【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001岡崎前門主
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2016/09/22(木) 21:48:13.09
・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
・相手に対して敬意を持ってレスしましょう。

前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/
0002日本@名無史さん
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2016/09/22(木) 22:52:58.33
>>1
スレ立て乙
0003日本@名無史さん
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2016/09/23(金) 14:12:16.70
>>1

一部にはこんな糞スレ立てるなという人もいるだろうが
ポエマーの隔離場所としてこのスレは必要
0005日本@名無史さん
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2016/09/24(土) 00:51:33.22
後醍醐天皇が吉野に潜伏していたころまで遡ってじっくり論じたい
0007日本@名無史さん
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2016/09/24(土) 15:45:45.46
両統迭立になったところから論じるべきでは?
0008日本@名無史さん
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2016/09/24(土) 19:39:28.46
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0009日本@名無史さん
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2016/09/27(火) 22:57:20.00
佐藤洋一郎とは誰なのか?
0010日本@名無史さん
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2016/09/28(水) 01:25:43.12
そこに触れるな
0011日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 08:01:11.91
佐藤先生の言っていることにも一理ある
あまり過激な言葉で決めつけるのはいけない
0012日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 08:28:59.50
>佐藤先生の言っていることにも一理ある


ないない。

あれはただのペテン師。
0013日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 09:01:23.01
触れるなと言ってるのに
0014日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 10:08:10.26
>>13
そうそう。
スレの話題テーマを無視してあちこちのいろんなスレに同一文面でコピペしまくるやつがマトモなはずないんだから、
相手にしたらアカンよな
0015日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 11:50:58.30
↑極悪詐欺師本人の台湾ブタ広鼻

佐藤詐欺は2ch創業来17年間にもわたって何千、何万回と台湾工作ブタに
よって詐欺を働かれた日本国民を陥れる悪辣極まりない巨大詐欺。

決して許すことはできない。
0016日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 13:23:13.75
佐藤博士の研究はスケールが大きいがゆえに、細部において十分に論証できて
いないところがあるのではないか。そのため、細部において実証的に研究を
進めてきた研究者たちが、疑問を呈しているのではなかろうか。
スケールの大きな研究をする学者にはありがちなことだ。
0017日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 14:06:25.04
佐藤はバカを詐欺る前提でやってるの。

あいつは起承転結すべて計算済みでやってる確信犯詐欺師。
あいつは20年前も同じ詐欺を働いていた。
日本には温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカがあるが、半島には熱帯ジャポニカがない、
だから日本のイネは中国南部から来たという詐欺。
その何年後かに半島から熱帯ジャポニカが出てきてしまい、
「日本から伝わったものかもしれません。」だとよ。

だから最古水田炭化米とそれ以前の朝鮮のイネで比較調査すれば全て済む話なんだが、
それから20年年間もやってくれません。

なぜそんな簡単な事をやらないか分かるよな?

それまでの自分の働いた詐欺が瓦解するからだ。
0018日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 17:55:51.82
困った学者さんだなあ
0019日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 20:16:49.22
学者を善人だと思っちゃいけないよ。

自身の売名や出世のために故意におかしな調査をして、おかしな狂言を
働く事で世間の目を引く事で有名人になり、自らの欲望を達成せんとする
悪人がかなり居るんだよ。

最初から全て計算済みの犯行なんだよ。

佐藤はその代表格だよ。
0020日本@名無史さん
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2016/10/01(土) 20:29:36.70
ははーん。

要するに俺たちは佐藤劇場にまんまとハメられたって訳だw
0022日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/01(土) 21:23:28.42
酷い自演
0023日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/01(土) 22:00:33.07
自演という事にしたいサギサギ台湾ブタ広鼻ボルネオ原人w
0024日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/01(土) 22:15:01.02
佐藤教授の演出にまんまとはめられた人も多い
自分そのひとりだ
0025日本@名無史さん
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2016/10/02(日) 00:06:44.26
奴もそれを目的として時間と手間暇かけて丹精込めて作り上げた計算づくの
詐欺シナリオだもの。

ダマされる方がふつうなんだと思う。

俺は考古やってるから最初から詐欺だと分かったけれども、奴の欺罔トリックを
完全に崩すまでに10年くらいかかってしまった。

一応、俺も京大を出てるんだが、そんなに時間がかかってしまったんだから
馬鹿と変わらんな。

それとも、奴の知能犯のレヴェルがそれくらい高いのか???
0026日本@名無史さん
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2016/10/02(日) 22:58:28.16
それくらい巧妙なトリックだったんだろう
でも、それだけのトリックを考える暇があるなら、真面目な研究をしてほしかった
0027日本@名無史さん
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2016/10/03(月) 01:03:45.00
あの極悪詐欺師だけは絶対に許せん。

逢ったら、あのスットボケたマヌケ顔を思いっきりブン殴ってやりてえな。

あんな詐欺師に教授なんて言葉もったいねえよ。

詐欺師サトーでイイんだよ。
0028日本@名無史さん
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2016/10/03(月) 04:28:10.73
興味深いスレです
自分はまだ大学生で詳しくないのですが後醍醐天皇が好きでもっと深く知りたいです
0029日本@名無史さん
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2016/10/03(月) 23:58:51.61
後醍醐天皇について学びたければ、平泉澄先生が書かれた「建武中興の本義」を
読むといいのではないでしょうか。
0030日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/04(火) 00:13:26.03
バリバリ右派思想の平泉センセか……

少し前に、前スレか関連スレかどっかで洋泉社の新書版の概説書を紹介してなかったか
あとは四六版サイズ、森センセの南北朝全史とか

平泉センセは戦前の学者なんでさすがに研究が古すぎるでしょ。
着眼点とか新しい部分があるにしてもさすがに限界がある。
0031日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/04(火) 10:23:18.42
やっと自演祭りが終わったか
0032日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/05(水) 00:08:33.95
初学者はまず平泉先生の概説書を読んで、南朝を正統とする史観をしっかり
身に着けるのがいいかもしれない。その後、戦後の先生方の本を読んで
視野を広げていけば、後醍醐天皇への理解も深まるだろう。
0034日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/05(水) 23:39:56.20
南朝が正統ということも知らない人も多いからな
0035日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/06(木) 23:12:06.38
本当は南朝ではなく、吉野朝と正しく言わないといけない
0036日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/06(木) 23:37:11.35
マジレスするなら、まず佐藤進一さんの中公文庫『日本の歴史9 南北朝の動乱』を読んで、そこから最近の研究者の本を読んでいくのがいい
0037日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/08(土) 08:10:29.90
まず佐藤教授の本を読んで、最近の研究者の本を読んで知識を増やしてから
平泉教授の本を読んで歴史観を確立していくのがいいよな
0038日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/09(日) 17:03:53.09
佐藤教授を批判する書き込みが続いたので驚いた
0040日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/10(月) 15:13:32.64
佐藤教授を批判する書き込みは間違った内容だから気にしないほうがよい
0041日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/15(土) 17:00:41.96
大学生だったら、国史専攻でなくても、国史の講義に出てみたらどうか?
南朝や後南朝の講義に出れば、後醍醐天皇はもちろん、その後の天皇に
ついても詳しく学ぶことができる
0043日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/16(日) 18:16:19.08
富山大学では後南朝の研究書を参考書に指定して、南北朝の講義をした
ことはあるみたいだな
0044日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/16(日) 23:33:18.77
西陣の南帝って、後花園上皇や後土御門天皇に比べて
どれだけの権威があったんだろうか。

西軍が苦し紛れに担ぎ出したようにしか思えない。
0045日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/16(日) 23:42:37.80
後花園天皇は京の民に慕われていたけど、
西陣の南帝に何かそういう話はあったか?

前スレでいろいろ議論してたけど、諱も生没年も分からない人物だよね。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/17(月) 00:41:33.07
>>44-45
仮にも貴種の出なわけだからして、下級貴族−−昇殿もできないレベルの貴族と同等の権威ぐらいはあったんじゃないか?
守護大名を上回る権威を持ち合わせることすらできそうにない。
0047日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/17(月) 23:16:04.91
西陣南帝の父宮である岡崎前門主に関する資料すらすでに乏しいので、西陣
南帝ご自身に関する資料はさらに乏しい。
ただ、貴族社会に連なる人物として認識されてはいただろう。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/18(火) 17:55:50.98
>>46
貴種だと思って担いだら紛いもんだったんやで
それで、謀殺されたんや。やから最期どうなったか不明なんや
0049日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/18(火) 23:38:50.81
西陣南帝は一応は南朝皇孫であることは事実だったのだろうか、
それとも徳川天一坊のようにまったくの偽者で、偽者であることが
露見したため、天一坊のように罰せられたのであろうか。
0051日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 06:26:34.12
西陣南帝の末路を見ると成りすましの可能性も否定できない。
そもそも小倉宮系というのが怪しい。
小倉宮系は教尊が隠岐に島流しになり、子孫も残せずそこで死んで終了だからな。
教尊に兄弟がいたという話もないのだから、西陣南帝は本当は誰の子孫なんだという話が出て当然。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 20:39:43.87
後南朝は史実から消えた。
それがすべて。

南朝後胤の最後の資料は、東大資料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という網文のもとに、次の四件あります。

A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
  山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送らて、
   越後より越前国北荘へ移った。

B同記三十日の条
  「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。

C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
  「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
  (現山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。

D同記明応八年霜月の記事
  「王」が明応八年霜月に流されて三島(現静岡県三島市)に着き、
  早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。

当時の文献上は、これで終了。

南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。
0053日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 20:42:22.20
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)        
                               |                       
                               |(推定)         第104代
                               −岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
                                              |    
                                              −弟宮

小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、その後消息不明というのが史実と思われるが、当時の
文書等から西陣南帝に系譜をつなぐとこうなる。

*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
       その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
       関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
       その後の消息は不明。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 20:43:32.36
教尊は血筋を断絶する為に寺に入れられたのだから、教尊に子供がいるのはおかしい。
可能性としては隠岐に流された後に現地で妻子を設けたくらいだが、監視の目があっただろうし
難しいのではないか?
教尊は隠岐に流されて監視されたまま子供を残せず死に、小倉宮流は断絶したとみるのが妥当だろう。
かすかな可能性としては教尊に他の兄弟がいて、その子孫という事だがそれも兄弟がいたとしても
同じように寺に入れられて断絶させられている可能性のほうが大きい。
なので、岡崎前門主とその子供(西陣南帝とその弟がいたらしい)は、南朝の傍系の子孫であるが
ネームバリューのある小倉宮流の直系を詐称したと見る。
0055日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 23:06:21.32
>>52
「史料編纂所」の『大日本史料』の「綱文」ですよねと一応突っ込んでおきますが
後南朝かもしれない痕跡が明応まで存在するとは知りませんでした。しかも早雲と接触しているとは驚きです。
勉強になりました。地元に伝承など残ってないんですかねえ
0056日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/21(金) 05:52:16.66
>>55
>「史料編纂所」の『大日本史料』の「綱文」ですよねと一応突っ込んでおきますが
そう書いてあるだろうが。
日本語が読めないのか?
0058日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/21(金) 07:49:41.74
それともうひとつ、資料編纂所じゃなくて史料編纂所だろと言ってるのだと思う
0059日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/22(土) 01:41:12.64
西陣南帝は南朝皇族であるのはおそらく事実だが、「小倉宮」系というのは
詐称という理解で正しいだろうか?

西陣南帝が小倉宮系という自称を信じて、山名持豊が西軍の旗印として
推戴した。→ 「どうも小倉宮系というのは怪しい」という苦情が
西軍の武将の中から出てきた。→ 小倉宮系ではなく、南朝の末端皇族
に過ぎないということがわかってきた。→ 西陣南帝は西軍の旗印として
推戴するほどの尊貴さに乏しいと思われ、推戴するのが馬鹿らしくなった。
→ 「せっかく来てもらったけど、あなたに用はない。もう出て行って
もらえないか?」と、陣営から追い出された。
0064日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/22(土) 18:48:32.11
63を訂正する(オレは57-58な)

55は、52が綱文を網文と書き間違えてることと史料編纂所を「資」料編纂所と書き間違えてることについて
「一応突っ込んでおきますが」といってるんだよね

56は
>そう書いてあるだろうが。
といってるけど、元の文には文字違いで書いてありますよね
0065日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/23(日) 13:51:27.23
西陣南帝のほうから山名宗全に「自分は小倉宮の皇子だから、皇位につけて
くれ。そうすれば、西軍を応援する」と売り込んだのか?
それとも、山名宗全のほうから西陣南帝をスカウトして、「西軍の味方に
なって下さい。そうすれば、あなたを皇位につけてあげましょう」と
そそのかしたのか?
0066日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/23(日) 19:49:26.33
日本語が読めない55です。いろいろフォローありがとうございました
0067日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/24(月) 20:26:06.42
さんざん繰り返されているだろうけど、
元々、後醍醐天皇は一代限りの帝だとの父院の遺志を踏みにじって
後醍醐天皇本人とその子孫で皇位を独占しようとした結果の
南朝と後南朝なんだよなあ。

昔は俺も「浪漫」的なものを感じていたが、
吉野の山奥に孤立して最後は消滅したのもやむを得ないと思う。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/25(火) 01:07:14.63
> 一代限りの帝だとの父院の遺志を踏みにじって
> 後醍醐天皇本人とその子孫で皇位を独占しようとした
これ自体は皇室の歴史の中では全く珍しくない行為だね。
白河院にしても、後三條院から一代限りとされていたのを無視して自分の子孫に継がせたわけだし。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/25(火) 01:22:05.23
死んだ父院の希望をガン無視して自分の皇統に…なんていうのは、実際に守られた方が珍しいくらいよくあることだからそこは正直問題じゃない
当時の人だってその辺りを本気で問題視してたのは思ってたのは、それこそ梯子を外された後二条流の関係者ぐらいでしょ
0070日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/25(火) 19:38:22.48
>>68-69
それを突き詰めていけば、皇統争いで敗れて歴史から消え去っても単なる不運に過ぎないってことなんだよな。

敗色濃厚なままで「こっちこそ正統」とかやるのが理不尽
(いや、乾坤一擲をかけて勝負に出てるなら妥当だけどさ)


自分が何言ってるのかよく分からなくなってきた
0071日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/26(水) 00:11:29.43
後醍醐天皇がそれまでの皇位争いをした天皇と違うのは、吉野の山奥に
立てこもってまで徹底抗戦し、自分の皇統を守り抜こうとした、
抜群の意思の強さではないか?
よほどの信念がなければ、ここまで戦い抜くことはできない。
そして、その後の南朝・後南朝の天皇と近臣たちにも、その意思の強さを
感じる。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/26(水) 02:10:46.00
父院の遺志を反故にして皇位の独占を図った南朝が、「両統迭立の約束を守れ」と後小松天皇や足利幕府を責め立てても説得力がない。
それを言いたかった。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/26(水) 23:57:45.84
南朝の言い分には、あまり説得力がないということだね。
それにもかかわらず、南朝が正統ということになり、南朝はわが国の歴史観に
大きな影響を与えるようになった。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/27(木) 00:25:20.61
少なくとも、同時代人の大半は南朝と北朝のどちらが正統とも区別してなくて、自分の敵対者との対抗上の都合に基づいて所属先を選ぶ程度の認識しかない

南朝正統論が本格的に成立したのは南朝の子孫が完全に断絶して、復権の可能性が無くなった後のことだよ
0076日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/27(木) 06:08:16.97
重箱の隅を突いてるバカは満足したか?
肝心の中身を知らなかった無知のくせに感謝の言葉もないのな。
「ありがとうございました」くらい書けないのか。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/27(木) 11:27:26.75
>>72
それを言うと、自分から幕府に皇位継承に口出しするように持って行って自分の息子に皇位を譲らせた後深草院も相当あれだからなぁ
あれがなければ両統迭立なんてなかったし、なにより皇位継承を外部に委ねるなんて、凄まじく危険な行為だぞだ
0078日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/27(木) 19:20:12.27
そもそも後嵯峨の歿時に後継決めたときから幕府が介入してるのに今更だぞ

後深草たちはおそらく、亀山親政の根拠となった「後嵯峨帝の内意」が捏造で亀山を後継にする意図などなかったと推測されるなんらかの論拠を見つけて
騙されたという思いが募った結果として巻き返しを図ったと思われる

その論拠の信憑性はともかくとして。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/28(金) 02:28:16.28
後嵯峨院の遺志云々以前の問題として、後嵯峨自身が幕府の介入で即位している。
承久での後鳥羽の失敗が決定的だったということだね。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/28(金) 13:01:02.11
各地に転戦した南朝・後南朝庶流は、きっといらっしゃるはず。
神秘的ですら有る。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/28(金) 18:52:59.76
生きてる皇族の主だった面々は長慶か後亀山の元に戻っただろ

長慶に従った皇族は転戦し続けたかもしれんが後亀山に従った皇族は京都周辺の寺に入れられたから転戦しなくなったよ


長慶本人ですら行方知れず、足跡不明になってるぐらいだから、そっちに従った皇族の消息なんて誰にも分からんわな
たとえ子孫が居るとしても、たぶん子孫すら自分の祖先が皇族だと知らんだろってレベルでの消息不明だと思うぞ
0082日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 00:13:31.34
>>81
> 長慶本人ですら行方知れず、足跡不明になってる
行方知れずでもなんでもないだろ。
足跡が記録に残っていないにしても、当時は行方知れずでもなんでもない。
大乗院日記目録に崩じたという記録があるくらいだし。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 07:43:05.48
南朝の歴代天皇は単に記録が少ないというだけで、消息不明になったという
ことではあるまい。
後南朝の末期の天皇になると、消息不明ということは考えられる。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 10:05:11.15
来年の大河は井伊

南朝の香りが少しする
0085日本@名無史さん
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2016/10/29(土) 13:04:55.12
ショッカー戦闘員「イイーーッ」
0086日本@名無史さん
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2016/10/29(土) 14:59:27.12
>>65
応仁の乱が始まった頃、紀州で南方兄弟宮という人物が旗揚げして、
一時現地では相当勢いがあった。山名宗全は、これは利用価値がありと考えて
自軍に迎え入れることにした。入京時に、父と弟がいたことが分かっている。
のちに相模に追放されたが、相模の熊澤一族に、南朝皇胤と称するものがいるのが面白い。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 21:11:55.17
大覚寺統の嫡流は後二條流のはずだが、室町後期の混乱の中
消えていったな。
0088日本@名無史さん
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2016/10/30(日) 11:12:24.25
>>87
遠州の木宮さんがその末裔。
現在大学教授とかやってる人もいる。
0089日本@名無史さん
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2016/10/30(日) 19:49:51.46
>>86
有難うございます。勉強になりました。

すると、西陣南帝は山名宗全のほうからスカウトして西軍に迎え入れたが、
「この新帝が南朝皇胤というのは、どうも怪しい。こんなのをかついで
いては、かえって西軍の正統性に傷がつく。陣営から追い払おう」
ということになり、追放した。
だが、追放後も南朝皇胤を自称し続けたということは、本人たちは
あくまで自分たちが南朝皇胤であることを真実と考えていたという
ことだろうか。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/30(日) 20:32:57.61
ちがう

>「この新帝が南朝皇胤というのは、どうも怪しい。こんなのをかついでいては、かえって西軍の正統性に傷がつく。陣営から追い払おう」
>ということになり、追放した。

ではなくて、南朝皇胤を担ぐという行為自体に反対が出たからだよ
南朝皇胤の価値が下がったところに加えて信憑性まで怪しかったってこと。

もともと西軍は幕府内部の派閥争い程度の小さな争いのつもりで、義政に対抗する将軍候補(つまり義視)を担ごうなんて考えてさえいなかったぐらいだ
(それどころか、もとは将軍が言いだした幕府方針を変えてもらいたくて抗議というか武力抵抗するだけのつもりだった模様)
0091日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/31(月) 19:22:21.55
将軍より南帝のほうが高貴

どう考えても高貴
0092日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/01(火) 23:43:32.43
応仁の乱のころになると、すでに南朝の高貴性が薄れていたということだろうか?
南朝皇胤の存在はまだ知られていただろうし、それを擁立しようとする動きもあった。
だが、世の中の大勢はもはや南朝に威信を感じなくなっていたのかも知れない。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/02(水) 19:07:06.98
二世王(祖父が天皇だが父親は親王または諸王)ぐらいならともかく、四世五世の諸王になれば高貴さは薄れてるぞ
現職に就いてる将軍の方が(役職の分だけ)マシなぐらいに。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/02(水) 20:42:59.65
平安時代の源経基(2世王)や満仲(3世)に、高貴さを感じた人は少ないだろうが、
室町時代は平安前期に比べて皇胤が激減しているのでそれなりに高貴さを感じていたと思う。
南朝の皇族の首については大道に晒すということもなかったみたいだし、
出自がよくわからない北山宮・河野宮も壮大な三十三回忌が都で営まれている。
木寺宮末孫が遠州の龍雲寺にいたが、8世孫が大宮様とよばれたという。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/02(水) 20:51:46.82
確かに「天皇の血をひいてる」というだけで敬われるのはせいぜい孫の代までなんだよなぁ
臣籍降下した家は三代上級貴族として持てばいい方だし
清和源氏だって清和天皇のひ孫の代で上級貴族の使いぱっしりになってるわけで
0096日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/02(水) 22:50:46.74
>>94
昇殿もできない下級貴族でさえ相当に尊敬されるような辺境での話だから仕方がない
0097日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/03(木) 09:42:30.47
四世王、五世王くらいになると、臣籍降下して受領くらいの中級貴族に
なってもおかしくない世代だから、室町将軍や摂関のような高級権門
にははるかに劣る。清和源氏や桓武平氏も院や摂関の家司クラスに
落ち着いていった。

だが、>>94にあるように、平安期と室町期では皇胤の価値が違うこと
にも留意しなければなるまい。南朝皇胤を貴顕扱いしたり、政治カード
として利用する動きもあったのは間違いない。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/04(金) 17:46:36.00
>>97 もう古いNHK大河に「風と雲と虹と」というのがあったが、それはあなたの話の例の宝庫。
桓武天皇の五世の孫 平将門・同貞盛は藤原忠平の家人。興世王は武蔵権守。清和天皇の後裔六孫王源経基は武蔵の介
0099日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/05(土) 12:15:06.67
奈良・平安くらいの時代を見ると、皇族・臣籍降下したばかりの元皇族が
非常に多いのに驚く。
まだ朝廷に力があって、皇族・元皇族に地位をあてがう余力があった時代
なのだろう。
一方、こんなに大勢いると、一種の皇族のインフレで、高貴さを失うのも
早かっただろう。末端の名ばかりの皇族を指す「生孫王」という言葉が
生まれたのもこの時代だ。
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