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【東夷】倭人在帯方東南大海之中.......... [無断転載禁止]©2ch.net

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0001日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 11:30:57.47
さ〜、老若男女を問わず紐解けや!

ここは以前あった『倭人伝等を読む』スレを継承するために立てたスレです。
0002日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 11:40:20.63
公孫氏の庇護の下女王が統治し東へ東へと侵略範囲を広げようとする国
しかしその肝心な公孫氏は魏王朝に叛きいまその歴史を閉じようとしている。
それを察知した女王は存亡をかけて魏王朝へ使者を走らせる
0003日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 14:58:16.77
『倭在韓東南大海中依山嶋爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王世世傳統其大倭王居邪馬臺國』

倭と称する所は四方海に囲まれた島地で、そこには凡百餘國の国があり武帝が朝鮮を滅ぼした
頃漢人は倭の三十国と国交していた
その国にはそれぞれ王と称する者が存在し、それらを束ねるリーダー(大倭王)は邪馬臺にその居を構えてた。
0004日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 15:28:05.21
この倭の三十国は光武帝から印綬を賜り漢王朝の旗下のもと大倭王をリーダーとして統治した
しかし時が経ち国内は度々リーダー争いが起き
落ち着かない統治となり
ある時クーデターが起きたそれまで王の代表となるリーダーが中心となりクニを治めていたが
倭を後漢王朝の代理支配していた公孫氏の陰謀により、それまで大倭王に占い示唆してきた大巫女と大倭王の立場を逆転させ、そこに女王を共立した。卑彌呼誕生
0005日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 19:23:02.48
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0006日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 09:27:07.58
 【建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見】

後漢書倭伝に掲載されたこの記事は二つの対する事案を記することで当時の倭の状況を如実に表した、いわゆる范曄の筆による法
0007日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 09:51:23.81
なぜ対的な記事とわかるのか

安帝永初元年に行われた奉貢による「願請見」
この記事には何を願い出たかがまったく書かれていない。小学生の作文だって目的ぐらいは書くし
つまりこれは書いてないんじゃなく、書かなくとも理解できる文章と捉えるのが最も自然な解釈。ではなぜ書かなくてもよかったのか?
その答えが先に記載された建武中元二年、ここに書かれている皇帝からの印綬。
漢の朝廷と外交の出来るお墨付きを求める為の「願請見」。
同じ地域が同じ朝廷に対し繰り返しお墨付きを受ける事は無いのが常識、それを願い出るというのは
先に印綬を授かった建武中元二年の地域と永初元年に願請見した地域はまったく別な勢力だったということ
0008日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 10:05:35.24
倭という海の中に浮かぶ島地には、後に日本書紀などに書かれた天皇家vsナガスネみたいな二大勢力の存在する地域だということを
この後漢書で漢時代の認識として記録された

で、その一方の勢力と漢、後漢王朝は繋がりを持っている。
0009日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 10:42:01.38
同じ地域の二つの勢力に対し王朝は間違っても両者に印綬を授けることはなかった
つまり、願を叶える事はなかた。
しかし王朝は帥升からの破格な貢ぎ物と遠路からの労をねぎらい一代限りの『倭國王』の称号だけを授けた

一方安帝以来印綬を受けてる勢力では後漢時代
リーダーが戦死するという大乱という事態に

倭國王という称号を受けた帥升の勢力と王朝のお墨付きを持つ勢力(倭奴)が戦になり倭奴のリーダーが戦死した
これが史書に書かれた『倭國大乱』の内容
0010日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 11:11:15.38
倭國王の勢力に対し戦を仕掛ける倭奴はリーダーを失い当然のように退却せざるおえなくなる
が、倭國側はそれを追いかけ逆に攻め込む事はしない
当然と言えば当然で
リーダーを失ったとはいえ相手倭奴は仮にもバックに王朝がいる勢力、それに戦を仕掛けるのはいうなれば後漢王朝に戦を仕掛けるようなもの
そんな間違ってもおバカな行為はしない。
だからこの後に世が乱れた記事が記載されないのです。

一方リーダーを失った王朝の息の掛かる倭奴勢力は次期リーダーの座をめぐっての御家騒動が勃発し、遂に倭地を代理統括する公孫氏がその御家騒動を納める事に
その手品みたいな手段が「卑彌呼の共立」
0011日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 13:36:49.07
よく安帝の建武中元二年に奉貢した時に賜った印綬を志賀の島で見つかった金印という人がいるが
あれは金印ではなく安帝の印鑑証明書、假金印紫綬なら記録に与えるべき者やその遣使に仮に授与することが
書かれるがその形跡は一切ない
あれは倭地から訪れた自称大夫達の国に与えた国交のためのお墨付き。

皇帝の印鑑証明書が箱に納められ封泥により封印し箱を紐で結ぶ

蛮族の自称大夫達に下賜されるほど金印は安物じゃない。
0012日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 13:46:41.64
>>1
なら過去スレくらい貼れや
邪馬台厨はいくらスレを乱立させれば気がすむんだか
0013日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 14:20:53.18
>>12
過去スレなんてありません。
お気に召さなければどうかこのままお引き取りくださいませ。
0014日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 14:38:44.10
では続けましょう。

【金印】
江戸時代に福岡県志賀島で発見されたとされる『漢委奴國王』と刻まれたこの金印の持ち主は誰?なぜ記録にないのか?

先に結論を述べれば

この金印は後漢の時代に公孫が共立した卑彌呼
に非公式に授けたもので、後漢朝はまったく知らぬ公孫氏から卑彌呼へ授けたもの
だから一切記録にはないわけです。
でもこの後漢時代に共立された卑彌呼は、238年に難升米を郡に遣わし魏の皇帝に謁見させた卑彌呼とは別人です。
同じ人物なら今正に魏を裏切り成敗されようとしている公孫氏から擁護されてる卑彌呼に金印どころか難升米は郡で殺されています。
ただ、この卑弥呼も公孫氏に共立された卑弥呼も光武帝から印綬を賜った同じ勢力、流れで有ることは確かで、だから後漢王朝から禅譲された魏王朝もこの流れを引き継いだわけです。
0015日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 14:57:10.00
>>13
じゃあ何を継承したの?
>>1に書いてあることは虚偽か?

スレ乱立というマナー知らずの行動を取っておきながら、嫌なら来るな?
随分と身勝手ですこと。
0016日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 15:05:31.19
当時の倭地には政治や軍事の実権を握るトップリーダーの他に、そのトップに助言や指導の出来るシャーマン的な巫女の存在があった。
乱でリーダーが戦死し内乱が起こるようになり、なかなか長期的に安定しない時が続いた時、
この倭奴を監督する公孫氏がこの巫女を立て男王達のリーダーとのツートップにすることで国内を沈静化させた。
その時公孫氏はこの巫女に絶対なる権力の証として非公式であり私事ではあるが、漢文字を刻んだ金印をこの巫女に授け男王リーダーの力を
抑えこれを治めた。
この時から建前上は男王リーダー政権だが、実質は公孫氏のバックアップがあり金印を下賜された卑弥呼が独裁的な政権が始まる
0017日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 15:10:21.72
>>15
ならご自由に
0018日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 15:57:22.00
この『卑彌呼』とは大陸側から見た職称であり日本でいうところの巫女であり大巫女、決して固有名詞なんかではない。

それが証拠に、後漢書で既に【有一女子名曰卑彌呼】と使われているのに
魏に朝貢したときには卑彌呼ではなく飽くまでも「倭女王」という扱いで、詔書で初めて卑彌
呼という文字を使われてる。
この事からもわかるように、この卑彌呼という名称は職称であり王朝からいただく称号でもあるということ、そして魏皇帝に正式に謁見してから卑彌呼の文字が出てくるので、後漢王朝から卑彌呼といわれてた人物とは別人だということもわかる。
0019日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 16:18:12.43
もしこの卑彌呼が後漢時に共立された卑彌呼で同一人物で有るなら
景初二年に「倭女王」などという書き出しではなく「倭女王卑彌呼」という書き出しになる。
魏王朝は飽くまでも後漢王朝から禅譲された政権で、後漢王朝からの公式な事は一度引き継ぐのが筋
魏書の後発とはいえ国史と位置付けられる范曄の後漢書、公式な文章として記載ある卑彌呼の名称を疎かに扱わないと見るのが普通だろう
そこから考えれば、それを一度断ち切り新たに詔書で卑彌呼と使うのは別記と扱うのが自然な扱いであろうと
0020日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 17:22:00.24
>>17
おまえ何しに出て来たの?

>>1に書いてある
 『倭人伝等を読む』スレを継承する
というのはなんなんだよ

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1145681233/
これとかの後継じゃないのかよ?

適当に立て逃げしてんじゃねーよ、クズが
0022日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 19:39:36.58
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0023日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 22:42:15.25
ここまでが漢の時代から後漢の時代にかけての倭地の外交面での政治的な
流れ

早くから大陸の王朝の力を背景に勢力範囲を拡大しようと企む倭奴勢力
それを必死に食い止めようと直接大陸まで願い出て失敗に終わった帥升率いる
勢力。その国内の情勢は卑彌呼共立という流れになっても侵略という構図は変わることがなかった
そしてその侵略という構図はその後200年経過した4世紀後半に至り「神武東征」という
ことで一度完結される
これは神武vsナガスネという形で日本書紀にも刻まれる

ここで注意していただきたいのは「神武もナガスネ」も一個人を表現する固有名詞ではないということ
0025日本@名無史さん
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2016/09/02(金) 10:36:14.96
倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。【案:今名邪摩(惟)堆、音之訛也。】

これは先にも掲載した范曄が編纂した後漢書倭
伝の書き出し部分ですが

ここに「邪馬臺」という文字が出てくるのでここに注目し独自の解釈解明してみます。

この「邪馬臺(國)」とはいったいなに?という疑問がまず湧きます。で前に書かれた文を読むとその地域の自称王達のリーダーが居る場所の説明みたいだとわかります。
でもいきなりリーダーは邪馬臺に居ると言われても倭地を詳しく知らない読み手は戸惑うこと必至、海外の人に安倍総理の実家はヤマグチ県だといきなり知らせるようなもの
しかも前文を読み返せば、【倭在韓東南大海中依山嶋爲居】とかなり大雑把な地勢的な説明
それならこの大倭王の所在地もそれらの説明と大差ない説明だと解釈してもいいでしょう。
つまり、邪馬臺とはその地名ではなく地勢的な位置を示す言葉ということです。

邪馬臺國って日本のどこにあったの?なんて最初からナンセンスな疑問だったのです。邪馬臺は東京とか横浜とかの地名ではなく、山の上とか川の近くとかいった地勢的な位置の説明なんだと
これだけの発見でも相当な進歩ですね。
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