【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
・相手に対して敬意を持ってレスしましょう。
前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ >>266
「南方近衛息」ってやつだね。
南朝に仕えた近衛家の子孫が合一後に京都に帰って花山院家を継いだという。
花山院持忠がそうじゃないかと。
講談社の日本の歴史シリーズでも触れてる。
>>265
後醍醐が子だくさんだったから、捏造したい連中に便利だったってことだろう(武士も多くは出自が疑わしいのだが)。
南朝は狭義には後醍醐の1336京都脱出に従った男児の男系(女系はさほど問題ではない)だけだから、仏寺にとどまった皇子は対象外で、
合一後に帰京した後胤としては長慶か後亀山の系統が嫡流の扱いだろうから、
尊良親王や懐良親王の末裔がどっかにいたって「はいはい名家なんですねー」で終りで、
皇胤としては清和源氏や桓武平氏レベルでしかなく、幕府の将軍になるならともかく現皇位継承には何の関係もない人でしかなかろう。
↑で話題の花山源氏が示すように、もともとの原則では何代か経れば「王」を称す権利すらなくなるはずなので、文字どおり「単なる皇胤」。 旗本には赤松がいたりする。小造もいたかもしれん。幕臣の岩倉具挙が小造氏だったはず。服部も旗本や桑名藩士として存続した。隠岐の村上家だってある。旗印が消えた。 >>268
江戸時代の旗本の赤松氏は南朝系の赤松じゃないよ。
南朝に味方した赤松は滅んでいる。
北朝に味方した赤松家の分家の有馬家(国持大名)のさらに分家の石野家が江戸幕府の旗本となり、のちに姓を赤松に戻しただけ。 >>270
赤松円心の事やな。
初めは南朝の味方だったけど討幕の功績を無視されたから北朝に寝返って、以降は死ぬまで北朝の味方。
だから南朝方では無いよ。
君の勘違いだ。
ただ、円心には息子が何人もいて、その中の1人(氏範)が南朝方で活動していたが北朝方に攻められて子供と一緒に死んで滅亡している。
*元中3年/至徳3年(1386年)9月2日、摂津中島郡(播磨という説もある)、幕命を受けた細川頼元や山名氏らの追討を受け、子息ら一族郎党100余名と共に清水寺にて自害した。享年57。
これで南朝方の赤松氏は滅亡し、北朝方の赤松氏のみとなった。 >>271
それ(前半部)、表現がよくない
南北朝の争いになって以後に南朝方で戦ったことはないんだから、南朝方と呼んじゃいかん
鎌倉幕府を倒す際には早期から後醍醐方として幕府軍と戦ったが倒幕後の恩賞への不満からか南北朝に入ってからは一貫して幕府方 >>272
つまらん奴だな
自分が気に入らないだけだろ 西陣南帝のウイキペディア、なかなか充実しているね。
後南朝の研究も着々と進んでいるということだろう。
応仁の乱がブームになっていることだし、西陣南帝は人気が
出るのではないか? 西陣南帝より聖承と教尊のほうが人気が出ると思う
教尊は女子に人気が出るのでは? 大室と小室って書いてる人はいないかしら?と思って久々に来てみたけど、いないのね。 >>279
小室は婚約者の?
家柄が気になる。
まったくの平民なのか? できれば後南朝の後裔とご成婚していただきたかった。
そうすれば、ご成婚を理由に、皇配となった後南朝後裔が皇籍復帰、
その皇子が皇位継承順位者となり、久しぶりに南帝即位を見る
ことができたかも知れない。 後醍醐源氏がせめて清華家くらいの家格で残っていればね
でも、その場合、皇統復帰は難しくなる 後醍醐の皇子らが誰も臣籍降下されてなくて賜姓源氏になってないからむりだろ
だれか源氏になってたか? ちょっと南朝関係から話がズレるが、思いついたのでカキコする。
村上源氏の流れで言うと、
「承久の乱」では源通親(土御門通親)が後鳥羽上皇方・・・負け
「南北朝の動乱」では北畠親房・顕家の親子が後醍醐天皇方・・・負け
「戊辰戦争」では岩倉具視が官軍方・・・勝ち
通算では1勝2負だけど、最後はタイムリーヒット打ってお立ち台みたいな。。。
てか、「承久の乱」と「戊辰戦争」で2回も”錦の御旗”を揚げたんだから、ある意味スゴいな? 北畠・岩倉は村上源氏の中でも傍流なので、反主流側で勝負しようとする動機が
あったのではないか?
南朝というのは、公家社会で反主流になってしまった人たちが巻き返しのために
結集したという側面があったように思う。
それが後世になって、朱子学的なイデオロギーから、正統扱いになって脚光を
浴びるようになったのではと思う。 承久の乱の19年前に亡くなってる源通親を負けとするのはどーなのよ。 政争で負けたとは言えるかもしれないが、
乱前に死んでる人間が乱での負け組に加えられるのって、明らかにおかしいな 隕石前に滅んだ恐竜も隕石で滅んだ扱いになってるみたいなものか 源通親が存命だったなら、後鳥羽院を思いとどまらせて、承久の乱の
大敗を防げたかも知れない。
承久の乱がなかったなら、京方についた京都在住の御家人が存続し、
鎌倉幕府の姿も違っていたかも知れない。 村上源氏は堂上源氏の中では最大の勝ち組で、支流も多くなったから
その中で傍流になった人が勝負を賭けることがあったのかも知れない。
北畠氏は戦国時代を生き抜いたし、よく頑張ったほうではないか? >>294-295
あの没年で子どもがいたのかよ、16だろ?
いや、19だっけ? なら問題ないか? 旗本の滝川氏ですね。
北畠の分家筆頭みたいな木造御所の流れで、滝川一益の娘婿になったときから滝川氏になった。。。と、されてるけど、実際はよくわからないらしい。 >>294
>>296
浪岡と伊勢の北畠家には顕家の末裔という伝承もあったとか。
浪岡は顕信の、伊勢は顕能の子孫だろうけど。
顕家もそんな伝承ができる程度には知名度があったってことか。
長慶天皇は父後村上15歳の時の子だな。
顕家子孫も絶対にあり得ないとは言えないが… 浪岡北畠氏は顕家の子孫ではなかったか?
あのような僻地に公家の村上源氏が土着するとは >>300
戦国時代より前のことは信憑性の定かではない伝説程度に見えるな
顕家の子孫と称する北畠氏が浪岡にいた、という程度にしか言えそうにない
顕家じゃなく顕家の弟の子孫という説もあるし、ひょっとしたら仮託かもしれない 浪岡北畠氏は仮冒の可能性もあるようだが、「顕」「具」などの文字を通し字にして、
当主が御所号を用いたりしているので、村上源氏・北畠氏の貴種という意識は
かなり強くあったように見えるね。
本家の伊勢北畠氏とは交流はなかったのだろうか? 本物なら密接な交流があっただろうが、今では交流の有無すら調べがたい気がする
斯波氏が京都の武衛家と陸奥大崎家出羽最上家と日常的に交流を続けてたり土佐一条家が何世代にもわたって京都の本家と交流を続けてたり、
というぐあいで遠くても親族とは交流を維持するのが当時の基本だしな
ただ、御所という語句を使ったのはむしろ怪しむべき要因かと
本来は貴族じゃなく天皇の居所を示すのが御所だから、南朝皇胤をかくまっていたのでない限り御所と称したとは思えない
周りが勝手に呼ぶのはありうるけども。
将軍や鎌倉公方、各地に派遣された後醍醐の皇子たち、それに土佐一条氏などの拠点も御所と呼ばれてたとおもう。
それで、浪岡北畠氏の拠点が周囲から御所と呼ばれたというのは可能性はあるが、その北畠氏自身が御所と呼んでいたとしたら、むしろ偽物の疑いが生じると思うわけ このスレの趣旨に沿えば、浪岡北畠は後南朝としての活動が全く見えないのがすこぶる怪しいね
伊勢の本家は派手に活動してただけに 浪岡北畠氏は後南朝の皇子を擁立したという形跡が見えないから、居館を「御所」と
称したのは、自らの高貴さを周囲に誇るものではなかったか?
東北の辺境においては、中央貴族・村上源氏の後裔というのは、ずば抜けて
高貴な家柄で、周囲の豪族たちもそれを是認したのではないか? >>305
周囲が北畠の高貴さを尊んで御所と呼ぶならおかしくはない。
だが浪岡が自称したのならおかしい。 大河ドラマで後南朝を取り上げてほしい。
一年間放映されて話題になれば、後南朝の知名度も上がって、
ブームになることだろう。 取り上げても大河史上最低の視聴率を大幅更新するだけで終わるけどな 今は応仁の乱がブームだから、西陣南帝が颯爽と西軍の陣中に出御されるシーンは
大いに話題になるだろう
配役はぜひ人気のある実力派俳優を起用してほしい 近所のスーパーで応仁の乱の本があって流し読みしたけど西陣南帝はなかったぞ
西陣南帝がでてこない応仁の乱はコーヒー豆をいれないコーヒーみたいなもんだ 西陣南帝→織田信定→織田信秀→織田信長(異論はないであろう >>311
応仁の乱関係者の中でも特に小粒な南帝だ、コーヒー豆ほどの存在感があるわけがない
最大限に高く評価するとして胡椒か七味ぐらいだな 足利成氏が西陣南帝を古河城に迎えて、
自分が征夷大将軍になろうとしなかったところは、逆に面白い 後南朝の歴代南帝の中でも、西陣南帝は末路が哀れで、陵墓さえもどこにあったか
わかっていないからな
その後の南帝のほうが歴史に名を遺した人が多い 西陣南帝より後には南帝はいない
創作上の架空南帝と偽系図で飾られた偽後胤だけだ いくら実権を失ったとはいえ血筋的には極めて価値があるのにも関わらず
歴史から姿を消したというのが実に奇妙に思えるんだが
なぜ血統の強化に利用しようという物が一人もいなかったんだ? 土佐一条氏がけっこう大きな勢力を築き上げたのと対照的だ
官位を斡旋する能力、人脈の方が血縁より優越したんだな いったんは西軍の旗印に祭り上げられながら、すぐに陣営を放逐されてしまったのが痛かった。
一定期間、西軍の大名たちと転戦して、人脈ができていれば、中央政界復帰もあり得た。 担ぎ上げられる前に、準備段階のうちに中止されてなかったか ほんのわずかな期間でもいいから西陣南帝が表舞台に出て、天皇として認知されていれば、
その皇子も親王宣下を受けて、南朝が息を吹き返すチャンスだったのに残念だったな 北朝関係者にとっては南朝は朝敵なんだから、
いかなる状態であろうと親王宣下とかするはずがない 南朝の(自称)天皇に子供がいれば、(自称)親王ではあるだろ。
世間が認めるかどうかは別問題だが。 皇子たちは親王ではなく、諸王として扱われていたのではないか?
また、近臣たちもどれくらいの官位に昇っていたかも明らかではない 親王宣下という任命を受けてなかったら天皇の実子でも諸王だよな
任命の書類を書く役人がいない後南朝には諸王しかいないはずだよな 長慶天皇皇子の玉川宮は諸王の扱い(薩戒記永享6年4月2日条) 西陣南帝が北山御所の外記・弁官に命じて親王宣下の宣旨書を作らせ、発給
しなければならなかった。
だが、当時の北山御所には外記・弁官はおろか、南帝の聖旨を伝える内侍も
待機していなかった可能性が高い。 偽帝の指示に従ったりしたら、そいつの家の朝廷内での立場は未来永劫無くなるだろ。
偽帝の指示になど従えるか、って便所紙にでもして終わりだよ。 馬鹿発見。
両党合一後の御南朝はただの野良皇族。
そいつらを正統と認めたのは反逆者だけ。 親王宣下はもちろんだが、南帝ご自身も即位の礼や大嘗祭を無事に挙行できて
いたかどうかが疑わしい。資金が不足しており、儀式を挙行するための官人が
まったく足りていなかった。 即位礼も何も、三種の神器を京都に奪還されたのにできるわけがねえだろ >>334
それもいつものネタと同様、後南朝じゃなく吉野南朝の時代の描写の方が適切なんだよな
後南朝になると、それこそ山賊のような連中しか周囲にはいないだろ
もっとも、鎌倉幕府と戦ってた頃に大塔宮に組織された武士たち、
千早城赤坂城を落とされて脱出した楠氏を匿って支えた大和の武士たち、
そういった倒幕派武士たちの多くも山賊みたいな連中だし、
後醍醐流は早期からその手の山賊のような連中に支えられてたんだろうな 後南朝のころになると、名だたる廷臣は楠木正理くらいで、後は奥吉野の郷士たちだろう
だが、その楠木氏も元を正せば、正統派の武士とは言えない 南朝の朝廷では年号を制定していたので、勧申者を務める博士や選定に当たる公卿が
いたのだろうが、後南朝の朝廷には、もはや勧申者を務める学者は見当たらず、
年号も久しく制定されなかった。西陣南帝が践祚するに至って、ようやく勧申者の宛てが
ついたのか年号を制定するに至っている。 後南朝になってからは、兵力はそこそこいるが、文官が不足しているように感ずる 京育ちの文官は後南朝のある北山御所に出仕するのは骨が折れそうだからな >>332
外記・弁官を含めて実務を担当する官人たちの圧倒的多数が北朝に仕えていた。南朝に仕えていた官人は極めて少なかった。
んで、北朝側では南朝のことを偽帝とみなしていた。
だから、京都の官人で南帝の依頼を受けるようなことをすれば、>>331 のように見なされることは必然だよ
京都の官界の人々の主観に限って言えば>>331の言ってる内容がすべてだ。
南朝正統論は南北朝時代には非主流派だったんだよ。 現代に生きる我々は、南朝を正統とし、歴代の南帝を崇敬する歴史観を持っている。
この歴史観がバイアスになって、南朝・後南朝の南帝たちが当時の大半の人々から
偽帝と思われていた事実を見落としがちだ。 だからって神器強奪事件はないわー
譲国の儀をもって譲られてない単なる強奪じゃな 後南朝の主上が偽帝と見られたのは、神器を失ったのもさることながら
行宮での仮住まいをしており、内裏や都大路の造営がまったく進んで
いなかったことも原因となったのではないか?
主上の草深い仮御所を見れば、誰もがその正統性を疑ったことだろう おそらく、
あの泥棒のようなものに入られた話だと思う
▢▢力夫 ▢▢美穂?
盗まれた、入られた家、このような名前? 『力夫 美穂』
検索してみて、上の名前?
おそらく、そうだと思う 府中に住んでいる人は、新田義貞公の銅像を目にするし、神戸に住んでいる人は
大楠公に銅像を見て育つ。湊川神社の前を通るときは、大楠公にお辞儀をして
から通るのが神戸市民だ。そんな中で、現代の我々は知らず知らず南朝尊崇の
心を身に着けているんだよな。その見方がどうしても歴史を見るときに反映して
しまう。 市電が湊川神社の前を通るときは、楠公さんに敬意を表して一時停止していたくらいだからな >>349
府中には足利尊氏が建立した高安寺もあるがなw 神戸だと平敦盛と大楠公の人気があるな。遠足で敦盛塚とか湊川神社に行くし、
地元で最期を迎えた悲劇のヒーローだから、当然人気が出る
平家とか南朝贔屓の人が多いだろう。関東だと喜連川御所が近いから足利方で
北朝贔屓の人が多いのかもな >>352
小楠公さんの四條畷神社はそこまでせんかったなー。 音楽の授業で「青葉茂れる桜井の」を習って、南朝贔屓になった人は多いでしょう
熱心な生徒は15番まで覚えて、みんなに自慢していた 大切なのは、学校教育や家庭教育で南帝や南朝遺臣を崇敬する歴史観を
教わってしまって、南朝や後南朝を過大評価しがちなことだ
歴史を見るときは、先入観を取り去って客観的に見る必要がある >>359
肛門が楠公を顕彰するからこうなった。義貞の手前味噌よりはいいけど。 南朝を正統とする考え方には、後醍醐天皇の「天皇親政」を尊び、幕府を否定する考え方が
あるのではないか?
江戸幕府を倒して、王政復古を目指す幕末維新の考え方に、後醍醐天皇は親和性があった
ように見える。だから、南朝尊崇に流れていったのではないか? 徳川の祖先に擬せられてた得川氏が新田の分家だったことと関係するんじゃないの、もともとは。
それに、南朝皇胤は完全に滅亡してて、いくら称揚しても誰かが台頭することはないと高をくくったとかね 室町時代は、北朝・室町幕府は体制側だから、これを支持する実利があるので、
大半の公家・武士が北朝を支持したのだろう。
だが、江戸時代になると、実利ではなく、イデオロギーの問題になる。
宋学が浸透するに従って、名分論の立場から、南朝支持が優勢になる。
肛門様の影響ももちろん大きい。 >>361
そう思うね
幕府政治を否定する天皇の存在としては、 幕府に迎合した北朝よりも、
幕府と敵対した南朝の方が尊王派には都合がよかった 後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒す旗印となり、室町幕府に徹底抗戦した「反幕府」的存在だ。
その当時は時代錯誤な面もあり、次第に時代の主流から外れていったが、幕末明治維新に
なってから、その存在は理想視されたのではないか?
それまでは、水戸肛門などが南朝を尊崇したが、理念的なものにとどまっていたと思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています