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邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2016/03/23(水) 18:08:04.22
大いに語らおう。是々非々でよろしくお願いします
初心者でわからない方も歓迎します。

わからない方もいますので「貼り付け」度を越さない限り歓迎します。



畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!


九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!

他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
0507日本@名無史さん
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2018/08/26(日) 18:50:39.23
ベイズ統計を分かってないだろ

トルーポジティブとフォールスポジティブの確率が
「信用できるとき」にしか意味がないんだぞ

もう少し具体的に書くと
「鉄がある所が邪馬台国である確率」と
「鉄がない所が邪馬台国である確率」が、
データからの統計計算に入る前に、
「あらかじめ分かっていてしかも正しい」ときじゃないと意味がない

松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は、
東大退官後に聖学院大学に移られた先生で、バカなことを訊きに来た素人に
計算上はこうなるねっていう「意味のない机上の計算」を、リップサービス的に
示しただけだよ

「鉄がある所が邪馬台国である確率」
これがそもそも定義されてないし、
この数値をいじればどんな結果でも作れるんだよ

統計を知らない人間は簡単に騙されるww
0508日本@名無史さん
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2018/08/26(日) 19:00:17.60
統計をわかってないバカがまた意味のないことを。
0509日本@名無史さん
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2018/08/26(日) 19:27:50.27
>又渡一海千余里、至末盧国。。。
>東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。

東京の東大レベルの高等数学なぞ持ち出す前に、
伊都国はどこかを、色眼鏡外して読み取るべし。 ↑ これ、唐津の小学生が読んでも、行く先は佐賀平野だろ。
0510日本@名無史さん
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2018/08/27(月) 12:28:11.20
九州北部ばかり注目されて中南部はガン無視かよ?
と最近思う。
0512日本@名無史さん
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2018/08/27(月) 20:14:57.66
投馬国は半島南部って言う人がいるけどさ、
魏志倭人伝の冒頭で、「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。」って書いてあるのを
無視してるだろ?

投馬国5万戸、邪馬台国7万戸が、それぞれ半島と日本列島の女王国の範囲とか言ってるけれど
総数12万戸のうち、5万戸が帯方郡と地続きの半島上にあったら「帯方東南『大海』之中」にもならないし
「山島に依りて」という表現にも合わない

投馬国を半島上に持ってくるのは、九州説の中でも批判されている無理読みだよ
0513日本@名無史さん
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2018/08/27(月) 20:26:44.12
>>506
>統計をわかってないバカがまた意味のないことを。

オウム返しってことは、ザラコク並みのバカだな?wwwwww
統計を分かっているなら、具体的にどこがおかしいがあげてみな

バカに限って虚勢を張るんだよなw
0514日本@名無史さん
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2018/08/27(月) 20:29:04.17
古墳から出土した大型鏡としては、
1位 「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3#/media/File:%E6%9F%B3%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E3%81%A0%E9%BE%8D%E9%8F%A1.JPG


2位 「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000700000/e6c59c8777c949b69a9e966a571ddb2d
3位 「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明だが1位と同じ「鼉龍鏡」
http://www.emuseum.jp/detail/100584/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D%26owner%3D%26pos%3D825%26num%3D2
4位 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
https://lh5.googleusercontent.com/-tkY1W-oL8vY/VNdKvPWKogI/AAAAAAAACPM/HIci-6ZXnNg/s2560/shimoike376.jpg


5位 「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
https://lh6.googleusercontent.com/-wXRTdJSy-nk/VLPb5HnPYRI/AAAAAAAABc8/pCaHbl_7i9I/s2560/sikin359f.jpg


6位 「変形方格規矩鏡」34.9センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000680000/c1f396e370674f8ca9253bba0298bae6
7位 「直弧文帯縁内行花文鏡」34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000690000/afe97a03a9d2456899e83ea787ce89f2
8位 「変形方格規矩鏡」32.7センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000670000/13fd29465df845d1a1d1953cf8a64290
9位 「四仏四獣鏡」30.4センチ 千葉 祇園大塚山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001001000000/1e1c67f63291436080316c0bd8086302
0516日本@名無史さん
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2018/08/28(火) 23:55:00.36
>>515
>中国人が読むとそう読めるらしいよ

そう主張するなら、中国人が読んでそうなるという根拠を
誰でも確認できる形で具体的に示してね
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/28(火) 23:55:31.60
小規模河川の川の水行は、大陸正史に一切書かれていない
川での移動は、川を遡るときは「泝流」下るときは「順流」が主に用いられ、具体的な川を出すときは「泝漢水」のように用いる
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/30(木) 11:08:47.86
盗掘後の残り物だけで桜井茶臼山古墳からは
判定できたものだけで81面が出土しており一つの墳墓からの出土では、
枚数、鏡種ともに最高数だよ
その内訳は
三角縁神獣鏡       26面
内行花文鏡(国産)    10面
内行花文鏡(舶載)     9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡        5面
環状乳神獣鏡        4面
だ龍鏡           4面
細線獣帯鏡         3面
方格規矩鏡         2面
単き鏡           1面
盤龍鏡           1面

副葬されたのは古墳時代でも、かなり古い鏡種も多く出ている

筑紫の勢力が進出したのだとしたら、
どうして平原1号墓の時に埋能しなかったのかな?
平原遺跡は、仿製鏡がてんこ盛りなんだけど?
0519日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/30(木) 13:31:25.22
卑弥呼は自分が造らせた新しいピカピカの鏡の方を好んだんだよ。
もう漢は滅んでいたから、漢からもらった鏡にこだわる理由もないしね。
茶臼山にあったのは卑弥呼が好まなかった中古品と、卑弥呼より後世の粗製乱造の三角縁。
それでも、筑紫から進出した王家の末裔であることは間違いない。
0522日本@名無史さん
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2018/08/31(金) 00:21:09.48
>>519
>卑弥呼は自分が造らせた新しいピカピカの鏡の方を好んだんだよ。

贈られたのは新しいピカピカの魏鏡だろ
その後も朝貢してるのに、それを鋳つぶして新しい鏡を作りましたとか、
まじめに考えてないだろ?
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 01:34:21.15
>>521
伊都クズの言う「考古学的」が考古学界で相手にされていないトンデモであることは既にバレている
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 17:05:01.68
>>521
>伊都説は考古学的に妥当だ。

考古学的に妥当だとする、根拠・遺物を一つでも二つでも挙げてくれ

順に否定してあげるから
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/19(水) 16:22:42.40
ヤマトンヤマトンヤマトントン♪
0526日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/19(水) 16:35:02.29
キナイコシって一日中張り付いているの?
無職プーなの?
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/19(水) 18:23:04.85
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/19(水) 19:35:22.34
>>526
そうですね
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/19(水) 21:26:36.51
で、伊都説が考古学的に妥当だという「具体的な根拠・遺物」は?
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 00:45:51.94
三種の神器が弥生にさかのぼるなんて考えている研究者はいない

酒井利信「三種の神器に関する研究:『剣の観念』の中世的展開」『武道学研究』36-1、2003年

(前略)
三種の神器に関する先行研究はおびただしい数にのぼり、本論の論旨において重要なも
のも多くあるが9)、これらを全て紹介することは不可能であるため、後に本文中で必要に
応じて取り上げていくこととし、ここでは三種の神器について、潜在する問題点を示唆し
我々に新しい視点を与えてくれるものの代表として、津田左右吉氏の「日本古典の研究」10)
をあげておきたい。津田氏の業績で最も評価されるべきは、当時常識とされていた三種の神
器像に、はじめて学問的な批判を加えたことにある。以下、氏の論旨を要約する。氏の研究
の前提にあるものは、『日本書紀』(以後『紀』)の本文に神宝の記述がなく、第ニノー書に
鏡のことがみえ、『古事記』(以後『記』)と『紀』の第一ノー書には勾玉・鏡・剣が記され、
『古語拾遺』には鏡剣二種の神宝が記される、といったように色々異説があるのをどう解釈
するかという問題である。ここでは既に、従来常識とされていた固定的解釈からの脱却がみ
られる。このことは後世に与えた影響として非常に重要であると考えられる。氏は、諸々異
説が存在することから想起される問題点について自問自答する。具体的な事柄をあげてい
くと、先ず歴史的事実として神宝が何々であると思われていたか、という問題である。これ
については、勾玉・鏡・剣の三種の前に鏡・剣の二種の時代があったとしている。
(中略)
0532日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 00:46:35.26
中略)
我々は、先にみた『帝室制度史』にみるような三種の神器像が唯一真実であり、既に定説
ででもあるかのような錯覚に陥りがちだが、実はその限りではないようだ。これら津田氏を
はじめとする先学が示唆するところの第一は、三種の神器の問題は決して一般的に理解さ
れているように決定的・固定的に捉えきれるものではないということである。いうまでもな
く社会制度、政治の問題であるため、その時代々々による政治的立場によりこれの捉えられ
方は流動的であった。つまり、史実さえ変えられた、あるいは歪められた可能性があるとい
うことである。このことを念頭に置いた解釈が必要である。従って、定説というものはいま
だ存在せず、また成立しにくいとも言える。
(後略)
0533日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 00:53:44.53
考古学的に弥生応募から出土しているのに。
その学者は妄想家なのか?
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 01:12:17.73
一般的な三種の神器のイメージは日本書紀編纂段階ですら確立してたかどうか怪しいってこと

まあ、全てにおいてイメージでしか語れない伊都クズ説には相応しい主張だな
0535日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 01:19:38.84
伊都厨のいう「考古学的に〜」は考古学界では相手にされていない内容ばかり
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 06:17:51.54
まあ、弥生時代の北部九州ではそのときに
保有していた宝物を副葬していたが、
それらのセットが後世に定番化
したってことだろうな。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 06:24:23.18
畿内ではそれらの宝物を入手するのが困難で
鏡のみになる場合も多い。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 10:33:40.58
>>537
>畿内ではそれらの宝物を入手するのが困難で
>鏡のみになる場合も多い。

それをきちんと具体的なデータで示せると、論拠のある主張になるんだけどね
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 10:52:08.85
鏡のみになるとか、発掘成果をまったく知らないことが丸わかり
伊都説じいさんの主張する「考古学的」がデタラメって本当だな
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 11:45:53.25
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/20(木) 16:00:03.42
鏡のみになる(1種)とか言ってたはずなのにすぐに三種の神器(3種)に枠組みを変更w
伊都クズはボケがかなり進行してる老人か根っからの嘘吐きかのどちらかだなw
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/22(土) 08:25:26.62
>>542
根っからのウソツキで、かつ、
まともな論拠がないからその場しのぎでいうことをコロコロ変える

それが、九州説のデフォだよw
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/22(土) 16:01:46.12
>>542
そりゃ、あんたが理解しようとしていないだけ。
筑紫にいた頃はちゃんと三種の神器だったのに、畿内では鏡だけに簡略化された理由を考えないから。
大和の勢力が博多湾沿岸の勢力の末裔であるという事実ときちんと向き合えよ。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/22(土) 16:42:01.46
>>544
その伝で行くと、円筒埴輪は吉備の特殊器台を受入れたものだから、
大和の勢力が吉備の勢力の末裔であるというのが事実ってことになるなww

あと、前方後円墳で重要な墳丘全面への葺き石は、出雲の四隅突出墓のの葉式だから
大和の勢力が出雲の勢力の末裔であるというのも事実になるw
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/22(土) 17:27:02.76
>>544
"弥生時代に三種の神器"なんて主張してる歴史学者も考古学者もいないよ
それが科学的な学問の結論
ウソつきが1000回唱えても現実は変わらない
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/22(土) 18:31:11.07
まあ、北部九州の時代は
たまたま保有している宝物を副葬しただけだろう。

いつしかそれが定型になり
神聖視されて皇室に残っただけのこと。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/23(日) 00:53:57.90
そのいつしかというのが弥生時代なんだろ。
平原遺跡では副葬品のほとんどが装飾品と鏡なのに、刀を一本だけ入れて三種の神器の様式に合わせているから、その時点ではすでに定型化されていたことがわかる。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/23(日) 00:55:52.85
>>545
>大和の勢力が出雲の勢力の末裔であるというのも事実になるw

三輪山の事代主の話があるから、間違いではないのだろう。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 12:56:04.78
>>545
>大和の勢力が出雲の勢力の末裔であるというのも事実になるw

奈良県の朝倉から宇陀に抜ける街道沿いに、出雲という地名があるんだよな
大和と出雲が古い付き合いなのは間違いない

魏志倭人伝の、投馬国(出雲)から邪馬台国(大和)の水行10日陸行1月は、
この出雲と大和の往還路をそのまま使ったのだと思う
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 23:47:52.30
大牟田市に出雲町って地名があるけれど、かなり小さな地名だね
あと福岡市西区に出雲大社の分院があるけどそっちのことかな?
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/28(金) 09:42:17.83
福岡の出雲がどこにあるのか知ってる人、いる?
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/28(金) 11:22:38.23
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/28(金) 19:11:32.79
>>556
>大牟田

それは>>554にも書いてある
小学校の学区よりも小さな地名で、
古代に重要な拠点があったような場所とも思えない
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 09:31:02.07
筑紫と出雲の関係はそれほど深くないと思うけどな

宗像三神と大国主の絡みくらいで
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 10:48:42.86
現代に語り継がれるくらいにはふかいつながりだろ。
吉備なんて、大勢力だっただろうけども伝承そのものが残っていない。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 23:13:00.50
>>561
>現代に語り継がれるくらいにはふかいつながりだろ。

何が語り継がれてる?
記紀のことを言ってるの?
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 09:05:51.16
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 12:14:16.97
出雲王権が倒されて、筑紫王権が倭国(対馬海峡、日本海の国)の覇権を握ったのが、記紀にある出雲の国譲り。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 22:56:27.65
>>564
>筑紫王権が倭国(対馬海峡、日本海の国)の覇権を握った

記紀のは日向三代であって、筑紫王権なるものは出て来ないんだがね
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 07:35:15.16
日向三代は、イザナギが住吉三神を生み出したのと同じ筑紫の日向の倭王だよ。
それは博多湾沿岸を舞台とする物語だ。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 14:50:37.82
>>566
>それは博多湾沿岸を舞台とする物語だ。

そう言い張るのは、一部の九州説(伊都国説)ぐらいしかいないマイノリティ

例えば、天孫降臨後のサルタヒコとアメノウズメの婚姻の場であるという荒立神社の
伝承のようなものが、筑紫の博多湾岸にはない
http://www.kuis.ac.jp/chinese/column-korogi.htm

神話や説話から考えると、日向の高千穂はやはり宮崎県が舞台と考えた方が蓋然性が高い
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 16:21:42.28
猿田彦神社は福岡市早良区の古の倭国王都にある。
後に猿田彦は邇邇芸を迎えて、倭国は筑紫の日向の中で東の早良から西の糸島に遷都したんだね。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 16:27:00.44
邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
天忍日命と天津久米命が武装して先導した。
天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、それぞれ祖神である。
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」

東に平野、西に平野、北に韓国への海路が開けているのは福岡の高祖山。
宮崎では平野は東だけ、韓国は遠い。
0570日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:29:43.96
>>567
>伝承のようなものが、筑紫の博多湾岸にはない

筑紫の日向においてイザナギが禊をした時に生まれたのが住吉三神であり、それを祭るのが筑前一宮である博多住吉神社。
神道の最も重要な祝詞となっていて、中心教義の一つである。
0572日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:36:45.07
そんなところに遺跡はないだろ。
福岡なら、王墓もなんでもある。
0573日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 22:02:11.94
宮崎の古墳群だね。
福岡が圧倒的なのは間違いないけど
九州はどこも遺跡が豊富なので
無いというと間違うよ。

注意せよ。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 23:37:33.16
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0576日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 18:55:01.85
>>575
>宮崎は第二の勢力である投馬国(宮崎県都万)

残念ながら、魏志倭人伝に投馬国は邪馬台国以北と書かれているから、
宮崎に投馬国を置くと、邪馬台国の比定地で詰むよ
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 17:55:20.74
>>577
>以北なんて書いてないよ。
>嘘つくな。

あー、漢文の読めない人かw

南至投馬國『水行二十日』(官名略)『可五萬餘戸』
南至邪馬壹國、女王之所都、『水行十日、陸行一月』(官名略)『可七萬餘戸』
「自女王國以北、其『戸數』『道里』可得略載」

と連続で書いてあって、邪馬台国も投馬国も、『戸数』『道里』が略載されてるんだから
当然に「女王国より以北」だろ?
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 18:08:00.29
投馬国はなんらかの理由でそこに挿入されただけ。
前置き、溜め、なんだよ。
文学的表現だな。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 11:42:10.80
>>579
>投馬国はなんらかの理由でそこに挿入されただけ。
>前置き、溜め、なんだよ。
>文学的表現だな。

投馬国行きの道里と、邪馬台国行きの道里の記載がまったく同じ形式
何らかの理由も何も、北部九州から先の長距離水行を含むところだから
同じ形式で書かれている

邪馬台国行きの水行が、帯方郡起点だと主張するなら、
当然に投馬国息も帯方郡起点でなければならないが、そうなると
投馬国の比定地が注に浮く

九州説の読み方はいつも捏造を交えた無理読みなんだよ
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 11:47:38.24
>>580
無理矢理じゃないよ。
独特の読み方があるから難しいと中国の考古学者も言ってたから。
倭人伝の他にも色々あるらしい。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 12:27:53.09
投馬国は倭人から日程だけ聞き取りしたけど、里程はない。
わかるのは、投馬国が邪馬台国より南だということ。
邪馬台国が九州北部で、投馬国は九州南部。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 12:49:47.06
投馬国の中心は都万神社だよ。
今でもそのままの名前だろ。
屈指の古墳群を抱える西都市にある、日向国総社だよ。
郡使は伊都までしか行かなかったけど、第二の都市である投馬国の情報だけは仕入れていたわけだ。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 16:43:41.02
>>582
>独特の読み方があるから難しいと中国の考古学者も言ってたから。

その「独特の読み方」とかいうのが、無理読みなんだってば
人に物事を伝える文書が、解読が必要なものだったら困るだろ?
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 16:46:15.68
>>583
>わかるのは、投馬国が邪馬台国より南だということ。

だから、それは「自女王國以北、其戸數道里可得略載」に反するからダメだって言ってるだろ?

「南至投馬國水行二十日」官曰彌彌、副曰彌彌那利「可五萬餘戸」
    ↑                     ↑
    道里                    戸数

投馬国は道里、戸数が略載されている女王国以北の国
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 18:02:45.60
里程は書いてないな。
日数だけだから、倭人からの伝聞だ。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 18:20:57.44
>>585
とうの西都原の博物館の展示には熊本から宮崎(西都原含む)にかけて集中して出土する免田式土器の分布域が狗奴国であるという説は魅力的だとあったよ
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 10:10:34.88
>>588
>里程は書いてないな。
>日数だけだから、倭人からの伝聞だ。

魏志倭人伝に書いてあるのは「其戸數道里可得略載」であって、
里程が略載されているとはどこにも書いてない

そして、日数も道里の記載として普通の表現

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、
倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

水行は魏人にとってなれない移動法だから、距離の換算ができなくて
日数のまま記録しただけだろう
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 14:01:16.94
「道里」という言葉一つきちんと解釈できないから、九州説なんてやってるんだろ?w

今の世の中では、史書・古典もデジタル化されてて、検索も容易になってるんだから
自分で調べればいいのに

『九章算術』も「道里」で検索をかけて見つけたんだよ
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 14:04:50.04
>>581
>で、どう読んだら畿内にたどり着くんだ

奴国までは定説どおりでいい 奴国は福岡平野の比恵那珂遺跡群を中心とする国

福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補

そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う

どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう

水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい

水行中の日数は、夜に浜辺で休んだ日数や潮待ち、天気待ちも含むと思う
投馬国滞在日数は含まないんじゃないかな これはあくまで「かな」程度
陸行部分は、途中の集落の滞在日数も含むと思うが、そんなに大きな町も途中にはなさそう
あっても、丹波国の竹野付近と与謝野町くらいかな

遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいだろう
その出雲と大和の往還路を魏使ももたどったと考える
ただ、丹後半島を縦断するより、回りこんで若狭湾に入った方が楽かもしれないとも思う
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 14:06:07.29
>>592
そっちの使い方が間違っているのでは?
キナイコシは都合のいい部分だけ文献を信用するんだな。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 22:25:10.36
>>594
『九章算術』は長く使われた、計算問題にスタンダードだよ
ここに使われている用語の使い方は、大陸知識人には常識

日数も道里だってこと

都合のいいも何も普通の用法なんだよ
自分でも調べてごらん
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 22:26:10.23
>>594
ああ、ゴメン
「キナイコシ」は漢文が読めないんだったねww

できないことを要求して申し訳ないww
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 02:21:12.88
倭人伝の内容だけ見れば
九州説は距離以外はほぼ問題無し
畿内説は方角以外も問題だらけ
違う?
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 14:29:11.45
>>597
>畿内説は方角以外も問題だらけ

その問題だらけを具体的に指摘してみて
答えられることは答えるよ

その前に九州説では、投馬国の比定地とセットのまともな説がない
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 20:10:25.09
投馬国は薩摩も妻も単独じゃ人口規模的に無理があるよね。宮崎+鹿児島全部足しても5万戸は無理だと思う。
弥生時代の九州全部の推定人口が10万でしょ。末期だから古墳時代の推定人口で考えてみても九州全部で20万人いくかどうかくらいだし。
かと言って畿内説日本海ルートの出雲でも中国地方全部で10万くらいだから5万戸じゃなくて5万人なら有り?ってくらいだしなぁ。
結局倭人の言ってることをそのまま記しただけで、全然信用できませんよってなるよな。
そうなると畿内説も九州説もどっちも問題なしだし。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 20:25:59.36
当時の「戸」には「人」の意味があり、むしろその使い方の方が多いと説明している。
https://kazunohi.exblog.jp/18859317/
0603日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 20:31:57.19
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 20:35:00.45
高貴高度な文明は南から生み出され南に帰る
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 20:56:01.39
>>601,602 ありがと〜実際は単純に人で多く見せるために戸とか家って書いたのだろうと考えていました。
>>605 面積で、対馬約700㎢、宮崎+鹿児島約16,900㎢(離島含む)面積比較で約25倍。
可住地域の広さとか生産力とか考えると単純比較はできないけどもちょっと厳しいかと。
あと、和名類聚抄での郡の数が対馬9、宮崎+鹿児島102郷で10倍程度しか無いので50倍の人口は当時は居なかったと考えます。
対馬は離島なので1郷の戸数が本土より少なかったとかも考えれなくはないけど。
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