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邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2016/03/23(水) 18:08:04.22
大いに語らおう。是々非々でよろしくお願いします
初心者でわからない方も歓迎します。

わからない方もいますので「貼り付け」度を越さない限り歓迎します。



畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!


九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!

他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
0376日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:37:12.91
周尺也。  
周尺である

通典引白虎通曰。
「通典」の引用する「白虎通」に曰く

夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした

殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした

周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると八寸になるので、八寸を尺とした

 按奄字未詳。疑是手之誤字。
 奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う
0377日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:44:02.03
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
ここまで述べてきた文で見るように、尺は十寸である 
ここに及び、その字、これより下では、周制(周の制度)では、八寸を尺としたという話だ

別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
周代の制度でも古い時代とは異なる別の制度があった
王制(礼記の一篇)によれば、いにしえには周尺の八尺を歩としていた
今は、周尺の六尺四寸が歩である

鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない
礼制の(記述)から考えて、周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある)

 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
 考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった。
 あるいは周尺は八寸と言う
 歩を以ってさらに八をなす(歩はさらに八尺である)
 ハッパ六十四である(今以周尺六尺四寸爲步と一致する)
0378日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:50:47.08
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭注の(鄭玄の、としてもよいが)意味するところは、八寸で尺と為すということだ
周末にこれ(一尺八寸)が始まった
異なる説も当然成り立ちうる
そうではあっても、またいうことには、
諸侯(六国の王)が(王制、礼制ではない)力政を行っている

分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
(周朝が衰え、天下が)分かれて(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の)七国を為す
田のうねは畮を異にする
農作物の植え方、農地の区画の仕方が、国ごとに異なる様子をいう
車の涂(みち)は軌を異にす
涂は、途(みち)の意味 軌は車輪の幅 交通手段、車の規格が国ごとに異なる様子をいう
律令は法を異にす
律令も、国ごとに異なる法令を使っていた
律令の法が国ごとに異なるということは、公定尺の長さも異なることになる
則ちその説くところ、また、未だ嘗て合わざらずなり
結局は周代の尺が10寸と8寸の両方あって説くところが合わないという話になる
0379日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:53:14.20
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
佐伝 天子の威光、咫尺に顔を違らざる
咫尺を並べていう 二尺とは言わざるなり(咫と尺は同じ長さ(=八尺)ではない)

左伝には、「天(子の)威(徳)、(龍)顔を違らざること咫尺」と書いてある
左伝は、左氏春秋伝のこと 左丘明の作と伝えられる「春秋」の注釈書

咫尺を並べて言うということは、区別があるということ
だから、二尺とは言わない

この部分全体が、説文解字の「咫」の「周尺也」の注な訳だが
「周尺=咫」ではないことが分かる
0380日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:58:36.49
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
国語(春秋外伝)では、列子皆その長さを「尺有咫」という
またその長さを二尺とは言わざるなり
これ、周はいまだかつて八寸を尺と為さざる証というべきや

「国語」でも、「列子」でも、みんな、その長さ「尺有咫」という使い方をしている

『国語』は、21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている
『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献

国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある

(天威咫尺で二尺と言わなかったように)また、二尺とは言っていない
「左伝」でも「国語」でも「列子」でも、
咫と尺を並べて使っていても、二尺とはしていない

こうしたことは、周の時代にいまだかつて八寸を尺と
したことはないという証と見てよいだろう

咫と尺はあくまで区別されている
0381日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:59:34.71
《王制》 出自《礼记》是指古代君主治理天下的规章制度,
内容涉及封国、职官、爵禄、祭祀、葬丧、刑罚、建立成邑、选拨官吏以及学校教育等方面的制度。

禮制,漢語詞彙,漢語拼音為lǐ zhì,
是コ治夢想的具體化,指的是通過禮儀定式與禮制規範塑造人們的行為與思想;
通過法律的懲罰維護禮法的絕對權威。

據史實而論,西周王朝的禮制和官制顯然受先周禮制文明的影響,尤其.
對夏、商二代之禮制及官制有其沿襲的軌跡。
究其遠源,姬周王朝官制與禮制之形. 成,實際上應追溯到堯舜時代。

鄭注
後漢の鄭玄(じょうげん)による経書の注釈
0382日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 16:00:03.20
纏向遺跡と出雲、吉備の間は、双方向の土器の移動が確認できる
吉備甕は、北部九州から畿内まで出土している

北部九州の土器は、畿内ではあまり出ないが、北部九州では畿内様式土器が
畿内第V様式から順に、畿内の土器形式の変遷に合わせて出土している
この部分については、ソースをつけておくから確認してくれ
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
0383日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:21:01.23
>>382
>纏向遺跡と出雲、吉備の間は、双方向の土器の移動が確認できる
>吉備甕は、北部九州から畿内まで出土している

それは当然の現象。 倭国(阿波)を発った忌部一族が各地で「東阿波型土器」の製法を広めたからね。


>北部九州の土器は、畿内ではあまり出ないが、北部九州では畿内様式土器が
>畿内第V様式から順に、畿内の土器形式の変遷に合わせて出土している

それも当然の現象。 倭国(阿波)を発った忌部一族が各地で「東阿波型土器」の製法を広めたからね。
佐々木憲一氏も考古学者なら知ってる筈。 @阿波  
0384日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:46:01.37
地域別人口の超長期的推移
http://www2.ttcn.ne.jp/
honkawa/7240.html  
地域別人口規模の順位の変遷
http://www2.ttcn.ne.jp/
honkawa/7242.html  
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて
 畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃ってシェアを拡大し、
 そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、
 やはり揃って地位を低下させている。
 ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕する人口扶養力を
 養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」
0385日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:46:19.89
奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数のことだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
 1 遺跡地図
 2 遺跡地名表
 3 発掘調査報告書(報告書抄録)
 遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
 最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
 地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」

と書いてある

『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ
0386日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:46:54.37
実際に検索してみると
0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件 「弥生時代の集落遺跡」
2. [福岡県] 1703件
3. [調査 (除外検索)] 723件   「調査を除外」
福岡県の「弥生時代集落」のデータのうち、980件が調査報告の件数で遺跡数ではない

0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件
2. [奈良県] 229件
3. [調査 (除外検索)] 47件
奈良県だと、「弥生時代集落」のデータのうち、182件が調査報告の件数で遺跡数ではない

また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵

それに対して、糸島の三雲遺跡群は5件のデータとして、データベースに登録している
341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2

結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ

これで、福岡の方が奈良より遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ?
0387日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:47:56.56
福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる

一つの遺跡の中の、遺構・遺物を一つ一つ登録してるんだから
そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ
0388日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:48:30.04
ごめん、三雲遺跡群、もっとたくさんあった
三雲・井原遺跡で地区登録が15件 その他個別登録で9件
合わせて24件だった

341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403739 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ2582・2583地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ2582・2583
403734 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ428・429地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ428・429
403738 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ434地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ434
403726 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西526-1地区 福岡県糸島市三雲字下西526-1
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2
0389日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:48:48.26
153426 個別 40230 三雲・加賀石支石墓 福岡県糸島市三雲加賀石 333236.3 1301440.0
348190 個別 40230 三雲井ノ川遺跡 福岡県糸島市三雲
153421 個別 40230 三雲原際所在7-729墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際 333223.5 1301400.3
153432 個別 40230 三雲原際所在7-740墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際
153430 個別 40230 三雲屋敷所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲屋敷
153431 個別 40230 三雲所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲
153428 個別 40230 三雲柿木所在7-736包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
153429 個別 40230 三雲柿木所在7-737包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
445195 個別 40230 三雲郡所在包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲郡
0390日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:49:54.57
唐子鍵遺跡 1件と三雲遺跡群24件を比べて、福岡県が24倍って言ってもしょうがないだろ?
0391日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:50:35.63
例えば、桃の種2000個が見つかったのは、祭祀土坑のあとで、供献土器も同時に出ている
3世紀当時の直接的な祭祀・宗教行事の直接的な考古学的遺構としては、ほぼ唯一の発掘成果だ

纒向遺跡の一番の重要性は、前方後円墳祭祀が統合・完成された、宗教的な中心都市だった点にある

箸中山古墳に先行する纒向型前方後円墳時代の纒向古墳群の時点で当時の列島最大の墳丘墓であり、
埋葬部分、墳墓そのものが最重要の遺跡なんだよ
0392日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:51:01.77
魏志倭人伝には
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
と書かれている
つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ

大きな墓を作らない地域は倭王の所在地としては除外してよい

そして卑弥呼の墓の候補は、その当時の最大の墓がまず第1候補となる
纒向石塚古墳から箸中山古墳まで累代的に築造されたと考えられている纒向古墳群の
5つの墳墓はいずれも列島最大であり、編年によってそのうちのどれに当たるかは前後しても
纒向古墳群のいずれかが卑弥呼の墓の第1候補となることには変わりがない

編年が今後より古い方にスライドすれば、箸中山古墳が卑弥呼の墓の確率が高くなる
0393日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:56:21.43
>>391
>纒向遺跡の一番の重要性は、前方後円墳祭祀が統合・完成された、宗教的な中心都市だった点にある

人が暮らした痕跡がない以上、とても「都市」とは言えない。  
古墳造成前線基地だろうね。  @阿波
0394日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 18:03:30.64
>つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ

誤訳です
0395日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:21:08.16
剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね

畿内では大王墓は発掘できないand/or盗掘済みで、出てないってだけだよ
0396日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:21:29.95
山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ

つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ

平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ

そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない

本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然
0397日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:21:56.16
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩

https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/27497

説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:22:12.91
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ

長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺

周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)
0399日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:22:48.52
伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/kodomo/taiken/hosoku/hosoku.htm

さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
https://pt-matsu.com/wp/wp-content/uploads/2017/11/a94943a9de0a8cbd0c25e72e0ba1dd7b-1.png
0402日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:31:34.90
篆書の頃の漢字がどんなものかまったく考えていない
歩という字が、その成り立ちからずっと一貫して複歩なのに、
それを認めると自説が最初から嘘だったとバレるから必死でごまかし続けているww

象形文字の歩
http://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
篆書の頃の歩
http://pic.zdic.net/xz/swpic/6B65_3107.png
异体字の歩
http://pic.zdic.net/kai/jt/20/92/23957.gif
旧字
「步」
今の楷書体
「歩」

今の楷書体でいきなり漢字ができるはずがないし、
楷書体になったときに初めて漢字の意味が作られるはずもない
0403日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:33:29.12
日本書紀には、皇統と無縁の八咫鏡の例が挙げてある

日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係

つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ
0404日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:33:46.07
また、皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀に出てくる

日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇

昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。

もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる
0405日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:34:16.35
日本書紀の雄略紀には、
「遣身狹村主・檜隈民使博コ、使於吳國。」と、遣呉使の記録はある
遣宋使の記録はないけれどね

宋は南北朝時代の南朝の王朝なので、大雑把には呉の地域だ

雄略天皇の前代あたりで、日本書紀の暦が元嘉暦から儀鳳暦に変わるため、
允恭天皇以前の儀鳳暦部分は書紀編纂時に計算されたものと考えられ、
その部分のもとの記録が春秋年(二倍年暦)だったのでは、と想定する人も多い

そのため、雄略天皇以前の対応は見出しにくくなるが、大陸との往来が仁徳〜安康紀にも
記されており、倭の五王が大和朝廷の大王であることは、定説となっている
0406日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:34:52.24
和歌山の日前神宮・國懸神宮のご神体は、日像鏡と日矛鏡で、
八咫鏡の前に作った試作品の鏡とされている
こういう八咫鏡に連なる鏡が、近畿にある
http://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/4/8/48c9c1d9-s.jpg

そして、>>881
>伊勢の八咫の鏡の箱を入れるオケの大きさが平原の鏡と一致するんだよね。

などと書いているが、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に
「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、
蓋口径九寸であると記録されているそうだ

また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、
明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、
その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、
円の直径は九寸としている。

この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう

どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない

八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな
0407日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:35:39.56
>時代とかが違う遺跡が含まれているから、たまたま三雲地区にあるというだけで、別々に数えることは不適切ではない。

>>525
「また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
 182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵 」
って書いてあるだろ?
唐子・鍵遺跡は、唐子と鍵にまたがる大遺跡で、かつ、弥生時代前期から古墳時代に至るまで
拠点集落として存続した、異なる時代の遺物もてんこ盛りに出る遺跡だけれど、

奈良県の(というか田原本町のかな?)の、データベースへの登録方針だと「1件」になる

唐子鍵遺跡と、三雲遺跡群では、唐子鍵の方が遺跡の範囲、存続期間ともに長いけれど、
それが、24倍の件数の差で登録されている

データベースの検索件数で福岡が多いっていうのは意味がないだろ?
0408日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:36:55.36
>>394
「魏志倭人伝には
 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
 と書かれている
 つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ 」

これが、後の古墳時代につながる様相をそのまま記したものなのは、異論ないだろ?
大きな古墳を作れないところは、無視してOKだよ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:37:17.51
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある

纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする

伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある

平原遺跡の案内看板の解説文では、1号墓の墳丘サイズは長さ約13メートル幅8メートルの方形周溝墓
0410日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:37:39.93
耳璫・耳飾りとされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf

これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の気泡を含むガラス層、
 その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」
「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる「金層」ガラスである。
 金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、内側孔に近い部分には、気泡が多量に含まれるガラスを使用して、
 その外層には褐色透明なガラスが用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、加工法も同様であると考えられた。」

これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、相応ということになる
またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、
 これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた( 表2) 。
 しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、弥生時代の遺跡から出土したのは初めてで、その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」
とあり、この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しいものに合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしくないことになる

古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている

現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、周溝から出た土器の編年に頼っている
1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、2号墓南側から庄内併行期と思われる土器の破片が出土しており、1号墓と2号墓が周溝を共有しているため、同時代の築造と考えられている
で、現在は、この庄内平行期の土器の破片が平原1号墓の編年の理由になっているのだが、これと金層ガラスの関係をどう考えるかによって、編年が変わることになる
0411日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:37:54.97
平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する
となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない

耳飾りからはより新しく想定され、土坑墓遺物からはより古いほうが妥当性がある
肝心の副葬品は国産鏡で編年のあてにならない

平原一号墓はもう少し、検討が必要だと思う
0412日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:39:07.57
歩は、本来身体の大きさで決まる身体尺だから、大きく変わることはできない

そして、径百歩を報告したと思われる張政は塞曹掾史=掌辺塞之職
国境の要塞の職を司る政治職員。掾史=副官
ということで、軍政、補給や兵站に関わる魏の役人

そういう立場の人が、魏の度量衡の体系から離れた『歩』で記録したと考えるのは、
ある意味常軌を逸している

そもそも東夷伝里などというものは、一部の九州説の人の心の中にしかない
それに合わせた「東夷歩」を想定しても、無意味

そして、27メートルでも、平原1号墓はその半分以下
どうやっても、平原1号墓は卑弥呼の墓にはならないし、
平原1号墓を除けば、北部九州に3世紀の王墓候補すらない状況になる
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:40:06.72
もともと、日本の皇室、大王、天皇は、日本の豪族の総本家という位置づけで、
三種の神器の組合せは、広く豪族の古墳の副葬品として共有されているし、
日本書紀にも皇統とは無関係な「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」の記事がある
>>404>>405を参照

平原1号墓の内向花文鏡を皇室の神鏡の起源だという方が、よほど貶める意図を感じる
皇室の神鏡は破壊されて埋められたものの同類と言っていることになるからな
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:42:45.29
日本の神話というのも朝鮮人(日本という国は無かった頃の話?)の話でしょ、
どういうことだと思う
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:43:06.46
日本では、確実な殉葬が確認できた墳墓は一つもない

ちゃんとした学会で検討された内容ではないけれど、
吉武高木遺跡や吉野ヶ里遺跡で見られる庶民の集団墓である甕棺墓列を見て
殉葬墓とかんちがいした可能性がある

あるいは、弥生時代のある時期までは、方形周溝墓にしても特定家族墓にしても、
一つの墓域、墳丘に、順次追葬しているので、それを殉葬とみなした可能性もある
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓には、14の埋葬主体がある

そういう記録が光武帝への朝貢や、帥升等の朝貢の時の記録として残っていて、
倭王の墓なら当然殉葬者があるはず、と考えられたんじゃないか、
くらいまでしかいえない

考古学的状況としては、確実な大規模殉葬例は、日本にはない
それが現実
0416日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:44:27.99
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
千々賀遺跡   北東30キロ   三雲遺跡群
        1里=60メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里    至奴國  ちょっと語順入れ替え
現実
三雲遺跡群   東北東18キロ  比恵・那珂遺跡群
        1里=180メートル

方角も、距離もメタメタじゃないか?
現実に合っていないよ?

3倍違うものが、一つの単位だというのは通らない
誤差とは認められないだろ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:45:27.21
話を作ったり(ねつ造。偽造。)するなという意味、
日本起源のモノなんて何も無いんだよ
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:54:20.05
『ねつ造』

日本のマスメディアなどの話をすると、
ほとんど犯罪者、犯罪関係者

よく恥ずかしくもなく、
テレビ(メディア)などに出られるな
0420日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:55:34.15
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里

統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
この範囲に、あなたの言う短里の値が入る確率が95%という意味です。

11から136mとか、-73〜306mとか、「意味のある数値」だと思いますか?

これが正しい統計のやり方です。nが小さくて、ばらつきが大きいデータでは、いかに統計処理をしても信頼性のある数値は出ないんですよ。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:59:53.93
まず、第一に、漢魏尺の度量衡に「咫」は入っていない
周代には「咫」は、女性の手を広げた大きさ(おそらく親指から人差し指まで)という
身体尺があった
しかし、周朝の権威が衰え、各地の諸侯が自立した春秋・戦国時代に、各国が
勝手に分国法を使うようになり、度量衡もばらばらになって長さの定義もごちゃごちゃになった

それを、秦の始皇帝が改めて、度量衡を統一した
その時点で計量単位としての「咫」は使われなくなっているし、度量衡に組み込まれていない

前漢の紀元前91年成立の史記の時点で伝承の中で「尺有咫」と
使われているのを除くと、「咫」は「咫尺」という熟語以外では
使われなくなっている

そして、円周を測ることに「咫」が使われている例は、一例もない
円周を計るのに便利な単位だから「咫」が使われたというのは、まったく根拠がない
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:03:01.34
三種の神器の組合せは、そこらの古墳の副葬品として普通に見られる
 事実 山口県の赤妻古墳、山梨県の笛吹市平林2号墳 など

八咫鏡という名称は、皇統のレガリア以外の大鏡にも普通名詞として使われている
 事実 雄略紀「別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
        使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請」
 おまけ 皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀にある
    垂仁紀「是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」」

本物の「八咫鏡」である伊勢の御神鏡は、面径が漢尺の二尺ではない
 これは推測
 八咫鏡を入れる入れ物の実見記録として口径九寸の黄金鑵が記載されている
 その外側の御樋代は内径が一尺六寸三分で、49センチで
 面径46.5センチの鏡を入れるにはぎりぎりすぎるのも状況証拠といえる

つまり、面径二尺と主張することは、皇統のレガリアとのつながりにおいて意味がないし
三種の神器の組合せも「倭王の墓」を意味しない
そして、「八咫鏡」という名称も、皇統の皇位の証をそのままで意味するものではない

その上で、円形の鏡の周囲を「計ったら」というのが、
可能性すらほぼない恣意的すぎる「仮定」だし、
漢尺の体系にない「咫」を、「漢尺の八寸」として計算するのもご都合主義

結局は「だったらいいな」の結論ありきの数合わせなんだよ
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:03:53.90
周歩が身体尺で、135センチ程度とされている

清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》から引用すると
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
となっていて、
周代でも古い時代は、周尺の八尺を歩としてたが、
今は周尺の六尺四分を歩としている
と書かれている

これで、歩=135センチから換算すると
八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ

どちらにしても、漢尺の23センチとは異なるし、
咫が周尺である以上、平原1号墓出土鏡は、面径二尺にはならない
したがって、円周も八咫にはならないんだよ

九州説のいう「咫」の長さが異なっていたってことだ
この数値から計算すると、咫=16.9センチ
八咫=135センチで、平原1号墓の146センチとは合わない
146センチは、「8.63咫」だね

都合のいい数字を恣意的に持ってくるのでなければ、こんなものだよ
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:05:09.60
何度も何度も書くけれど、半径が一尺、あるいは二尺ちょうどじゃないと
使い道がない単位が、単位として成立する余地はないっての

それに、円周長が最初の定義だったら、何をさておき
「円周長を咫で示した例」が多数あるはずだが、
「一例たりともない」

この、不整合を説明できない限り、
「咫の最初の定義は円周長」という主張の「説得力はゼロ」だよ
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:06:44.58
例えば、壱岐国の原の辻遺跡でも、畿内第V様式の影響受けた土器が出ているし、
縄文時代から広域の交流・流通があったんだよ
https://www.city.iki.nagasaki.jp/material/files/group/27/1222c2c16dd1ab975c162c72c821f1b4.pdf

四隅突出型墳丘墓の範囲も広域だし、大型銅鐸の出る範囲も広域だよ
古来そういう広域交流の中で、倭人の領域=倭国がまとまりを持って存在している

九州説の連中だけ、倭国を小さくしたがるのは何なんだ?
0426日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:07:56.50
同じ言語を使うとか、同じものを食べるとか、そういったことが民族・倭人としてのまとまり
国としてのまとまりは、首長層の卓越から王の台頭を経て、国になっていく

九州説のいう「九州のみの倭国」は、列島内の他国の情報が大陸に伝わらないことが必要条件だから
交易・交流も否定しないと通用しない

3世紀当時、北部九州より、吉備、出雲、丹波、大和の方が、王権の発達が進んでいて、
より強い王(地域首長)が存在している

その状態で、各地からの交易で各地の人が北部九州にも来ていたら、北部九州の首長が
倭国王と認められるのは無理だよ
0427日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:09:47.31
>東の海の先にも倭人がいると書いてあり

九州説はいつもこうやってごまかすよな?
原文は「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。」

渡海「千余里」だよ
どんなにがんばっても、これを本州に当てるのは無理な話

漢書地理志に見える魏略逸文では
「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」と冒頭の文に続けて
「度海千里復有国」とあり、千里渡ったところにも倭種に国がある、というだけの文になっている
千里渡って倭人の国がある、というのは、
半島から対馬、壱岐と千里渡ったところの島も倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない
0428日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:11:21.20
だいたい、咫が漢尺の八寸って言ってる連中が、短里だの東夷伝里だのを主張するのが噴飯もの

漢尺の長さが正確に伝わっていて、既に使われなくなっている咫が周尺の八寸であることも
知っていて、それなのに6尺が歩、300歩が里っていうのが伝わっていないと主張できるのが
本当にご都合主義

さらに記録するのが魏の建忠校尉梯儁、塞曹掾史張政なんだから、魏晋里を知らない訳がないし
魏晋里以外で記録する理由がない
0429日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:13:51.75
後漢書の「自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺自朱儒
東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣」の「極」は
淮南子: 時則訓 の「東方之極」の「極」なんだよ
「使驛所傳、極於此矣」は
「使譯の傳うる所、此に於いて極まる。」
要するに、情報が伝わってきた(得られた)ところはここが限界=「極」ってこと

東の世界の端を南に行ったところに「黒歯國」があって、
南の世界の端を西へ行くところに「裸国」があるからね
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民;
0430日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:14:12.73
記紀では伊都國は村扱い(在筑紫國之伊斗村也:仲哀記)で、
國造すら置かれていないような地域
國造ではなく県主レベル(筑紫伊覩縣主祖五十迹手:神功紀)
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:14:33.29
端山古墳 墳丘長78.5メートル周濠を含むと全長は約99メートル
築山古墳 墳丘長60メートル周濠を含むと全長は約105メートル

>大きい古墳だから住民の多いところには
>作れないという話をしてるのだが?

畿内の大古墳と比べたらちゃちいものだが、
かなりの面積をつぶさないと作れないだろ?
住居いくつ分になるかな?
でも、伊都國中枢に作ってある

これらが、伊都國王家筋の墳墓
これと比べても平原1号墓はしょぼい
そんなのを卑弥呼の墓と言い張るのが惨めにならないんだからすごいよな
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:14:57.13
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え
四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある

オレは纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

これ全部、弥生時代だよな?

北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ?
0433日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:15:20.32
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと

魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」

邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている

漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ

隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している

隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ

この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:15:47.98
 魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
 末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
 魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
 どちらかは間違いだね
 隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね

 旧唐書でも
 「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
  東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
 とあって、内容を確認すると
 陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
 「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
 となっているけれど
 実際には成都から安南は「東南」

 大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
 どうしてだろうね?
 探せばまだまだいくらでもあると思うよ
 大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね
0435日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:16:21.43
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い

旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読

北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか

この時点で、伊都国にある平原1号墓が卑弥呼の墓というのは、ありえない
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 20:16:45.09
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭

要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない
0437日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:17:03.77
黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国

淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民;

そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。

魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「?齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる

こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな
0438日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:18:45.64
地の果てまでが萬二千里というのは、>>436で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える

また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元

これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。

五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
0439日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:20:25.15
弥生終末期にあたる卑弥呼の時代と古墳時代は、「古墳を作るかどうか」以外は
何も違いがない、連続した一続きの時代だ

大きな混乱の痕跡もなく、広い範囲で一斉に古墳を作り始める
この「古墳を作る範囲」が、そのまま「倭国の範囲」

九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める

その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ
0440日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:21:06.80
三角縁神獣鏡の全量を下賜鏡だと主張している人は一人もいない

逆に、魏との交渉を記念したものであるのは明白で、
それを記念する必要があるのは、魏との交渉をした当事者以外にはあり得ない

大陸からは三角縁神獣鏡は1枚も出ていないと言う人も多いが、
「三角縁」の「神獣画像」鏡は複数出ている

魏からの下賜鏡そのものは、発掘できない天皇陵治定の大王墓クラスの
副葬品だろう
0441日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:22:04.76
500枚もあるんだから、仿世鏡が大部分なのは当たり前だろう

そして、魏から親魏倭王に除せられたのが九州王朝なら、
「なぜその記念鏡を作ったのが『九州王朝ではない』のか?」

一番簡単な答えは、九州王朝なんていうものはなくて、
親魏倭王に除せられた卑弥呼も九州にいた王ではない、ってことだ

これが一番シンプルで分かりやすい
0443日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:23:33.69
実測不可能なところは、「つじつま合わせの作った数字」なんだよ
そして、萬二千里は、邪馬台国までではなく「女王国」まで

そして、魏志倭人伝の旅程は、後漢代の古い記録と魏使の報告による新しい記録を
ごちゃ混ぜにまとめてある
そこにさらに、世界の端まで萬二千里という淮南子にも書かれている中華世界の世界観と
倭国は儋耳朱崖の近くの南の国という思い込みを混ぜ込んで魏志倭人伝は書かれている

おそらく後漢代の帥升等の朝貢時で既に万里の彼方からの朝貢とされて、
対馬海峡を渡るまでが一萬里になるように数字が作られていて、
そこに末慮国−伊都国間ではない東南陸行五百里が付けられて、
計算が合わなくなって水行と陸行が日数表示になったまであってもおかしくない

まあ、北部九州から千三百里で魏晋里で畿内まで届くので特に問題はないと言えばないけれど
0444日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:24:35.37
三国志は書かれた当初は私撰史書
陳寿は役人だけれど、公務で三国志を撰述した訳ではない

正史と認定されたのは、唐代になってから

というか、王朝としての編纂事業として、正史を作るようになったのが
唐朝以降なんだけれど
0445日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:35:49.23
>>431
>これらが、伊都國王家筋の墳墓

伊都国王家なんてものを捏造するなよ。
伊都にいたのは倭国王家だよ。
平原遺跡の後で伊都が寂れるのは、倭国の王宮が筑紫の中で移動するからだろ。
0447日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:36:39.12
>>427
>千里渡って倭人の国がある、というのは、
>半島から対馬、壱岐と千里渡ったところの島も倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない

千里渡って倭人の国がある、というのは、
倭国(阿波)から紀伊水道を千里渡ったところの倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない  @阿波
0448日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:37:22.74
>>390
>唐子鍵遺跡 1件と三雲遺跡群24件を比べて、福岡県が24倍って言ってもしょうがないだろ?

福岡の遺跡は質でも量でも奈良をはるかに凌駕しているよ。
0449日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:40:21.85
>>448
>福岡の遺跡は質でも量でも奈良をはるかに凌駕しているよ。

倭国(阿波)の遺跡は量では負けるが、質では福岡をはるかに凌駕しているよ。  @阿波
0450日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 20:59:13.10
>>448
>福岡の遺跡は質でも量でも奈良をはるかに凌駕しているよ。

それを言うときの典拠としてたのは
「奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数」だろ?

それの数は、自治体の件数の登録の仕方だからあてにならないって話
0451日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 21:00:43.12
>>446
>陳寿の死後に晋朝に公認されてるよ

それが正史を意味しないんだよ
そして、実際ほぼ散逸状態で、まともな写本、伝本がほとんどない状態だった

まあ、魏略よりは残ってた、という言い方もできるけどね
0452日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 21:02:27.56
>>450
どうでもよい遺跡の数を比べても意味ないでしょ。  @阿波
0453日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 21:10:27.99
>>451
正史とは言ってない
でも私文書でもなくなったのよ
晋朝が公的に写本を作らせてるからね
0454日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 21:35:02.17
>>453
>晋朝が公的に写本を作らせてるからね

つまり、晋朝の祖である司馬懿の功績を誇っているから誉められたと
そのための誇張が萬二千余里だよね
誇張であって、短里とか東夷伝里ではない

そして、正史ではないから、晋朝がつぶれると省みられなくなり、ほとんど写本も
伝えられなかった、と
0456日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 21:55:16.56
三角縁がすべて下賜鏡だと主張してる研究者はいるぞ

最近はかつての舶載鏡とボウ製鏡の区分は成り立ち難いとする論調が強まってる

つまり全三角縁中国鏡説
0458日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 22:06:27.74
>>457
中国鏡と同じ成分銅だとは聞いたことがあるが
呉の領域のものだとか特定されてるのか?
0459日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 22:06:38.08
>>457
中国鏡と同じ成分の銅だとは聞いたことがあるが
呉の領域のものだとか特定されてるのか?
0461日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 22:30:17.58
魏の領域に銅山がない。
特に呉にその銅山が奪われてからは魏の鏡は鉄鏡なのだ。
0465日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 23:13:24.44
wiki
229年、孫権は皇帝に即位して元号を黄龍と改め、建業に遷都した。蜀漢では、原則論として孫権の即位を認めるべきではないから
同盟を破棄すべきとの意見が続出したが、諸葛亮の説得で孫権の即位を認め、改めて対等同盟を結んだ。また、魏を打ち破った後
のその支配区分として、徐州、豫州、幽州、青州は呉が、并州、涼州、冀州、?州は蜀漢が支配するものとし、司隸は函谷関を境
界線として、東は呉、西は蜀漢が占める取り決めをかわした。
0469日本@名無史さん
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2018/07/19(木) 12:36:34.09
>>455
>晋代写本は出土してるよ

出土ってことは、正しく伝世しなかったってことじゃないの?
存在していたことと、それを伝える意思があったというのは別
0471日本@名無史さん
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2018/07/19(木) 14:08:13.98
その写本が、数少なくて、いろいろと怪しい
邪馬「壹」國とか

晋代写本は、晋代で写本(維持・保存)が止まってるから晋代写本なんだろ?
0473日本@名無史さん
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2018/07/19(木) 20:30:29.76
さん‐し【三史】

中国古代の三つの史書。史記・漢書(かんじょ)・後漢書をいう。
後漢書の代わりに東観漢記を当てることもある。

三国志は、後漢書よりも成立が早いのに、三史には入れてもらえない

三国志(魏志倭人伝を含む)は、そこまで出来のいい史書という訳ではないことを
念頭において読まないとってこと
0474日本@名無史さん
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2018/07/19(木) 23:15:59.61
中国に「三史」という定義はない。
『続日本紀』巻30の神護景雲3年(769年)10月10日の条に称徳天皇が「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、
未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、
列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」という大宰府の請に応じて『史記』『漢書』
『後漢書』を下賜している。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例にすぎない。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/20(金) 06:56:58.00
>>474
>中国に「三史」という定義はない。

定義とか、そういう話じゃないんだよw
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