邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう! 実際あったという>>222の実例
・ほとんどの人がマトモに分別しないため分別まで回収業者が請負っていた
・自治体が分別しなくても燃やせるガス化溶融炉を持っているが
隣の市町村との関係で分別基準を合わせていた 古代中国江南から朝鮮半島済州島、更に北米、南米、太平洋のバヌアツ辺りまで縄文人らしき人類が遺したかも知れん痕跡は指摘されている。
そして、、、。
佛教経典の薬王菩薩品事品の中に「遥か昔(少なくとも薬王事品が成立する)遥か東(ヒマラヤ辺りから)に『佛國土あり』また『佛國土に十六人の王子あり』其々が十六方面に飛んで行った」と言う一節がある。
確か、其の一人が「此方へ飛んで来た」と言う。
縄文時代(あくまで便宜上)の倭国と倭人の人の流れの事じゃ無いのか。 >>224
あれもこれも信用できないと言い張るしかない畿内説は哀れだな。 「稲作はじめ文化は弥生人(渡来人?)大陸由来半島経由」、、、大嘘でした。
(前略)
今後、更なる発見によって"縄文稲作"の年代は更に遡る可能性があります。
いずれにせよ、世界最古級とされてきた支那大陸の河姆渡遺跡から僅か300年で日本に伝播するのか、
また「弥生人が日本に稲作を伝えた」と俗説は強調しますが、"縄文"時代に"弥生人"が渡来するのか大いに疑問です。
此等を踏まえて信じ込まされた古代論を一旦リセットせねば。 史料批判という文献史学の基本のキを理解していないため恥を晒し続ける九州説 全否定しないと成り立たないラノベ説がなんか言うとる 実際、文献史学の信憑性はどうなのか。権威には従順な仔羊になってしまうのは判るが。 稲作伝播、、、。此れを検証するのはプラントオパール。
そしてプラントオパールを考察し其処から弾き出される米の流れ。
文献史学の手に負える物では無い。考古学、農学、気象学らの成果が証明している。
米は、稲作は列島から半島、大陸へ。逆説を強弁する文献の信憑性など…以下略。 >>234
>実際、文献史学の信憑性はどうなのか。権威には従順な仔羊になってしまうのは判るが。
都合の悪い文献を全て焚書したいのが畿内説の本音でしょう ちなみに自分は邪馬台国論争自体に興味が無い。魏志倭人伝に記載された其の時に列島の中心が何処であったかよりも、人の流れと其の理由と目的が知りたい。
其れから導かれる、大陸由来半島経由、と言う嘘…と言うか古代列島の真実を知りたい。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 稲作伝播は列島から大陸へ。
https://ameblo.jp/ici05876/entry-12148719713.html
太平洋ルートは無かった…え?
小笠原諸島で行なわれた先史時代の遺跡調査 編集
東京都教育委員会では、1972年(昭和47年)に東京都遺跡地図を作成する中で小笠原諸島の遺跡についても調査を行った。
この中で父島の大根山遺跡から打製石斧などの石器類、そして母島からも骨角器と貝製品を採取し、有史以前、小笠原諸島に人が居住していたことが明らかとなった。
その後1984年、1985年(昭和59、60年)と、国際基督教大学考古学研究室の手によって父島、母島の調査が行われ、母島から中世の頃の可能性がある素焼きの土器が発掘された[11]。
文献史学の及べない権威主義の崩壊。 >>227
あの釈迦は其の「佛國土から王子のひとりが飛来した」とされる古代北インドに在って小国を為したシャカ族の王子だが、其の父親の名前はまさに「浄米王」とか本当に意味深ではある。 古代人に思いをやる時に気付かされる事のひとつに衣食住がある。
食は採ったり獲ったりした糧を生で或いは焼いて…そう思わされて来たが、ふと、縄文クッキーを考えると、、、。
拾って来たドングリをクッキーに焼く日常とは、皮、薄皮までも剥いて粉にして水分で溶かしつなぎとする其の工程は技術の結晶なんだろう。
中には大葉など香草を練り込んでいたと言う。
古代人は現代人の想定など遠く及ばない知恵を持っていた事を念頭に置かないと真の古代史など見えるものでは無い。 倭国には製鉄技術があり、養蚕技術と紡績技術、水田稲作もあった。
倭人は想像以上に技術力が高かったようだ。
奈良盆地を除いて。 >>243
>倭人は想像以上に技術力が高かったようだ。
これは同意
弥生時代はおろか、縄文時代から文明社会だよ
>奈良盆地を除いて。
そして、縄文時代から広域流通が日常的に行われており、
奈良盆地だけ「取り残しておく」方が難しいww 伝説の神、実在しなかった!とアカデミズムに貶められてる神武天皇がやけに気になって来た。ちょっと詳しく調べてみたいと思った。
あと皇紀がさもトンデモみたいなのも。 >>244
広域流通の手段は船なんだよ。
当然、発展するのは海沿いの地域になる。
内陸の奈良盆地は取り残される。 https://jp.stanby.com/media/old-shop/
二千六百年がトンデモだとか…。一千年越えの歴史を持つ会社が九つもある事実。 盆地は取り残さる…。
古代の大阪湾は生駒の麓ちかくまで湾岸線の筈。更に大地震による巨大津波が…。震災後に高台へ拠点を置いたのが高地性集落。 >>246
基本的に内陸部は「山の幸」だけ。 塩も採れない。
一方、海沿いの地域は「海の幸」は勿論、「山の幸」にも恵まれる。
人が生きていくには、まずは「海沿い」だろう。 @阿波 >>248
津波の影響は一過性で、復興する。
奈良盆地まで引きこもることはない。 >>250
だかしかし、古代列島には航路に繋がる川がある。
これで見れば判るが琵琶湖から河内湾へと注ぎ込み複数の支流を持つ大和川は古代の物流に此れ以上ない要衝。しかも巨大津波の被害も及ばない。
https://jumgon.exblog.jp/14981226/ と言うか瀬戸内から更に東、東海関東の東日本に行くなら
大和川を遡上するのが近道
紀伊半島南端まで迂回するのか?
東西の接合点として奈良は外せない >>251
大和川が琵琶湖から河内湾に注ぎ込むとか頭沸いてるのか? >>252
土器の流れからは、東海は日本海側と陸地を越えて結びついているが、奈良は経由していない。
瀬戸内海と東海の交流が少ないのは、紀伊半島を回るのは難所だったからかもしれないね。 あと、関東へのルートは甲信越地方を経由したらしい。
筑紫に討伐された出雲の残党が諏訪に逃げ込んでいるね。
関東を最初に開拓したのも出雲だったから、古代の倭国では日本海勢力が優勢だったことがわかる。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津 >>249
平城京跡から出土した木簡だが。件の川で阿波、淡國から調として納められていた模様。九州も機内も四国も古代倭国にとって重要な土地だったのは間違いない。邪馬台国等のまぼろし?を追うよりもな。
魏志倭人伝(他国の古文書)に惑わされず古代の史実を知りたい。
路国三原郡阿麻郷戸主海部□麻呂戸口同姓嶋万呂調塩三斗・○□○平寶字
五年十月四日 >>254
>土器の流れからは、東海は日本海側と陸地を越えて結びついているが、奈良は経由していない
でもよく知られるように大和には東海系の土器が流れ込んでる しかし瀬戸内海と奈良の関係は希薄である。
大和川は流通に用いられた形跡がない。 ちなみに弥生時代の人口の推定とか見れば東山道とか結構人が多いんだよな
交易港を擁した海岸沿いが発展し内陸は置き去りにされる
・・・なんてのは現代のイメージをそのまま古代に持っていってるだけ >>261
やたらと広範囲な東山道を持ち出されてもコメントしにくいけど、甲信越地方は出雲の勢力が上越あたりから侵入していたらしいと、以前のレスに書き込みがあった。
関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。
諏訪経由でこの地方は発展していたが、奈良盆地はそのような条件には恵まれていない。 >>263
付け替えだろ?
でも水位とか今よりも条件が良くだろう >>248
>震災後に高台へ拠点を置いたのが高地性集落。
一つの高地性集落が数世紀に渡って営まれてたりする
一時的な避難場所でもない
高地性集落=一時的な避難場所
というイメージなら大昔の異物 >>253
>大和川が琵琶湖から河内湾に注ぎ込むとか頭沸いてるのか?
直接はつながっていないね
それは、少し筆が滑ったんだろう
大和川を遡って、奈良盆地に入り佐保川を遡っていった地域が、
垂仁天皇のときの狭穂彦の乱の本拠地の「狭穂」
そこからそれほど高くない平城山を越えた背後が、「山背」で
山背側の祝園も、崇神天皇のときの武埴安彦命の乱に地名説話が
出てくるヤマトの直接の勢力範囲
山背の木津川は、そのまま琵琶湖に行けるから、物流経路としては妥当だろ >>255
>関東へのルートは甲信越地方を経由したらしい。
>筑紫に討伐された出雲の残党が諏訪に逃げ込んでいるね。
だったら、>>246の
「当然、発展するのは海沿いの地域になる。
内陸の奈良盆地は取り残される。」
は、否定されるね!
内陸も交通路になるんだろ? >>260
>瀬戸内海と奈良の関係は希薄である。
>大和川は流通に用いられた形跡がない。
九州説側は、よくこの論旨を使うけれど、瀬戸内海と河内の結びつきは顕著なんだよ
そして、河内と大和は大和川で直結されていて、文物の交流も顕著
というよりも、一体として動いている 「大和+河内〜環大阪湾」の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う範囲
この範囲が、邪馬台国七萬餘戸の範囲として妥当 >>268
かつて豊臣秀吉が干拓するまで京都に存在した巨椋池(おぐらいけ/巨大な池で、池と言うより湖)琵琶湖から木津川で巨椋池へそして河内湾へ。
それは伊賀とも川で繋っていたと言う。
http://best-times.jp/articles/-/5468 >>262
>関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。
倭国(阿波)を発った忌部一族を祀る神社ですね。 @阿波 >>262
>関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。
その「出雲」も 倭国(阿波)を発った忌部一族の拓殖地ですね。 @阿波 >>276
なんかそう思い込んでたけどちょっとググってみる。 秀吉が行ったのは長大な築堤による宇治川と巨椋池の分離と
巨椋池内への築堤による街道整備だよ >>276
ありがとう、なんか記憶違いしてた。琵琶湖→瀬田川(宇治川)→巨椋池→浪速津河内湾は繋がってた模様。
上の方で、西遷、と言う事が出てたが古事記の「日を背にして戦う」神武天皇の件はひょっとして其れかも知れん。 >>270
>九州説側は、よくこの論旨を使うけれど、瀬戸内海と河内の結びつきは顕著なんだよ
土器からは否定されるわけだが、何を根拠にそう言うのか? 古事記の神武天皇の「(土蜘蛛征討?に)日の天子は東から回り込んで日を背に、、、」的な件を考えると「西遷」を示しているのかも。
しかし、更に考えると戦略ひとつで全方位から攻める事が出来る勢力を持っていたとも考えられるか。
葛城?の牙城を包囲するような勢力か、、、。
アカデミズムが伝説上の…と言う程なにか秘密が隠れてそうな気はする。 貶し合い専門の紋切り型のモン吉くんかな。相手せんとこ。 >>282
伊都国の王城が高祖宮だとすると、倭王は高祖山から昇る太陽を背にして君臨することになる。
東側に山がある地形が太陽信仰にとって重要であったのかもしれない。 纏向古墳群の東田大塚古墳と纏向矢塚古墳、箸中山古墳の主軸の方向が揃っていて、
きっちり夏至の夜明けの方角を向いてる >>286
いいんだよ。
天神は太陽を背にしなくてはいけないと神武がはっきり言っている。 でもって、東田大塚古墳が、竜王山を向いてて、箸中山古墳が穴師山を向いてる
三輪山から夏至の日の出が見られるところに、大神神社がある
東の稜線と夏至の日のでは、いろいろと意識されてるっぽい 東に山があるのが神仙思想だと孝霊厨が言っていたが、ますます九州伊都国説を補強するだけだった。 >>292
>偶然だな
自分でも調べてごらん
東田大塚古墳から竜王山のラインには、きっちり渋谷向山古墳が入っているし
箸中山古墳から穴師山「ゲシノオオダイラ」のライン上には穴師坐兵主神社があるよ >>295
ラインに入ってるだけ
世界地図
直線引けば
あら不思議 >>296
>ラインに入ってるだけ
任意の地点で任意の日付の日の出の方角を
調べられるウェブページがあるから、ちょっと調べてごらん
東田大塚古墳の後円部墳頂からの夏至の線を引くと、それがぴったり
前方部を通る古墳の中心線を通っていて、かつ竜王山を向いてて、
途中の渋谷向山古墳の古墳の軸も通ってるんだよ
纏向矢塚古墳も箸中山古墳も平行に同じ方向を向いていて、
箸中山古墳のラインは、穴師山「ゲシノオオダイラ」と
穴師坐兵主神社の本殿をぴったり通る
三輪山から夏至の日の出が見られるところに、大神神社がある
纏向矢塚古墳の夏至の日の出方向には、何もなさそうだけれどねww >>298
「箸墓古墳の主は「夏至の祭り」を主宰していた?」
それは、忌部一族が「夏至の祭り」を主宰していたってこと。 @阿波 阿波が、と言うか、阿波も先史から倭人の重要な拠点であった事実は動くものじゃないし、千葉県の安房は忌部氏の東遷と言うが、総國=麻國かな。
吾は倭、吾倭、阿波、安房。
其の忌部氏のルーツを夫余に求める説などは、倭人の広大な圏内のひとつをルーツとしてしまったのか。
なんでも大陸半島経由にされた弊害であろう。 大陸中華には火山が(ほぼ)ないから、僻地のことでも、
耳目にとまり、特記したくなったんだろう 大和に向かうなら、阿蘇には立ち寄れない。
倭が阿蘇を含む国だったから記録に残した。 >>304
>大和に向かうなら、阿蘇には立ち寄れない。
立ち寄ったとは書いてないだろ?
それに隋書だよ?
遣隋使は大和朝廷からの派遣
>倭が阿蘇を含む国だったから記録に残した。
そうだよ? 大和朝廷の国造や県主他に、九州の豪族も任命されてる
阿蘇のある辺りも当然倭国で何の疑問もないけれど? >>306
>遣隋使は大和朝廷からの派遣
根拠は? 九州説さんの言い分だと、日本書紀は筑紫倭国の史書を盗んで書いてるんでしたっけ?w 畿内は推古天皇の時代なのに、天多利思比孤(垂らし彦)という明らかな男王の名が記されているしね。 >>309
推古・孝徳紀は後から書き直されてることが判明済みなので、別におかしくない
当時は従兄弟の有明子が即位してて何の不思議もない
ヘンテコな九州説を唱える根拠にならないな >>310
>当時は従兄弟の有明子が即位してて何の不思議もない
これ、何の話?
「有明子」って誰? >>310
畿内説お得意の、史書はすべて信用ならぬが発動かな? >>313
>畿内説お得意の、史書はすべて信用ならぬが発動かな?
隋書と日本書紀の記述の対応が取れるのに、
それを認めない、大和朝廷の遣使ではないと言っている=記紀も隋書も信じない、と
言っているのは九州説の方だろう?
何を言ってるんだ? >>314
>ないという根拠は?
いや、あるならどこにあるのか示してくれればそれで済むだろ?
ないのか?
ないんだな?
ならいいじゃないかww 日本国ではなく、倭国についての記録がたくさんあるから、それが証拠だよね。 雄略天皇の頃も、推古天皇の頃も、畿内の大和朝廷が倭国朝廷を名乗ってるんだが? 九州の大王が遠く離れた畿内に
四天王寺や法隆寺を建てたという珍説 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>319
>証拠は?
「証拠は?」って聞くのはこちら側なんだが?
「倭の五王」、特に最後の倭王武が雄略天皇というのは、教科書レベルの定説
それに異を唱えるなら、それなりの根拠と論証をしてもらわないと
年代論で言えば、継体17年が武寧王の没年に当たるというのが、記紀と
武寧王の墓誌で確認できるので、そこを基準年として遡っていけば、
倭の五王の年代と、雄略天皇の在位年が重なることからも確認できる
あと、雄略天皇の宮が稲荷山鉄剣に斯鬼宮、記紀に泊瀬朝倉宮とあるが、
畿内だと磯城に初瀬、朝倉の地名があり整合性がある
九州にも、初瀬、朝倉の地名は単独ではあるが、離れた場所にあり、
泊瀬朝倉宮にはならない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています