日本領「樺太・千島・勘察加半島」 [無断転載禁止]©2ch.net
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1715年(正徳5年)、松前藩主は幕府に対し、
「十州島、唐太、千島列島、勘察加(カムチャツカ半島)」は松前藩領と報告
カムチャツカ半島はともかく、樺太、千島は日本領に出来た 樺太を手に入れても寒すぎて農業は出来ないか?
水産資源は豊富だから魚業・水産加工業がメインか
でも、鮭しか取れない? @tokyoumare02
https://twitter.com/tokyoumare02/status/1526182238374703104
1742年にエリザヴェータ帝はチュクチとコラクへの攻撃と「完全なる根絶」を命じた。これは民族虐殺の戦争であった。
J ・ Forsis「シベリア先住民の歴史」P166
(Elizabeth Petrovna, 1709-1762)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 不法占拠されている北方領土を守るため自衛隊を出動させる 戦争で疲弊したロシアから千島、樺太を丸ごと安く買い取るのが一番いい それだと我が国一国に禍根残すから各国から領土切り取られるようにロシアの疲弊を加速させるべき 買い取ったなら禍根はないよ
それでもフィンランドを始めとした国々に呼び掛けるのは良いことだろう 一般的な国ならそうだろうけど、常に被害妄想を肥大させてるロシアに限っては違うだろうし、長期的に見ればどこの国家でも「我が国が弱ってる時にいじめやがった」みたいな逆恨みすると思うんだよな
特に今みたいな個人の政治的意見を世界中に拡散できる時代なら一気に世論を形成されかねん レーニンが健在だったら
北樺太は日本領だったかもしれない 887 最終結論 ◆4KflS.6qOQ [] 2022/02/12(土) 22:18:00.14 ID:0
シベリア出兵によって、極東共和国と言う
反共の独立国家が誕生している
これは大成果だった。
しかし日本は判断を誤りシベリアから撤兵してしまたたため
ソ連の思惑通りに消滅させられた
これは日本の大失態
だから再度やり直すということ >>364
極東共和国はソ連の傀儡だから
建て前はともかく反共ではないかと 建前だけでも独立していた方が良かったというのはある 極東共和国で政変があり親日反ソ政権ができたら
絶対ソ連軍攻めてくる 日本の最北端はどこだと認識してますか?
@我音岬(樺太北端)54°25′30″N
A阿頼度島北端埼(千島北端) 50°55′30″N
B北緯50度線(南北樺太境界)
C択捉島カモイワッカ岬(政府見解)45°33′28″N
D弁天島(実効支配)45°31′35″N >>362
うむ。樺太犬の保護、血統保存も、日本領なら愛犬家団体が上手いことやったかもしれない。 ロシアが分裂崩壊でもしないとなかなか厳しいだろう。白人がアジアを支配していること自体おかしいんだ 魯西亜内部で混乱が始まった
崩壊の可能性も充分ある 魯西亜では国同士でなくとも州の調印があれば国境に関する条約が締結できるのか
であれば日本とサハリン州で条約を締結することも可能という訳だ ウクライナのゼレンスキー大統領が
北方領土は日本領だって
影響はないだろうが そして樺太千島色丹歯舞の全島が日本の北方領土である
魯西亜の敗北は近い
その時に備えて世論を味方に付けておくのは重要 長崎での交渉の中でロシア側は、樺太最南部の亜庭湾周辺を日本の領土とし、それ以外をロシア領とすることを提案した。日本側はそれに対して、北緯50度の線で日露の国境とすることを主張した。交渉が下田に移る直前、川路は老中にあてた書簡の中で次のように説明している。
日本の会所ができているのはアニワ湾周辺だけで、それより奥地へは探険家が入った程度である。長崎では北緯50度で分けるとの案を出したが、どこで分けるかの定見は無い。不毛の樺太を棄てても一向に差し障り無い。
— 『開国 日露国境交渉』[3] カラフト場所の請負人と運上屋・番屋等(年表)
2006/09/16 10:310
◎江戸期の文書には、松前藩及び場所請負人の現地の建物・施設のことを、「運上屋」、「番屋」、更に、幕府直轄時代には「会所」、「勤番所」ともよばれた。別に「陣屋」が置かれた時期もあった。以下、その略年表を記す。
◎文化3年(1806)9月11日のロシア人樺太襲撃時は、樺太は松前藩が直営していた。
◎カラフト場所の勤務実態
「寛政の始にいたり、運上屋体の家居も補理ひ、軽き家来も少々渡し、漁業其外処置するといへども、只首夏(しゅか=夏の初め。初夏)より初秋までの事にて、家来は引取、番人体の町人三四人ヅツ爰かしこの運上屋に越年するまで也。然るに文化三寅年九月十一日・・此時は例のごとく松前氏の家来は引取たる跡也」(「休明光記」巻之七)
○寛政2年(1790)・・樺太調査を命じられた松前藩士の高橋荘四郎、鈴木熊蔵、松前平角ら番屋をシラヌシ、荷物小屋をトンナイ、クシュンコタンに設置。
○寛政3年(1791)・・村山伝兵衛、カラフト場所請負人となる。しかし、寛政8年(1796)3月、松前藩の叱りを蒙り差配場所(ソウヤ、シャリ、カラフト)を引上げられる(大阪商人小山屋権兵衛の手代が8代藩主・松前道広の妾の兄の板垣豊四郎と結んで道広に取り入り、伝兵衛差配の良場所を獲得するため謀計をめぐらし伝兵衛を陥れたという)
○寛政8年(1796)・・大坂商人小山屋権兵衛、松前藩士板垣豊四郎、カラフト場所を請負う。
○寛政9年(1797)・・板垣豊四郎、単独でカラフト場所を請負う(資本は栖原角兵衛)
○寛政12年(1800)・・松前藩、カラフトを直営(藩士・高橋荘四郎、目谷安次郎管理し、摂州兵庫津の商人柴谷長太夫差配す)
○文化4年(1807)・・柴谷長太夫、カラフト場所を請負う。
○文化6年(1809)
・幕府、シラヌシ、クシュンコタンに「勤番所」を置く。
・6月、幕府、カラフト島を「北蝦夷地」と唱えるべき旨、達する。
・伊達林右衛門、栖原三右衛門、カラフト場所請負人となる。両氏共同商会を「北帳場」と称する。以後、明治8年(1875)まで継続。
・津軽藩、この年以降文化11年(1814)まで、カラフト警備を命じられる。夏季にクシュンコタン、ルータカ、シラヌシに陣屋を置く。(本陣は増毛) ○文政4年(1821)・・幕府、蝦夷地を松前藩に返還、松前藩、夏季のみ、シラヌシ、クシュンコタンに勤番所を置く。
○安政3年(1856)・・越後の大庄屋・松川弁之助、カラフト奥地漁場開発を出願、幕府、北蝦夷地知床・ノタサン以北を直捌地とし、松川弁之助を差配人とし、漁場の開発、産物取開きなどを命じる。
○安政4年(1857)・・越後の鳥井権之助、カラフト奥地差配人を命じられる。
○安政5年(1858)
・箱館奉行、鳥井権之助に加え新たに越後・水原村の佐藤忠蔵、同・中村浜の佐藤広右衛門に北蝦夷地直捌差配人を命じる。
・越前大野藩、カラフト西岸ライチシカより北ホロコタンまでの間に土農を移すこと、ウショロに「元会所」設置を許可される。
・山田文右衛門(サル・ユウフツの場所請負人)、カラフト直捌場所出願、許可される。
・箱館奉行調役荒井金助指揮により、並城六郎、クシュンナイに漁場を開設。
・箱館奉行定役小田井蔵太、東岸シスカ川漁場開発許可される。
○文久2年(1862)・・この年のカラフト勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ、ワーレ、クシュンナイの5ケ所
・安房・勝山藩、藩士渡辺隆之助をカラフトに派遣、シスカに漁場を開設。
○元治元年(1864)・幕府、カラフト直捌場所差配人に、伊達林右衛門、志原半六に命じる。
○慶応3年(1867)・・箱館奉行、カラフト場所請負人廃止。出稼ぎ希望者を許可する旨通達。
○慶応4年(1868)・・新政府の箱館裁判所・権判事岡本監輔、農工民200人余を率い久春古丹(クシュンコタン)に赴任、公議所を設立。
[参考文献]
・「樺太年表」(社団法人全国樺太連盟編・発行、1995)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター発行、1989)
・「北海道史人名字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター発行、1979)
・「休明光記」(「新撰北海道史第5巻史料1」所収、北海道編発行、1936) ほんま粗大ゴミの分際で邪魔くせーわ死ねや糞露助
はよワイらの樺太全部と千島列島返せやボケ >>1
北海道は松前藩があった場所以外は未開の地
誰のものでもなかった 江戸時代には樺太全島が幕府直轄領になっていたくらいだし、疑いなく日本領 対ロシア、徳川家康が北方開発進めていれば…オホーツク海は日本の内海に 理解に苦しむ保守派の「鎖国は賢明」 [昆虫図鑑★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1698306165/ 十州島、は現在の北海道本島
唐太、 は現在の樺太、サハリン島
千島列島、は現在の千島列島、クリル諸島
勘察加 は現在のカムチャツカ半島
は1715年(正徳5年)松前藩領となる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています