【東夷】倭人在帯方東南大海之中.......... [無断転載禁止]©2ch.net
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さ〜、老若男女を問わず紐解けや!
ここは以前あった『倭人伝等を読む』スレを継承するために立てたスレです。 景初二年六月から始まる倭人伝、その時倭からの使者は難升米等と難升米だけが記載されるが、その後に発せられた詔書の中には難升米だけではなく「牛利」が突然のように登場する
これはどうしてか? 牛利の突然の登場は、当時の時代背景を描く為の貴重なアイテムとして陳壽が特別に登場させた。
景初二年六月に難升米等と書かれているので牛利は当然この中のメンバーの一人で有ったこと
はまちがいない
使者が太守劉夏の案内で洛陽に到着したのが二
年の十月頃、明帝が崩御する二ヶ月ほど前の微
妙な時期
倭からの使者は郡の役人に先ずは曹爽(司馬懿
は戦の為留守)の所へ挨拶、そこで謁見の為の
準備。そこで皇帝の状態と次期皇帝齋王芳の事を知る。
そこで慌てた難升米は牛利を倭に帰還させた。これは齋王芳が明帝の次の皇帝になった時の為
の新皇帝へのお祝い謁見の使者を要請するため
だ。倭女王は公孫氏の危機に乗じた男王達のク
ーデターをおさえることと、魏の世でも女王と
して権力を維持し存続に必死だったから
牛利は急いで帰国した。洛陽から倭の往復は早くて半年〜八ヶ月、牛利が洛陽へ戻ったのが明帝が崩御した後の景初三年の夏頃、早速難升米や牛利は曹爽の取り次ぎにより新皇帝となる齋王芳に謁見し無事役目を果たし、後日皇帝より詔書を下された。 他の史書の倭伝や日本書紀にコピペされた史書には「景初三年」と書かれているが
それは魏王朝の新(次期)皇帝に謁見し、先ず任を遂行できた時の年号
景初二年は使者が帯方郡を訪れた時
次からは少し魏志倭人伝に書かれている行程記事をざっくりと弄ってみます。 この行程記事はそれほど難解な記事ではではない(なぜ皆ここで躓いているのか意味わからん?)のでザックリと
では先ずは最初に倭人の住んでるエリアの紹介。
【倭人在帶方東南大海之中】と
この時期東夷は帯方郡が機能し太守が統治管轄していたので、基点が帯方郡に
『大海之中』とは四方を海に囲まれた島地という意味
『東南』とは帯方郡を基点に方位を決めると自ずと発生する四つのエリアの一つ。南と東の間にある東南のエリア、郡を基点に東南のエリアに位置する海に囲まれた島地に倭人はすんでいるということ。
普通なら范曄の編纂した後漢書のように「倭在」で十分なんだけど、陳壽はこの伝を人物主体に描きたかったための『倭人在』 【循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里】
『循海岸水行』⇒循海岸とは海岸に沿って。海岸に沿う(平行する)という表現には二通りあり、海岸に沿う陸域と海岸に沿う水域があり、この場合は「水行」と書いてあるので
(海岸を沿うように水域を進む)
『歴韓国』⇒先に書かれた韓伝で定義された三種の住む地域を歴する(経る)
※韓国の海岸に沿うように水域を経て 【乍南乍東】
『乍』=ながら
この場合の「南や東」は、水域を移動する舟の向きや移動方向
「南」とは、進むべき方向や目的ではなく、水域に浮かぶ舟の船首の向き。何も目印のない水域で唯一頼れるのは舟の船首と方位磁石
韓国の海岸を沿い進みやがて韓の地ともお別れいよいよ大海に、大海で頼れるものは舟と方位磁石だけ
舟の船首を南に向けて進むと東へ移動する。つまり大海ではつねに潮流が西から東へ流れているということ。
それが『乍南乍東』の解釈てす。 【到其北岸狗邪韓國七千餘里】
『到』=到着で、着する為の過程とか行程
『其北』=到(行程)した結果の地点の北
つまり、循海岸水行歴韓国乍南乍東をした結果たどり着いた大海中のポイント
そのポイントに着いた舟から北を見る、するとそれまで韓国を経ているときに左手(東)側に見えてた岸は大海にで乍南乍東しているうちに岸が北側に見えるようになっていた。どうやらその岸は狗邪韓国のようだ。
で、北側に狗邪韓国の岸が見える大海のポイントまでの行程は実に七千余里の距離だ さて、郡から韓に沿っての水行7000余里も北に狗邪韓国の岸が見える大海のポイントで韓域ともいよいよお別れ、大海の中の倭の領域に入ります。
【始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴】
『始度一海』⇒「始」終わりを想定した最初で、これから三度「一海」を「度」繰り返す
つまり、千余里という海域渡海を三度(たび)繰り返す最初の千里。
後の「又南」という語句によって、この渡海が船首を南に向けて潮流に乗った渡海で有ることがわかる。
船首を南に向け潮流に乗り千里すすむと對島国に至る 何度も言いますが、ここで出てくる方位は目的地の方角を示すものではなく、方位磁石が指し示す方向。 大海の中では舟が方位磁石そのもの、船首が南を向けば船尾は北、船首を見て右手は東で左手は西
レーダーもGPSもない当時の航海は、舟で南と言えば船首の向きが南、進む方向とはまた意味が違います。
【又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海、千餘里至末盧國】
『始度一海』
『又南渡一海』
『又渡一海』
最初に「始」と書くことで後の二回の一海の文章に効果し、「度=たび」と書くことで二度目に書かれた「南」の文字が最初に南と書かなくても(南)は生きるわけです。そして三度目の「又」で、ここでも船首を南に向ける千里の渡海が行われたことがわかります。
編纂者として文字数をできる限り減らす工夫であり業ですね。
これで對島(対馬)、一支(壱岐)、末盧(九州島)
いよいよ九州島です。 一万里という長い船旅も終えいよいよ九州島に上陸なんですが、実は倭地への行程記事はここで99%目的は達成しました。この末盧国がある九州島こそ後漢書でいう大倭王の居する倭地の玄関に相当する邪馬臺(九州島)何です。
ここから暫く書き連ねられる伊都、奴、不彌、投馬・・・・etcは九州島内の状況説明で、これ迄の行程記事とは多少意味合いが異なります。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 「水行」とは、水面上を移動することであって、潜在的可能性としては川でも海でも湖でも良い。
ただし時代によっては慣習的制限がなかったとは言えない。
古代中国文明は黄河中流域に発祥し、西晋時代までその中心は海から離れていた。海のことは長
く中国人の親しむところではなかった。かつては川を呼ぶのに河水・漢水・淮水などと「水」を
接尾したように、地形について「水」と言えばまずは川を指した。だから普通に「水行」とだけ
言えばそれは川を下るか上るかすることを示したはずだ。海について「水行」を使った陳寿の頃
までの例としては、《魏志・東夷伝》の
從郡至倭,循海岸水行,歷韓國
と、裴松之が引用した《魏略》の、
澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,水行半歲,風疾時一月到
というのがあるが、どちらも海であることが明らかに分かる文脈に置いている。読者が「水行」
から川を想起することを避けようと注意したことが窺われる。単に「水行」とあれば川のことだと
思うのが普通だったとすれば、邪馬台国までの「水行」は川船に乗ったことを言っている蓋然性
が十分に高い。末廬国から邪馬台国までは地続きだということになる。
http://kodakana.hatenablog.jp/entry/2015/10/22/001623 倭人の住む地域は島地でしかも【依山島爲國邑】と書かれた環境
もしこれが行程記事として続くのであれば九州島(邪馬臺)での移動も下船することなく
舟で沿岸を移動したほうが安全だし楽だし便利。
それなのに末盧國からは
【又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒
水無深淺皆沈沒取之東南陸行五百里到伊都國】
引き続き舟による循海岸水行ではなく陸地を意識させる『陸行』と
しかも移動するであろう道は『草木茂盛行不見』とかなりの悪路
つまりここの『東南陸行五百里到伊都國』の記事は陸路で伊都國までの行程記事ではなく
先ずは最初に辿り着いた九州島の末盧國の地勢。
『東南陸行五百里』→これは東南方向に五百里陸を歩行するのではなく、ここも最初に書かれた【倭人在帯方東南】の『東南』と同じ
解釈の仕方で、舟で辿り着いた末盧國の港を基点に南と東の方位を定めた時に発生する
エリアという概念
つまり末盧國のエリアは南へ五百里、東へ五百里の間に発生する東南のエリア、これが末盧國域
そしてその先に【郡使往來常所駐】する伊都國が末盧國とは地続きであるということ
『到伊都國』の「到」は、先にも述べたように『(到)其北岸狗邪韓國』の時と解釈は同じ
始度一海から始まる三度の千余里の渡海(三千里)と末盧國五百里エリアまでの過程の結果 >>50でも書いたように行程記事としては末盧國の港に到着した時点で99%で、残り1%が末盧國のエリア紹介
末盧國の陸域を書くことで取り敢えずの目的となる伊都國が自ずと末盧國の隣の陸続きになることがわかる。
伊都国なんて九州島にあって陸路であろうが海路で有ろうが行ける場所、それを敢えて『陸行』と記載することで単なる行程記事に味付けした編纂者の仕事 行程記事は九州島は末盧國に至り完結、この後は地続きとなる九州島内の各エリア紹介
末盧國の上陸地を基点に五百里の東南エリアの外側に伊都國。先にも述べたように九州島は沿岸航行できる島地、末盧國で東南エリアを示したことにより伊都國は自ずと末盧國から五百里離れた東方に位置するエリアだとわかる。
【東南至奴國百里】
やはりここでも末盧國と同じ東南エリア
伊都国がどのくらいの面積かは記されていないが、伊都国とは地続きの東隣に百里程度の奴國があると。
ここまで末盧國は基点から東南にエリアを設定しその他東隣に伊都國を指定、伊都國からまた東南のエリアに奴國を設定と、ここまでは常に北は大海を意識しての西から「末盧國→伊都國→奴國」の並びを紹介。 ここでちょっと寄り道。
ここでちょっと末盧國と奴國の人口密度に注目してみよう!
末盧國⇒面積は基点となる港から南に五百里、東に五百里のエリア、そこに四千余戸
奴國⇒面積は基点から南に百里、東に百里のエリア、そこに二万余戸
この人口密度の差はシンガポールとオーストラリア程の差が。この比較からも末盧國は面積ばかり広く人はまばら、後は記事にも有るようにブッシュ地帯
一方奴國は狭い土地に人が大勢暮らすまさに古代の大都市、暮らしの中心的な地域
こんなことがわかります。 そしてもう一つ。
地理記事をざっと眺めただけでもここに記載されてる方位は一度だけ「以北」があるだけで後は「南と東」だけ
「西」という方位は一度も記載がありません。
つまりどういうことかと言うと
最初に九州島に上陸した末盧國は九州島の中でも西側の地域だということ。それ以外の地域は全て末盧國よりも東側に有ることがわかります。
韓の領域から離れ倭人の領域に入ってから船首を南に向け西からの潮に流されながら千里の渡海を三度、そして九州島の末盧國に。
その末盧國は九州島のなかでは最も西側に位置するエリアだった。末盧國はブッシュが生い茂りまともな道も皆無な人も疎らな質素な土地。
末盧國の東隣には末盧國と同じく北側に海が広がる伊都國があり、大陸から来た者はこの伊都國までがビザなし入国可能な地域
そして更に伊都国の東隣には九州島内で一番の賑わいを持つ、現在でいう博多のような地域奴國が有る。しかしここには行政的な匂いを一切記載していない。政治的や行政的な匂いはどちらかと言うと伊都国がその匂いを強烈に放っており
伊都國と奴國は伊都に行政、奴に商業と色分けされた地域作りに
きゅうしゅう 【東南陸行五百里到伊都國】
【東南至奴國百里】
【東行至不彌國百里】
この三つの文章をならべるとわかるように奴國の紹介記事だけ「行」の文字がありません。
これは先ほど述べたように伊都國と奴國は役割の異なる同一地域だということ
伊都國と奴國の間に入国審査や通関を設けての
地域だから「行」を書かないことで機能の違いを記したやはり編纂者の業。
そしてもう一つ興味深い記述が、この不彌國の記述。ここは末盧國や奴國とは違って「東南」ではなく「東行」と、エリアを四分割ではなく東西だけで区分してきたこと。これまでは北に大海を意識した東南エリアとしての記載がここで急に海を意識しない東西区分に。
これは島地に於いての地勢の変化と考えられるでしょう。 ここまでの記述でこの九州島は西からの末盧國、伊都國、奴國、不彌國と地域が存在していることがわかる。そして先の三国の北には島地らしく海が広がる。
しかし不彌國の北に海は広がらず不彌國以外の地域が陸続きであることを示唆している。
これが地形の変化を文章で示す編纂者の業の一つ。 最初の上陸地点となった末盧國は九州島の西側に位置し、北と西側は海(南はこの時点でまだわからない)。伊都國や奴國の東西は陸続きで北は海(南はやはりこの時点ではわからない)
。不彌國は西側と北側は地続きで、東側と南側はこの時点ではまだ不明という設定を基に
【南至投馬國水行二十日】
どうやらこの九州島は南側にも地が続いているようで、そこには投馬國という戸数も五万という住宅地が有るようだ。
その地はこの九州島を水行すること二十日のところに有るようだ。
ここでいう『水行』とは先にも歴韓国のところで使われた循海岸のこと、九州島の海岸に沿ってのの航行、間違っても九州島内の川を上ったり下ったりのトンデモはやめてね!
しかし西も北にも陸続きの不彌には海もなければ当然港もない。ではこの水行二十日の起点となる港はどこ?
それは入国審査や通関と言った行政期間のある
伊都國の港がこの水行二十日の起点となることが容易にわかる。で、その伊都の港を出た舟はいったいどの方向へ?西か?東か?
その舟は当然のように海岸に沿って西(末盧國方面)に進みます。
既に末盧國は北も西も海で有ることがわかっているのでわかっているのでそれらの方向に
末盧國の北側から西側の海岸に沿った舟はやがて東へと進路を変え、不彌國や奴國ので『南至』に相当する位置まで東に入り込みます。
つまり、伊都国の港を発した舟は末盧國の北側、西側、南側と通り【⊂】このようなコースを経て『不彌國の南至』に相当する投馬國へ
これで不彌國の北も南も陸続きで、南にには投げ馬國が有ることがこれでわかります。 >陸行1月についてまとめ
>畿内説
>@河内湾→奈良 35km 1.5km/日
>A舞鶴→奈良 120km 4km/日
>九州説
>@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日
>A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日
>B有明海→熊本 60km 2km/日 これが往来する郡使達の旅日記なら不彌國から
南の投馬國へはわざわざ伊都国迄戻っての航行なんて間違ってもしない
不彌國から投馬國までは陸続きの隣国なんだから当然の陸行。
それを敢えて水行として記載したのは、これが旅日記ではなく倭地九州島の地勢を記録した地理誌だという一つの証明で、ここに記載されている日数も全てが換算できる距離だということです。
九州島を循海岸水行することで、その地域の地勢の変化をより詳しく表現することができるか
らです。
水行なのは舟でしか行けない場所だからではなく表現の工夫、舟でしか行けない場所なら先にも書かれた『渡海』という表現になります。
倭地が大海の中にある島地だからこそ水行(循海岸)という表現は利用するのに大変便利なんです。 ここで認識の再確認
島地の最大の特徴は、周囲を全て水域で囲まれ循海岸することで、それが水行であれ陸行であれ一周し元の位置に戻るのが島地。
単純なことなんだけど意外と無視されてるのが現状。 さて投馬國の九州島での地理的な位置もわかり
いよいよ皆が一番興味を示す文章が、しかしその前に、
伊都國の海に面した港を起点とし投馬國を終点とした循海岸によ水行二十日は九州島を半時計回りに西側を行く航行。
それを前提に
【南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月女王之所都】
これもそれほどムズイところではなくこれまでのことを十分把握さえしていれば簡単にわかります。
『南至』⇒つまり投馬國の更に南も陸続きな九州島、そこにはこの九州島を治める女王の住んでる都があるという記事
投馬國から九州島の西側を循海岸で水行十日の距離。ここで水行から陸行への突然のオペレーションの変更、これは一体何を意味するのか?
そう、これが島地を巡る特徴の一つでもある折り返しの妙味。南へ下っものは周回で必ず北へ上る行為に変化する折り返し、九州島が島地である以上これを避けて表現することは出来ません。
つまりこの水行から陸行の変化こそがこの九州島周回の折り返しポイントなのです。
伊都国から水行二十日で投馬國、更に南へ水行十日。ここまでの水行三十日が伊都国を起点に九州島の西側を半時計回りに循海岸した距離、伊都国を九州島の北とするとこの水行三十日を経たところが九州島の南端、ここからは九州島の東側を循海岸し一月ほど北上します。
これが水行から突如陸行と変化した理由です。
島を折り返すことで方向が真逆になることを、この
「水行と陸行」によって表現したまでです。実際に何でなんて関係ありません。
水行きしようが陸行しようが、一日の移動距離は同じ。
水行一日=陸行一日です。 この倭人のそしてこれらを統括する女王の都のある九州島は、伊都国の港から半時計回りで海岸に沿って三十日(一月)水行し、伊都の真逆にある南端の折り返しまでの距離と
その折り返しから今度は九州島の東側の海岸を陸行すること同じ距離で女王の都する所に
つまりこの女王の都する所は、九州島の東側にあるという証明に。
そしてこの投馬國の南のエリアもまた邪馬壹ということ。
で、女王の住む都とはいったいどの辺?
結論から先に言えば緯度的に不彌國の東側。
女王の居る所の反対側(西側)に有るから「不
彌國」
要するに、この九州島は一番西に末盧國、その東に(伊都國&奴國)そしてその東に不彌國、更にその東に女王国(女王の都)そして東側に海。という東西のライン。
そのラインの南は、西側に投馬國、東側にに女王國。更にその投馬國(狗奴國)や女王國(狗奴國)の南には『狗奴國』が狗奴國もまた邪馬壹國の一部。
なぜここで狗奴國が登場するかは後程説明。ここではあくまでも便宜上必要なために。 ということで>>66を前提に
【自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳】
『自女王國以北』とは、
女王國の中にあって女王の居する都を基点にその北側。
つまり、緯度的に不彌國と女王の住む都を結ぶ東西ラインの北側で、>>60の不彌國の北側にも
陸続きの地域があるといったその地。
『其戸數道里可得略載』→その以北の地は道里など直ぐにわかるので其部分は敢えて掲載しないで略すと
『其餘旁國遠絶不可得詳』→この部分は今扱わなくてもそれほど影響ないので後日 その戸数や道里等を記載しないでも理解できるとする、九州島の中にあって緯度的に
不彌國→女王の居する都ライン以北の地には
【次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國
次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國
次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國】
と、最後の奴國を除き二十國の諸国が列記されている。
この最後に『奴國』を記載することで、伊都国の港を基点に反時計回りに九州島をぐるりと一周した
ことが示される。
【此女王境界所盡】
そしてここに記載された(不彌國→女王の居する都)ラインの以北にある諸国二十国は
女王の支配するところであって、この九州島の一番北に位置する地域ということ この【此女王境界所盡】の『境界』は【其餘旁國遠絶不可得詳】この一文に掛り
女王の影響が尽きる(隔てるものは海)九州島の北の先には、魏王朝と国交していない
旁國(傍ら)があるが直接的な付き合いがないのでこの地域に関しては詳細は不明。
【其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里】
『其南』とは
末盧國から東へ(伊都國・奴國)、そして不彌國、女王の住む都を結ぶ東西ラインの南側という意味
つまり、これまでに紹介してきた
「投馬國」「女王の都以南の女王国」さらにその南の「邪馬壹エリア」と記載された最南端の国
それらの地域は狗奴國だと。
【自郡至女王國萬二千餘里】とは
郡港から末盧國の港までが⇒ 一万余里
末盧国の基点となる港から東エリア⇒ 五百里(到伊都國)
(一万二千里)−(一万五百里)=(千五百里)
この千五百里が女王都〜奴國(諸国二十国が納まる)の距離 中国の史書「魏志倭人伝」が記す伊都いと国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、
国内最古級の硯すずりの破片(弥生時代中期後半〜後期=紀元前1世紀〜紀元後2世紀)が出土
した。朝鮮半島にあった中国の出先機関・楽浪郡らくろうぐんから日本に渡来した使節が、筆で
文字を書くために使用したものとみられ、わが国の文字文化受け入れの起源を考えるうえで重要
な手がかりとなる。
倭人伝は伊都国について、「往来する郡使が常に駐在する所」と記し、「(伊都国の)港で贈答
する文書や品物の検査を行う」と、文字の使用を示唆する記述もある。市教委は、今回の硯は倭人
伝の記述を裏付けるものと評価している。
読売新聞 2016年03月02日
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20160302-OYS1T50000.html
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50000-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50001-L.jpg 【正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國】
新皇帝の名のもとに郡から正式に使者が送られてきた。返礼もさることながら目的は冊封する
倭地の調査。
それまでは後漢時の記録だけで知るだけで、魏王朝となってからは初の現地訪問。改めて後漢時の記録の再調査をすることに
その時の調査で様々な事がわかり
地勢として九州島の規模は、周囲(水行・陸行)で2ヶ月と千五百里。その島の中には對島と一支を除き二十七に分かれる地域の存在を確認 二十七の地域といってもこれは編纂者として編纂する上での陳壽の創り出した便宜的な世界。
しかしここでそれを述べても先に進まないので、そのことにはあまり触れないようにしよう。
そして>>69で「投馬國」「女王國」「最南端の邪馬壹エリア」に「狗奴國」をダブらせてみたが、これは地勢ではなく政治的な意味合いでの色分け、このダブりこそがこの地域の内政の根幹。とても大事なことなんです。
後に語るであろう、女王卑彌呼と男王卑彌弓呼
との確執とそれに絡む各王達の苦悩。そして宗主国魏王朝への義。
陳壽が『邪馬壹や狗奴國』と書いたのを知りながら
范曄はそれを『邪馬臺や拘奴國』とした謎
倭人伝はますます面白味を広げます。 では地理誌を続けます
【女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。】
『女王國』⇒位置的に九州島の東側にある地域で、現在の地名で大分県から宮崎県 『女王國東渡海千餘里』⇒地理的に現在の豊後水道を渡り四国へ
『復有國』⇒「復」と書いてあるので、四国へわたっても政治的に女王國と同じような地域だと。つまり、九州島と四国は同じ政治的環境のエリアだと(冊封三十国の内)
『又有』⇒四国の他に女王國と同じ政治的環境の地域が有る
『又有侏儒國在其南』⇒その女王國と同じ政治的環境の地域とは「侏儒國」といい、その侏儒國の南には四国が 【去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。】
ここで『去女王四千餘里』と締めているので、女王國と政治的に同じ(魏王朝冊封三十国)は
、四国と侏儒國まで。
『又有裸國黒齒國復在東南』
『又有』⇒この視点は侏儒國、侏儒國から見て。又有とは倭種の住む地域
『東南』⇒侏儒國を基点に東南のエリア
侏儒國(淡路島)を基点に東南のエリアにはやはり倭種の住む裸國や黒齒國がある。 【又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。】
侏儒國を基点にその東南のエリアには、四国と同じく倭種が住んでいたが、彼らは女王の支配するエリアとは異なる政治体形だった。
その先は船で一年を要し参問(探索)、遂に後漢時には探索できなかった倭地の極み『周旋』に、その地は現在でいう北海道。後漢時には探索できなかったこの地を魏時になって新たに訪れることが出来た。その規模「可五千餘里(」 新たに探索した北海道の規模は『可五千餘里』
『可』⇒この文字の意味は見ての通りで、四角の二辺に曲尺をあてる。つまり、面積の測量(範囲の把握)
北海道という新たな地域の範囲を把握すると、半分で五千餘里の数値を得る。
その突端はこれまでに把握してきた倭地(日本列島)のちょうど折り返し地点でもある。だから『周旋』 >>74に誤りが有ったので訂正します。
【又有侏儒國在其南】
『又有』とは、女王國東と皆倭種にかかる
つまり、女王國の東側には「復」とする地域と「復」としない地域が有る
そして侏儒國はその「復」としない地域の南にあった。 陳壽は【倭人在帯方東南】
陳壽の作品見ている范曄は【倭在韓東南】と書いた。
なぜ范曄は後漢時に存在した「楽浪」ではなく帯方よりも更に南を基点としたのだろうか?
その答えが、後漢時代には探索の出来ずに魏の時代になって更に北の「周旋可五千餘里」に相当する北海道の追加記事。
范曄は東南のエリアを示す基点を帯方郡よりも南へ下げることで後漢時代までの把握範囲を示したわけです。
後漢王朝は倭地域の把握は本州最北端までだが、魏の時代になって更にその範囲は北に広がり北海道もその範囲に それまで邪馬臺組の舎弟頭だった卑弥弓呼は、本部のどさくさで動揺している卑弥呼親分を引退させ
邪馬臺組の組長になるクーデターを計画していた。それを察した組長卑弥呼は至急子分を本部へと走らせ本部の力を借りてこの危機を乗り越
えようとした。
子分が本部へと着くと本部の組長は明日をも知れぬ病に倒れ、代がかわろうとしていた。
やがて先代が亡くなり新しい組長が誕生し邪馬臺組の組長は使いの難升米や牛利共々、本部の新しい代になった芳親分から盃を受けることができた。 正始元年、本部の親分としてデビューした芳皇帝は倭に子分の太守弓遵を倭に派遣し
邪馬臺組の親分(姐)からの就任祝いの義理を新会員の内部調査を兼ねて果たした。
邪馬臺ではその義理掛けに対し親分(姐)ではなく舎弟頭がその対応にあたり、その時舎弟頭は
本部の使者になにがしかの書付を託した。
舎弟頭(男王卑弥弓呼)は正始四年に元年の返礼として魏本部に卑弥弓呼子分の伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣した
本部では組長ではなく舎弟頭からの返礼に疑問を持ち、改めてその使者たちに舎弟頭ではなく親分に忠誠することを
命じた。
掖邪狗等七人は本部からの命令に従うことを約束したが、伊聲耆はそれに了承せずそこで殺された
忠誠を了承した掖邪狗等七人は本部から役職をもらい帰還した。 【其六年、詔賜倭難升米黄幢】
正始四年の様子で倭地の現状を察した魏本部では難升米を呼び出し本部の代紋を授け倭地での安定化を命じた。
【其八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和】
正始八年には本部の人事移動によって東夷統括部長に王キが就任した。王キは早速代紋を授けた邪馬臺組の現状を把握するために子分を現地に派遣した。
子分からの報告によると、邪馬臺組は現組長卑弥呼とその舎弟頭の卑弥弓呼が組を二分するよ
うな体制で、この両者の対立は今始まったわけじゃなく古くから対立関係にあった。 【遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之】
本部から授かった代紋の効果もむなしく邪馬臺組の派閥争いは益々ひどくなり、遂に邪馬臺組から若衆の二人が郡に
事態の深刻さを察した郡ではいよいよ本格的に本部から塞曹掾史張政を、張政は邪馬臺に赴き
難升米に上意を示しこの混乱を鎮めた。
【卑彌呼以死】
当然この混乱の責めは組長の卑弥呼に及び、卑弥呼とその若衆頭でもある難升米は張政からの沙汰を受けた。
卑弥呼と難升米は切腹。その他多くの子分達にも死罪が申し渡された。 【更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人】
邪馬臺組の卑弥呼組長が切腹し事は取り敢えず落ち着き、改めて組長として舎弟頭の卑弥弓呼を跡目として邪馬臺組を任せた。
しかし卑弥弓呼では組は纏まらずシマ内は乱れたので張政は本家から若干十三歳の人(壹與)を招き卑弥呼一家の跡目とし、邪馬臺組を卑弥弓呼の跡目として任せお家騒動はなんとか収まった 【壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。】
新しく邪馬臺組の組長となった壹與は役目を終え帰還する張政と共に難升米の後任に若衆頭になった掖邪狗等二十人等を洛陽の本部へ送り出した。
張政はそれらの使者を臺(時期
晋朝の祖となる司馬懿の所)へ連れ
目通りさせた。 中国の史書「魏志倭人伝」が記す伊都いと国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、
国内最古級の硯すずりの破片(弥生時代中期後半〜後期=紀元前1世紀〜紀元後2世紀)が出土
した。朝鮮半島にあった中国の出先機関・楽浪郡らくろうぐんから日本に渡来した使節が、筆で
文字を書くために使用したものとみられ、わが国の文字文化受け入れの起源を考えるうえで重要
な手がかりとなる。
倭人伝は伊都国について、「往来する郡使が常に駐在する所」と記し、「(伊都国の)港で贈答
する文書や品物の検査を行う」と、文字の使用を示唆する記述もある。市教委は、今回の硯は倭人
伝の記述を裏付けるものと評価している。
読売新聞 2016年03月02日
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20160302-OYS1T50000.html
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50000-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50001-L.jpg >>74
倭は東南の大海にあるから邪馬台国が南なら倭種は東にしただけだろう。じゃないと倭は東南に位置しなくなる。倭人伝の位置の記述は初めて海を渡って対馬から始まり、黒歯国が一番遠い。全て東南に沿って。 >>87
倭=日本列島(後漢書でいう倭は北海道を除く)
列島から最北の北海道を除くから
東南の基点が陳壽の帯方郡からその南に位置する韓に。
そしてここは南東じゃなく東南なのがミソだし編纂者の技ありなのよ。
邪馬台国は倭地の中にあって、その倭地の地理的に中央ではない玄関口に相当する一地域
だから邪馬(臺) そして「臺」続きてもうひとつ
壹與が張政とともに遣使二十人を派遣し皇帝(朝廷)ではなく臺に詣でた「臺」、これも同じ玄関口という意味
皇帝(朝廷)の玄関口である三皇に先ずは目通
り
臺に詣でるなんてこの文章内では新しいパターン 伊都国、奴国は東南じゃない。陳寿の地理感覚はたかが知れてる。 >>90
貴殿の認識不足なだけ
確かに東南じゃなく南東と陳壽が語っているなら地理感覚を責めることもありだが
陳壽が語っているのは方位ではなくエリア。 女王国の東、海を渡って〜倭種ありとあるが、南に狗奴国があるから東にしただけだよ。南がダメなら東って事で。 もし末盧国の港から南東の方角に五百里進んだところに伊都国が有るのなら
東南陸行五百里到伊都國じゃなく
南東陸行五百里到伊都國。
これなら万人が認める伊都国南東物語だよ
東南陸行五百里は、末盧国の港を基点に東南に陸続きで広がるエリアでその範囲は五百里。
そのエリア先に伊都国のエリアが
伊都国は末盧国と同じように九州島の島内でしかも末盧国の隣国、末盧国同様北に海がある地。
つまり、伊都国は末盧国の東隣。 末盧国の港は呼子あたりに一つはあると思うんだが、末盧国の中心部は松浦川を少し登った千々賀あたり。四千戸ならこのあたりじゃないとダメだな。ここから伊都国に歩きなら北東になる。魏使の報告書は適当。 >>92
意味わからん
もう一度原文読んでミソ
女王国、現在の大分から宮崎。そこから東へ千里渡海すると現在で言うと四国があってその四国は倭種の住む地域
後漢時代には不属女王な地域だったが、魏時になると「復」と有るように、倭種では有るけど女王国と同じ政治状況に >>94
>末盧国の港は呼子あたりに一つはあると思うんだが、末盧国の中心部は松浦川を少し登った千々賀あたり。
対馬海流に流されて、末盧国=呼子・松浦川は有り得ない。 >>95
裸国 黒歯国も復だよ。船で一年かかるけど、ここも女王国と同じ政治状況なの? >>94
思う必要もないし想像する必要もない、ましてや末盧国の中心部なんて探る必要もない。
末盧国に必要なのは最初に上陸した基点となる
港だけ。
伊都国は末盧国の東隣。北東でも南東でもない
北に海を持つ末盧国の東隣の地域。 >>96
往路は流されることはあり得る。しかし復路もあるからね。壱岐から呼子までの間にも島がある。壱岐の南端西側から呼子に向けて出航するとたぶん大丈夫。 >>97
その「復」は先の「復」とは掛かる文が違うだろ >>99
旅行雑誌じゃないんだから往路復路なんてどうでもいいこと 潮の流れがあるから、往路復路で出発点も到着点も違ってただろうな 秀吉がどうして肥前名護屋に名護屋城を建てたんだろうなあ。 >>106
サンスクです。
訪れる人がこんなレベルならこちらから隔離スレを望みたいくらいです。
お心遣いかんしゃします。 >>97
先の「復有國」の(復)は政治的に女王国と同じ倭種
ここの「復在」の(復)は倭種で、女王国とは関係ない
裸国や黒歯国はもとより、この先船で一年の範囲も倭種の住む地域だということ
当然政治的に女王国と繋がりはない。 >>108
復(また)国ありて。って読んでた。違和感は感じない。 >>109
流石に「復有(国)」はないし、違和感は覚えるものだから感じない。 >>73
文章の切り方が違う
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺
去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
だな、女王國東渡海千餘里 と 去女王四千餘里
復有國 皆倭種 と 又有裸國 黒齒國
又有侏儒國在其南 人長三四尺 と 復在其東南 船行一年可至
が対になってる。 >>111
対になんてなっていませんよ
だいたい対にする必要性がない >>111
違うぞ、以下の3とおり
「女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種」
「又有侏儒國在其(復有國皆倭種)南 人長三四尺 去女王四千餘里」
「又有裸國・黒齒國 復在其(有侏儒國)東南 船行一年可至」 【女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里】
女王国の東の海を渡ること千餘里に、(復)とする地域がありこの地域はみな倭種。
(復)とは政治的に女王国と同じ魏と通じる地域
(又)侏儒國あり。
ここで又とあるので、前文の(復)とする倭種の地域も侏儒國だということ
位置的に女王国の東には海があり、その東には(復)とする侏儒國A地域が、
そしてその東には海を隔てて侏儒國B地域があるということ
『又有侏儒國在其南』
そして侏儒國Aは、その侏儒國Bの緯度的に南に在るということ
皆倭種で女王国と同じ魏と外交関係にある侏儒國Aと侏儒國Bは、海を挟んで東西そして南北
つまり、侏儒國Bは侏儒國Aからみて北東、侏儒國Aは侏儒國Bから見て南西に位置する。
『去女王四千餘里』とは
その侏儒國Bから女王までは四千餘里。
ここで面白いのが「去」と女王国じゃない「女王」。これが読めないとここはまったくチンプンカンに 【又有裸國・黒齒國 復在其東南 船行一年可至】
(又=侏儒國Bの海を隔てた所)に裸國や黒歯國がある。
(復=さらに)(其=侏儒國B)を起点に東南に舟で一年ほどのエリアがある
侏儒國A=四国
侏儒國B=淡路島
裸國・黒齒國・船行一年可至=本州 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 さぁー、昨日の>>114の続き「去」と「女王」
を
【去女王四千餘里】
『去』→それまで女王国を基点に東へ東へと移動し侏儒國Bへと
それを今度は侏儒國Bを起点に西へと視線を戻すという意味
この「去」は後に范曄も後漢書倭伝の中で【樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里】
そして「女王」
これは『自女王国』と同じ意味で、女王国という範囲ではなく、女王国の中にある都(女王の住む都=京師)
つまり、視線を戻し侏儒國B(淡路島)から西にある女王の都までは四千餘里
この事から海を渡った距離千里を引くと、侏儒國A(四国)は、西から東までざっと三千里。
そして女王の都と侏儒國B(淡路島)は緯度的にほぼ同じということもわかるわけです。 【國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史】
『國國有市』→民間レベルの交流
『大倭』→倭に対する大倭。大陸の王朝と正式に繋がりの有る「倭」に対し、規模が遥かに大きくても正式に政治レベルでの付き合いのない「大倭」
『交易有無使大倭監之』→ここは切らないで一気に。
大倭が大陸の王朝への政治的な朝貢が行われているかいないかを監視する。
『自女王国以北特置一大率』
(自女王国)→女王の都=京師
(自女王国以北)→斯馬國〜烏奴國の諸国二十国
(特置一大率)→特殊部隊を特別に置く
つまり、
大倭の大陸への動きを監視するために、響灘に
面する諸国に特殊部隊を配置する ここにもシヨウマッセツ妖怪が出ている。恐ろしいことだ。 本当の古代史
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
辰州、奉国軍、節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世勣攻破蓋牟城、即此。
渤海改為蓋州、又改辰州、以辰韓得名。
高句麗の蓋牟城は遼寧省撫順市に比定されており、その位置は鞍山市の北東である
帯方郡(4900戸)=営口市、半径5km
あとは魏書韓伝にそってならべる
多婆那國=倭国(大連)東北1千里=中朝国境の卒本地方
好太王の碑文にある倭、百残、新羅の位置=遼寧省から鴨緑江の下流域
倭の五王が南朝に派遣した倭国使は靴をはいていない
通説(痛説)では裸足の集団に広域大戦争をさせてしまった
「西暦391 - 412年」中に、「倭」は「高句麗」と「鴨緑江」にて職貢図によれば「裸足」で戦わなければならない
のちに坂上田村麻呂の東北遠征が西暦800年に行われ、異民族風のアテルイが捕まえられる
何なんですかこの古代史!順序が逆ならまだしもなぜこうなるの
西暦400年に鴨緑江を攻め、その400年後に東北地方を攻めるのは不自然だ
この時点で倭=日本列島説はアウト
そもそも日本列島は韓と界接していないので最初からアウト
2重の意味で倭=日本列島説はアウト
http://i.imgur.com/9GXhZ3N.jpg
http://i.imgur.com/zVOyZ0J.jpg
http://i.imgur.com/jgCdJPf.jpg 西暦400年代、倭、百済、新羅は好太王に故郷を追われ朝鮮半島に逃げ込み拡散分布する
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五國=海北とは遼寧省南岸
東、西、海北には領土があるが南の領土はなぜ主張しない=南進中を意味する
ここで博多中心説を採ると博多の南には領土があるはずなのでアウト
ここで奈良中心説を採ると西側の国が少なすぎるのでアウト
つまり倭王武にとって帰る国などなかった
道遥百済(省略)句驪無道=倭国、百済、句驪は陸続き、句驪はひどいと南朝に泣きついた
故郷を奪ったので句驪無道なのです、倭王武の悲痛な叫びを曲解せずまじめに聞きましょう
半島各地で任那ができる、倭国本体南下する
最後の遣使記事は502年=引越し中を意味する
西暦500年代初頭、倭国本体は九州に上陸し、先住民を土蜘蛛あつかいする
天孫降臨記念日を太古の昔に設定した日本書紀はこの時点でアウト、証拠能力ゼロ
志賀島の金印=先住民にとられないように埋めて隠すも、埋めた場所を忘れる
前方後円墳は堤防の概念がない先住民が積み上げた塚を倭国人がこれ幸いと墓に転用したものだ
塚の作成年代≠墓になった年代、これ重要
ため池あるとこ古墳あり、ため池なければ古墳なし
倭国人は堤防の概念、その他中国文明を知っており最初から巨大古墳を作っていない
6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった(wikipedia参照)
上の理由は残土を堤防に使う
塚を墓であると主張するには副葬品などの提示が必要だ
塚はあっても墓はない、いわゆる空墓がかなりあるのはなんででしょう? 百済の熊津城=熊岳城
白江の口=熊岳城の南西、白沙湾
「百済辰朝人」であるところの「扶余隆」は百済五方「北方」の城「熊津城」で暮らしていた
熊岳城の南西に「白沙湾」という地名がグーグルマップでも発見できる
これはいったいどういうことだ!
熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城
韓国西部の公州に行くには高句麗の中を通らなければいけない
つまり熊津道は高句麗の手前側(唐に近い側)にあったはずだ
詔發淄、青、萊、海之兵七千人=山東省の北側から出撃した
人怪其故,答曰:擬削平遼海,頒示國家正朔
劉仁軌自ら「遼海」と明示しており、どうみても渤海湾(遼東湾)のことだ
公州の西の海を遼海と呼ぶのならインド洋も遼海だ
なお言うまでもないが、劉仁軌の役職は檢校「帶方州」刺史だった
扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口
熊津江(熊岳河)と白江(浮渡河)とは開口部が違う川である
熊津江を出て白江に向かったところ白江の口で倭兵と遭遇したのだ
通説の錦江説は合っていますか?白江の上流に熊津江があるのではありません
百済平定物語は渤海の東側にある遼東半島のお話しであり、公州を攻撃したのではなかった
劉仁軌と扶余隆が共同し遼東湾を平定(残党狩り)していることは注目に値するだろう
(蘇)定方自城山濟海、至熊津江口=蘇定方が平定した百済もまた遼東半島である
通説が正しいならばこの箇所は「至白江口」となる。白江=錦江説、アウト
大連の北側にある白沙湾を日本列島から攻撃するのは西暦660年では不可能なはずだ
かの有名な白村江の戦いに作文疑惑が浮上した!
日本書紀には資治通鑑や三国史記を見ながら作文した箇所がちらほらある
特に天智紀は作文だらけ、白村江のくだりは全部作文
白村江への旅程については何も書かず、いきなりワープしているではないか!
宇宙船艦ヤマトのようにワープしている時点で作文確定!
http://i.imgur.com/5buzTh0.jpg
http://i.imgur.com/9eYBu4V.jpg 倭=日本列島を主張する日本書紀のおかげで重要な比定位置はことごとく南東に平行移動した
日本で見つかっている古い木簡は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
日本で見つかっている古い石碑は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
楽浪郡は紀元前108年にできたはずで、いくらなんでも漢字の伝来が遅すぎる、はいアウト
檢校帶方州刺史、劉仁軌は遼海を削平(平定)する、遼海とは遼河が注ぎ込む海、遼東湾のことである
この遼海を拡大解釈しなければならない帯方郡=ソウル説、アウト
仮説の検証2項目
武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた(ビンゴ)
いまだに奈良公園ではシカを放し飼いにしている
坂上田村麻呂の東北遠征800年=この仮説で無理なく説明可能、大和朝廷史観では遅すぎる(ビンゴ)
邪馬台国=近畿説九州説、大和朝廷史観全部まとめてアウト
500年上陸説が正しい 「アイヌ人と渡来人の混血は7世紀が始まり」…遺伝学研究所
2015年08月24日 16時52分
http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/1/0/10761.html
国立遺伝学研究所と東京大学の共同チームは、アイヌ人や日本列島本土人の遺伝情報を解析した結果、
遺伝子配列の違いから、縄文人の子孫と見られるアイヌ人と、弥生人の子孫とされる渡来人の混血は、7世紀に始まったと推定する研究結果を8月24日までに発表した。
日本列島には、おもに北海道に住むアイヌ人、琉球諸島のオキナワ人、日本各地に分布して生息する本土人の3種類の人類集団が居住している。
国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのチームは、性染色体以外の遺伝情報を調べて、60万カ所で見られる遺伝子配列の違いを解析した。
その結果、毛髪と歯、顔の造形に関係する2つの遺伝子の近くに存在する塩基配列が異なる部分の解析から、アイヌ人と日本列島本土人には大きな違いがあることが判明した。
研究チームは、アイヌ人を縄文人(採集狩猟民)の子孫、中国大陸から渡来した漢民族や朝鮮民族を、弥生人(農耕民)の子孫と仮定した場合、
日本列島本土人における縄文人の遺伝的割合は約20%に達し、これら二つの民族の混血は、少なくとも55世代前、すなわち7世紀ごろに始まったものと突き止めた。
斎藤教授は「遺伝子解析の結果、アイヌ人が東アジアのなかで独自の系統的位置を占めていることが明確に示された」と話している。
なおこの論文は日本人類遺伝学会が発行する「Journal of Human Genetics」電子版に掲載された。
国立遺伝学研究所と東大の共同チームが日本列島本土人の混血モデルを解析した図(国立遺伝学研究所の論文より作成)
http://www.hazardlab.jp/contents/post_info/1/0/7/10761/%E6%B7%B7%E8%A1%80.jpg 「小学生より学力が足りないで賞」受賞
↓
「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓
「まだわからないで賞」受賞
↓
俺は悔しくて泣いた。
↓
だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。
↓
「無教養露見で賞」受賞
↓
❓❓❓
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウスが笑い者なだけ❓
. \ 廿 / 誤字って何❓
. ノ \ ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」 本居宣長も新井白石もこの件については十分調べた
つまり、江戸時代から考察しているわけだ
結論は、明確にはわからない
ならば、もはやそれを追うのは馬鹿げている
たとえ卑弥呼の墓を掘り当てたとしても、そこに表札は無い
そのような、日本史に登場しない人物は存在しないというのが実は、真にただしい
解釈だ
目を覚ませ >>129
江戸時代に吉野ケ里遺跡が発見されていれば二人とも筑紫平野だと考えただろうナ 魏志倭人伝の里、歩の単位が実際は1/5程度であることがあきらかなので
径100歩は30mほど、あとは時代が3世紀中葉の墳丘を考えればいい。
九州中西部には候補だらけだ。 >>129
江戸時代に鉄器も銅器も無い驚異の巨大3世紀遺跡が発見されていれば二人とも筑紫平野だと考えただろうナ 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
↑
この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い?? 似たようなスレを作りすぎ。
古いのから順番に、使用して、使い切れ。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
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