカルデラからの噴煙が多くの西日本の人類の痕跡をも消してしまったのであろう。
在家の草考古、古代史ファンは学者の「推察」や他国の古文書にあきめくらにされているのだと思う。
http://1st.geocities.jp/huhito80/Fanta-nennpyou-yonago.html >>209
邪馬台国も噴火で埋まってしまったんだなw 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 >>213
>従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
こういうのを妄想と言う。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 邪馬台国ヤマタイコク、狗奴国クナコク、一体、誰が其う読んだのか。
臺タイか壹イチかは取り敢えず置いといたとして邪馬はジャマじゃ無いのか。
狗奴、クドゥ…国栖、葛のクズだろう。
ちなみにジャ、ジャパン、ジャマイカ、ジャワ、ジャカルタ…共通するのは何処も海に面している、ヤマなどでは無かったと思われる。
時代区分の縄文〜弥生…此の定義も原日本人を分断されたが、考古の資料では何ら実証されたモノじゃ無い。
寧ろ、縄文遺跡からは既にかなり進んだ文化を持っていた事は証明されている。
先ず先に言って置くと「ググれ!誇り高い日本国民よ」他国の古文書や事なかれ主義の学者の推察がどれくらい信用に足るモノか感じよう。
「取り敢えずみんなググろう」 >>215
河内庄内式は博多湾へ流入 → 筑紫倭国王へ(鉄器)
大和庄内式は大和へ流入 → 大和大物主へ(無鉄器)
【問題】
大物主の倉庫が邪馬台国時代と決まったら、神武東征はいつ? 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 喜界カルデラ、南海トラフの影響を一切考慮せずに簡単にまとめられた「縄文時代の人口」とか…。
学者さんたちは邪馬台国論争など火付けして嘲笑ってると思う。
縄文時代の人口は、縄文早期の2万人から縄文中期の最盛期の26万1千人まで順調に増加したが、縄文中期を過ぎると反転し急激に落ち込み、縄文後期は16万人、縄文晩期は7万6千人まで減少した。 1万年ほど前、日本列島の年平均気温は現在よりも約2度低かった。
人口から読む日本の歴史 - Biglobe
www2u.biglobe.ne.jp › ~itou › hon › hito
縄文時代(便宜上そう言っておく)の人口の減少を気温だけか、、、。 3世紀半ばがやたらと登場するが、これは卑弥呼の死後に急に発展した、つまりは大和は卑弥呼に搾取されていた土地ということだ。
卑弥呼は2世紀末には即位していたと考えられるから、卑弥呼とともに発展したなら、2世紀末から発展していなくてはいけない。
大和は卑弥呼の死後にしか発展していない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています