聖徳太子虚構説という邪説を徹底的に論破するスレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
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『河伯』日本では『河童』でしょ?
このスレと同じような話だと思う、
馬に乗り、腰に刀を差して、城に通っていたと言っていたし
あのキュウリの葉、葱の華などの写っている写真だよ、
何者なんだろう
『山王宮 山王院』
上の名前、同じだと言っていたり、
むかーし住んでいたというところも、伊達郡の山の上のほう 寺院だったかな、
通ったりしていたんだよ
とも言っている >>757
中宮天皇は、上宮法皇(アマタリシホコ)の子孫?
釈迦三尊では上宮法皇と母と后は死んだが、子供の死は書いてない。
666年、河内、実権を大和に奪われ、・・・。 このような解説もあるでしょ?
>「おかっぱ頭」の髪形をしているといわれる。
確か、そのような髪型をしている、
母親だという人に抱かれている子供の髪 >>752
本物なら「歳次丙寅」でしょう。
ありがとう。 >>755
中国の皇帝には必ず「姓」があるために
日本国王にも姓と名があるはずだと思って区切ったのだろう
「あめたらしひこ」は天皇号を用いる前の天皇を意味する称号であって
諱とはまったくべつのもの >天皇号を用いる前の天皇を意味する称号であって
天皇号がまだないのに何を天皇と言っているのかな? >>764
推古天皇や用明天皇のことを当時何と呼んでいたかという話だが?
諱である「炊屋媛」ではなく号があるわけで >>763で「あめたらしひこ」は天皇を意味する称号であって
「あめたらしひこ」の後ろの「阿輩雞彌」(オオキミ)が称号ではないのかや。 天照彦大王
男の天照ということで
物部の祖のニギハヤヒも天照国照とつく 因みに天萬国萬も天照国照と同義である
従って孝徳天皇の天万豊日と言うのは同義であると思われる >>766
>>767
「隋書」には「阿輩雞彌」は字だと書いてあるぞ 中国の史書に「日本国の使者と倭国の使者が互いに我こそ正統だとケンカをしはじめた」みたいなことが書いてあったって話をYouTubeの動画で言ってたんだけど
具体的になんていう書かわかる人いない? >>770
阿毎を姓とするのだから阿輩雞彌を字としても別段不思議ではない。 聖徳太子虚構説
これは、ある意味において正しい
本来の正統な天皇を歴史から消すために
圧倒的な聖と絶対悪の蘇我を作り出した
蹴鞠で遊んでたぽっと出のおっさん2人の子孫が
以後歴史書で長らく活躍する
聖徳太子はいなかった
何故ならば彼は天皇であり、その忠臣である蘇我は消された
蘇我入鹿が聖徳太子というのは妄説である
そして、この天皇を消した上で神格化し蕃神のような伝説を後付けした秦氏は
これらの黒幕なのではないのか
神輿は軽い方がいいよな >聖徳太子はいなかった
何故ならば彼は天皇であり、その忠臣である蘇我は消された
丈六光銘は書き換えられた? 聖徳太子と大内氏の関係は?
『聖徳太子 大内氏』
調べてみると何か出てくるけど あー、公の歴史書から退場させられたという意味
なんかストーリー作らないと退場させられないし
変な奴も、登場出来ない
当時の庶民の識字率のは低いんだから
朝廷がコッソリなんか書いててもわからない
一般の役人が見られるとも思えないしなあ 【日本の歴史】
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅矛圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
倭国大乱→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
3世紀後半
吉備と畿内が和睦、前方後円墳体制スタート
4世紀前半
崇神らによる出雲征伐
4世紀後半景行、神功、武内宿禰による九州・朝鮮遠征 4世紀中〜後半
九州・朝鮮遠征
メンバー:景行、神功、武内宿禰
(遠征の間、大和には大王が不在であるはずはなく、当然別の大王が在位し政治を行っていた)
4世紀後半
神功、武内宿禰、応神畿内帰国
応神の出生の秘密により大和からは腫れ物扱い、河内に王朝を立てる
河内大和二朝分裂(幕府と朝廷のように二重の権力が並立)
歴代河内王朝の王
初代 倭王禰=武内宿禰
倭王武の上奏文「祖禰は・・・」禰を祖と認識
二代目 倭王旨=ウマシウチ宿禰=武内宿禰の弟
百済から贈られた七支刀に「倭王旨に贈る」と記される
三代目 倭王讚=応神=ホムタワケほか諸説
四代目 倭王珍=仁徳ほか諸説
五代目 倭王済=反正ほか諸説
六代目 倭王興=允恭ほか諸説
七代目 倭王武=雄略
熊本と埼玉からワカタケルの鉄剣
「東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十五国を平ぐ。」
八代目 清寧天皇→滅亡
6世紀前半
継体天皇が即位し二朝統合
地方を武力で押さえ付けていた河内王朝の滅亡により、中央集権が弱まり九州が半独立
→筑紫君磐井の乱 6世紀中盤
磐井の乱鎮圧により九州は独自の外交権を失う
三韓の争いにより朝鮮からの難民が増加
→仏教が伝来し皇族・豪族の一部が信仰を始める
蘇我氏が物部氏を滅ぼす
6世紀後半
仏教徒である聖徳太子が台頭
高い知能と行動力を有し尊敬を集める
聖徳太子派閥(推古天皇・聖徳太子・蘇我氏・秦氏)を作り次々と改革を行う
聖徳太子派閥の蘇我馬子が崇峻天皇をころしてしまう
(→再び二朝分裂)
7世紀前半
遣隋使のスタート(倭国が中国と結びたがるのは国内が内戦状態のとき)
新唐書「用明(アマタリシヒコ)初めて中国と通じる」
=河内王朝と聖徳太子王朝は継続した王朝ではない
蘇我馬子死亡、聖徳太子死亡
7世紀中盤
聖徳太子王朝はツートップの死亡により勢力を失う
→大化の改新によりとどめ、蘇我氏滅亡(秦氏も没落)
7世紀後半
蘇我氏、秦氏の没落により九州が再度半独立(蘇我氏は九州を支配し、阿蘇ピンク石を畿内輸入)
筑紫君サチヤマが白村江出兵→敗戦し捕虜にされる
九州、唐に占領される
天智、百済残党とともに唐軍引き上げ後の九州を支配
近江王朝を立て「日本国」を名乗る 7世紀後半
天智の近江王朝樹立(再び二朝分裂「倭国」と「日本国」)
天智死亡、壬申の乱勃発
天武が二朝(および九州)を統一し、改めて「日本国」を国号とする
8世紀前半
大宝律令制定
古事記、日本書紀の作成
「天皇」号成立 中国史書は性別を間違えたりしない。
なぜ、推古と日本書紀は言っているか。
ここがスタートポイント。 聖徳太子が史実で推古帝が記紀の捏造、って方が信頼度高いね。
遣隋使当時、聖徳太子は即位していた。 聖徳太子に、斑鳩宮や法隆寺他の業績が有っても
推古帝実在の物的証拠って何? 推古は「大大王」や「大王天皇」と呼ばれてたんだよ
女帝がそんな呼ばれ方するかね 大唐に行ったって書いてあるんだから大唐に行ったんだよ
記紀が50年ずれてるんだよ 新唐書の「次用明,亦曰目多利思比孤」を「次用明,亦曰自多利思比孤」の間違いとすると
日本の使者は多利思比孤は用明すなわち男性王と認めている。
この使者は推古天皇がハイセイと会ったと書いてある日本書紀を無視している。
国史だろう?外国でいい加減なことを言っていいんかい? 用明は死後の諡号。記紀成立は700年以後。
新唐書成立は1000年以後。
隋唐使は天子の親書に怒った皇帝の使者。
天子=アメノタリシピコ
ヒコは男である。
以降、遣唐使の朝貢には留学生を付けた。 遣唐使は用明天皇が聖徳太子と証言した?
次用明ではなく、用明の子だよね。 推古帝の即位年には聖徳太子18〜19歳
天才君主の前にわざわざ異例の女帝を立てる必要があったのか?
施政自体は臣下大臣が行う世襲の天皇位に摂政などというものが必要なのか?
曽我と物部の皇位継承紛争で暗殺を嫌った説は有るが
結局は物部系、天智の白村江海戦に繋がる皇極斉明天皇が即位し曽我系は亡びる
むしろ記紀がこの部分を粉飾している、それが記紀の編纂動機と考える。
太子ー馬子の編纂した天皇記は、斑鳩宮と共に焼かれた。
古事記に至ってはこれが皇統の正統に係る問題のようである。
聖徳は開国派、物部藤原の天智は攘夷派といったところか?
皇極斉明もだが女帝即位は聖徳即位を忌避する勢力の記紀による捏造では?
理由なら天才君主を潰し天智を立てた物部藤原が古代史上の愚臣に見えるからだろw すべては持統のため
天孫降臨を造り、女帝の前例を造った >>791
文章の読解力に稚拙さがあるから、読み間違えでごましが利くと思ってるのだね。
多利思比孤でなく目多利思比孤といってごまかした御仁も居られた。
「次用明ではなく、用明の子だよね。」も新唐書の日本国倭国の条を読めば、
「次は用明、あの多利思比孤だといってるよ」ってえ意味なんだけど・・・ >>794
608年が用明天皇だとする新唐書の読解力?
記紀の改竄か粉飾かな?
小野妹子は中国官僚になった。 608年を用明とする遣唐使の読解力、記憶力、辻褄あわせ力。
今の歴史学ではこの所をどう説明しているんだい?
外国の史書のことに責任は持てないと言うんでは、勝手に解釈を進めるよ。 608年用明の問題は、皇帝の使者が日本に騙されたじゃメンツが無いから
テキトーに取り繕った でいいかもね。 中国正史は皇帝のメンツで嘘を書く。
聖徳太子600年で記紀は700年
例えば、明治維新や明治天皇の伝記を今書くとしても
子孫のある江戸期の皇族貴族の履歴はごまかせないと思うんだよね。
官僚の記録で文語の公用語が漢文としても
記紀は中国語なんで誰のために書いたかは若干疑問。
疑問と言えば、このころの皇位継承って直系の世襲じゃなくて
兄弟で10〜20年交代で持ち回りしてる? 豪族の干渉が相当強かったから?
仕事を完成させたい聖徳のような天才が即位とは別に摂政の立場を作ったと思うね。
これを物部藤原が曽我系の独断専横で実権を握られたとして忌避、排除した。
で、大化の改新、律令制や仏教と並立しうる神道を作ったのが天武じゃないかな?
馬子邸で五経博士や外国僧侶に学んだ聖徳太子、曽我系の業績を天智〜天武の期間に
白村江海戦ふまえて、攘夷派が改宗して立憲君主、律令化革命を横取りしたとみる。 馬子邸で生まれたから厩戸王か!と思ったら、そういう説あるんだな 隋書にはオオキミ、キミ、ワカンドホリが出てくるのみ。
ミコト、キサキ、ミコ、ヒメミコは出てこない。 >例えば、明治維新や明治天皇の伝記を今書くとしても 子孫のある江戸期の皇族貴族の履歴はごまかせないと思うんだよね。
生麦事件さえ真犯人の子孫が暴露するまで、嘘をおしえられてたんだぞ。
維新なんて嘘だらけだし、誠実に正確に歴史を記録できるのは人工知能もない機械のみ可能
白村江などという得もない戦に大王が了承するとか、グローバルスタンダードを目指している最中に
基地な話しとは思わないのか
聖徳太子が天皇ならば、その後の天皇の存在も疑わないといけない
そもそも物部藤原ってなんだ。
最終的に京都に遷都したのは秦氏の庭だからだろう 旧唐書も新唐書も倭国と戦ったと書いていない
倭人がいた 4回戦った 百済撃破 王子遁走
的な記述に対し、日本書紀は百済の歴史書かぐらいの細かさで書いている
天智のところの項目のこのぶっこみは不自然
唐側は倭国もいっしょになっての戦とは思ってないような記述だからね 隋書倭国伝に書いてある阿蘇山って、熊本の阿蘇山のことなのかな? 『ザ・モモタロウ』という作品
「ムー帝国 太陽の紋章」 それよりも『子連れ狼』だよ。
なぜか、まいく・おー?の「エクスカリバー」が流れていた、
てれび朝日?でやっていた作品、再放送。
誰が出演しているやつだったかな、
かなり新しい作品。
曲の感じが、似ているだけだったのかな。 漫画、アニメ、ゲーム?その他、
一連の作品などでもわかると思う
悪く言うと何やらと乞食が、
入れ替わったりでもしているのかな
「あー、搾取されてばかりだ」と言っている人がいたり 兄 弟 妹(5月15日生まれ)でしょ
家の話だと思うんだけど
『松傾』と同じ家
読み方?
家は本当は「す・・」だよ、と言っているし これも不思議な話
『ペルシャ カッパ』『河童 キュウリ』
家の先祖の写真でしょ・・・?
キュウリのような葉が写っていて 白村江海戦は百済の滅亡に際して
日本で貴族化している皇太子と戦争忌避の卑怯な移民を帰国させるための派兵だな。
皇太子逃亡とかワロス。
霊的に生まれ変わらんとイカンね。 >>816
義慈王の皇太子は扶余隆。日本には来ていない。唐に捕らえられた後、熊津都督になっている。
逃亡した皇太子とか日本で貴族化している皇太子とは誰のこと?
扶余豊のことを言いたいのなら、彼は660年の百済崩壊後すぐに祖国に帰って、百済復興を指揮している。
扶余豊に操られて、倭国は白村江の軍船や将兵を提供させられたのではないか。倭国は大損した。 倭国が勝敗がハッキリしている戦に兵を出すとは思えない
人質の方が動員力があるとかアホらしい
実際は帰化人を集めたのではないか
唐に対して倭国は関わってないアピールをするにはそれがいいよな
大国と戦うなんて馬鹿のすることだ 倭国は関わっていないと誤魔化すなど、王はおまえのような小人ではない。
誤魔化せば、王の資格なしということで、侮辱された上、公開で首をはねられ、王家も絶える。
それでよければ、どうぞ。 君子は危うい橋は渡っちゃいかんのよ
関係ないじゃん
利益にならない
倭国の王や民にどんな利益が? 君子は危うい橋は渡っちゃいかんのよ
関係ないじゃん
利益にならない
倭国の王や民にどんな利益が? 王のちっさいプライドで民を苦しめ戦に負ける方が
頭が悪くてカッコ悪いわ
それが賢王と思うなら馬鹿諸とも滅びればいい
大敗したのにお咎め無しなのはなんでだ
普通は倭国も攻めるでしょうね
この戦には、ほとんどノータッチだったからに他ならない いいや、お咎めはあった。
封禅の儀に倭国王は百済、新羅、耽羅の王とともに出席することになっている。
倭国は唐の配下に下ったということ。負けを認めたのだろう。 倭国王は誰か?、そこを天智称制で隠しているのが日本書紀なのだヨ。
倭国王は国王だから、そのまま黙っているわけがない。必ず行動する。世界史はそうなっている。
その行動を日本書紀も隠し通すことはできない。推理すれば答えは出てくる。 問題は倭国王がお咎めを受けたことが事実であること。
したがって、倭国は大敗し、唐の配下に下ったことも事実である。
倭国王がいたことも当然の事実。書紀の称制は誤魔化し。
ごまかす書紀と同じ心理の者と倭国王が誰かの議論をするのは無駄。
それとも教えて欲しいカイ? というような事が、なんで中国側or朝鮮側の史書にないんだい? 朝鮮どころか遼東半島にも充分な支配が及んでいない国が強大国かよ?
日本は半島で海戦したけど唐は日本で戦争なんてできてないだろ?
自虐以前に馬鹿なんじゃね? だよな
実際に軍出されて負けて実行支配されたのではなく
白村江以降は唐は使者を送ってきて
封禅の儀にご招待されただけだしな
戴冠式に日本大使が参加したぐらいのことじゃないの? 当時の唐が強大国じゃないって?
そりゃ、さすがに頭わいてるとしか思えんわな…… まだ、この話をしているの?
『聖化 日霊 日神 津』
『河童 河伯』沙悟浄というの?
同じ人物の話だよ (須)誕生以前には、
夫妻(父母)しかいないという話でしょ
🌞 🌛 惑星などはあった 『社家 (須)王の後裔』
こちらが本物、本家なのかな
『社家』
家の先祖だという写真は何なんだろう、
キュウリのような葉、葱の華が写っていたり 封禅の儀は中国皇帝の中でも特に偉大な皇帝であることを出席者に対し示す儀式。
それへの列席は皇帝が自分より偉いということを認める行為。戴冠式とは違う。
書紀は敗戦は書いたが、それ以上の事実を認めない姿勢。
書紀のように立場を決めてしまうのは信仰。信仰はナンクセをつけてくる。
倭国の敗北、倭国王の存在、書紀が倭国王を隠したことを認めることから議論ははじまる。
敗北を認めることを「自虐」と言っている限り、永遠に進歩がない。 本当のジンムというのは
三貴子のなかの誰かという事なのかな
体を動かし、仕事をして、
国土などを作った人(一族) だって、そもそも天智は百済人だから
倭国王じゃないしー 封禅の儀を高宗が行った時には
久々過ぎて資料もなくテキトーにやったらしいじゃん
そんなフェイクなイベントに王が参加する意味あんの? それに仏教界のスーパースターを若い頃から見てる
仏教庇護国の王なのに
なんでまた道教の儀式をやらにゃいかんの? 久しぶりだから適当にやったとフェイクな史実を流しても、
封禅の儀に出席するのが決まった時点で、唐は倭国王の意思を十分に確認した、ダロウ? 悪あがきだよ。
倭国の敗北を認めれば少しは進展するよ。 誰が考えても、
ウマヤドの存在は、おかしいよ
戦後、辺りに作られたの? 斉明も天智も倭王じゃない
という自説の根拠に基づいて戦争なんて公にやってねーよと言っている
唐書には倭人はいたが、倭国と戦ったとはない
野中寺の弥勒菩薩像の銘文が正しいとするなら
666年に倭国王である中宮天皇は病気中なので
なんちゃらの儀には参加できない
という唐唐像の文から導き出したんだよ
敗戦もなにもいない天皇の事蹟を信じていないだけだけど 悪あがきが続いている。倭国王がいて封禅の儀に行くことになったんだよ。
倭国の敗北と唐の管理下(軍制ではない)にあったことを認めれば、
その倭国王が誰かを教えてやろう。東洋史の地平がひらけるがのう。
認めないだろうから、生涯、敗北していないと唱えればよい。信仰で目が曇っている。 『人権』
にしても、おかしな話だよ。
説明しなくても、わかる人にはわかる。 『平等』というのも同じ。
実際は何も平等ではないとか 聖徳太子廟、叡福寺に参拝。
景色のいい、大和へのアクセスが抜群の長閑かなところ。
寺宝の公開が行われていた。
二歳の聖徳太子像が展示されていた。
可愛らしいお顔であらせました。 隋書の戒塗は受戒+塗香の略。
タリシヒコが裴世清の請即戒塗に饗応したのは出家の同意。
大王が出家すれば法皇。
叡福寺北古墳の三棺は上宮法皇、鬼前太后、干食王后。
タリシヒコを聖徳太子として信仰している。 大王と天皇は別だからね
7世紀以前の天皇の号は遡って贈られたものだから
大王じゃなくても天皇号を贈られることもあれば
大王でも天皇号を贈られないこともある
その基準は不明だが >>853
>大王じゃなくても天皇号を贈られることもあれば
>大王でも天皇号を贈られないこともある
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