【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ 殆どの皇子皇女を寺に入れた。
門跡になって相応の暮らしが出来た方もいれば、
一介の僧侶で終わった人もいるだろうな。 俺の母が、江戸時代のある皇女のお墓が
宮内庁管轄なのに、ろくに手入れもされずに荒れ果ててたのを見て
ショックを受けてたな。で、墓なんか虚しいと真剣に考え出してるよ。
俺も京都の二尊院で、江戸時代の内大臣だののお墓が苔生して荒れ果ててるのを見て
本当に人生は無常だと思った。生前はいくら実権力は無いとはいえ
かなりの社会的地位にあった筈の公家たちが数百年経てば忘れ去られてる現実。 まぁ墓というもの自体がそういうものでもあるからなぁ
基本的には生きてる人が故人を偲ぶ為のものである以上、故人を偲ぶ人そのものが死に絶えてしまうと墓が忘れられていくのは道理といえば道理
それでもなお墓が大切にされる為には、生前の権威云々よりもどれだけその人が人々の間で語り継がれるかが重要になってくる
実際、権力を握ていたわけでなくとも『平家物語』なんかの有名な物語に出てくるような人の墓なら、今でも各地域で結構大事にされてたりするし 奈良・平安時代の余剰皇族は、
臣籍降下→最初は中央貴族→受領クラスの中級貴族→地方に土着して武士に
→地方で子孫繁栄
江戸時代の余剰貴族は、
出家→門跡・住職→子孫断絶
江戸時代になると、国司として地方に赴任することもできず、地方に土着して
武士になることもできなかった(地方にはすでに大名がいる)。
だから、天皇になれなかった皇族は、運よく宮家を設立できたり、養子に
行けたりした人を除いて、出家して子孫断絶するしかなかった。 臣籍降下しても行く先がなくなってきたことで、皇族の運命が変わってきたよな >>106 藤原北家でさえ秀郷の親父の村雄は下野掾まで落ちぶれて。 足利将軍家でも、嫡子の弟など将軍になれなかった人は出家して門跡などの
高僧になる人は多かったので、後継者から外れた人が出家するというのは
この時代の慣習だったのだろう。
だが、足利義教・足利義政・足利義視のように、出家したけど還俗して
将軍・将軍候補に返り咲いた例もある。だから、南朝皇胤の場合でも
いったんは出家したけど還俗して皇位をねらうケースがあっても
おかしくはない。 なんか中国語のwikiの後南朝の項目だと西陣南帝の帝位時期(?)が1458〜1514ってなってるけど
そもそも西陣南帝って1480年代前後辺りには不明になってたのに1514までいたって根拠はなんなの?
西陣南帝過世後,一般都被認為是後南朝完結的標誌,但自稱天皇的人多指西陣南帝以後還有後南朝的延續,更有書(《植月御所之真相》,田中千秋著)研究出後南朝是在元祿十年(1697年)時,幕府將軍コ川綱吉派人殺死後南朝皇太子良懷親王而結束的。
↑なんか1514年まで存在してたって出展らしいけど中国語分からんからどういう意味か分からん 熊沢氏の系図で永正11年(1514年)に没したと伝えているだけ >>111
あー熊沢のアレか…
って事は中国語のwikiに乗ってる後南朝の皇族の諱も全部熊沢系譜のって事かな
謎が解けた
THX 中国語版の説明だと、西陣南帝の治世は50年を超え、昭和天皇や清朝の
康熙帝クラスの盛世ということになる。
その後も後南朝は元禄年間まで続き、将軍綱吉によって最後の皇太子が
弑逆されるまで続いた壮大な王朝だったということだ。 後南朝に歯向かった魔王綱吉は朝敵だな。
聖地を抱える紀州藩が天下取ったのも頷ける。 良懐ってのは美作後南朝の系譜だな
何でそっちを採用したんだかw 美作後南朝が帝なら、
津山藩が官軍なので
森将軍。 美作後南朝は皇位に就くことなく親王のままの主上が多いのが気になる。
親王のまま政務を執って、称制を行っていたと解釈していいのか? 弾圧された闇の歴史だから史料なんか無いとハナから開き直ってる 植月御所(美作後南朝)では100年余りにわたって親王が何代か続いた後、
後水尾天皇から植月御所の高仁天皇に譲位されたことになっている
すなわち、美作後南朝は一種の世襲宮家のようにして続いてきて、史実にある
天皇から譲位されて皇位に就いた、という話になっている
つまり、京都の朝廷からも公認された世襲皇統だったということだ
だが、江戸幕府が突然介入して、高仁天皇は廃位となって、もとの世襲宮家に
戻り、良懐新王のとき、親王号も幕府から奪われて、世襲宮家としての地位も
失って終焉を迎えた、という設定になっている 美作後南朝は、長禄の変も美作での出来事だと主張しているから、
そもそも史実とリンクすらしていない。パラレルワールドのお話。 美作後南朝なんて、このスレに住み着いてるポエマーみたいなのが捏造した話だからな。
信じる方がおかしい。 美作後南朝は史実からかなり乖離していると思うが、そのような話を作り出した
動機のほうに興味を感じる
美作地方の人が郷土愛から、自分たちの地元に朝廷があったらいいだろうな、
地元の朝廷が有名になって、町おこしにつながったらいいなと願いを込めて
作ったのだろうか? >>125
作桜神社
さくら
鎮座地 岡山県津山市神戸(じんご)432
ご祭神 後醍醐天皇・児島高徳公
http://www.7kamado.net/sakura.html
だもんね。 児島高徳公が後醍醐天皇をお迎えした故事のある土地なんだね
その勤王の赤誠を後世の人たちが受け継いで、美作後南朝の説話を
作り上げたのかも知れぬ 皇室関連の歴史をでっち上げることと勤王精神は別のもんだろ >>127
その故事も創作誕であって史実じゃないから
創作が好きな土地柄って可能性ならともかく、縁がある土地ってことはない 美作「近衛殿」の南朝伝承がでっちあげられた背景については、『國學院雜誌』106巻9号に
立石盛詞「中谷神社所有『菊花凹面柄鏡』と南朝伝承の形成について」という論考がある。
美作後南朝には特に触れられていないが、鏡の発掘など共通項があって示唆に富んでいる。 美作っつうよりも吉備自体が中央(当時の京都)に対して何かしらの野心が有ったんじゃと思う
その辺りが美作後南朝の一つの発端にもなってるんでは つかさ、美作後南朝って、熊澤天皇が現れた戦後になって、
何者かが作り上げた妄想だろ?
古い伝承ですらない。 >>130
こういうレスを待ってたよ。
後南朝伝承は大半が胡散臭いが、
どうしてそれが語り継がれるようになったかが
興味あるところだからね
読んでみます、ありがとう。 美作後南朝は備後鞆幕府よりは壮大だが実利で喜連川御所府に負けた感じですな
明治維新まで粘って欲しかった
粘れば最低でも爵位持ち 存在しなかったものが存続するなんて、あり得ないからなあ。 喜連川御所は明治維新後、子爵になって華族に列せられたが、美作後南朝の場合、
明治維新後にどんな処遇になるのか気になる。
改めて世襲宮家として承認して、伏見宮家のような位置づけにするのが穏当だと
思うが、臣籍降下させて公爵くらいにするのも考えられる。
その場合、家格は摂関家・徳川宗家と同列くらいだろう。 >>137 喜連川が子爵で新田宗家や菊池が男爵なのもなー。朝敵の徳川宗家が公爵だしなー。 徳川は政府と敵対せずに日本としての統一を維持する道を選んだ、そのおかげで内乱も早期決着して欧米植民地にならずに済んだ。
最大功労者が重く用いられるのは妥当なことだ。何が不思議なんだよ >>139 彰義隊も奥羽越列藩同盟も榎本艦隊も甲陽鎮撫隊もすべて止めたんなら価値があるがな。
江戸を焼くのを食い止めたのも勝海舟と山岡鉄舟の功績。 幕臣でもない諸大名を止めるのは無理だが、
四百万石以上の大領が徹底抗戦してたらどうなったかを想像でしないのか。
それに、維新直後の時点で、その功績を足ががりに新政府に少しでも参加してたら、
政府の中で徳川派が拡大して方向性が大きく変わる可能性があるなかで、
あえて政府と距離をとりながらも反対することなく、つまり陰ながら協力する形をとったのも、
明治政府を大きく助けてたはずだぞ
そうじゃなかったら、明治時代の日本は内戦多発のgdgd時代になってた可能性が。 明治新政府にとって、特権を失った旧勢力が不満を抱いて敵対してくるのが
大きな恐怖であったはずだ。
だからこそ、旧勢力には高い爵位を与えて懐柔する必要がある。
華族制度には、この旧勢力の懐柔という一面があったと考えられる。
徳川宗家に最高位の爵位を与えて厚遇することで、幕臣・譜代・親藩などの
勢力を納得させることができたはずだ。 >>142
同意。
でも、新田・菊池のような南朝功臣や後南朝皇胤のほうに手厚く叙爵して
あげてほしいという意見も痛いほどわかる。 といっても、南朝功臣や後南朝皇胤の大多数は真贋すら定かではない怪しい経歴ばかりだから、容易には叙爵できなかったという側面がある
菊池だって偽物疑惑が色濃かったからこそ、それを払拭というか、アレしたくて極端な言説を。 >>143
全く理解できんね。先祖に贈位すれば充分だろ。
後南朝なんて存在しないものには、そもそも手厚くしようがないというのをおいたとしてもな。 高貴な家柄もあるが爵位貰えなかった幕府高家に似てるな
叙爵で冷遇されたのは
神社系のほとんど 後南朝 江戸幕府高家 >>144 でも、岩松新田は徳川よりずっとずっとまともだろう。 南朝の功臣としての新田義貞兄弟の末裔、というくくりには入らんだろ。 南朝功臣の子孫や南朝後裔の叙爵は、血統が必ずしも明確ではない疑惑があり、
そもそもイデオロギー色の濃い処遇であった。
そのため、昭和に入ってから、菊池武夫男爵のような美濃部学説に狂信的な
攻撃をして世論を誤導するアジテーターを生み出してしまった。
南朝正統の歴史観を強調するあまり、このような叙爵をしたのは正しかったのか
疑問が残る。 >>149
本当にそうだよな
新田義貞や名和長年のような南朝功臣には位階を、後南朝の歴代南帝には
諡号を追贈するだけでよかった
子孫に爵位を与える必要はなかった 南朝や後南朝関連は
多くのぽっと出の薩長士族より名門だろうがw
今は御朱印あつめブームだから南朝勢力が西陣南帝神社御朱印とかやればよい街興し 「家」という法人(的な組織)の連続性を欠いた没落家系は本物か偽物かを判定できる証拠が残ってない
偽物かもしれないという点こそ南朝関連の家々の根元的弱点
なんせ、大半は偽物だしな 明治維新の時点で大名や堂上家の身分を持っていなければ叙爵は難しかったということだ
植月御所や北山御所が維新まで存続し、南朝功臣の子孫たちが御所から公卿に列せられたり、
昇殿を許されて弁官や国司クラスの官位を得ていれば、公家華族として認定された可能性は
あるが、残念ながら植月御所も北山御所も維新のはるか以前に消滅してしまった >>152 >>153 山名義済をもって新田宗家とすることは無理筋なんでしょうね? だって山名氏は建武政権が健在だった頃から一貫して足利方で、新田氏の配下として活動したことはなかったじゃん >>155 喜連川を宗家とせずに細川を宗家とした方がましだからな。 最近の学説の中には、鎌倉時代には新田氏も足利氏支流扱いだったというのが出てるんだよな
足利の支流の中からめぼしいのをスカウトして対抗馬に仕立てようとしたが役立たずだったってオチかと
それゆえに、新田医師流の中にいくつも足利方についているヤツがいた(というかそもそも新田方につかなかったヤツがいた)ってことなんだと
山名とかは新田が足利から離れて自立する以前から足利支流として活動してきたんだから、
新田氏支流とみなすのは無理だろうな >>157 里見が改易されずに維新まで続いていたらってところか? >>159 細川は足利の一門だが末家の末家。細川幽斎流は細川の末家の末家。 足利氏は鎌倉時代において、源氏御門葉で家格が高く、所領の広さ、一族の
多さにおいてもずば抜けている。もともと武家社会では高い地位を占めている。
一方、新田氏は南朝功臣であるため、南朝イデオロギー上は高い評価となるが、
実際の武家社会での地位は存外低いのではないか?
南朝側の武士は、武家社会では傍流の人物が多いように感じる。 美作後南朝の宗室が皇籍復帰、後南朝傍流が公爵、南朝功臣が男爵
くらいでよかったと思う 信憑性が薄すぎる(=どう見ても偽物にしか見えない氏証拠物件が皆無)から無理だったんだろ そもそも例え南朝の後裔というのが事実であっても「天皇家の血を引いている」っていうだけじゃダメなんだよね
上の方でも出てるけど、天皇位に権力があった時ですら孫やひ孫の代にはほかの貴族に顎でつかわれる立場に落ちる
そういった中で皇位から遠ざかってもなお格式を保つためにはよっぽどなプラスαが必要になる
けどちらほら出てきた南朝の後裔たちにはそういうプラスαなんてなかったわけで 皇胤が天皇から代が離れていっても高貴さを保つためには、
1.伏見宮家のような世襲宮家になる
2.白川伯王家のように、官位を世襲する
というように、実質的な社会的地位を世襲していないといけないようだ。
その点、南朝皇胤は、単に天皇の血を引いている(それも十分な証拠がない)
だけで、社会的地位を伴わなかったのが、高貴さを失った原因だ。
美作後南朝の当主は、親王の地位にあり、世襲宮家に近い体裁が系図から
見受けられるが、徳川綱吉によって断絶されてしまった。 新田氏の宗家を岩松氏にするより徳川氏にはできんのかな? 公爵の徳川氏が新田宗家になれば、新田氏は、子爵の足利氏(喜連川氏)を
抜くことになり、南朝功臣がついに足利氏に勝利したことになる。 >>166
南朝顕彰は明治政府の自己正当化PRの一貫だから、打倒した相手である徳川を顕彰するのはいろいろと難しかったんだろ 後南朝皇胤を世襲宮家として追認し、南朝功臣はその藩屏として位置付ける
しかなかった。そうすれば、新田氏・楠木氏・名和氏などは、諸大夫の家格に
認定して叙爵することができた 邪馬台国が続いていたら首都になったのは?
答( ) 朝敵の足利氏が鎌倉公方家が幕末明治維新まで存続して子爵に叙せられ、
忠節の烈臣である新田氏は片々たる傍流を宗家とするよりほかないと
いうのが、あまりにも悔しいという心情は、憂国の士なら痛いほどわかる >>173 でも、岩松が居なければ義貞は挙兵できなかった 。越後新田党だけじゃなく信濃源氏や佐竹に連絡をつけていたのは岩松。 昭和の初期ころまでは、かなり強硬な南朝正統論者がいて、北朝や足利尊氏を
ほめるような発言をすると、政治問題化して、大臣が失脚することさえあった。
今日では南朝正統論者はかなり減少したと思われるが、それでも一定数は存在
するものと思われる。 社会的な影響力が小さくなったとは言え、まだまだしぶとく存在していてG並みに害悪だぞ >>177
戦前は国が楠木正成を忠君と称えて
道徳の教科書に載せて全国の尋常小学校で教えたり
位階を与えたりしてたからだろ
南朝征討論者とか関係ない 南朝正統論は、近代以前から在野に根強く存在した。根強く存在したから
こそ、近代以後、国論として定着したとも言える。
また、読売新聞などの言論人が強硬な論陣を張って、南朝正統論を煽った
のも影響した。政府は当初は、このようなイデオロギー問題には冷静で
あったように見える。イデオロギーを振りかざす論者が煽ることによって
南朝正統論は拡大していったと考えられる。 違うよ。江戸時代後半に入って突然に現れ増殖したんだ。
討幕運動の支柱の一部分だったこともあって、明治政府を正統化する役割の一部を占めたことから急速に広まった。
江戸時代中期に入るまでは、絶滅種だったんだよ 明治維新政府は、もともと南北朝問題については、中庸な立場で、イデオロギー
より学者の研究を尊重する立場だったように見える。
北朝や足利尊氏についても、公平な見方をする要人が思いのほか多かったのでは
ないか。南朝正統論は、在野の論者や思想的に極端な議員が、政府を吊るし上げる
形で出てきた。
(今で言えば、原子力問題で政府を攻撃する山本太郎議員のような感じ)
跳ね上がった在野勢力によって、政府が次第に中庸さを失い、極端な南朝正統論に
傾いていったように見える。 誰か受講してルポよろしく
ttp://open.gakushuin.ac.jp/course/detail/2016/C/005/ だが、討幕運動と南朝正統論が一体不可分だった以上、中庸を指向したところで偏りは免れなかったんだろ
それが民間に影響し、逆にもどって政府を強硬な南朝派へ変貌されたんじゃないか。 >>185
昭和初期の右翼運動の大半は、おおむねその流れだと思う。
国定イデオロギーは、あくまで民衆を善導するためのもので、政府首脳や
学者の理解は、科学的・実証的・現実的なものが重要視された。
だが、国定イデオロギーを狂信する民間人や一部の学者が、イデオロギーを
振りかざして世論を誤導し、やがて政策や学術をも歪めていった。
極端な南朝正統論は、その嚆矢であったと言える。 以前ほど極端ではないが、今でも南朝・後南朝を尊ぶ精神は生きている
美作後南朝は惜しくも元禄年間に断絶してしまったが、人々の心の中に
しっかりと息づいている 明治天皇は北朝の後裔であるし、公家たちも北朝側についた公家の子孫で
あるのだから、朝廷にしてみれば南朝を正統と考えるメリットは何もなかった。
また、明治維新当時には、もう後南朝の皇族は残っていなかったのだから、
後南朝を復興することもできなかった。それなのに、南朝を正統するという
現実離れなことをしてしまった。 南朝の子孫、皇族だけは後南朝と呼ばれるような残りカスが生き残ったものの、
南朝廷臣の子孫は即座に滅び去った
一部の上級貴族(とでも言いうるような格の高い貴族家)の者が格下の貴族家に養子入りして生き残る例があった以外は、
1代のうちに、ほぼ完全に殲滅された
継ぐべき家も家職も領地もないんだから、残りようがなかった >>189
最後に残っていたとされる美作後南朝も元禄年間には滅亡したからな 後南朝はその藩屏となる公卿たちが早くに没落してしまったのが痛かった。
楠木正理のような大楠公の子孫と考えられる武将もいたが、多くは北山御所
近辺の土豪たちに過ぎない。
仮に美作後南朝が存在していたとしても、その後ろ盾は藩主の森家やその
家臣であり、その朝廷に公卿が参列していたとは到底考えられない。 後南朝の成立より以前の時点で、南朝が降伏した直後には速くも南朝挺身が殲滅されてるんだがな
早くに没落どころか、成立する前から居ない
南朝方貴族のうちで北畠氏だけは、地方大名の形で生き残ってはいるけども。
美作南朝は近現代人による創作で実在していないから、その廷臣もまた実在していない。 後南朝の皇胤や元廷臣の子孫が南朝復興運動をしたのであれば理解できるが、
不思議なのは、後南朝とは何の関わりもない武士たちが、南朝の正統化を
主張し実現したことだ。明治維新当時はもはや擁立すべき後南朝の皇胤は
見当たらないにも関わらずだ。そんなことをすれば、実際に推戴していた
明治天皇の正統性を弱めてしまうからよくないとは考えなかったのだろうか? いやいや、大正期に武士道がもてはやされたのも同じ
武士として活動した経歴のある現役世代がいなくなったあとで、
空想上の武士道が作り上げられたのと同様で、
復権する可能性がないからこそ賞揚しやすかったんだろ 明治天皇は南朝の末裔ではない、大室家に養子にいったんだからな もし仮に美作後南朝が明治維新まで続いていたら、政府は「南朝正統」の
立場を取らず、「北朝正統」で通したと思う。
もし「南朝正統」を取れば、「明治天皇ではなく、美作後南朝が正統では
ないか」という主張が生まれ、明治天皇の威信を損なうからだ。
そのかわり、美作後南朝については、世襲宮家のような家格を与え、その
廷臣たちは男爵クラスの華族に叙爵したと思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています