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【大半が車夫や職人、開拓民だと言う主張について 】

園田英弘らの研究によれば
明治14年(1881年)段階の中央や地方官における士族の官職保有率の割合を見ると、
官員総数が約7万8000人のうち、士族の任官者は約5万2千人、地方郡町村吏においても約9万2千人のうち士族の割合は1万5千人と、
比較的高い割合を占めていたとされる。士族総戸数は42万戸だから全員が官吏の職にありつけたわけではないが、
選抜制に置き換わる前の時期においては中上層士族は転職に成功していたものが多くいると見られる。

また官吏登用制度が整備される頃になると、今度は高等教育の機会を享受する者が多くなる。
旧制高等中学校の学生に占める割合は、明治前期にあたる明治19年(1886年)から25年(1892年)までの統計で
おおむね半数近く、低い年度でも3割強を占めており、士族が難関中学・高校へ進学していることが確認される。
全人口の5%に過ぎない士族の子弟が1000人〜数千人のエリートのうち半分を少なくとも明治20年代半ばまで占めてたわけだ。

また地方吏員や教員も士族占有率が高い職業。
明治中頃の郡区長クラスでは士族は平民の3倍程度、書記クラスでも上回っており、区長レベルになってようやく平民が上回る。
教職員はもっと露骨に士族優位が現れている。
地方税支弁の学校では校長、教員などは士族が8割近くを占有し、
小学校でも校長では士族が6割を占める。
逆に小使・給仕クラスになると平民出が8割を占める。

なお「教範」というのはべつに官吏登用機会のようなものを指す意味で使ってるのではなく、
社会的名誉を担い、四民に範を垂れるべき属性として扱われたとかそのような意味ね。
士族という属性の記載は大正にはいるまで戸籍に記載されたし、履歴書などにも記載がなされるなど、
各地域においてはそれなりの尊崇を受けた模様。