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【大刀から】日本刀の起源U【太刀へ】 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/31(火) 00:49:56.30
古来より武士の魂と言われて来た日本刀
実利の武器であると同時に精巧で優美な造りから辟邪信仰の対象ともされた
北宋の当代随一の碩学・欧陽脩(1007〜1072)が「日本刀歌」を詠んでいる
(※焚書坑儒で失われてしまった中華文明を日本刀に見出そうとする意味合いがあるが・・・)

また、その起源を蕨手刀に求める説に従えば最古のものは信濃国から出土しているし
日本刀への過渡期とされる毛抜型太刀の最古のものも信濃国から出土している

鎬造りで反りのある太刀(刃長二尺以上の日本刀)はいつ?誰(どのような集団)によって生み出されたのか?
大いに語ってください


前スレ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1460267988/
0216日本@名無史さん
垢版 |
2016/06/07(火) 20:39:04.66
半島から来た銅鐸文化はすばらしいね

http://www.manabi.pref.aichi.jp/contents/10000285/0/sousyo56/section6.htm
銅鐸は青銅器

 さて銅鐸はまぎれもない青銅器であります。では、青銅器というのは何かといいますと、割合の順にいきますと、銅プラス錫の合金です。
これらの2元素がないと青銅器とは言えません。それに加え鉛も重要で、この3元素(銅・錫・鉛)を必ずもっています。

時々黒光りした銅鐸がありますけれども、あれは錫が多く含まれているのです。真っ青に錆びているような銅鐸は錫の含有量が少ないのです。鉛がだいたい3パーセントから5パーセントです。
時々科学者の中で、銅鉱石を溶かしたらその中に幾分かの鉛が入りますという人がいますが、
銅鉱石を溶かして自然に入る鉛というのは、1パーセント以内です。だから2パーセント、3パーセント、ましてや5パーセント入っている鉛は人工的に加えていると考えることができます。これは銅鐸を見る前の一種の基礎知識なのです。
 だから銅鐸は、あきらかに意識的に銅プラス錫プラス鉛、場合によっては更にもっといろいろな金属も若干混ぜている大変な技術の産物です。これは何も銅鐸だけではありません。
鏡は模様を鮮明に出そうとか、実用の武器では折れなくしようとするために、混ぜる物をちょっと変えます。
弥生人の金属の知識というのはすごいものです。今だったら分析することでわかりますけれども、分析のない時代ですから大変な技術です。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2016/06/07(火) 20:40:15.05
 それでは弥生時代にいったい銅や錫をどのようにして手に入れたのでしょう。太平洋戦争が終わって20年ほどの間は弥生時代の文化はあまり高いものではないという前提で研究がされていました。
私の先輩学者、小林行雄さんは有名な大学者ですが、弥生時代の日本の技術力はたいしたことないというのが前提でした。
だから小林先生は弥生時代の銅鐸、銅剣、銅矛の原料は全部大陸からスクラップとして持ってきたという説だったのです。今で言うとちり紙交換のように、もう大陸でいらなくなった銅剣とか銅矛とか鏡とかを持ってきました。
ところが、神戸で14個の銅鐸が出た1964年頃、その銅鐸の分析を当時関西大学におられた亀井清教授がしました。
この方はその当時としては銅の抜群の学者だったのです。その亀井先生がずっと調べました。そうすると小林理論のようにはならなかったのです。
つまり中国や朝鮮半島から銅剣とか銅矛のスクラップ、いらなくなった物、折れた物を輸入してきて溶かした場合、小林先生がおっしゃるような割合にならなかったのです。
溶かした場合に溶かした中に残る元素と、カス、カラミと言うのですが、カスに混ざって出てしまうものがあります。ところがカスになって出てしまうはずのものが銅鐸に残っていたりするのです。
だから亀井先生の分析の時からスクラップ説というのは無理があると言われていました。

電子顕微鏡で表面をものすごい倍率で拡大したら、自然銅を使っていることがわかりました。自然銅プラス鉛とか錫を入れているのです。皆さんはなぜ錫なんだろうと不思議がるかもわかりませんが、
佐賀県から錫の塊がすでに弥生遺跡から出ています。それから吉野ヶ里遺跡からも錫の塊が出ています。錫の塊が合金の材料になります。
佐賀県唐津市柏崎遺跡では、鉛の矛も出ています。
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