【東夷】倭人在帯方東南大海之中.......... [無断転載禁止]©2ch.net

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0001日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 11:30:57.47
さ〜、老若男女を問わず紐解けや!

ここは以前あった『倭人伝等を読む』スレを継承するために立てたスレです。
0002日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 11:40:20.63
公孫氏の庇護の下女王が統治し東へ東へと侵略範囲を広げようとする国
しかしその肝心な公孫氏は魏王朝に叛きいまその歴史を閉じようとしている。
それを察知した女王は存亡をかけて魏王朝へ使者を走らせる
0003日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 14:58:16.77
『倭在韓東南大海中依山嶋爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王世世傳統其大倭王居邪馬臺國』

倭と称する所は四方海に囲まれた島地で、そこには凡百餘國の国があり武帝が朝鮮を滅ぼした
頃漢人は倭の三十国と国交していた
その国にはそれぞれ王と称する者が存在し、それらを束ねるリーダー(大倭王)は邪馬臺にその居を構えてた。
0004日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 15:28:05.21
この倭の三十国は光武帝から印綬を賜り漢王朝の旗下のもと大倭王をリーダーとして統治した
しかし時が経ち国内は度々リーダー争いが起き
落ち着かない統治となり
ある時クーデターが起きたそれまで王の代表となるリーダーが中心となりクニを治めていたが
倭を後漢王朝の代理支配していた公孫氏の陰謀により、それまで大倭王に占い示唆してきた大巫女と大倭王の立場を逆転させ、そこに女王を共立した。卑彌呼誕生
0005日本@名無史さん
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2016/08/31(水) 19:23:02.48
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0006日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 09:27:07.58
 【建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見】

後漢書倭伝に掲載されたこの記事は二つの対する事案を記することで当時の倭の状況を如実に表した、いわゆる范曄の筆による法
0007日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 09:51:23.81
なぜ対的な記事とわかるのか

安帝永初元年に行われた奉貢による「願請見」
この記事には何を願い出たかがまったく書かれていない。小学生の作文だって目的ぐらいは書くし
つまりこれは書いてないんじゃなく、書かなくとも理解できる文章と捉えるのが最も自然な解釈。ではなぜ書かなくてもよかったのか?
その答えが先に記載された建武中元二年、ここに書かれている皇帝からの印綬。
漢の朝廷と外交の出来るお墨付きを求める為の「願請見」。
同じ地域が同じ朝廷に対し繰り返しお墨付きを受ける事は無いのが常識、それを願い出るというのは
先に印綬を授かった建武中元二年の地域と永初元年に願請見した地域はまったく別な勢力だったということ
0008日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 10:05:35.24
倭という海の中に浮かぶ島地には、後に日本書紀などに書かれた天皇家vsナガスネみたいな二大勢力の存在する地域だということを
この後漢書で漢時代の認識として記録された

で、その一方の勢力と漢、後漢王朝は繋がりを持っている。
0009日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 10:42:01.38
同じ地域の二つの勢力に対し王朝は間違っても両者に印綬を授けることはなかった
つまり、願を叶える事はなかた。
しかし王朝は帥升からの破格な貢ぎ物と遠路からの労をねぎらい一代限りの『倭國王』の称号だけを授けた

一方安帝以来印綬を受けてる勢力では後漢時代
リーダーが戦死するという大乱という事態に

倭國王という称号を受けた帥升の勢力と王朝のお墨付きを持つ勢力(倭奴)が戦になり倭奴のリーダーが戦死した
これが史書に書かれた『倭國大乱』の内容
0010日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 11:11:15.38
倭國王の勢力に対し戦を仕掛ける倭奴はリーダーを失い当然のように退却せざるおえなくなる
が、倭國側はそれを追いかけ逆に攻め込む事はしない
当然と言えば当然で
リーダーを失ったとはいえ相手倭奴は仮にもバックに王朝がいる勢力、それに戦を仕掛けるのはいうなれば後漢王朝に戦を仕掛けるようなもの
そんな間違ってもおバカな行為はしない。
だからこの後に世が乱れた記事が記載されないのです。

一方リーダーを失った王朝の息の掛かる倭奴勢力は次期リーダーの座をめぐっての御家騒動が勃発し、遂に倭地を代理統括する公孫氏がその御家騒動を納める事に
その手品みたいな手段が「卑彌呼の共立」
0011日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 13:36:49.07
よく安帝の建武中元二年に奉貢した時に賜った印綬を志賀の島で見つかった金印という人がいるが
あれは金印ではなく安帝の印鑑証明書、假金印紫綬なら記録に与えるべき者やその遣使に仮に授与することが
書かれるがその形跡は一切ない
あれは倭地から訪れた自称大夫達の国に与えた国交のためのお墨付き。

皇帝の印鑑証明書が箱に納められ封泥により封印し箱を紐で結ぶ

蛮族の自称大夫達に下賜されるほど金印は安物じゃない。
0012日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 13:46:41.64
>>1
なら過去スレくらい貼れや
邪馬台厨はいくらスレを乱立させれば気がすむんだか
0013日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 14:20:53.18
>>12
過去スレなんてありません。
お気に召さなければどうかこのままお引き取りくださいませ。
0014日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 14:38:44.10
では続けましょう。

【金印】
江戸時代に福岡県志賀島で発見されたとされる『漢委奴國王』と刻まれたこの金印の持ち主は誰?なぜ記録にないのか?

先に結論を述べれば

この金印は後漢の時代に公孫が共立した卑彌呼
に非公式に授けたもので、後漢朝はまったく知らぬ公孫氏から卑彌呼へ授けたもの
だから一切記録にはないわけです。
でもこの後漢時代に共立された卑彌呼は、238年に難升米を郡に遣わし魏の皇帝に謁見させた卑彌呼とは別人です。
同じ人物なら今正に魏を裏切り成敗されようとしている公孫氏から擁護されてる卑彌呼に金印どころか難升米は郡で殺されています。
ただ、この卑弥呼も公孫氏に共立された卑弥呼も光武帝から印綬を賜った同じ勢力、流れで有ることは確かで、だから後漢王朝から禅譲された魏王朝もこの流れを引き継いだわけです。
0015日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 14:57:10.00
>>13
じゃあ何を継承したの?
>>1に書いてあることは虚偽か?

スレ乱立というマナー知らずの行動を取っておきながら、嫌なら来るな?
随分と身勝手ですこと。
0016日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 15:05:31.19
当時の倭地には政治や軍事の実権を握るトップリーダーの他に、そのトップに助言や指導の出来るシャーマン的な巫女の存在があった。
乱でリーダーが戦死し内乱が起こるようになり、なかなか長期的に安定しない時が続いた時、
この倭奴を監督する公孫氏がこの巫女を立て男王達のリーダーとのツートップにすることで国内を沈静化させた。
その時公孫氏はこの巫女に絶対なる権力の証として非公式であり私事ではあるが、漢文字を刻んだ金印をこの巫女に授け男王リーダーの力を
抑えこれを治めた。
この時から建前上は男王リーダー政権だが、実質は公孫氏のバックアップがあり金印を下賜された卑弥呼が独裁的な政権が始まる
0017日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 15:10:21.72
>>15
ならご自由に
0018日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 15:57:22.00
この『卑彌呼』とは大陸側から見た職称であり日本でいうところの巫女であり大巫女、決して固有名詞なんかではない。

それが証拠に、後漢書で既に【有一女子名曰卑彌呼】と使われているのに
魏に朝貢したときには卑彌呼ではなく飽くまでも「倭女王」という扱いで、詔書で初めて卑彌
呼という文字を使われてる。
この事からもわかるように、この卑彌呼という名称は職称であり王朝からいただく称号でもあるということ、そして魏皇帝に正式に謁見してから卑彌呼の文字が出てくるので、後漢王朝から卑彌呼といわれてた人物とは別人だということもわかる。
0019日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 16:18:12.43
もしこの卑彌呼が後漢時に共立された卑彌呼で同一人物で有るなら
景初二年に「倭女王」などという書き出しではなく「倭女王卑彌呼」という書き出しになる。
魏王朝は飽くまでも後漢王朝から禅譲された政権で、後漢王朝からの公式な事は一度引き継ぐのが筋
魏書の後発とはいえ国史と位置付けられる范曄の後漢書、公式な文章として記載ある卑彌呼の名称を疎かに扱わないと見るのが普通だろう
そこから考えれば、それを一度断ち切り新たに詔書で卑彌呼と使うのは別記と扱うのが自然な扱いであろうと
0020日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 17:22:00.24
>>17
おまえ何しに出て来たの?

>>1に書いてある
 『倭人伝等を読む』スレを継承する
というのはなんなんだよ

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1145681233/
これとかの後継じゃないのかよ?

適当に立て逃げしてんじゃねーよ、クズが
0022日本@名無史さん
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2016/09/01(木) 19:39:36.58
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0023日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 22:42:15.25
ここまでが漢の時代から後漢の時代にかけての倭地の外交面での政治的な
流れ

早くから大陸の王朝の力を背景に勢力範囲を拡大しようと企む倭奴勢力
それを必死に食い止めようと直接大陸まで願い出て失敗に終わった帥升率いる
勢力。その国内の情勢は卑彌呼共立という流れになっても侵略という構図は変わることがなかった
そしてその侵略という構図はその後200年経過した4世紀後半に至り「神武東征」という
ことで一度完結される
これは神武vsナガスネという形で日本書紀にも刻まれる

ここで注意していただきたいのは「神武もナガスネ」も一個人を表現する固有名詞ではないということ
0025日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/02(金) 10:36:14.96
倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。【案:今名邪摩(惟)堆、音之訛也。】

これは先にも掲載した范曄が編纂した後漢書倭
伝の書き出し部分ですが

ここに「邪馬臺」という文字が出てくるのでここに注目し独自の解釈解明してみます。

この「邪馬臺(國)」とはいったいなに?という疑問がまず湧きます。で前に書かれた文を読むとその地域の自称王達のリーダーが居る場所の説明みたいだとわかります。
でもいきなりリーダーは邪馬臺に居ると言われても倭地を詳しく知らない読み手は戸惑うこと必至、海外の人に安倍総理の実家はヤマグチ県だといきなり知らせるようなもの
しかも前文を読み返せば、【倭在韓東南大海中依山嶋爲居】とかなり大雑把な地勢的な説明
それならこの大倭王の所在地もそれらの説明と大差ない説明だと解釈してもいいでしょう。
つまり、邪馬臺とはその地名ではなく地勢的な位置を示す言葉ということです。

邪馬臺國って日本のどこにあったの?なんて最初からナンセンスな疑問だったのです。邪馬臺は東京とか横浜とかの地名ではなく、山の上とか川の近くとかいった地勢的な位置の説明なんだと
これだけの発見でも相当な進歩ですね。
0026日本@名無史さん
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2016/09/02(金) 12:31:36.14
ではここで視点を変えて邪馬臺と書かれた文字に注目してみよう
でもここでは編纂者や編纂に携わった人たちによる誤記とか誤植、誤写とかの類いには一切触れません。

多くの史書を見ると「邪馬臺」の臺の部分を嘉や堆、壹やその他入れ替え使われています。
と言うことは、「邪馬○」は編纂者の文章構成上の主旨に則した使われ方をしているとの見方も出来るわけです。
後漢書を編纂した范曄は「邪馬壹」と書かれ先行史料となる陳壽編纂の魏書や魏略、或いは後漢紀や東観漢記を見て編纂しているのだから「邪馬臺」と(臺)文字にはより注目し解析しない訳にはいきません。
ではなぜ陳壽の(壹)を使用せず(臺)文字をしようしたのか?
0027日本@名無史さん
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2016/09/02(金) 12:50:50.36
簡単に
「臺」という文字にはこういう成り立ちや、意味の使われ方があるようです。

http://okjiten.jp/sp/kanji380.html

前にも>>25で延べたように「邪馬臺」は大雑把な地勢的な位置付けを延べたと言いましたが、それをベースに(臺)文字を使われた意味を探れば、中心となる部分の外側に位置する根幹の部分という解釈が成り立つ事を理解捨てください。
三公=皇帝の最重要側近
台=主となる物を乗せる
文字を形成する門の上の高台。

これらはすべて中央以外な重要な部分を示し、地勢的な意味解釈をすれば「門」「入口」「正面」と言った意味に相当します。
ということは一体どういうことか?
0030日本@名無史さん
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2016/09/02(金) 14:01:42.56
ではここでいう倭とはどんな地勢的な位置付けに有るんだろうか、今一度お復習してみよう
後漢書倭伝に【倭在韓東南大海中】と書かれ四方を海に囲まれた島地だということがわかる。そしてここで位置的には韓の東南と位置付けられています。
つまり、韓という地域を基点に倭を眺めれば、
東南のエリアに存在するということ
当然海を挟み離れたしかも地域という面を示すならばエリアという概念を用いての倭在韓東南
の記載。
韓を基点に東西南北と方法を定めれば、そこには自ずと東南、東北、西南、西北といった4つのエリアが発生する(いまでも日本には東北地方や西南諸島が)
現代の地図に照らし合わせても、その正確さには脱帽します。
で、ここに出てくる韓とは
(馬韓)の北に楽浪があり南に倭が位置する地勢に
この場合は地勢を南北だけのエリアで表現してますが、こうすることで
楽浪と韓は南北に配置された地域ということがすぐに理解できる
0031日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/02(金) 14:38:11.34
漢から後漢にかけて遥か東の楽浪郡の南に韓という地域があり更に海を隔てて東南のエリアには倭という地域がある。
その倭地は島地であり、把握するだけでも百余の国がありその中でも三十国は我が王朝と外交関係が続いている。国にはそれぞれ王と自称す
るものがいてまたそれらを束ねる大倭王(リーダー)が存在する
そのリーダーは「臺」の文字からもわかるように倭地の入口に相当する島地に存在し、それを現在の地理で表現すると現在でも大陸からの玄関口と言われてる九州島に

これは
【建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。】
の中の「極南界」という文言とも一致するわけです。
0032日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/03(土) 19:54:13.91
後漢書倭伝には「倭國」という語句がでてくるが、この「倭國」とはいったいなに?
これは

倭地の中でも倭奴とは違い中心部にあり願いは叶わなかったものの『倭国王』の称号を
得た帥升等が住む地
ここでの倭國は倭地の全てを総称しての意味ではなく、倭地の中心的な位置にある
現代の地図で表現すれば洛陽から見て九州島の奥にある本州島をいいます。
大陸からの玄関口的な存在の邪馬臺=倭奴(九州島)に対し、その奥にあり倭地の中心的な位置にある
帥升等(倭國王)が在する倭國
0033日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/03(土) 20:07:44.59
>>32から【倭國之極南界也】を探れば

建武中元二年に奉貢朝賀した『倭奴』とは、倭國すなわち本州の極(現在の下関)の
先にあり本州よりも緯度的に南にあると。つまり倭奴=九州島
0034日本@名無史さん
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2016/09/04(日) 05:39:00.74
倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為る。
帯方郡より倭に至るには、
帯方郡
↓韓国
↓【南】海岸水行7000里
狗邪韓国
↓【南】度海1000里
津島国(方400里、千戸)
↓渡海1000里
一支国(方300里、三千家)
↓渡海1000里
末盧国(四千戸)
↓【東南】陸行500里
伊都国(千戸)※大率が置かれる
↓【東南】100里
奴国(二万戸)
↓【東】100里
不弥国(千戸)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)
↓【南】水行10日・陸行1月
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)→【東】渡海1000里、国あり皆倭種
↓【南】4000里
侏儒国
↓【東南】船行1年
裸国・黒歯国

◎女王国以北
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国
その南に狗奴国あり。男王・卑弥弓呼。その官に狗古智卑狗あり。女王国に属せず。
◎帯方より女王国に至るまで12000里
◎倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施5000里
0035日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/04(日) 20:58:45.93
当時東夷に絶対的な力を有した太守公孫氏による共立された女王卑弥呼も
世が魏王朝となり公孫氏が王朝に対し反旗を翻した時、その絶対的な女王の独裁的な権力も
その足下がぐらつき始めた
一方それまで公孫氏の力とそれを利用した独裁的な卑弥呼の家来的な位置に甘んじてた男王達は
これを好機と公孫氏の衰退とは反比例的に勢いづきクーデターの機運さえ漂わせていた
女王卑弥呼も今の地位を維持しようと難升米や牛利等を景初二年六月急きょ帯方郡に派遣した
公孫氏が滅びようとする僅か二か月前の出来事
0036日本@名無史さん
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2016/09/04(日) 21:16:44.88
太守劉夏は倭女王からの使者を受け入れそれらを洛陽に送り出し、戦わずして倭地を
治める方法を選んだ
司馬懿の公孫征伐片道行軍の100日から考えると使者は九州島から洛陽まで約3ヶ月〜4ヶ月の日数を
用する計算、女王の使者たちが洛陽に到着したのは景初二年の9月〜10月で明帝が病の床につき崩御する実に2ヶ月前という
実に微妙な時期の訪朝となった
0037日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/04(日) 22:56:22.62
ここまでが建武中元二年の倭奴國奉貢から魏王朝明帝が崩御直前までの
ざっとした流れと当時の外交内政事情
0038日本@名無史さん
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2016/09/05(月) 04:44:03.83
443 名前:日本@名無史さん [sage] :2016/03/28(月) 10:19:06.14
>>440>>441
周髀算経と魏志倭人伝の関係は日本測量協会でも取り上げられている

中国の古代測量術と邪馬台国
一寸千里法と行程解釈(邪馬台国所在地論)
日本測量協会
http://www.jsurvey.jp/open260129.pdf
中国の天文・測量に関する古代の教科書に周髀算経と九章算術があります.
緯度決定法、緯線間隔距離の計算、海を隔てた島(山)の高さと距離の測量法、などが述べられています.

A緯線間隔1度が 110km(伊能忠敬は1度 28.2 里と計測)であることを間縄の実測で確かめれば、1寸千里法は北緯 35 度付近では有効な方法です.
経度が異なっても、方位が 30、45、60 度などであれば、周髀算経のピタゴラスの定理から、斜め距離が計算できます.

中国の古代測量術と邪馬台国
地図がなかった古代における測量術を復元
日本測量協会
http://www.jsurvey.jp/open-kansai250703.pdf
古代の測量術と邪馬台国
魏志倭人伝の行程記事について、船や徒歩で実際に旅行しても、知ることので
きない目的地の方位をどうやって知ったか、という問題を発端にして、地図が
なかった古代における測量術を復元する.
記事にある距離は航路や道路の距離ではなく、見通せる地標間の直線距離であった(「山当て」による).
このことを根拠に倭人伝の記事を解釈し直した.
@東は N60E(夏至の日の出方向)、1000 里は約 67km である.
0040日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/06(火) 09:09:27.11
景初二年六月から始まる倭人伝、その時倭からの使者は難升米等と難升米だけが記載されるが、その後に発せられた詔書の中には難升米だけではなく「牛利」が突然のように登場する
これはどうしてか?
0041日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/06(火) 10:20:11.63
牛利の突然の登場は、当時の時代背景を描く為の貴重なアイテムとして陳壽が特別に登場させた。

景初二年六月に難升米等と書かれているので牛利は当然この中のメンバーの一人で有ったこと
はまちがいない
使者が太守劉夏の案内で洛陽に到着したのが二
年の十月頃、明帝が崩御する二ヶ月ほど前の微
妙な時期
倭からの使者は郡の役人に先ずは曹爽(司馬懿
は戦の為留守)の所へ挨拶、そこで謁見の為の
準備。そこで皇帝の状態と次期皇帝齋王芳の事を知る。
そこで慌てた難升米は牛利を倭に帰還させた。これは齋王芳が明帝の次の皇帝になった時の為
の新皇帝へのお祝い謁見の使者を要請するため
だ。倭女王は公孫氏の危機に乗じた男王達のク
ーデターをおさえることと、魏の世でも女王と
して権力を維持し存続に必死だったから
牛利は急いで帰国した。洛陽から倭の往復は早くて半年〜八ヶ月、牛利が洛陽へ戻ったのが明帝が崩御した後の景初三年の夏頃、早速難升米や牛利は曹爽の取り次ぎにより新皇帝となる齋王芳に謁見し無事役目を果たし、後日皇帝より詔書を下された。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/06(火) 10:34:44.48
他の史書の倭伝や日本書紀にコピペされた史書には「景初三年」と書かれているが
それは魏王朝の新(次期)皇帝に謁見し、先ず任を遂行できた時の年号
景初二年は使者が帯方郡を訪れた時


次からは少し魏志倭人伝に書かれている行程記事をざっくりと弄ってみます。
0043倭人伝地理誌
垢版 |
2016/09/06(火) 10:58:45.44
この行程記事はそれほど難解な記事ではではない(なぜ皆ここで躓いているのか意味わからん?)のでザックリと

では先ずは最初に倭人の住んでるエリアの紹介。
【倭人在帶方東南大海之中】と
この時期東夷は帯方郡が機能し太守が統治管轄していたので、基点が帯方郡に
『大海之中』とは四方を海に囲まれた島地という意味
『東南』とは帯方郡を基点に方位を決めると自ずと発生する四つのエリアの一つ。南と東の間にある東南のエリア、郡を基点に東南のエリアに位置する海に囲まれた島地に倭人はすんでいるということ。
普通なら范曄の編纂した後漢書のように「倭在」で十分なんだけど、陳壽はこの伝を人物主体に描きたかったための『倭人在』
0044倭人伝地理誌
垢版 |
2016/09/06(火) 11:39:24.85
【循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里】

『循海岸水行』⇒循海岸とは海岸に沿って。海岸に沿う(平行する)という表現には二通りあり、海岸に沿う陸域と海岸に沿う水域があり、この場合は「水行」と書いてあるので
(海岸を沿うように水域を進む)

『歴韓国』⇒先に書かれた韓伝で定義された三種の住む地域を歴する(経る)


※韓国の海岸に沿うように水域を経て
0045倭人伝地理誌
垢版 |
2016/09/06(火) 11:51:23.04
【乍南乍東】

『乍』=ながら

この場合の「南や東」は、水域を移動する舟の向きや移動方向
「南」とは、進むべき方向や目的ではなく、水域に浮かぶ舟の船首の向き。何も目印のない水域で唯一頼れるのは舟の船首と方位磁石

韓国の海岸を沿い進みやがて韓の地ともお別れいよいよ大海に、大海で頼れるものは舟と方位磁石だけ
舟の船首を南に向けて進むと東へ移動する。つまり大海ではつねに潮流が西から東へ流れているということ。
それが『乍南乍東』の解釈てす。
0046倭人伝地理誌
垢版 |
2016/09/06(火) 12:33:36.32
【到其北岸狗邪韓國七千餘里】

『到』=到着で、着する為の過程とか行程
『其北』=到(行程)した結果の地点の北

つまり、循海岸水行歴韓国乍南乍東をした結果たどり着いた大海中のポイント
そのポイントに着いた舟から北を見る、するとそれまで韓国を経ているときに左手(東)側に見えてた岸は大海にで乍南乍東しているうちに岸が北側に見えるようになっていた。どうやらその岸は狗邪韓国のようだ。
で、北側に狗邪韓国の岸が見える大海のポイントまでの行程は実に七千余里の距離だ
0047倭人伝地理誌
垢版 |
2016/09/06(火) 14:56:56.92
さて、郡から韓に沿っての水行7000余里も北に狗邪韓国の岸が見える大海のポイントで韓域ともいよいよお別れ、大海の中の倭の領域に入ります。

【始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴】

『始度一海』⇒「始」終わりを想定した最初で、これから三度「一海」を「度」繰り返す
つまり、千余里という海域渡海を三度(たび)繰り返す最初の千里。
後の「又南」という語句によって、この渡海が船首を南に向けて潮流に乗った渡海で有ることがわかる。

船首を南に向け潮流に乗り千里すすむと對島国に至る
0048倭人伝地理誌
垢版 |
2016/09/06(火) 15:00:48.79
何度も言いますが、ここで出てくる方位は目的地の方角を示すものではなく、方位磁石が指し示す方向。
0049倭人伝地理誌
垢版 |
2016/09/06(火) 15:19:19.26
大海の中では舟が方位磁石そのもの、船首が南を向けば船尾は北、船首を見て右手は東で左手は西
レーダーもGPSもない当時の航海は、舟で南と言えば船首の向きが南、進む方向とはまた意味が違います。

【又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海、千餘里至末盧國】

『始度一海』
『又南渡一海』
『又渡一海』

最初に「始」と書くことで後の二回の一海の文章に効果し、「度=たび」と書くことで二度目に書かれた「南」の文字が最初に南と書かなくても(南)は生きるわけです。そして三度目の「又」で、ここでも船首を南に向ける千里の渡海が行われたことがわかります。
編纂者として文字数をできる限り減らす工夫であり業ですね。

これで對島(対馬)、一支(壱岐)、末盧(九州島)

いよいよ九州島です。
0050倭人伝地理誌
垢版 |
2016/09/06(火) 15:41:15.44
一万里という長い船旅も終えいよいよ九州島に上陸なんですが、実は倭地への行程記事はここで99%目的は達成しました。この末盧国がある九州島こそ後漢書でいう大倭王の居する倭地の玄関に相当する邪馬臺(九州島)何です。

ここから暫く書き連ねられる伊都、奴、不彌、投馬・・・・etcは九州島内の状況説明で、これ迄の行程記事とは多少意味合いが異なります。
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