【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
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http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ >>206
小倉宮恒泰親王というのは小倉宮恒敦の後継者らしくてふさわしい でも、そんなことしたら常磐井宮恒明親王の立ち位置に近くなっちゃうな
おや、奇しくもこちらも恒 >>182
南朝正統論って反体制運動なんだよな。
で、体制を安定させるためには反体制運動を取り込むことが必須。
カトリック教会が托鉢修道会を取り込んだり、アメリカンデモクラシーがポピュリズムを取り込んだりしたのと同じように
明治国家は南朝正統論を取り込んで反体制的心情を慰撫する必要があった。 まあ、明治国家は菊池男爵に滅ぼされたようなものだから、反体制的心情を取り込んでも結局はダメだったと言えるのかな?
アメリカンデモクラシーもトランプに滅ぼされてしまうのかな(w? 南朝正統論者・菊池男爵は、いわばポリティカル・コレクトネスを居丈高に
主張して、生産的な議論を圧殺してしまう不毛さがあった。
当時の社会環境で天皇問題で「正論」を言われると、どんなに学問的・実務的に
言い分があっても、それは「政治的に誤り」と決めつけられて、社会的に抹殺されて
しまう。
「足利尊氏にもいい点があったでしょう?」
「天皇は法理論的には国家の機関と解釈できるでしょう?」
といった本来あり得るべき議論を「失言」「妄言」として、一切主張できない
ようにしてしまう、一方的で不毛な空気を形成していった。
今で言うと、「差別反対」「歴史認識」などで、言葉尻をとらえて攻撃し、
本質的な議論を抹殺する、ある種のマスコミ、活動家に傾向が似ている。 安徳天皇が都落ちした時点で廃帝
すぐ後鳥羽が即位したが、その時点から後鳥羽が正統
南北朝も同じだよ
後醍醐帝が隠岐に流された時点で一旦は廃帝で光厳が正式に即位してる
隠岐を脱して帰京した後醍醐の立場は、あくまでも重祚であり、
後醍醐自身の主張は単なる自称
で、吉野に去った時点で帝位は完全に失われてる
もっとも、吉野に行く前に廃されてるので京都にいた頃からすでに廃帝ではある 三種の神器を持っていても、都落ちしたら廃帝扱いされてしまうのか? >>216
ならないよ、現代的に、わかりやすく言うと、引っ越しをしただけ 216氏が引っ越しをしました
家を出て〜〜〜〜〜〜それだけの話、
それでも216氏は216氏でしょ こういうのも、よくある話でしょ
引っ越し、家を出た後、
どのような生活をしていたのか?
極貧生活。
引っ越した先、現地の人達や誰々某の世話になり、ひっそりと暮らしていた。 >>216
室町時代後半になると天皇の都落ちも何度か起きてたはずだけど、それだけで廃帝とされたわけじゃない
廃帝とすることができる権限を持つ特殊な立場の人間が都に残留してるときだと廃帝になる率が高い
安徳の場合だと後白河。三種の神器(のうち2つ)を持って都落ちしたけどすぐ後白河が廃帝扱いに決めて後鳥羽を即位させた。 南朝と北朝が正統性をめぐって争う時代は終わった。
これからは、南朝支持者も北朝支持者も、協力して国難に当たるべきである。
本当の意味で南北朝の和解を推進し、「平成の一統」を実現しよう。 >>220
将軍や公卿は移動してたようだけど、天皇っていつ都落ちしてたん? >>216
当時の都の人たちは、後鳥羽天皇が践祚した時点で、三種の神器がどこにあろうが
安徳天皇を先帝扱いしたね。
平家物語でも「先帝御入水」とされてるし。
当時の平家の人たちは、後鳥羽天皇が即位したという知らせを聞いて
もはや天皇の正当性も軍事力次第だと嘆いたという話がある。
逆に言えば、安徳天皇が存在しようがおかまいなしで神器なしで即位を強行した後白河はこの点では適切な判断をしたと言える。
先例に縛られるのが公家だけにこの判断はかなり目立つ。 安徳天皇のころは、大きな力のある治天の君の後白河法皇がいたので、その
権威によって天皇の交代を実現したのはわかる。
だが、後醍醐天皇のころはどうだろうか?
治天の君の光厳上皇のもとに、後醍醐天皇を廃立して新たに天皇を立てたよう
だが、後白河法皇と同様の実効性があったと考えてよいか?
後醍醐天皇に政権としての正統性はないのか? 安徳天皇の頃だって、もし平家が力を付けて都入りしてたら、んで後白河法皇と後鳥羽天皇の身柄を押さえることができてたら、
後鳥羽天皇を廃してもういちど安徳天皇を返り咲かせることはできてたよ。
後醍醐天皇退位(遠流)のときは鎌倉幕府の要求と朝廷内の主流意見が一致して後醍醐退位に動いたんだから、
2回目の後醍醐退位の頃だって幕府(足利尊氏ら)と朝廷内の相当数の貴族らの意見での後醍醐廃位なんだし、
いちおう実効性の問題はないはずなんだよ。
ただ、後醍醐帝と利害が一致する貴族が意外と多かった(後醍醐廃立によって実家から逐われるような貴族がたくさん居て、
後醍醐復権に賭けて捲土重来を期する動きがあった)後醍醐の正統性の如何に関わらず吉野へ赴くものも多かった。
公家社会での実務、政務を実際に動かす官人たちの大多数は後醍醐帝に追従せず京都残留したことが、
公家社会全体での見解を反映してると考えていい。
家中で後継争いが起きてて、後醍醐派と幕府/光厳光明派とで争ってた貴族とかが、どうせ京都に残っても破滅だし捲土重来を期して吉野に行くかーって程度の貴族しか、
吉野に行ったのは居ない。といっていいほどに、吉野行きの公家たちの大半は京都に残るという選択肢を持たないヤツらだったんだ。
北畠みたいな、一家総出で吉野側についてた貴族は珍しい。
武士も同様で、楠みたいに南朝側で頑張ったヤツは少なくて、同じ領地を巡って争う武士の片方が北朝側についたらもう片方が南朝につく、
みたいな形で南朝についた武士が大半。
南朝こそ正統と信じて南朝についたのは貴族にも武士にも少数しか居ない。 後醍醐天皇に追随した公家たちは、公家社会の中では負け組というか
京都の公家社会では反主流になってしまった人たちという感じだね
後醍醐天皇はそのような反主流になってしまった公家たちの受け皿
になり、その集団が南朝になっていったということか >>226 菊池は楠木より巨大な勢力だった。少弐 大友 島津 を九州3家というけれど、
少弐はともかく大友とは互角 島津よりは勢力がでかかったんでは。 南北朝正閏論は、当時実際に北朝側・南朝側についた公家や武士たちの
リアルな事情を捨象してしまうから、学問としては不毛だよな
自分は南朝遺臣を顕彰したり、歴代南帝の遺徳を偲ぶことは、国民精神
として大切だと思うが、歴史学は冷静に行ってもらいたいと思う
いくら南朝忠臣の後裔でも、菊池男爵のような態度には叱責を加えたい 美作後南朝や小倉宮の皇胤が維新後まで残っていれば、後南朝当主から
菊池男爵を叱ってもらうこともできたのだが…
後南朝当主から勅勘を被れば、菊池男爵も反省しただろう は?
菊池(征西府)VS足利幕府なら
菊池氏を応援してこそ大日本は神國! 南朝の研究がもっと進むことを望む。
大学や研究機関には、まだ後南朝の講座が少な過ぎる。 後醍醐天皇の子孫としては後醍醐源氏があるが、その実態はあまり知られていない 賜姓源氏として認定するべき朝廷官僚らから正式認定を受けることができてない時点で偽物
もっとも、真偽を云々する以前にそもそも実在してさえいない しかし、自称末裔とかロクな奴いねーな
ネット上で「新田義貞の末裔」を名乗っていろいろ書き込みしている奴がいるけど、書き込みから馬鹿さ加減がにじみ出ているわ。まあ、ロクな根拠も無いのに盲信しているところも凄い 突出した才能の持ち主の血筋が実は…なら箔が付くけど、
血筋以外語れる事が無いなら推して知るべしだよね 新田・菊池など、南朝功臣の子孫が明治維新後に叙爵したが、後南朝後胤の
皇籍復帰もしてほしかった。 それはさすがに無理
仮に南朝皇胤が生き残って現存していたとしても(実際には残ってないわけだが)、それだけはさすがに皇族や天皇の受け入れ許容範囲を超えすぎている 足利氏が室町幕府滅亡後も、小弓公方家・平島公方家が残って現代まで存続できたの
だから、後南朝も現代まで存続する道はあったはずだ。
何とか戦国時代を生き延びることができれば、徳川家康が高家のような形で処遇して
くれたのではないか。 北畠顕家の功をオマイらはどう思っていらっしゃるのでしょうか。 大覚寺統が北朝と分かれたのは700年以上前になる。
これだけ遠いと、現存してても伏見宮なんかより遠いことになる。
現実味としては、後二条院系ならまだしも、後醍醐系なんか論外じゃなかろうか?
>>247
今に伝わる最大の功績は中尊寺の記録の筆写
太平記当時は空前の略奪犯 >>247
単なるザコ。
東北の田舎侍を騙せるくらいのブランド力はあったが、根本的に武将としての能力が無かった。
戦で敗れて討ち死にしたのは当然と言える。 確かに、後醍醐系の後南朝皇胤が存続していたとしても、伏見宮以上に遠い存在になって
しまうな。これを克服するためには、
・十津川宮・熊野宮あたりが伏見宮のように世襲宮家としての地位を確立する。
・白川伯王家のように、神官の家職を得て、王号を世襲する。
などができるとよかったが、現実にはそれも難しかった。 >>251
特定の家職を世襲する家としての連続性・継続性では、日本国内の現存の家の中では、天皇家の次ぐらいじゃね?
まあ家職の世襲は明治頃に途絶えてるけどさ 顕家で武将としての力量が無かったとか言っちゃったら、
日本史に出てくる殆どの武士に武将としての力量が無かったとなっちゃわないか? >>252
小野、千家の方が上に思える
王家なのに半家なのは 白川伯王家の特徴は、家祖の花山天皇からかなり代がたっているのに、当主はずっと
王でいられること。貴族としての家格は半家に過ぎないが、ずっと皇族待遇でいられる
というブランドは大きい。
後醍醐系後南朝皇胤は、このポジションがほしかった。
そうすれば、ずっと時代がたった後も後南朝を存続できて、南朝旧臣を糾合する求心力
となり得た。 >>253
そうはならない。
顕家は神輿であって実戦指揮者ではないから。
実際に戦の指揮していた連中とは比べ物にならない。 まあ、長く続いてる家として、白川家と同等のところはなくはないかも
成立時期として、家職持ちの家が続々と成立した時代だしね
本家が消えて家系交替とか、摂関家みたいに分裂したとか、
家職そのものが消えてなくなったとか、いろんなリタイヤがあるから
二番手グループのなかで少し古い部類ではあるはず
もっと格の低い官僚の家ならもう少し成立が古いはずだけど >>229
ちょっ亀スマソ
菊池がそんなに大きな勢力だったかは疑問だなー。楠木より…ウーンそれぐらいなら。
島津はまがりなりにも有力御家人で、日本中に一族がいたし。
武藤(少弐)、大友、島津以外にも、千葉、宇都宮、渋谷などの東国出自の御家人も九州にいたし。 まあその神祇伯白川王家(伯と王って)をちょっと別とすると(まず絶対に天皇にならない家なのだし)
1)持明院統
2)大覚寺統…a)後二条院流、b)後醍醐流
南北朝「決着」(後醍醐が吉野に逃亡した時点で事実上決着だろう)以後の序列(皇位に就ける優先順位)はこうだろう。
還京後の後醍醐流が断絶と決まった後も、後二条流は宮家として存続させるつもりだった…?ようだから、
後醍醐が完全な傍流になった点では、大覚寺嫡流(2-a)の地位が相対的に落ちてしまったが、鎌倉時代に回帰してると見れなくもない。
北朝側としては、大覚寺統の正式な天皇は後醍醐までで、以後は単なる皇族に過ぎなかったろうから、
長慶や後亀山の子孫が天皇になれる可能性はほぼゼロだったと思う。
後醍醐流宮家も1つぐらい残してもらえたろうか…と思わなくもないけど、後二条流も断絶してるようじゃ難しかったかなと。 当時の朝廷側の認識では、後光厳流(後小松やら称光やら)以外は認めない立場、
どうしても断絶したときに崇光流(伏見宮家)、その次に後二条院流って意識だったんだろ
対するに幕府(というか義満)の想定では持明院統と後醍醐流での両統迭立を指向したんじゃないかな
で、北朝との折衝がまとまらなくて失敗したと
その折衝のせいで義満生前には皇太子をたてることすらできない状態が続いたんじゃないかと思うんだが >>261
崇光・後光厳流に割れていたころだと、1に後光厳、2に崇光だったろうけど、
花園・光明両院の子供もいたわけだから(こういうのは代を下るごとに増える)、
大覚寺統は康仁皇太子が廃立された時点で実質「もう天皇になるのは無理」だったんじゃないかね?
だから、義満はまだしも、北朝廷臣は後醍醐流を天皇にする考えはなかったんじゃ?
まあ足利将軍家の鶴の一声でどうにでもなったかも知れんけど。
ちょっとした興味だと、長慶と後亀山のどっちの子孫が後醍醐嫡流と思われてたかは関心がある。
さすがに後醍醐の他の親王は論外だったろうけど…
懐良親王が九州の後継者に後村上の子を据えたのも、後醍醐嫡流をそっちに求めてたということだろう。
後醍醐はそもそもの正当性からして問題があったわけだから、
護良親王の簒奪を警戒してたとの穿った見方もまんざら見当外れでもないかも知れないね。 義満が朝廷にことわりなく勝手に両統迭立を講話条件にした、
朝廷はそれを受け入れたことはないけど義満は面子にかけて実行するつもりだったんじゃないかな
その綱引きの結果として皇太子を決めることすらできなかった
そもそも朝廷側では南朝諸帝は全員が偽帝とみなしてて、
迭立に戻す可能性とか空想すらしてない >>264
そんな皇族は居ない
後醍醐帝が廃されてから吉野に行くまでの短期間だけ幽閉されてた場所が花山院だろ
南朝諸帝の中で唯一、花山院という場所に関係してる後醍醐帝を差し置いて、だれがその院号を使えるんだよ
南朝の廷臣の中に花山院という苗字の一族が居たけど藤原氏支流であって皇族じゃないし。
つか、南朝の皇胤とかで話題に上がるのってことごとく偽系図、偽伝承なんだよな >>265
南朝の忠臣の花山院の子孫のことを言いたかった
名和とかと違い、公家の子孫なら残りそうだが
名和は授爵してたような >>266
「南方近衛息」ってやつだね。
南朝に仕えた近衛家の子孫が合一後に京都に帰って花山院家を継いだという。
花山院持忠がそうじゃないかと。
講談社の日本の歴史シリーズでも触れてる。
>>265
後醍醐が子だくさんだったから、捏造したい連中に便利だったってことだろう(武士も多くは出自が疑わしいのだが)。
南朝は狭義には後醍醐の1336京都脱出に従った男児の男系(女系はさほど問題ではない)だけだから、仏寺にとどまった皇子は対象外で、
合一後に帰京した後胤としては長慶か後亀山の系統が嫡流の扱いだろうから、
尊良親王や懐良親王の末裔がどっかにいたって「はいはい名家なんですねー」で終りで、
皇胤としては清和源氏や桓武平氏レベルでしかなく、幕府の将軍になるならともかく現皇位継承には何の関係もない人でしかなかろう。
↑で話題の花山源氏が示すように、もともとの原則では何代か経れば「王」を称す権利すらなくなるはずなので、文字どおり「単なる皇胤」。 旗本には赤松がいたりする。小造もいたかもしれん。幕臣の岩倉具挙が小造氏だったはず。服部も旗本や桑名藩士として存続した。隠岐の村上家だってある。旗印が消えた。 >>268
江戸時代の旗本の赤松氏は南朝系の赤松じゃないよ。
南朝に味方した赤松は滅んでいる。
北朝に味方した赤松家の分家の有馬家(国持大名)のさらに分家の石野家が江戸幕府の旗本となり、のちに姓を赤松に戻しただけ。 >>270
赤松円心の事やな。
初めは南朝の味方だったけど討幕の功績を無視されたから北朝に寝返って、以降は死ぬまで北朝の味方。
だから南朝方では無いよ。
君の勘違いだ。
ただ、円心には息子が何人もいて、その中の1人(氏範)が南朝方で活動していたが北朝方に攻められて子供と一緒に死んで滅亡している。
*元中3年/至徳3年(1386年)9月2日、摂津中島郡(播磨という説もある)、幕命を受けた細川頼元や山名氏らの追討を受け、子息ら一族郎党100余名と共に清水寺にて自害した。享年57。
これで南朝方の赤松氏は滅亡し、北朝方の赤松氏のみとなった。 >>271
それ(前半部)、表現がよくない
南北朝の争いになって以後に南朝方で戦ったことはないんだから、南朝方と呼んじゃいかん
鎌倉幕府を倒す際には早期から後醍醐方として幕府軍と戦ったが倒幕後の恩賞への不満からか南北朝に入ってからは一貫して幕府方 >>272
つまらん奴だな
自分が気に入らないだけだろ 西陣南帝のウイキペディア、なかなか充実しているね。
後南朝の研究も着々と進んでいるということだろう。
応仁の乱がブームになっていることだし、西陣南帝は人気が
出るのではないか? 西陣南帝より聖承と教尊のほうが人気が出ると思う
教尊は女子に人気が出るのでは? 大室と小室って書いてる人はいないかしら?と思って久々に来てみたけど、いないのね。 >>279
小室は婚約者の?
家柄が気になる。
まったくの平民なのか? できれば後南朝の後裔とご成婚していただきたかった。
そうすれば、ご成婚を理由に、皇配となった後南朝後裔が皇籍復帰、
その皇子が皇位継承順位者となり、久しぶりに南帝即位を見る
ことができたかも知れない。 後醍醐源氏がせめて清華家くらいの家格で残っていればね
でも、その場合、皇統復帰は難しくなる 後醍醐の皇子らが誰も臣籍降下されてなくて賜姓源氏になってないからむりだろ
だれか源氏になってたか? ちょっと南朝関係から話がズレるが、思いついたのでカキコする。
村上源氏の流れで言うと、
「承久の乱」では源通親(土御門通親)が後鳥羽上皇方・・・負け
「南北朝の動乱」では北畠親房・顕家の親子が後醍醐天皇方・・・負け
「戊辰戦争」では岩倉具視が官軍方・・・勝ち
通算では1勝2負だけど、最後はタイムリーヒット打ってお立ち台みたいな。。。
てか、「承久の乱」と「戊辰戦争」で2回も”錦の御旗”を揚げたんだから、ある意味スゴいな? 北畠・岩倉は村上源氏の中でも傍流なので、反主流側で勝負しようとする動機が
あったのではないか?
南朝というのは、公家社会で反主流になってしまった人たちが巻き返しのために
結集したという側面があったように思う。
それが後世になって、朱子学的なイデオロギーから、正統扱いになって脚光を
浴びるようになったのではと思う。 承久の乱の19年前に亡くなってる源通親を負けとするのはどーなのよ。 政争で負けたとは言えるかもしれないが、
乱前に死んでる人間が乱での負け組に加えられるのって、明らかにおかしいな 隕石前に滅んだ恐竜も隕石で滅んだ扱いになってるみたいなものか 源通親が存命だったなら、後鳥羽院を思いとどまらせて、承久の乱の
大敗を防げたかも知れない。
承久の乱がなかったなら、京方についた京都在住の御家人が存続し、
鎌倉幕府の姿も違っていたかも知れない。 村上源氏は堂上源氏の中では最大の勝ち組で、支流も多くなったから
その中で傍流になった人が勝負を賭けることがあったのかも知れない。
北畠氏は戦国時代を生き抜いたし、よく頑張ったほうではないか? >>294-295
あの没年で子どもがいたのかよ、16だろ?
いや、19だっけ? なら問題ないか? 旗本の滝川氏ですね。
北畠の分家筆頭みたいな木造御所の流れで、滝川一益の娘婿になったときから滝川氏になった。。。と、されてるけど、実際はよくわからないらしい。 >>294
>>296
浪岡と伊勢の北畠家には顕家の末裔という伝承もあったとか。
浪岡は顕信の、伊勢は顕能の子孫だろうけど。
顕家もそんな伝承ができる程度には知名度があったってことか。
長慶天皇は父後村上15歳の時の子だな。
顕家子孫も絶対にあり得ないとは言えないが… 浪岡北畠氏は顕家の子孫ではなかったか?
あのような僻地に公家の村上源氏が土着するとは >>300
戦国時代より前のことは信憑性の定かではない伝説程度に見えるな
顕家の子孫と称する北畠氏が浪岡にいた、という程度にしか言えそうにない
顕家じゃなく顕家の弟の子孫という説もあるし、ひょっとしたら仮託かもしれない 浪岡北畠氏は仮冒の可能性もあるようだが、「顕」「具」などの文字を通し字にして、
当主が御所号を用いたりしているので、村上源氏・北畠氏の貴種という意識は
かなり強くあったように見えるね。
本家の伊勢北畠氏とは交流はなかったのだろうか? 本物なら密接な交流があっただろうが、今では交流の有無すら調べがたい気がする
斯波氏が京都の武衛家と陸奥大崎家出羽最上家と日常的に交流を続けてたり土佐一条家が何世代にもわたって京都の本家と交流を続けてたり、
というぐあいで遠くても親族とは交流を維持するのが当時の基本だしな
ただ、御所という語句を使ったのはむしろ怪しむべき要因かと
本来は貴族じゃなく天皇の居所を示すのが御所だから、南朝皇胤をかくまっていたのでない限り御所と称したとは思えない
周りが勝手に呼ぶのはありうるけども。
将軍や鎌倉公方、各地に派遣された後醍醐の皇子たち、それに土佐一条氏などの拠点も御所と呼ばれてたとおもう。
それで、浪岡北畠氏の拠点が周囲から御所と呼ばれたというのは可能性はあるが、その北畠氏自身が御所と呼んでいたとしたら、むしろ偽物の疑いが生じると思うわけ このスレの趣旨に沿えば、浪岡北畠は後南朝としての活動が全く見えないのがすこぶる怪しいね
伊勢の本家は派手に活動してただけに 浪岡北畠氏は後南朝の皇子を擁立したという形跡が見えないから、居館を「御所」と
称したのは、自らの高貴さを周囲に誇るものではなかったか?
東北の辺境においては、中央貴族・村上源氏の後裔というのは、ずば抜けて
高貴な家柄で、周囲の豪族たちもそれを是認したのではないか? >>305
周囲が北畠の高貴さを尊んで御所と呼ぶならおかしくはない。
だが浪岡が自称したのならおかしい。 大河ドラマで後南朝を取り上げてほしい。
一年間放映されて話題になれば、後南朝の知名度も上がって、
ブームになることだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています