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戊辰戦争とは何なのか? [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2016/07/23(土) 02:08:00.17
東北諸藩が朝敵の汚名を着てまで旧幕府勢力や会津藩に味方する義理なんてあったのか?
ここがいまいちわからない
0071日本@名無史さん
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2016/08/30(火) 19:30:30.06
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0072日本@名無史さん
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2016/08/30(火) 19:36:42.98
>>67
極僅かしかその教範とされる仕事にもつけてないが?
大半が車夫や職人、開拓民だが?

あのな、大政官布告大綱では、
地域の行政は、
中央政府→明治の功労者
国会→大名家、公家等、一部功労者あり。
県令→藩執政、薩長閥
町村長→庄屋

わかるか?
維新後も家単位の有力者に地位や行政職を請け負わせてる。

たかが一介の藩士程度の大名の金魚の糞程度の存在は、教範という一個人としての扱いにすぎねーわけ。
事実上家単位で独立していなかった雑魚は個人としての扱い

庄屋や大名家は家単位としての行政職の委譲

わかるか低脳?
0073日本@名無史さん
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2016/08/30(火) 19:46:17.57
大名や庄屋は家としての独立主体

藩士程度は個人としての庇護被体
0074日本@名無史さん
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2016/08/30(火) 20:20:33.45
逆に西洋の身分社会に当てはめれば、
藩士は西洋では奴隷の傭兵。

庄屋は騎士階層の領主だがな。

西洋に当てはめれば一番ボロが出んのが藩士
0075日本@名無史さん
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2016/08/30(火) 20:43:41.95
家としての独立主体でもない、

土地もない、屋敷もない、金もない、
こんなレベル。

だから、次男明治政府は藩執政や大名家や庄屋のように、行政機関自体を委譲される、用意していた階層と違い、

個人単位の存在でしかなく、教範レベルの個人単位の就職すらないが、それすらも政府は用意してない、価値もないレベルは一気に膣六処分したらリアルナマポになるからな。

それまでにお国は屯田兵と、職人しかない再就職の手助けとして、最低賃金にも遥かに満たない手当て金用意してくれたな笑

これがしがみついてた士族の特権てか?笑

そらたいしたもんだわおぶけさま笑
0077日本@名無史さん
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2016/08/30(火) 23:30:04.75
バラバラだから整理してレスしておく
>>69
【その後の士族が没落した件】
落合弘樹が例に挙げてる京都府士族の生活状況の調査でいうと、
福知山士族410戸のうち生活状況が「上」2割、「中」6割、「下」2割で、
京都府士族全体で見ても半数以上は中等以上の生活。
元々士族は微禄で生活水準の低いものが圧倒的に多いから、
統計にあらわれた結果だけ見たら貧窮化は他の階級とそれほど違って現れてない。

理由は簡単で、高禄士族は教育水準も高い(漢学など官吏に必要な基礎教養を身に着けている)から、
教師、警察官、役人と言った官吏登用の機会を有利に生かすことができた。
明治政府は「官吏」登用機会まで奪ったわけではないからな。

もちろん微禄の者は大きな被害を受けた。
彼らはもともと貧窮していたし、藩の役職も下っ端で教育水準も高度なものではない。
要するに、中から上のやつは教育に投資してるから職にもありつける確率が高く、
今度は天皇の官吏様にジョブチェンジできた、いつの世も上のやつが強いと言うわけだな。
0078日本@名無史さん
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2016/08/30(火) 23:36:27.24
>>70
これは…漢字の間違いがひどくて意味がつかめないが、
漢字を間違えまくってるこのような>>70士族は帰農、帰商するのもやむなしだろう

それでも政府は士族授産事業を進めてるし(失敗したが)
木戸孝允や岩倉具視らは華族士族の保護にずいぶん熱心だったから士族は他の階級に比べたら恵まれてる部類だろうな
大名貸をしてた商人など負債を明治政府が引き継いだ際にかなり踏み倒されてしまったから、
維新前の大阪の豪商34家のうち23家が破産・絶家となり、
「以前の勢力を維持できたのは住友、鴻池、加島屋など9家にすぎなかった」とされる。

何だかんだ言って武器を持って抵抗する可能性のある、そして明治政府の構成員と同質性を持ってる華族、士族は
その後の生活の心配をされてるだけ優遇されてると言えるな。
0079日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 00:00:21.14
>>72
【大半が車夫や職人、開拓民だと言う主張について 】

園田英弘らの研究によれば
明治14年(1881年)段階の中央や地方官における士族の官職保有率の割合を見ると、
官員総数が約7万8000人のうち、士族の任官者は約5万2千人、地方郡町村吏においても約9万2千人のうち士族の割合は1万5千人と、
比較的高い割合を占めていたとされる。士族総戸数は42万戸だから全員が官吏の職にありつけたわけではないが、
選抜制に置き換わる前の時期においては中上層士族は転職に成功していたものが多くいると見られる。

また官吏登用制度が整備される頃になると、今度は高等教育の機会を享受する者が多くなる。
旧制高等中学校の学生に占める割合は、明治前期にあたる明治19年(1886年)から25年(1892年)までの統計で
おおむね半数近く、低い年度でも3割強を占めており、士族が難関中学・高校へ進学していることが確認される。
全人口の5%に過ぎない士族の子弟が1000人〜数千人のエリートのうち半分を少なくとも明治20年代半ばまで占めてたわけだ。

また地方吏員や教員も士族占有率が高い職業。
明治中頃の郡区長クラスでは士族は平民の3倍程度、書記クラスでも上回っており、区長レベルになってようやく平民が上回る。
教職員はもっと露骨に士族優位が現れている。
地方税支弁の学校では校長、教員などは士族が8割近くを占有し、
小学校でも校長では士族が6割を占める。
逆に小使・給仕クラスになると平民出が8割を占める。

なお「教範」というのはべつに官吏登用機会のようなものを指す意味で使ってるのではなく、
社会的名誉を担い、四民に範を垂れるべき属性として扱われたとかそのような意味ね。
士族という属性の記載は大正にはいるまで戸籍に記載されたし、履歴書などにも記載がなされるなど、
各地域においてはそれなりの尊崇を受けた模様。
0080日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 00:07:35.38
士族って明治時代に入って突然没落したわけではないんだよ。
元々江戸期に蔵米知行が一般的になると、武士は給料取りに類似した性格になる。
しかもその知行も借上げなどで削られ、高禄者以外は役に付かないと生活できなくなり、
もっと禄が低い者は帰農が推奨され、内職を収入源にする者も増える。

そこに持ってきて戊辰戦争などの出費で各藩財政は破たん状態になる。
士族の経済的給付が財政的にいつまでも維持できない、破綻確実な状況なのは
幕末に入る前から当の士族が最もよく知る所となってるのさ。

幕臣などは経済的に見ればあまり豊かでない給料取りに過ぎないから、
知行を持ってるような高禄の者以外は生活のために引き続いて役職に就かざるを得ない。
これが明治政府の行政組織運営の円滑な移行を助けている。
0081日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 00:28:03.90
>>79←こういうばかが現実を歪めてるんだよな。
武士が人工の5パーくらいだとしても、
その他の支配階層の庄屋や御用商人は人工の1パ〜にも満たないレベルにすぎねんだけどな。

しかも群区長クラスは藩執政レベルでその直近下位の区長戸長は庄屋がほぼ。
中下士程度はほぼいない。

区長戸長は行政機関自体を委譲されており、庄屋屋敷が町村役場とされ、江戸時代からの権利をそのまま私有化レベルに委譲されてる。

人工の1パーもいない庄屋は、明治以降もほぼ行政機関を布襲するに至るレベル。
しかも夏目漱石や樋口など明治初期の超絶エリーとも庄屋の出。
中下士に有名人などたいしていない。

人工の五パーもいて明治初期にそんレベル程度しか職にありつけないとか、
どんだけリストラだよ
0082日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 00:39:27.76
士族は一部以外、土地も屋敷も財力もない貧困層が大半なため、
警察などの不浄現業くらいしかできず、
一部上位は教職員になれた。

しかし大半の中下士はそれらにすらありつけず、
職人、車夫、開拓民になるものが大半。
それらの下士足軽占有率が物語っている。

因みに庄屋は家単位に行政機関が与えられてるのにたいし、

職員職の士族は上士の家系が一戸につき何人も職員になっている形なため、
戸数に直せば全く違うで〜た。
中下士の貧困率の戸数率は半端ない。
0083日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 01:31:57.24
農場領主が多かった欧州やロシアでも貴族の生活はそんなに楽ではない
官吏になった人間の俸給は大体不足気味
農場経営が上手くいかず結局都会に出るケースも多い
0084日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 01:34:08.19
>>79
ゆがめてるも何も、園田の研究はもう30年前のものでかなり有名
教科書論争の時にも持ち出されたから一般人でも知ってる人もいるだろう
士族が職業選択において有利な立場にすらあったことを実証したものだよ
お前が文句を言うのは勝手だが、データはデータだからね
0085日本@名無史さん
垢版 |
2016/08/31(水) 03:07:49.85
>>81
バカはお前だよ…。
庄屋(肝煎)は年貢の貢納代行など行政末端を担う層で、
豪農・富農のような経済的階層を意味しない
(庄屋が富農とは限らないが、富農層は庄屋に限定されない)
高度な読書階級・知識層という意味なら奉公人も含めた武家人口の3倍
おおよそ全人口の1割はいると見ていい

しかも武家及び奉公人の多くは微禄で帰農帰商が勧奨されていたような層なのだから、
士族が有利な立場にあったことは間違いないよ。

あと>>81が述べてるのは「下士」の境遇なのだが、
彼らは高度な教養を持たず微禄だったから、もともと武士階級の中では貧窮に陥っていた層だったと言っていい
明治政府の施策さえなければ安全に食えてた層ではない。

>しかも群区長クラスは藩執政レベルでその直近下位の区長戸長は庄屋がほぼ。

戸長は明治15年ごろは4万人ほどおり、士族が2割で平民が8割を占めていたが、
明治21年には平民出の戸長が3万人から1万人を切るまで減少したのに対して士族出の戸長の数はさほど変わらないから、
「庄屋がほぼ」などという状況にはなってないよ。
言っておくが「庄屋」だって士族と同様の経済的変動にさらされ、没落した者が多い。
たとえば士族は帰農して失敗しても藩に復籍を願い出ると微禄で再採用される例が結構見られるが、
庄屋にはそんな特権は当然ながらない。
0086日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 03:16:20.18
>>81-82の反論が論外なのは、
園田や落合が紹介した例が実際に統計や調査に依拠してるのに対して、
数字も出せない「車夫の足軽占有率」などというものを持ち出してること。

それと武士身分の中でも、もともと貧窮に陥っていた微禄者や卒族の貧窮を取り上げて
「士族に厳しい」証左として扱っていること。
元々貧乏で身分が低く、数は多いが旧藩時代から困窮に陥っていた彼らが明治以降の統計で
「下層」に分類されるのは当たり前。
これは統計を見る際に注意を促される点。
0087日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 03:32:11.98
欧州などを見ても貴族階級=特権的に豊かというのは大きな誤解で、
何不自由なく暮らしているような何代も続く世襲貴族は一握り。
多くの貴族は勤務して報酬を貰わないとやっていけない。

しかしそれは貴族が「貧しい」ことを意味しない。
家産(あるいは家禄)を多少なりとも保証され、
官吏登用に近い所にいると言う点では全階層の中で恵まれてる部類。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2016/08/31(水) 12:42:55.86
>>85
草生やしてすまないが、
平民と士族と区別されているが、
喜連川家より足利将軍家直系の平島公方家は、
明治政府から平民にさせられており、
その基準で全体を比較することは難しいよね。
だって全国の大名家より遥かに名門の血筋でも、
意図的に不遇な処遇を下されてるのをみれば、
士族が優遇されて当たり前な状況なわけで、
その状況下での割合を比較していかないと、
数値だけでの判断では状況下での条件が加味されていないと意味がないよ。
0089日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 18:40:18.29
>>85
庄屋身分を与えられてる層をいってんのに、
なんで高度な知識層農家にまで に変換さしてんのこの馬鹿?
庄屋の実数は江戸の武士数より遥かに少なく、
さらに戸数で言えば全体のイチパ〜未満レベルだといってんだよ。

知識層農家なら下士程度より遥かに教養高い
豪農層はわんさかいるから三倍どころかそれ以上だろうな。

帰農帰商うながされてたから優遇だ?
舐めてんの?
戊辰後静岡に移封後帰農ゆるされた旗本は上位の大草家らのおよそ1500石以上のみで、
大半が許されてない。
で、あぶれたリストラ策としての帰農でドンくらいの土地で帰農してんだよ?
帰農してりゃ優遇だ?笑
雑多出自が大半の江戸武士の分際が笑

そういや、江戸中期に伊賀の幕府御家人の本家や親族が伊賀で貧農だらけで、
食えないから自分等も武士にしてくれと大量に願い出た事件あったな笑

それから下士が武士層の何割だかしってんのか?
全国の戸長に士族が二割いた資料だせや?
平民とほざかず庄屋等といえや
0090日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 18:46:45.27
>>85
たしかにあんたがいう通り、こういう庄屋は没落していくケースはたたあったよ

( 江戸初期の岡藩  )
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n332.htm
           ↓

〈旧在地領主層を庄屋に任命〉
 >>大分県下における近世大名は、すべて他国から入部してきた大名である。この大名が領主として領民を支配し、

>>年貢などを納入させることは、当初かなりの困難が伴った。

>>例えば、 中川氏 は文禄3年(1594)に 岡藩主 として入部したが、

>>入部の行列が 大友氏 の浪人の集団に襲われたり(赤岩合戦)、領内の村々に古年貢帳の差し出しを命じた際も、

>>磔(はりつけ)木を持参するという強行手段を構じなければ提出させられなかったりしたのである。

>>このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。

>>岡藩 の場合、各村に庄屋を任命し、それを統轄し 郡奉行 と庄屋とのパイプ役として千石庄屋を任命している。

>> 千石庄屋 の名称は、1,000〜1,500石を統轄範囲単位として1人ずつ任命されていることによる。そして、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。

>>また、 杵築藩 では各 手永(てなが) ごとに 大庄屋 を配置していたが、この大庄屋は士分に準ずる取り扱いをうけていた。


>>>>>>>>>このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである。
0091日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 18:52:45.80
庄屋サマは、戦国以前からの在地の有力者がなってるから、
家単位で独立していた家は、大名家、旗本以外では唯一無二の領主層の財力と権利と権威をもってたのが庄屋様だからな。

貧困層のなんの権利も権威もない、
帰農や古事記まがいの微録奴隷奉公が優遇と感じる武士様とはちょいと、戦国以前からの出自が違うもんで、よーわからんわそん価値観笑
0092日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 18:56:16.12
>>87
あのな、欧州では在地に固有の土地やその民を直接管理下に置いてるものを領主

江戸武士のような存在は他国から連れてきた奴隷傭兵というんだよ低脳
0093日本@名無史さん
垢版 |
2016/08/31(水) 19:02:37.09
付け加えれば欧州貴族は裕福が条件とか財力云々何て言ってないのに、
江戸武士の貧困と勝手に結びつけてるお粗末さ。
フランスでは商人貴族が半数以上ですげー裕福だけどな。

しかし、欧州貴族で土地なし、屋敷なし、なんていないし、何代にもわたる永遠の奴隷奉公なんてあり得ないし、

幕末に来た列強が 長屋にぶちこまれていた武士をみて奴隷と勘違いしたっての有名なはなしだがな。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2016/08/31(水) 19:25:12.76
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0095日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 19:46:27.30
>>88
足利直系公家を平民に落としたところが、南朝マンセー明治政府らしいよ
0096日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 01:06:03.29
足利直系でも京都で浪人してたほど落ちぶれてた事が審査にひっかかった
0097日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 01:23:07.46
平民にさせられたとか、明治政府が平民に落としたとかじゃなくて自分から落ちただけだろう。
阿波藩から離脱してたんだから士族になれなかったのは当然だし、
その上、母方の京の家で無職暮らししてたんだからな。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 04:02:08.48
>>88
反論の意図が不明なんだが。
足利将軍家直系の平島公方家なんて特殊な事例を持ち出して統計に文句つけるって意味ないでしょ。
統計はそういう個別事例まで包含した数字なんだから。
お前が言ってるのは「データはそうだろう、だが俺の知ってる例はそうじゃない」というのに過ぎず、
ただの駄々に過ぎないじゃん…
0099日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 04:10:48.64
>>89
反論するなら1つのレスにまとめて、なるべくきちんとした文章を書こうね。
思い付きで次々に書きなぐってたら読んでるほうが頭痛くなるからね。

お前の反論も同じだよ。
なんで統計にあらわれた「平民」を「庄屋」と同視するの?まずそこからダメね。
次に郡区長と書記を除いた「戸長」の占有率だけ抜き出して問題にしてるけど、
郡区長や書記は士族占有率が圧倒的に高いうえに、村落の支配は江戸時代も肝煎などが年貢を代行してるから、
士族の着任者が少ないのは当たり前なのだよ。それに時代を追うと戸長の総数の減少で
士族の比率が高まる傾向にすらあったのは園田らの研究が指摘する所。

なお、園田ら「士族の歴史社会学的研究」のこの統計についての説明を見ても、
お前のように「士族が締め出された」なんて解釈は全くとられていない。
研究者に相手にされない独自見解ということでよろしいかと思う。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 04:12:50.59
>>90-91
それは明治における豪農層の没落についての統計に基づく反論じゃないじゃん。
全く意味がない。却下。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 04:23:13.03
>>91-92
>あのな、欧州では在地に固有の土地やその民を直接管理下に置いてるものを領主

誰が「領主」の定義について論じろと言ったの?
そんなこと言ったら日本の武士は領主ですらないじゃん。
それが明治初年における武士の家禄をどう把握するかの議論にも影響してくるけどね。
一言で言えば家禄は所有権を意味しないと言う所論のほうが勝利した。
「貴族」の実態について欧州でも勤務によらざれば生活が厳しい貴族が大勢いたと言う文脈で論じたんでしょ?
実際に明治維新と同時期の欧州社会では土地貴族の零落事例がたくさんあるし、
勤務をしても都市生活では充分な所得が得られる者は少なかったことが分かる。

>>88-93には統計的な反論が一切含まれておらず、個別事例や抽象論による反論だから却下だよ。
唯一含まれている(と本人は思ってる)庄屋と戸長の事例についても、
戸長が村落の名望家から選出されていたこと、さらにその戸長の総数が減少しているのに士族出身戸長は数が減っておらず、
占有率が高まっていることから、何ら反論になっていない。

まず士族の経済的階層の動向などについての研究読んだら?
自分はいちおう園田らの研究をもとにして数字出してるし、
統計については本文中の注釈なども参考にしてるから、独自見解ではなく研究者の調査結果をもとにしてる。

つまりこれに不満があるってことは、自分に喚き散らして済む問題ではなく
@お前が独自の読み方を披露して彼らに反論するか、
A自分で彼らに匹敵するデータ集めて読みこなすか

どっちかしかないのね。
今の状態、はっきり言って俺はこう思うってわめいてるだけだから、こちらも赤ん坊をあやしてるようで張り合いがない。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 04:31:10.56
落合さんも注記してるけど、
「士族が零落した」という事例をいくら集めても、興味本位の報道も珍しくなく、
実態を反映してるかどうかは不明だから調査して統計的に見るわけ。
で、統計的に見るとまた違ってるんだよ。

簡単に言えば、もともとの家禄の高はその後の社会進出にかなり影響する
(金が続かなければ教育投資もできない)
しかし、士族は基礎教養や職能的に官吏、工場、商家のスタッフなどにかなり有利だったことも確かで、
経済的零落は単純労働に移行する割合が高く、家禄も高くない卒族に現れてくる。

そして移行後の生活水準と家禄を比較してみると、職種によって差があり、
就いた職種の差で家禄の差をカバーできはするものの、やはり家禄を持ってた人間は総体的に有利ではある。
それは財産的な問題だけでなく、おそらく高禄者の教養が低禄者より高度なもので、
各職種の主任や、官吏教師警察官など公務員待遇の職にふさわしいものだったことから来る。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 05:14:26.30
あと>>89が大きな誤解もしくは悪意ある引っ張り込みをやってるから注意しておくと、
園田らの調査にある「平民」は当然ながら庄屋を意味しない。
士族、平民の別は職種に関係なく使われてる。

>>89は地方官吏の内訳・推移に使われてる「平民」は庄屋のことだと決めつけるが、
その決めつけは区長に関しては一部該当するが、それも>>99の通り反論が容易であるうえ、
高等教育獲得機会や他の職種の占有率などには ま っ た く 当てはまらない
完全な曲解。

自分が「庄屋」を恣意的に母数に設定するバカに対して、
「読書階級」をとりあえずの基準として用いたのはこのような職種においてはそれが必須条件であるため
母数がそれより小さくなることはあるが大きくなることはないと言える。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 05:25:16.63
×その決めつけは区長に関しては → ○戸長に関しては

なお戸長のうち士族出身者の数が減ってないのに平民出身者の数が激減してるのは、
明治17年の戸長制度改革(任命制の採用、規模の拡大)が行われたからで、
士族出身戸長は待遇の改善と合わせてかなり有利になってるな。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 06:17:02.71
除族と言う刑罰があるんだから
士族否定する気なんてないよ
0106日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 06:31:34.08
武士は失業者でも有産者が多いから
不動産株券公債持ちの上士中士は裕福者が多い
就業状況だけ見てると分からない。

士族の9割は下士・卒で、元々困窮してる。
しかし卒の就業率は高い。理由はもともと内職してたから
だが就業率が高いからって生活水準が高いわけではない

明治は士族が没落した時代ではなく
「士族の階層移動と二極分化が促進された時代」
0107日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 07:31:34.15
まず大前提に没落なんていってない。
そもそもの武士の9割である下士が江戸時代から二極化してんだから、
明治もそのままという意味伝わってないのかなこのおじさん、、
0108日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 08:00:39.06
大体没落するほど財力も権威も役もなにもないだろ下士程度は
0109日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 14:48:54.27
>>107
なんで「下士の二極化」なんて突然持ち出してくるのか知らないけど、
統計を見る限り下士に限らず士族階級全体で二極化傾向が生じてるけど。

ただし、生活水準を見る限り1割程度の上士・中士が相対的に優位なのは歴然としている。
要するに9割と占める下士・卒は旧禄時代から貧困に陥っており、
明治期の生活水準調査で貧困と出てもそれは旧藩時代の生活水準と「変わらない」。

統計読む際に注意されるでしょ。
生活水準が中位以下が多くても相対評価ではないし、旧藩時代の禄高の分布と比較しろと。

上士や中士の資産内訳まで判明してるものもあるが、不動産、株式、公債などの保有高が高く、
資産性収入の占める割合が相当に高い。
0110日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 15:05:00.67
また、自分もうっかり士族の経済的状況に偏った議論をしていたが、
そもそも論として前掲園田の第2章「武士から士族へ」で
「これらの特権剥奪は身分制の解体、あるいは定められたばかりの士族という族称でカテゴライズされた社会層を解体する狙いがあった、
と考えるには疑問が残る」として、以下のような検討を行っている。

・平民という呼称が太政官布告に出現するのは明治3年9月の布告からで、
華士族の族籍ができた明治2年より時期が遅れること。
・明治4年5月の布告および明治5年11月の布告により、
士族に除族閨刑という「刑罰」が課され、平民籍編入というペナルティが定められていること。
また官職にあるものは士族の待遇を受けるとされ社会的栄誉を与えられていること。
・木戸孝允や岩倉具視らが士族と農商をおのずから異なり、社会の教範としての存在を期待し、
その保護を強調していることに見られる政府内の特別視的風潮。

他にも先行研究で明治初期の士族改革については
・財政的負担を伴う給付、身分特権は否定
・士族の意義については強調、ゆえに職業選択など完全な自由につき制限が課される
と言った矛盾した対策が取られていることに注意を促すものが結構あるよ。読んだ限り。
0111日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 15:17:10.57
あと士族の「零落」がよく問題にされるが、「階層上昇」も士族各層で見られる。
9割の下士・卒の約2割弱は最上層に移行してるね。
0112日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 18:23:07.54
まるで官僚になって整然としてる勝ち組士族と、
怒りで我を忘れた貧乏士族の議論のようだなw
0113日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 18:38:28.05
勝ち組士族のつもりの長州人

138 名前: 河津落とし(山陽地方)@無断転載は禁止 :2016/03/21(月) 16:07:11.94 ID:h5WBFzF6O
うちは先祖代々福島人(会津人)とは付き合うなと言われてる

それぐらい会津と長州の関係は根深い
0114日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 18:49:30.84
>>109
下士の二極化だなんていってないが?
だから江戸の武士層は二極化してるんですよ。
しかし、おたくは明治に二極化か促進されたと書いている。

そして、卒は就職率が高いというなんの根拠やパーセンテージでいってるのか高いというその根拠。まあ、最末端の現業だから職人ならいくらでもなれるがな。

また、内職営んでいたからという理由とすれば職を斡旋し、公務という形で用意されたのは どれくらいなのか。

単純にお前は士族というカテゴリーが優遇に直面できる条件というニアンスでの論点なわけで、
ならおよそ9割の下士は藩の録すなわち藩から食い扶持給料を貰えることが庄屋の用に支配村から税率まで裁量権もつ直接課税徴税権より特権というなら、
明治以降、その支配階層の9割は公務での仕事に斡旋された割合はどれだけだ?

庄屋の明治への戸長区長以降率、また郵便局委譲など行政機関のそのまま委譲率とくらべ、さぞかし士族は優遇とわかるほど、庄屋より圧倒的なんだろうから、示してくれ。
0115日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 19:00:50.08
>>104
庄屋の戸長が減らされた理由はなぜですか?笑

士族が優遇されたからとでもおもってんのこの馬鹿笑

以前書いた江戸初期は士分格でありながら千石の支配地もつ旗本寄合レベルの庄屋が全国にゴロゴロいたが、その母数は江戸中期に急激に減らされた理由と全く同じ。
0116日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 19:06:36.94
>>戸長は公選によって選ばれていたが、旧来の名主・庄屋など町村の指導的で行政の役割を担っていた豪農が選ばれる傾向が強かった。
>>それにより戸長の私宅の一部を戸長役場に充てる場合も多かった。

>>ところが、旧来の名主・庄屋の系統を引く公選戸長は明治政府の組織の末端にありながら住民の代表として

>>>>>政府の政策に対峙する姿勢を見せ、自由民権運動に走るものもいた。

このため、政府は1884年(明治17年)に制度の改革を行った。

>>戸長は政府の地方官(旧来の代官)としての側面と旧来の村役人としての性格を並存させており、その矛盾は戸長が自由民権運動の指導者となる形で現れることになった。

>>>>>>>>1884年(明治17年)5月7日、政府は戸長制度の改革を行い、 これによって政府の国策に忠実な行政官を戸長に任命することが目的に

0117日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 19:16:36.06
庄屋は末端ではあるが領主層なため、
また地域を私有化していた財力や影響力、権威が存在しており、
独立した個としての認識が強かったため、

江戸初期は藩や幕府、明治はさっちょう政府に従属せず対峙するほどの地域の影響があったため、幕府や政府はそれを怖れて犬みたい飼い慣らされたのに執行させるのが得策と考えだしたわけ。

因みに江戸初期、天草の乱の首謀者は旧材地支配階層の庄屋15家。

たった庄屋15家が地域を巻き込んで反乱おこしてただけで、日本市場最大級の軍勢で幕府が攻め混むことになる天草の乱が起きてるよな。

因みに幕府の総大将は討ち死にしてるが。

庄屋って、まじちっちゃい領主層だから、簡単には中央になびかねえどころか、
対峙までしちゃえる 力 が在地には存在すんのよ

わかる?
0118日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 19:23:30.09
だから、
政府が怖れて優遇したという表現は庄屋な。

【江戸時代初期】

>>このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。

>>して、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。

>>>>>>>>>このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである。

【明治時代初期】

>>ところが、旧来の名主・庄屋の系統を引く公選戸長は明治政府の組織の末端にありながら住民の代表として

>>>>>政府の政策に対峙する姿勢を見せ、自由民権運動に走るものもいた。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 19:41:57.48
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 20:02:41.22
読みづらい。それと、既に答えてる所を読んでない。

>>114
>下士の二極化だなんていってないが?

>>107でもろに言ってる。自分のレスなんだからそのくらい把握しろ。

>>115-116
>庄屋の戸長が減らされた理由はなぜですか?笑
>>104でもう説明してある。読め。
戸長制度改革では任命制となった戸長の待遇改善もなされてるから、
残ってる士族出身者は準官吏的処遇になり有利。それも上で指摘した。

>>117
島原の乱の解説されても余事記載。いまスレでやってるのは明治初期の士族改革。

>>118
数字が出てこない無意味な一般論。これも却下。


お前さあ、真面目に議論する気がないならこれで打ち切るぞ。
せめて統計の読み方について自分なりの反論でも見つけて来い 馬 鹿。
0122日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 20:07:51.95
>>112
自分はそんなつもりはないよ。

ただ園田=濱名=廣田の著名な研究をベースに、
このわからずやな人に解説してるだけ。

今のところ、この人からは自分が提示した統計と、
その解釈(前述の研究による)に対する反論がない。
いつ統計に関して反論してくるかと思ったんだが自信がないんだろうね。
研究者に逆らう勇気はないと言うことだろう。

彼はデータや具体的な指摘に対して、一般論と思いこみをグダグダ述べてるだけ。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 21:00:30.97
ムダ

アンチ会津だろどうせ
0124日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 23:09:01.39
121
お前って俺がいってる意味わからないの?
士族が優遇されたわけじゃなく、
庄屋が既得権益失うことで初めて有利な形となってんだが?

武士は一部しか優遇された歴史が江戸時代に存在しないということになるんだよ。

なぜなら庄屋より実数で優遇された既得権益が存在していたわけじゃないから。

お前がいってんのは一部士族の優位性をひたすら解いてるだけ。

優位ではなく有利というなら、
戸長制度でも優位な庄屋の立場を危うく感じた政府により、
その後一部士族が有利に後がまを公認されたまで。

それからちょっと君に訪ねたいことあるが、
ちょっと今仕事の連絡きたから、
ちょっと失敬する
0125日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/02(金) 22:06:08.48
>>124
>お前がいってんのは一部士族の優位性をひたすら解いてるだけ。

全然違うけど。
士族社会で起きたことは「没落」というより「階層の変動」であり、
上から下への変動があったと同時に下から上への変動も生じていたことを統計から指摘しただけ。
その指摘も自分が考えたんじゃなくて、園田前掲書で共同研究者が指摘している。

さらに経済面を抜いても>>110のように、
>前掲園田の第2章「武士から士族へ」で
>「これらの特権剥奪は身分制の解体、あるいは定められたばかりの士族という族称でカテゴライズされた社会層を解体する狙いがあった、
>と考えるには疑問が残る」

として士族階級の特権視が制度的に残存していたことを前掲書では述べているわけだが。
どう見ても士族層じたいの解体が戊辰戦争時の目標だったとは言い難い。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/02(金) 22:23:00.29
何で士族改革の代表的研究も知らないような極端な無知なのに、喧嘩売ってきた時に異様に高飛車だったんだろう
0127日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/18(日) 14:28:11.59
会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。

ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。

北海道などの領地を譲渡
北海道などの領地を譲渡
北海道などの領地を譲渡
北海道などの領地を譲渡

完全に売国行為ですね。これで天皇や幕府の飼い犬面してんだから
実にプロパガンダだよwwwwwww
0128日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/18(日) 14:55:04.06
>>136
>箱石さんらの調査で確認されたのは、1868年の文書3点。いずれも、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読、日本語に翻訳した。

 (1)7月31日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。
ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。←チェック!!
(2)10月8日付で宰相からフォン・ローン海相あて。「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。
(3)10月18日付で、海相から宰相への返事。

 この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期の交渉。
両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられるが、ブラントは「北日本が有利になれば、この申し出は大変重要な意味を帯びる」とも記しており、政治的な狙いも込められていたようだ。

 会津は京都を舞台に長州と激しく対立、庄内藩は江戸警備を担当して薩摩藩邸を襲撃したことがあり、両藩は同盟関係にあった。
北海道の領地は北方警備強化のために1859年に幕府が東北の有力6藩に与えた。会津藩は根室や紋別を、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。

 箱石さんは「敗者の歴史は忘れ去られ、この交渉も日本にはまったく記録がない。会津と庄内は土地を提供することでプロイセンを味方につけようとしたのだろう。
戦争が長引けば明治維新に違う展開があったかもしれない」。

 明治維新を研究する東京大の保谷徹教授は「会津・庄内両藩がよくぞここまで国際活動を展開させたなと驚いた。歴史にはまだまだ知らないことがたくさんあり、その答えが海外に眠っていることを示しているのだろう」と話している。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2016/12/17(土) 10:57:50.72
うちのお隣の地区が城下町で、戌辰戦争では会津に加担したようなのだが、はっきり言って治安悪いわ。
ヤンキー7割、精神病んでる系・発達障害っぽい系ひきこもり2割、よそ者1割って感じ。
どちらもヤンキーが多く、上下関係が厳しい、躾と称して虐待じみた暴力が正当化されている。
だから、普通に育った家の子は、妬まれてイジメの対象にされ、精神病んでひきこもるというケースも多いです。
バラバラ死体が発見されるとか、殺人事件はよくあります。
町の支配者は暴走族・暴力団出身者、偉そうにしてるのは暴力団の娘、息子。
よく、会津含め、北朝は礼儀正しいって言われてたけど、なんで過剰なほどに礼儀正しさを強調してるのか、わかったんだ。
残虐的な遺伝子で人を思いやる心を元々持っていないサイコパスだから、その遺伝子を抑える為に生まれたのが、礼儀作法だったんだわ。
だから、躾する時も、躾と称して暴力で抑えようとするのよ。
陰湿でずる賢いのが多いし、結果がどうであれ頑張ってる人が良いとする風潮があるから、メリットがある人の前では頑張ってるフリして、いないところではサボるみたいな
要領いい人が多い。
ミスを他人になすりつけるのも得意。
南京大虐殺も、会津の六十五連隊が関わってるって説が有力で、新明治政府は被害を被った側なんだよ。
罪をなすりつけられたわけ。
北朝は確かに礼儀正しい人が多いが、その分、陰湿で腹黒いのも多いと思う。
南朝が正統なのに、ことごとく邪魔をしてきた上に権力も握ったのだから、相当だよね。

会津藩も、逃亡中の郡山で盗みやら放火やら色々やらかしたって話あるし、その郡山は東北の中でも治安が悪いって言われてるよね。
東北の中でも、ヤンキーがもっとも多い街なんだとか。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2016/12/17(土) 11:02:28.45
こんな研究結果もあるようだ。

「【服従実験】「礼儀正しい人」ほど、実は暴力的であることが判明!」
ttp://travelantenna.hatenablog.com/entry/2014/11/12/082339
0131日本@名無史さん
垢版 |
2016/12/17(土) 11:35:26.75
あまりの弱さに『遊猟』と揶揄された弱小彦根藩
0132日本@名無史さん
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2016/12/18(日) 09:25:18.51
>>129
現代の治安と戊辰は関係ないように思うよ
ちゃんと教育を受けたまともな人は東京などの都会に出て行くっしょ
地元に残るのは、基本、地元から脱出できなかった人達だ
会津に限らず、ほとんどの地方がそう
特に福島なんか原発が爆発しても出て行かなかった人らだよな
0133日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/17(火) 20:39:17.72
殺し合い。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/25(水) 17:48:43.60
容保はとりあえず手代木を首にしろ

逆に首にされたろうが…‥
0136日本@名無史さん
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2017/01/27(金) 07:05:54.84
玉虫もなんであんな輩にしたがったんだか
0137日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/28(土) 12:37:50.46
没落士族が反政府勢力になって
最初は政府は鎮圧一辺倒だったが
民権運動と結びついて豪農農民と連携してきたから
政府が士族授産政策を行い始めたんだよ
0138出る杭は打たれるのに、失敗者が「やれ!!」と
垢版 |
2017/02/03(金) 08:32:17.56
アテルイや多賀城のときなんかは、よくやってくれた
0139日本@名無史さん
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2017/02/03(金) 08:33:04.71
ついでに 日本政府は賠償金を・・・
0140日本@名無史さん
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2017/02/10(金) 05:26:13.93
>>126
 力があれば勝てるという 無知が世間の流れ   たんぱく質をいかに使うか、 それに限る  ・・・らしい
0141日本@名無史さん
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2017/02/10(金) 05:27:25.32
大阪を追い込んだときのように、なってんで〜〜
0142日本@名無史さん
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2017/02/20(月) 21:03:08.27
フランス軍事顧問団って映画になってもおかしくないと思ってたら
ラストサムライがそうらしい・・・
これは忠実に描かなきゃだめだろ
0143日本@名無史さん
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2017/07/19(水) 12:48:11.23
長州は孝明天皇毒殺したし、明治維新も含めて嘘だらけだな、すべてが。
0144日本@名無史さん
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2017/07/25(火) 23:46:51.66
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆
0145日本@名無史さん
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2017/07/26(水) 21:43:08.19
戊辰戦争とかいうけど、戊辰の変、あるいは東北戦争というべき
で西南は戦争というより西南の役だな

戊辰は瓦解して実投降を選んでる幕府中枢以外の末端の極地応戦と、暴発した維新軍の見せしめ抗争心による小競り合いに過ぎない

西南は馬鹿すぎた西郷郡の部下の暴走で、明確な政府隊の明治軍が幕府同様の無条件降伏を選ぶと誤解した
あの時西郷軍は変質的な一部の西郷信奉を全国民的な崇敬と意味不明な誤解をして
故に西郷号令→相手は無条件降伏と誤解したことだな

あきらかにあの戦争の各作者は戊辰の現実を知らないで、戊辰を西郷神話と相当誤った無双的な空想理解をした
そのため西郷号令神話に則って空想的な作戦で望んで、当然普通に応戦されて壊滅した

主導権をとった連中が異常な西郷カルトマンであったからあんな戦争がおきて、あんな事態になった
0146日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/05(火) 10:35:16.57
原田伊織「明治維新という過ち」に詳しく書いてあるよ。
長州のご先祖が犯した共謀罪を、長州出身の首相が成立させる滑稽さ。
0147日本@名無史さん
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2017/09/25(月) 23:53:41.28
会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し

戊辰戦争で会津藩が降伏した直後の1868(明治元)年10月、
戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が会津若松市で見つかった。
従来は、西軍(新政府軍)が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、
埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。

見つかった史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し。
筆者は不明だが、写しは会津藩の要職を務めた藤沢内蔵丞(ふじさわ・くらのじょう)の子孫が
約40年前に市に寄贈した史料約170点のうちの1点。

会津歴史考房を主宰している野口信一さん(68)が昨年12月、
市史史料目録を整理するため史料を借り受け、内容を確認していた際に発見した。

写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、
鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。
発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。
このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は
近隣の60代女性が西軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。

戊辰戦争のうち会津戦争では会津藩士ら約3000人が亡くなったとされる。
西軍は遺体の埋葬を許さず、降伏から半年後の1869年2月に現在の会津若松市七日町にある
阿弥陀寺に改葬が始まるまで、野ざらし状態だったと言い伝えられてきた。

地元の歴史関係者によると、この対応が長年、西軍側との感情的な溝を築く要因の一つとなってきた。

野口さんは
「伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない。
 史料から少なくとも500人以上が埋葬されていたと分かる」と話している。

以下ソース:福島民報 2017/09/25 10:22
http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375
0148日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/26(火) 08:55:58.95
明治維新を革命ととらえるか否かは、戦前から論争されていた
これを日本資本主義論争という

講座派と呼ばれる一派は、明治維新によって日本は絶対主義国家になったと論じたが、
労農派と呼ばれる一派は、明治維新をブルジョア革命だと論じた

今は講座派の論が一応優位だと思うが、まだまだ議論中というところだろう
0149日本@名無史さん
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2017/09/26(火) 12:34:25.89
戊辰戦争には流れがあって
鳥羽・伏見の戦い、徳川慶喜の為の戦いにも関わらず、ビビった慶喜は勝手に帰ってしまった。
松平容保(会津藩藩主)は、その後も必死に戦うのですが、その間に慶喜は無血開城した上、容保たちを
城へ立ち入り禁止にしてしまいます。
ここで主戦派(容保ら)と降伏派(慶喜ら)に分かれます。
その後慶喜が大政奉還してしまい、徳川の時代は終わった。しかし、くすぶる主戦派。
で、薩長は一気につぶしにかかった。もう官軍ですから。
松平容保もかわいそうな人です。
京都を守れと言われて厄介者の攘夷志士をやっつけまくり大活躍していたら、いつの間にやら
自分たちが悪者に。
徳川の為に戦争したら、その徳川の大将が勝手に江戸に帰って降伏&幕府やーめた。
守護職時代、鳥羽・伏見と殺しまくっているから、会津はお取り潰しになるかもしれない。
もう戦う以外の選択肢はなかった。
0150日本@名無史さん
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2017/10/02(月) 19:25:55.12
さっきニュースでやってたけど遺体の埋葬禁止したって嘘だったらしいじゃん。
0151日本@名無史さん
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2017/10/03(火) 11:46:57.27
<戊辰戦争>戦死の会津藩士「半年間野ざらし」定説覆る 「降伏直後埋葬」示す新史料
10/3(火) 11:05配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171003-00000014-khks-soci

河北新報
<戊辰戦争>戦死の会津藩士「半年間野ざらし」定説覆る 「降伏直後埋葬」示す新史料

 戊辰戦争(1868年)で戦死した会津藩士の遺体が会津藩降伏直後に埋葬されたことを示す史料が見つかったと、
会津若松市史研究会副会長の野口信一さん(68)が2日、発表した。遺体は新政府軍が埋葬を禁じ、
半年間野ざらしにされたと伝えられてきた。

 会津若松市民の長州藩(山口県)に対する感情的なしこりの一因になった埋葬禁止説が覆るとして、
野口さんは「藩士がすぐに埋葬されたことが分かり、喜ばしい」と話している。

 史料は「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」で、戦死者の埋葬や金銭支払いが
記入されている。市から調査を受託する研究会が昨年12月に発見。地元在住の会津藩士子孫が1981年に
若松城天守閣博物館に寄贈した史料に含まれていた。

 それによると、新政府は会津藩降伏の10日後の10月2日(旧暦)、埋葬を命令。翌3〜17日、
会津藩士4人が中心になって567人を64カ所に埋葬した。経費は74両(約450万円)。延べ384人が動員され、
1人当たり1日2朱(7500円)を支給していた。

 家紋の図など遺体発見当時の服装が詳細に記され、女性や子どもの遺体もあった。大砲隊を指揮した
山本八重の父山本権八の遺体や、一族21人が自刃した家老西郷頼母邸で発見された遺骨、白虎隊士と
思われる遺骨の記述もある。

 野口さんは「69年2月に阿弥陀寺へ改葬したことを半年も放置したと誤認したと思われる。
埋葬禁止説は昭和30年代以前はなかった」と説明。「長州への怨念の障壁が取り除かれ、
会津若松市民と山口県萩市との友好関係が築けたらうれしい」と期待する。

 野口さんは史料についてまとめた「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実 戊辰受難者祭祀の歴史」(歴史春秋社)を
11日に出版する。会津若松市資料センターはコピーを1枚20円で頒布する。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
0153日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/03(火) 15:22:13.57
よく会津は武備恭順してたのに攻められたからひどいって言うけど
会津は数年前には長州が武備恭順してるのがけしからんから征討せよとごり押ししたのに
論理がおかしくないか?

あと京都守護職として治安を守っていただけなのにとよく言うけど
大政奉還に反対して薩摩殺すと騒いでたり、鳥羽伏見で強硬に出兵主張して戦のきっかけ作ったのはノーカンなのか?
0154日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/13(金) 13:16:24.67
>>147>>151
「会津藩士の埋葬禁止令は虚構」 歴史家・野口信一さんが講演
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171013-00010009-minyu-l07
10/13(金) 10:47配信 福島民友新聞

 戊辰戦争で新政府軍が会津藩戦死者の埋葬を禁じたとの通説を覆す新史料を発見し、「会津藩士は埋葬されていた」と
主張する会津若松市の歴史家野口信一さん(68)の講演会「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実」は12日、同市で開かれ、
野口さんは「遺骸が半年も風雨にさらされ、悲惨な状況にあったとの通説が特に長州藩への遺恨のもとだった。
どう捉えるかは個人の考えもあるだろうが、誤った歴史認識は正すべきだ」と語った。

 新史料は、会津藩士の子孫が1981(昭和56)年に同市に寄贈した史料174点の中から見つかった「戦死屍取(せんしかばねとり)
仕末金銭入用帳(しまつきんせんにゅうようちょう)」。会津藩が1868(明治元)年9月22日に降伏開城した後の戦死者埋葬と費用を記載している。
筆者不明だが、藩士の武田源三、赤羽彦作、斎藤茂助、水野平八が鶴ケ城の城下や郊外で遺体を捜索し、64カ所に567体を埋葬したことを記す。

 野口さんは講演で「降伏の10日後には埋葬が行われていた。69年2月に阿弥陀寺への『改葬』(1281体)が始まったが、これが誤解を生んだのだろう。
埋葬禁止は昭和40年代以降に言われるようになったと考えられ、史実となってしまった」と説明。さらに「長州藩だけが埋葬を禁止したとは考えにくい。
長州藩への遺恨の最大の要因を考え直す契機になる」と述べた上で、「遺恨が誤った歴史認識に基づくのでは恥ずかしい。
来年は戊辰戦争150年の節目でもあり、今が仲直りのチャンスかもしれない」と語った。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/30(月) 17:30:31.32
>>153
>会津は数年前には長州が武備恭順してるのがけしからんから征討せよとごり押し

長州藩の場合はいったん征討軍に降伏して処分を受け入れるという意思を表明してるからね。
幕軍の目付の前で城割り(降伏)の儀式を行って総攻撃を中止してもらってる建前。
よって、正式な処分を下すから支藩藩主が上洛してらっしゃいと言われたら拒否したので、
停戦が破れて総攻撃が再開された。

それに対して会津藩の場合は総攻撃中止の条件が提示されていないから、
比較するのはナンセンス。

それと
>会津は数年前には長州が武備恭順してるのがけしからんから征討せよとごり押ししたのに
会津藩は必ずしも強硬派ではないんだが…
それどころか慶喜まで元徳死罪を主張したのに毛利敬親父子助命、削封は10万石程度にとどめる
というかなり寛大な案を主張して反対してるわけで。
むしろ長州征討が私戦と受け取られるのを恐れて参戦に消極的だった
0156日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/30(月) 17:34:00.11
>>154
これもどうなんだろうね。
会津若松市側は最初から埋葬禁止令の存在など認めてなかった
ただ埋葬に際して民政局が非協力的であること、
あとは遺体の扱いがそんざいだということで
藩士が何度も民政局にかけあって阿弥陀寺への埋葬を進めてるのは事実なわけで、
なんだかわら人形叩いてるようにしか見えないんだよなあ。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/30(月) 17:38:01.31
ちなみに民政局が金払って埋葬させてるのは当たり前で、
会津藩の戦死者が大勢いて城で事務を執るのにも差し支える
早く片付けないといけないけど藩士は全員謹慎で埋葬従事者も使えないから、
藩士有志に金払って現場で作業やらせてるというそれだけなんだけどね
0159日本@名無史さん
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2017/11/21(火) 12:55:45.80
http://mitinoku.biz/hist_walk/hist_yamagata/?p=1074
みちのく悠々漂雲の記/山形県 山形県遊佐町吹浦字三崎

>三崎峠で戦死した庄内兵の遺体は、見せしめのために引き取ることを許されず放置された。
そのため三崎山には、無数の白骨が転がるという有様が永く続いた。
戊辰戦争から50年近く経った大正3年(1914)、遺骨はようやく拾い集められ、
それは、4ダース入り大型ビール箱二つが満杯になるほどだったという。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 15:46:07.14
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

HCRDW
0164日本@名無史さん
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2018/06/05(火) 22:49:10.45
■反日勢力50年周期台頭説■

日本では明治維新以降、50年周期で反日勢力が台頭し、その後の約10年間にわたって混乱に陥れるジンクスがある。

◎「明治50年」(1918年・大正7年)
 ・前年1917年にロシア革命が起き、日本の反日勢力を勢いづかせる。
 ・1919年に朝鮮で三一独立運動が起き、4月にテロ組織「大韓民国臨時政府」が組織される。
 ・1922年に「日本共産党」(第一次共産党)が組織される。
 ・主な反日事件
   「閔元植暗殺事件 (1921年)」「虎ノ門事件 (1923年)」「二重橋爆弾事件 (1924年)」・・・

◎「明治100年」(1968年・昭和43年)
 ・前年1967年に羽田事件が起きる(ヘルメットにマスクという極左お約束のスタイルはこのときに確立された)。
 ・その後の10年間にわたって、極左による反日暴動・テロが頻発する(あまりにも多過ぎるので具体名は略)。
 ・「反日亡国論」「自己否定論」という奇痴害デムパ思想が一世を風靡する。

今年2018年(平成30年)は「明治150年」である。
既に特定アジア諸国では反日ファシズムが台頭し、日本国や国民に刃を向けている。
国内でも「パヨク」なる奇痴害左翼が台頭してきている。
最悪の場合、特定アジア国家による日本侵略か反日テロが起きる可能性が高まっている。
良識ある皆様は引き続きパヨクを監視しよう!
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/10(日) 09:44:41.19
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM
0166日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 15:01:14.43
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

QWJ
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/07(金) 14:15:45.81
日本史には司馬遼太郎史観という妖怪が跳梁闊歩している、第二次世界大戦の欧州戦線の戦史に
コーネリアス・ライアン史観が闊歩していたように、北越戦争におけるお寺の会談の内容はその寺に
残る記録文書に明確に記録として残っている、どこにも長岡藩一藩の武装中立国家論なんか出てこない
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/07(金) 14:19:57.60
そんな「峠」をよいしょする同じ口でFake写真ガーとかいうきちがい史観論者がいるのは嘆かわしい
創作は創作だ、大震災の写真がFakeでけしからないならば、峠をよいしょするのもやめたまえ
だれも見たくない「真実」なんて見たくないからね
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/07(金) 15:06:29.94
慈眼寺会談の記録史料の漢字かな交じり読み下し文の新聞記事の切り抜きならまだ持っているから
峠はあくまでもフィクションとして扱いなさい、史実に沿った話しなどと報じたらFakeNewsになるよ
震災の写真と同じでね 笑
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/07(金) 20:58:05.33
「峠」の継之助像を信じていた人間の理想像を過去にぶち壊していて何がFakeだ、二枚舌
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