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邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2016/03/23(水) 18:08:04.22
大いに語らおう。是々非々でよろしくお願いします
初心者でわからない方も歓迎します。

わからない方もいますので「貼り付け」度を越さない限り歓迎します。



畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!


九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!

他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
0256日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:00:14.74
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
0257日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:00:59.99
>>249
平城京跡から出土した木簡だが。件の川で阿波、淡國から調として納められていた模様。九州も機内も四国も古代倭国にとって重要な土地だったのは間違いない。邪馬台国等のまぼろし?を追うよりもな。
魏志倭人伝(他国の古文書)に惑わされず古代の史実を知りたい。

路国三原郡阿麻郷戸主海部□麻呂戸口同姓嶋万呂調塩三斗・○□○平寶字
五年十月四日
0258日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:02:33.57
>>253
いいや。
0259日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:04:40.17
>>254
>土器の流れからは、東海は日本海側と陸地を越えて結びついているが、奈良は経由していない

でもよく知られるように大和には東海系の土器が流れ込んでる
0260日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:07:50.78
しかし瀬戸内海と奈良の関係は希薄である。
大和川は流通に用いられた形跡がない。
0261日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:08:41.69
ちなみに弥生時代の人口の推定とか見れば東山道とか結構人が多いんだよな

交易港を擁した海岸沿いが発展し内陸は置き去りにされる

・・・なんてのは現代のイメージをそのまま古代に持っていってるだけ
0262日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:12:52.64
>>261
やたらと広範囲な東山道を持ち出されてもコメントしにくいけど、甲信越地方は出雲の勢力が上越あたりから侵入していたらしいと、以前のレスに書き込みがあった。
関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。
諏訪経由でこの地方は発展していたが、奈良盆地はそのような条件には恵まれていない。
0263日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:15:03.25
今のと古代の大和川は、、、まあいいや…()
0266日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:26:03.56
>>248
>震災後に高台へ拠点を置いたのが高地性集落。

一つの高地性集落が数世紀に渡って営まれてたりする
一時的な避難場所でもない

高地性集落=一時的な避難場所

というイメージなら大昔の異物
0268日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 18:13:37.60
>>253
>大和川が琵琶湖から河内湾に注ぎ込むとか頭沸いてるのか?

直接はつながっていないね
それは、少し筆が滑ったんだろう

大和川を遡って、奈良盆地に入り佐保川を遡っていった地域が、
垂仁天皇のときの狭穂彦の乱の本拠地の「狭穂」

そこからそれほど高くない平城山を越えた背後が、「山背」で
山背側の祝園も、崇神天皇のときの武埴安彦命の乱に地名説話が
出てくるヤマトの直接の勢力範囲

山背の木津川は、そのまま琵琶湖に行けるから、物流経路としては妥当だろ
0269日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 18:15:28.79
>>255
>関東へのルートは甲信越地方を経由したらしい。
>筑紫に討伐された出雲の残党が諏訪に逃げ込んでいるね。

だったら、>>246
「当然、発展するのは海沿いの地域になる。
 内陸の奈良盆地は取り残される。」
は、否定されるね!
内陸も交通路になるんだろ?
0270日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 18:18:11.78
>>260
>瀬戸内海と奈良の関係は希薄である。
>大和川は流通に用いられた形跡がない。

九州説側は、よくこの論旨を使うけれど、瀬戸内海と河内の結びつきは顕著なんだよ
そして、河内と大和は大和川で直結されていて、文物の交流も顕著
というよりも、一体として動いている
0271日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 18:21:42.19
「大和+河内〜環大阪湾」の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う範囲
この範囲が、邪馬台国七萬餘戸の範囲として妥当
0272日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 19:13:44.39
>>268
かつて豊臣秀吉が干拓するまで京都に存在した巨椋池(おぐらいけ/巨大な池で、池と言うより湖)琵琶湖から木津川で巨椋池へそして河内湾へ。

それは伊賀とも川で繋っていたと言う。

http://best-times.jp/articles/-/5468
0273日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 19:17:57.20
>>272
スマン
木津川☓
宇治川○
0274日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 19:37:38.50
>>262
>関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。

倭国(阿波)を発った忌部一族を祀る神社ですね。  @阿波
0275日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 19:39:41.76
>>262
>関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。

その「出雲」も 倭国(阿波)を発った忌部一族の拓殖地ですね。  @阿波
0277日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 23:24:34.33
>>276
なんかそう思い込んでたけどちょっとググってみる。
0278日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 23:44:31.47
秀吉が行ったのは長大な築堤による宇治川と巨椋池の分離と
巨椋池内への築堤による街道整備だよ
0279日本@名無史さん
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2018/05/20(日) 10:52:11.95
>>276
ありがとう、なんか記憶違いしてた。琵琶湖→瀬田川(宇治川)→巨椋池→浪速津河内湾は繋がってた模様。

上の方で、西遷、と言う事が出てたが古事記の「日を背にして戦う」神武天皇の件はひょっとして其れかも知れん。
0280日本@名無史さん
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2018/05/20(日) 12:58:06.47
ひょっとしてって何が?w
0281日本@名無史さん
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2018/05/20(日) 14:19:23.87
>>270
>九州説側は、よくこの論旨を使うけれど、瀬戸内海と河内の結びつきは顕著なんだよ

土器からは否定されるわけだが、何を根拠にそう言うのか?
0282日本@名無史さん
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2018/05/20(日) 16:24:15.58
古事記の神武天皇の「(土蜘蛛征討?に)日の天子は東から回り込んで日を背に、、、」的な件を考えると「西遷」を示しているのかも。
しかし、更に考えると戦略ひとつで全方位から攻める事が出来る勢力を持っていたとも考えられるか。
葛城?の牙城を包囲するような勢力か、、、。

アカデミズムが伝説上の…と言う程なにか秘密が隠れてそうな気はする。
0283日本@名無史さん
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2018/05/20(日) 20:44:26.10
もはや誰も止められないw
@阿波みたいw
0284日本@名無史さん
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2018/05/20(日) 23:02:28.94
貶し合い専門の紋切り型のモン吉くんかな。相手せんとこ。
0285日本@名無史さん
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2018/05/21(月) 07:21:30.31
>>282

伊都国の王城が高祖宮だとすると、倭王は高祖山から昇る太陽を背にして君臨することになる。
東側に山がある地形が太陽信仰にとって重要であったのかもしれない。
0287日本@名無史さん
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2018/05/21(月) 10:06:25.71
纏向古墳群の東田大塚古墳と纏向矢塚古墳、箸中山古墳の主軸の方向が揃っていて、
きっちり夏至の夜明けの方角を向いてる
0289日本@名無史さん
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2018/05/21(月) 12:09:51.69
>>286
いいんだよ。
天神は太陽を背にしなくてはいけないと神武がはっきり言っている。
0290日本@名無史さん
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2018/05/21(月) 17:47:51.89
でもって、東田大塚古墳が、竜王山を向いてて、箸中山古墳が穴師山を向いてる
三輪山から夏至の日の出が見られるところに、大神神社がある
東の稜線と夏至の日のでは、いろいろと意識されてるっぽい
0291日本@名無史さん
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2018/05/21(月) 17:50:22.84
東に山があるのが神仙思想だと孝霊厨が言っていたが、ますます九州伊都国説を補強するだけだった。
0292日本@名無史さん
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2018/05/21(月) 18:30:00.30
>>290
偶然だな
0294日本@名無史さん
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2018/05/21(月) 19:08:54.85
>>293
具体的に何処が?
0295日本@名無史さん
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2018/05/22(火) 09:34:14.44
>>292
>偶然だな

自分でも調べてごらん
東田大塚古墳から竜王山のラインには、きっちり渋谷向山古墳が入っているし
箸中山古墳から穴師山「ゲシノオオダイラ」のライン上には穴師坐兵主神社があるよ
0296日本@名無史さん
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2018/05/22(火) 12:19:22.73
>>295
ラインに入ってるだけ


世界地図
直線引けば
あら不思議
0297日本@名無史さん
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2018/05/22(火) 15:09:06.49
>>296
>ラインに入ってるだけ

任意の地点で任意の日付の日の出の方角を
調べられるウェブページがあるから、ちょっと調べてごらん

東田大塚古墳の後円部墳頂からの夏至の線を引くと、それがぴったり
前方部を通る古墳の中心線を通っていて、かつ竜王山を向いてて、
途中の渋谷向山古墳の古墳の軸も通ってるんだよ

纏向矢塚古墳も箸中山古墳も平行に同じ方向を向いていて、
箸中山古墳のラインは、穴師山「ゲシノオオダイラ」と
穴師坐兵主神社の本殿をぴったり通る

三輪山から夏至の日の出が見られるところに、大神神社がある

纏向矢塚古墳の夏至の日の出方向には、何もなさそうだけれどねww
0299日本@名無史さん
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2018/05/22(火) 16:49:01.05
>>298
「箸墓古墳の主は「夏至の祭り」を主宰していた?」

それは、忌部一族が「夏至の祭り」を主宰していたってこと。  @阿波
0300日本@名無史さん
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2018/05/23(水) 13:08:19.43
阿波が、と言うか、阿波も先史から倭人の重要な拠点であった事実は動くものじゃないし、千葉県の安房は忌部氏の東遷と言うが、総國=麻國かな。
吾は倭、吾倭、阿波、安房。

其の忌部氏のルーツを夫余に求める説などは、倭人の広大な圏内のひとつをルーツとしてしまったのか。
なんでも大陸半島経由にされた弊害であろう。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/23(水) 14:58:20.39
>>297
しかし、阿蘇山がない
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/23(水) 18:48:42.74
大陸中華には火山が(ほぼ)ないから、僻地のことでも、
耳目にとまり、特記したくなったんだろう
0304日本@名無史さん
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2018/05/23(水) 18:51:45.88
大和に向かうなら、阿蘇には立ち寄れない。
倭が阿蘇を含む国だったから記録に残した。
0305日本@名無史さん
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2018/05/23(水) 18:57:49.83
>>304
寄って阿波もダウト
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/23(水) 20:48:41.16
>>304
>大和に向かうなら、阿蘇には立ち寄れない。

立ち寄ったとは書いてないだろ?
それに隋書だよ?
遣隋使は大和朝廷からの派遣

>倭が阿蘇を含む国だったから記録に残した。

そうだよ? 大和朝廷の国造や県主他に、九州の豪族も任命されてる
阿蘇のある辺りも当然倭国で何の疑問もないけれど?
0308日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 10:00:51.45
九州説さんの言い分だと、日本書紀は筑紫倭国の史書を盗んで書いてるんでしたっけ?w
0309日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 10:14:06.95
畿内は推古天皇の時代なのに、天多利思比孤(垂らし彦)という明らかな男王の名が記されているしね。
0310日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 11:14:47.92
>>309
推古・孝徳紀は後から書き直されてることが判明済みなので、別におかしくない
当時は従兄弟の有明子が即位してて何の不思議もない

ヘンテコな九州説を唱える根拠にならないな
0312日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 11:45:01.02
>>310
>当時は従兄弟の有明子が即位してて何の不思議もない

これ、何の話?
「有明子」って誰?
0315日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 12:01:50.99
>>313
>畿内説お得意の、史書はすべて信用ならぬが発動かな?

隋書と日本書紀の記述の対応が取れるのに、
それを認めない、大和朝廷の遣使ではないと言っている=記紀も隋書も信じない、と
言っているのは九州説の方だろう?

何を言ってるんだ?
0316日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 12:02:59.49
>>314
>ないという根拠は?

いや、あるならどこにあるのか示してくれればそれで済むだろ?
ないのか?
ないんだな?

ならいいじゃないかww
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/24(木) 12:05:00.25
日本国ではなく、倭国についての記録がたくさんあるから、それが証拠だよね。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/24(木) 12:14:16.32
雄略天皇の頃も、推古天皇の頃も、畿内の大和朝廷が倭国朝廷を名乗ってるんだが?
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/24(木) 16:06:46.01
九州の大王が遠く離れた畿内に
四天王寺や法隆寺を建てたという珍説
0323日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 17:57:50.79
>>320
九州から移築したらしいよ。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/24(木) 18:00:44.95
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/24(木) 18:25:25.93
>>319
>証拠は?

「証拠は?」って聞くのはこちら側なんだが?
「倭の五王」、特に最後の倭王武が雄略天皇というのは、教科書レベルの定説
それに異を唱えるなら、それなりの根拠と論証をしてもらわないと

年代論で言えば、継体17年が武寧王の没年に当たるというのが、記紀と
武寧王の墓誌で確認できるので、そこを基準年として遡っていけば、
倭の五王の年代と、雄略天皇の在位年が重なることからも確認できる

あと、雄略天皇の宮が稲荷山鉄剣に斯鬼宮、記紀に泊瀬朝倉宮とあるが、
畿内だと磯城に初瀬、朝倉の地名があり整合性がある

九州にも、初瀬、朝倉の地名は単独ではあるが、離れた場所にあり、
泊瀬朝倉宮にはならない
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/25(金) 11:40:20.93
>>326
ただ、マスゴミらしくお困りの国のゴリ押しを絡めてるが。
半島で出たのが真実()としても其れは倭人の兵士と思われる。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/26(土) 16:46:44.02
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと

魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」

邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている

漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ

隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している

隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ

この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ
0329日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/27(日) 10:24:45.09
>>328
>この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが

都合が悪いのでそう思いたいんだね。
かわいそうに。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/27(日) 10:35:12.99
>>328
九州説には、王都と見られる集落遺跡もないし、
径百歩級の大墳丘墓=卑弥呼の墓の候補もない

結局、魏志倭人伝は「こう読むのが正しい」という、文献史学頼りでがんばるしかない

そして、その根幹が、「短里で読めば萬二千里は九州」って1点にかかってるんだよなww

3世紀の遺物・遺跡に見るべきものががない九州説を信じ続けるのは大変だw
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/29(火) 20:42:43.64
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/29(火) 20:43:15.61
 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/29(火) 20:51:54.75
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0334日本@名無史さん
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2018/05/29(火) 20:52:17.54
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
0335日本@名無史さん
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2018/05/29(火) 20:58:51.09
>>334
>福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。

国産の水銀朱は、一箇所も使われておらず、弥生時代には九州には辰砂の
鉱脈、鉱山は知られていなかった

九州だけの倭国を主張する限り、其山有丹で即死
0337日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 06:45:44.17
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
0338日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 06:46:25.39
 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
0339日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 06:47:08.44
 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
0340日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 06:47:27.92
 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 07:20:40.27
纒向と瀬戸内は交流が乏しいよ。
纒向は東海の傘下にあったことが土器の流通からわかる。
0342日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 09:40:50.75
>>341
>纒向と瀬戸内は交流が乏しいよ。
>纒向は東海の傘下にあったことが土器の流通からわかる。

必ずこれが湧いて出るけど、瀬戸内と河内は交流が分厚いだろ?
大和+河内〜環大阪湾の地域は、畿内第V様式土器の時代から、一つの地域だよ
そして、乏しいというが、吉備の特殊器台をそのまま受け継いでいるし、
その前から弧文円板など、吉備系の祭祀具が出ている
乏しいっていうのは、為にいう文言に過ぎない
0343日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 15:29:25.15
河内は瀬戸内だが、大和は違うだろ。

>>342
>乏しいっていうのは、為にいう文言に過ぎない

それは畿内説が伊都とか平原に対してよく使うレトリックだろ。
一緒にするな。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 17:51:07.61
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0346日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 17:52:31.34
隣接地に絞ると纏向遺跡の出土土器は
河内10%
近江5%
紀伊1%
山城0%
摂津0%

河内と大和は大和川一本でつながっているし、畿内第V様式土器以降、
庄内式土器、布留式土器への変遷も歩調を揃えて、進んでいる

どう考えたら、別勢力になるのかが不思議

奈良と大阪の土器はちょっと違う ←せやな
つまり奈良は名古屋で、大阪は九州だ ←は?
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 18:00:12.47
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとする研究者もいる。
しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある[2]。

wikiより
0348日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 18:02:59.07
纒向の搬入土器の出身地割合

伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 : 1%
0349日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 19:12:14.25
ここで言う、どこどこ系土器、というのが、基本的に飯炊き甕で
あることには注意が必要

途中で煮炊きしなければならない距離の移動なら、飯炊き甕を持参する
必要があるが、すぐに行ける距離や、行った先で飯が出るなら甕を持って
出かけなくてもいいだろう

それと庄内式の頃から土器製作地の集約が進み、ある範囲には特定の製作工房から
土器が配布(事実上の販売かも)されていたこと
河内南西部と奈良盆地西部にそれぞれ土器の製作中心があったから、わざわざ持って
行く必要がなかっただけだと思うな

まあ、証明はできないけど、河内の土器が奈良盆地での出土が少ないから交流が
なかったはずだと短絡的に考えるより筋が通ってると思うがね
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 19:30:06.37
証拠もなく都合のいい想像で済ませる。
さすがはでっち上げ畿内説!
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 19:57:15.00
>>348
>纒向の搬入土器の出身地割合

それ、各地の忌部一族が持ち寄った「東阿波型土器」だから。  @阿波
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 20:08:18.81
目と鼻の先の河内と大和の交流が少なかったのは、何が理由なんだろうね。
大和川が水運に適さない河川であったのもあるだろうが、政治的に別のグループでもあったのだろう。
弥生末期の西日本がいくつもの集団に分かれていたことがうかがえる。
そんな状況の中で、地理的に圧倒的に有利で、富を集積していた筑紫を差し置いて魏と交渉できた勢力があり得ただろうか?
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 20:16:01.07
証拠もなく都合のいい想像で済ませる。
さすがはでっち上げ●●説!
0354日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 20:16:19.35
>>352
>富を集積していた筑紫を差し置いて魏と交渉できた勢力があり得ただろうか?

なんと、それがあり得たんですよ。  @阿波
0355日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 20:38:10.26
>>352
>大和川が水運に適さない河川であったのもあるだろうが、

??
寺澤先生の論文「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」から引用

「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式のうち、(中略)
 突帯文様式の遺跡は一見して、菩提山川と大和川を結ぶ盆地の南部に集中する様子が
わかる。とくに突帯文様式単純の遺跡(J 型)は、唯一、秋篠川上流の西隆寺下層を
除けば、大和川本流(初瀬川水系)以南にほぼ限られており、おそらくは朝鮮半島−玄界灘
沿岸地域ルートで伝来し、北部九州の穀物センターにおいて定着を果たして初期の
不完全な農耕文化の揺籃を開始した突帯文系様式は、瀬戸内海ルートで河内潟に入り
河内平野への入植を介して大和川を溯上して初瀬川をさらに遡上したことがわかる。」

そもそもからして、奈良盆地の集落は、河内平野への入植〜大和川を遡上〜初瀬川へ、と
河内の集団が奈良盆地へ伸張して行ったものと見られる
最初から本質的に同根・同祖だね

なぜ別集団だと考えるのか?
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