「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

もともと第一の道論は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。

こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテーマを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。

(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。