【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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肛門が楠公を顕彰するからこうなった。義貞の手前味噌よりはいいけど。 南朝を正統とする考え方には、後醍醐天皇の「天皇親政」を尊び、幕府を否定する考え方が
あるのではないか?
江戸幕府を倒して、王政復古を目指す幕末維新の考え方に、後醍醐天皇は親和性があった
ように見える。だから、南朝尊崇に流れていったのではないか? 徳川の祖先に擬せられてた得川氏が新田の分家だったことと関係するんじゃないの、もともとは。
それに、南朝皇胤は完全に滅亡してて、いくら称揚しても誰かが台頭することはないと高をくくったとかね 室町時代は、北朝・室町幕府は体制側だから、これを支持する実利があるので、
大半の公家・武士が北朝を支持したのだろう。
だが、江戸時代になると、実利ではなく、イデオロギーの問題になる。
宋学が浸透するに従って、名分論の立場から、南朝支持が優勢になる。
肛門様の影響ももちろん大きい。 >>361
そう思うね
幕府政治を否定する天皇の存在としては、 幕府に迎合した北朝よりも、
幕府と敵対した南朝の方が尊王派には都合がよかった 後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒す旗印となり、室町幕府に徹底抗戦した「反幕府」的存在だ。
その当時は時代錯誤な面もあり、次第に時代の主流から外れていったが、幕末明治維新に
なってから、その存在は理想視されたのではないか?
それまでは、水戸肛門などが南朝を尊崇したが、理念的なものにとどまっていたと思う。 後醍醐天皇の再評価は全くされてないぞ。
足利3代梟首事件のように足利サゲは行われたが。 つーか、そもそも徳川家の主張する祖であるところの、世良田氏もしくは得川氏は南朝方に付いたために討ち死に、もしくは遠流先で死んだ人
に設定されてるんだから、徳川家自体が理屈の上では南朝旧臣。
にもかかわらず、足利家アゲを江戸時代通じて続けてたんだから、南朝が正統とか、後醍醐天皇が正しいとかいう発想は徳川家には
なかったんだろ。 >>368
今大河ドラマの井伊も南朝の旧臣
でも南朝復権のために江戸時代何もしとらん 当たり前だろ
南朝に味方して衰退したとこばかりなんだから
南朝は疫病神だよ 南朝をかつぎあげるのは反主流派、もともと劣勢な勢力が仕方無しにすることだから
勝てる見込みなんか限りなく低いわな 明治新政府は新田・菊池などの南朝遺臣の叙爵を行っているから、幕末・維新の
ころには南朝尊崇の気風は、すでに公式のものになっていたのだろう
だが、明治時代の学会においては、「南北朝時代」と呼称して、南朝を特別視
してはいなかった。国定教科書でも、「南北朝時代」とされた。
だが、やがて学会のこの態度が、政治的に攻撃されるようになっていき、呼称も
「吉野朝時代」となった。政治家が南朝を軽視したり、北朝・室町幕府を評価
したりする発言は禁忌となっていった。
本格的かつ狂信的な南朝尊崇は、近代になってから強くなったと言える。 南朝遺臣叙爵だけでなく、後南朝皇胤の皇籍復帰もしておかなかったことが
悔やまれる。世襲宮家にしておくべきであった。 本物らしき南朝後胤が見つからなかったから、どうしようもなかったがな 新田(岩松)の叙爵は、井上薫が、元新橋芸者の妻の武子の実父の叙爵を働き掛けたから。 >>375
『皇族 人権 ない』
一般人になった人がいるはず、
今なら確実に人権侵害? かなり前から一般人として暮らしています、
一般人となったので人権もある
実際は、そういう人もいそうなんだけど、
かなりの人口(人数) 明治維新のころに、西陣南帝や十津川宮の皇胤を皇籍復帰させるのは、
皇籍を離れてからあまりに遠すぎるので無理だろう
せめて元禄年間まで即位したり、親王宣下を受けた実績のある美作後南朝の
皇胤の皇籍復帰を第一候補として検討すべきだ >>377
美作南朝は実績どころか実在性すら存在しない、完全フィクション 維新当時の皇族で母系で南朝の血を引く方が熊野宮・十津川宮の名跡を継承して
後南朝世襲宮家を復活させるのがよかっただろう
菊池武夫男爵など南朝遺臣の子孫とともに、政界で活躍したのではないか? 維新当時の皇族で母系で南朝の血を引く方なんていないだろ
いい加減にしろよ ポエマー 必ずしも南朝の血を引いている必要はないだろう
皇族であれば何も問題ないのだから、維新当時の皇族の誰かに後南朝宮家を継がせればよかった
還俗させた親王門跡あたりをあてがえばよかったのでは 皇族というのは渡来人、帰化人なの?
それとも先住民(原住民)?
話が、おかしくない? >>383
根本的な話として、維新当時の皇族も貴族も北朝系で、南朝・後南朝は敵・反逆者と考えてたんだから、わざわざ南朝系の名跡をもらって喜ぶはずがない。
南朝を評価したのは、水戸学の流れを組む思想家だけ。 水戸藩は、
易経を学んで、
頂点は1つだから、
征夷大将軍よりも天皇を立てるべきだと
解っていたと
動画で見たな。 >>387
当初は皇族も公家もそういう意識だったと思う
だが、維新当時は南朝功臣に位階を追贈し、南朝功臣の子孫をわざわざ探し出して
まで爵位を与えるまでになっている
ならば、南朝・後南朝の宮家を襲名できるのは、名誉なことであり、南朝顕彰事業の
最たるものと言えるのではないか?
不遇に甘んじていた傍流の皇族にとって、名誉が得られた上、世襲の俸禄が保証
されるのであれば、むしろうれしい話ではないのだろうか? 騙り、成り済ましだという話は?
系図の偽造
家?名も売ってもらったとか 大楠公、新田義貞公が正一位なのだから、主筋の後南朝宮家はそのさらに上という格式になるよな 何を言っているんだ?皇室とは万世一系。大楠公がお仕えしていたのは皇室であって、後南朝などという野良皇族もどきではない。
皇室が二つあるような不敬な発言は即刻辞めるように。 だが南朝は皇室から追い出されたからな。
後醍醐帝のみ皇室の一員 >>393
ちゃうって。後醍醐天皇から南北朝合一までは南朝が皇室。北朝天皇は僭称。
ただし、直系の祖先として、北朝天皇も皇室からの崇敬を受けている。
合一後は北朝(というか合一された唯一の皇統)のみが皇室。後南朝はただの騙りだから、皇室から無視されている。 >>394
あれ?
現在の皇室が後南朝だって宇野正美のどうがでみたな。
戦時中皇居の楠木正成の像を取り壊して武器に作り替えなかったのも
そういう意味合いらしい。 その手の与太話ホラ話は一定の勢力を残してるがデタラメだよ >>395
明治時代に南北朝正閏論をやった時に、後南朝の正当性なんて議題にも上がらなかった時点で、
皇室が後南朝になんの興味もないことに気づけ。 >>394
南朝がわの主観ではな
北朝がわ主観では、吉野に去って以後の南朝は一貫して僭称、偽帝。
その主観を明治維新まで言い伝えてきたんだよ >>398
南朝の主観も北朝の主観もどうでもいい。
合一までの正当な天皇は南朝と明治大帝が定められたのだから、我々は御聖断に従うより他ない 皇室も公家も、幕末ごろまでは北朝を正統と考えてきたのだろう。
だが、御一新を迎えて、南朝を正統と定め、南朝功臣たちに官位を追贈して
南朝功臣の子孫に爵位を叙爵した。
これは、南朝を正統とする「世論」を朝廷が認めざるを得なくなったことを
示すのではないか? >>400
ないか、っつーか、そのとおりだよ。
南朝正統の方向に世論が傾いて、政治問題化したり、学者が叩かれたりした混乱を収拾するために
政府が南朝正統を認めて、明治大帝もそれを許した。
ぶっちゃけ、皇室の方々の感情とか関係ない。 昔、祖母に聞いた事あるんだが、我が家系は楠木の遠い祖先にあたるらしいんだわ
楠木家自体は滅び去ったのか知らんけど、生き延びた者もいたって事かな... 楠家の出自すら分かってなかった時代にそのようなことを言えたなら、
それなりの根拠があったか、もしくは先祖のホラ話を信じ込んでたか、どちらかだな そういえば橘氏系であることがほぼ確実な家系って今でもあんのかな? 楠木氏は大楠公以降も後南朝の廷臣として存続し、南天皇に仕えて北山御所に
出仕していたから、それなりに子孫は栄えたのではないか?
子孫を称する人がいても不思議ではない。
大楠公の名に恥じぬよう、子孫の人は今上陛下に忠義を尽くしてほしい。 >>392
野良扱いしているおまえが一番不敬だよw 後南朝は皇胤ではあるが皇族ではない
だから不敬と見なす方がおかしい https://image.rakuten.co.jp/auc-wildhearts/cabinet/sonotaconcho/concho2219a.jpg
楠木の姓ととは異なるけど、うちの家紋は上のような菊を崩した感じ。祖母が言うには
この家紋は相当に珍しいらしく、自分も気になったのか家紋に詳しい専門家に依頼して当時
調べたらしいんだわ。そしたら、ほぼ楠木家由来か、その分家だという説明をされたようだ。
先祖代々からの言い伝えは当たってたって事みたいだな… >>408
いえ皇族です 足利の奸計にかかっただけです
足利の奸計を正しいとみなして、後南朝を貶める行為は不敬です 臣籍降下せず王号を称していたのなら皇族だろうな
後南朝の帝位を認めるかどうかは議論が分かれると思うが、
諸王クラスの礼遇は認められる 当時の朝廷の公式見解が、後醍醐帝以外の南朝諸帝は即位してない(偽帝)というものだから、
後南朝と呼ばれる範囲で諸王はほぼいないな
朝廷が諸王と認めて認可しない限り王未満、臣下あつかいだな いや、だから北朝の認識でなくて、明治大帝の公式見解に立とうよ。そうでないときりがないから。
後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇までは天皇。
後亀山天皇の5代孫から臣下。
後亀山→小倉宮→小倉宮→西陣南帝 が本当なら、西陣南帝はぎりぎり皇族だな。 >>404
旗本の甲斐庄氏がそうだな
楠木正成の弟:楠木正季の子孫だけど >>406
南朝系の楠木氏は族滅された
わずかに生き残ったのが北畠氏を頼って伊勢に逃れて、伊勢楠木氏として存在したが
織田信長の伊勢攻略時に抵抗して滅亡している
当主は本願寺に逃げて討ち死にし、嫡男は木下秀吉に嬲殺しにされて終了
楠木正虎は自称:楠木氏の子孫を名乗ったが詐称であると言われている
本当の家系は備前大饗氏の出で、生国も備前で初名を大饗長左衛門(甚四郎)と言う >>409
家紋の詐称もあるから当てにならない
いつからその家紋を使っていたのか証明できるものがないと 南北朝時代(吉野朝時代)当時は、
・南朝を支持する公家・大名もいた
・南帝による詔勅が渙発されている
・官位を発給しており、公卿に昇った者もいる
・年号を制定し、南朝年号を使用する者もいた
ことから、南朝は朝廷としての実態があったので、北朝が是認していなかった
としても、南帝・南朝皇族・宮家を是認して差支えあるまい。
だから、長慶天皇を起点として五世までを諸王とみなしてよいのではないか? >>419
後亀山から5世までは認めていいと思うけど。
その後は平民だけどな。 西陣南帝(熊野宮信雅王)は後亀山天皇の三世王だから、西陣南帝の孫までは
諸王ということになる。したがって、皇子の治廣王の皇子の代までは諸王と
いうことになる。 >>402
「楠木党」は合一後もちらほら登場するんで(党とされると楠木血族なのか家来なのかも曖昧になるが)
皆殺しにされたなんてことはまず絶対になく、けっこう残ってるんじゃないかと思う。
詩人の野口雨情は楠木正季の末裔を称していたとか。
正成以前の楠木氏は全く謎だが、吾妻鏡の源頼朝時代に現れる「楠木四郎」が同族だったならば、
正成以前に140年は歴史があるから、そこから分かれた同族もそこそこいただろう。
楠木氏の駿河ルーツ説が当たってるなら、広く各地に分布してる可能性もある。
また、楠木は苗字で、本姓は橘だったというし、武士は苗字をコロコロ変えていたんで、全然別の苗字の子孫もおかしくない。
まして室町の世でははばかられる苗字だったろうし、むしろ楠木を名乗る人こそ正成と全然別系統かも。
ちなみに、橘氏は橘諸兄・佐伊に始まるんで、天皇から分かれた氏族。
新撰姓氏録でいう「皇別」。
もちろん、正成が本当に橘氏だったかからして疑わしいのだが。 そもそも「皇族」「王族」「王家」の意味範囲がなあ(皇胤とすれば尊氏も義貞も正成も顕家も含まれるが)。
後醍醐後胤なら、京都に帰った長慶・後亀山系は「宮」と呼ばれた人がいたので、彼らは皇族と見ていいのだろう。
幕府に討たれた自天王も「王」とは呼ばれてる。
「何代まで王」もどこまで貫徹されたか疑問で…親王は宣下を受けないとなれない制度になったが、
さすがに単に呼び捨てははばかられたのだろう。
しかしまあ、世論で動く「万世一系」ってw 西陣南帝の後に散発的に表れる後南朝後胤も、「出羽王」、東国に下って北条早雲に
出会った「王」など、「王」を称している。後亀山天皇からかなり時間と代がたった
後も、後南朝後胤はかろうじて皇族であり続けたのではないか?
この時代の皇族は、長く皇籍にとどまる傾向があり、臣籍降下の早かった平安時代
とは事情が異なるように思う。 祖母がうちの家紋と家系図を専門家に依頼した時に説明された経緯も、正成の末裔とは言って
無かったな。あくまで、楠木家の分家説とその可能性を示唆されていた。もしかしたら、
大楠公の血族かもなんて言ってた気がする。因みに、4代前まではそれ以前のご先祖は
千早赤坂で農業をやっていて、河内に移住してからは、魚屋をやっていたそうだw ちょっとまて、千早赤阪は河内の一部だぞ。なんで千早赤阪から河内に移住するんだよ、まるで千早赤阪が河内じゃないみたいじゃないか >>426
自称皇族は熊沢天皇と同じでなんの説得力もない。
皇室から切り離された野良皇族になった後南朝の人は、姓を与えられて臣下に降下することさえできなかったわけで、
5代経って皇族でなくなれば、姓さえもたない、ただの庶民。 平安→奈良→飛鳥時代(もうそれ以前は信憑性の問題が)は皇族に賜姓がわりに気前よく行われたんだよな。
ただ、平安時代ともなると、源・平・在原など有力になったのは限られてきてしまう。
というか、奈良以前は分立される氏の名称もいろいろあったのが、源平だらけになるとも。
賜姓=分家した所で頭がもう詰まってきてしまったということだろう(家格の固定化も関係あるだろう)。
ただ、王族たる実態(経済力や官位)を伴わなくなっても、彼らは「庶民」ではないと思う。
偉い人の姓は朝廷の許認可が必要だったはずだが、実際にどこまで貫徹されていたかは不明。
というわけで、南朝末裔が熊沢なり何等かの苗字を名乗っていても、変なことではなかろう。
皇の字が付く皇家・皇族・皇統はさすがにいいかげんに使われた語でもなかろうが、皇胤となると継承権も関係なくなるし、
王なんてどれほど厳密に使われていたことだか。
天皇とまた別に百済王家がいて、続日本紀ではわりときちょうめんに百済王と王を略さず書かれてる(百済が姓でもあるんで、後世は略されることも多い)。
逆に見れば、天皇とは、すごく神秘的なようでいて、実際はけっこう相対的なもんで、
氏族レベルで見たらさほど珍しいもんでもないと認識されていたかも知れない(源・平などのほうが高貴なこともあり得る)。 >>425
楠木が橘氏なら皇胤ではあるんじゃないかね
>>427
×族、×戚も難しいんだなあ。外戚だったら血のつながり全然ないかも知れんし。
「河内楠入道」「楠木四郎」はハッキリしない人物ではあるが、正成親族なら楠木氏は鎌倉時代いっぱいは存在したのだろうし、
途中でけっこう多く分かれてる可能性もある。
橘氏はけっこう吾妻鏡に登場するので、楠木が本当に橘氏だった可能性もゼロではないし、
鎌倉時代はまだ婿養子に行っても旧氏姓は保持されたようなので(畠山氏が前は平姓だったのに、足利から来た当主になって源氏になったような)、
橘氏から婿養子が来て橘氏ってことかも知れないし。
富士川合戦のころの駿河国司か目代は橘だよね。楠木が駿河ルーツならその親戚かも知れない。
もともと新田や北畠と比べて格の低い家だったわけだから、幕府からしても根絶やしにする必要はなかったろうし、一概に自称末裔も否定できない。
江戸時代の初年ぐらいに「帰農しました」って証拠でもあれば、「楠木さんなんですね」で解決だけどね。 平姓畠山と源姓畠山は、全く無関係なわけではないけど、血縁じゃないぞ
平姓畠山が滅ぼされた後に、そほ未亡人をめとって興された家だからな
入り婿と言えなくはないが、畠山氏の娘ではなく未亡人をめとったとこが異質といえる 美作後南朝を実在していた前提で話してる人は一人だけ? 楠木氏は幕府に対してたびたび反乱を起こしているから、討滅対象だよ
最後の方は名前すら良く解らない奴まで討伐されてる
記録でも、楠木兄弟としか記載されてなかったり
族滅に近い状態に陥ったのは間違いない 美作後南朝については書物も少なく、闇の中のまま。
南北朝時代の末期に山陰の大々名の山名氏が南朝の断絶を避けるために
美作国の植月に後南朝の皇子を招いて開設されたのが美作後南朝。
三種の神器も美作後南朝に伝えられ、代々天皇が即位し、地元豪族達に守られて
戦国時代も生き延びたが、第8代高仁天皇が死に、後継者である良懐親王が江戸幕府
により庶民の身分に落されて美作後南朝は滅亡したとされている。
個人的には美作後南朝の存在自体を疑問視しております。
平民に落とされたにしろ子孫は続いた訳で、それらの足跡が余りにないのは不自然ではないかと。
ましてや地元豪族が本当に支持していたなら、その後も支援するだろうし庇護もするでしょう。
突然のようにすべてが消失するなんてありえないと考えています。 後南朝は史実から消えた。
それがすべて。
南朝後胤の最後の資料は、東大史料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という綱文のもとに、次の四件あります。
A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送られて、
越後より越前国北荘へ移った。
B同記三十日の条
「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。
C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
(現:山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。
D同記明応八年霜月の記事
「王」が明応八年霜月に流されて三島(現:静岡県三島市)に着き、
早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。
当時の文献上は、これで終了。
南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。 >>433
このスレに来てるのは一人だけだと思う
どっかのフィクション本を読んで信じこんじゃった人に違いない >>429
正統な天皇は南朝だろ?
それを上手くだましたのが北朝と足利だ
何でだました側から姓を賜らなきゃならない? 明治維新は南朝革命だってこと知らん奴がいるのか?
それとも工作員だらけか? >>440
そう、よかったね。
で、なんで後南朝の自称天皇は皇室から無視されてんの? >>432
平姓畠山氏は秩父平氏なので、一応は皇胤ではある。信憑性は〜だけど。
だから清和源氏の足利とも遠い親戚にはなる(三浦や千葉と同レベルの)。
畠山は、平姓の家に源姓が養子に入ったことが特徴で、苗字と家を考える上で好例。 当時の史料に出てくる「出羽王」などは、ニセ皇族という指摘もあるが、
皇族、しかも後南朝皇族であるのは本当だったのではないかと思う
吉野や南紀で活動していた後南朝の皇胤が、活動拠点を失って、
各地を放浪した時期だったのではないか? 第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)
|
|(推定) 第104代
−岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
|
−弟宮
小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、その後消息不明というのが史実と思われるが、当時の
文書等から西陣南帝に系譜をつなぐとこうなる。
*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
その後の消息は不明。
教尊は血筋を断絶する為に寺に入れられたのだから、教尊に子供がいるのはおかしい。
可能性としては隠岐に流された後に現地で妻子を設けたくらいだが、監視の目があっただろうし
難しいのではないか?
教尊は隠岐に流されて監視されたまま子供を残せず死に、小倉宮流は断絶したとみるのが妥当だろう。
かすかな可能性としては教尊に他の兄弟がいて、その子孫という事だがそれも兄弟がいたとしても
同じように寺に入れられて断絶させられている可能性のほうが大きい。
なので、岡崎前門主とその子供(西陣南帝とその弟がいたらしい)は、南朝の傍系の子孫であるが
ネームバリューのある小倉宮流の直系を詐称したと見る。 6代将軍の義教の時に、南朝皇族は滅亡させる方針に変わった。
小倉宮の子孫はじめ主要な皇族は仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実。
自称傍系の子孫らしいのが細々と吉野や紀伊の山奥で活動してただけ。
活動規模はもはや山賊レベルで驚異にはならなかった。
その傍系も赤松遺臣に討たれ滅亡した。
そこから先は伝承に過ぎず南朝の名前を利用されただけ >>443
後南朝の蜂起ってのは基本的に、京都周辺の寺に入れられてた南朝皇胤の宮が脱出ないし拉致で地方に行って蜂起するもので、
地方在住のかくれ皇族が蜂起したわけではないよ みなさん、
なんでそんな後南朝について詳しいの?
受験勉強でもほとんど出てないと思うし、
本もあんまり聞かないなあ。
ネットで調べて、
自分流に解釈したって感じですか? >>447
後南朝の本はある。
でも1冊の本で現在確実なことは事足りてしまうほど事績に乏しい。
要するにまあ、長い天皇の歴史で見たら、傍系の1つでしかないわけです。
(正統は当然今の彼らとして、今突然南朝末裔が出てきても何の意味もない。公安委員会はマークしてるかも知れないけど。)
いくらか同情してる向きもなきにしもあらずだけど、知的興味が一番の動機じゃないかな。 >>447
今でも南朝尊崇の気持ちを抱く草莽の烈臣が多く残っている。
その人たちは南朝の皇胤や遺臣たちが粘り強く活動し、南朝の皇統を
維持して再び皇位を伺ったその事績を顕彰したいと考えている。
その忠烈無比の精神がこのスレの原動力となっている。 >>447
長州人ですが、あれやこれやの陰謀論があまりにうざくて、叩いてるうちに詳しくなりました。
不敬な会津人は明治時代のうちに全部樺太に追放しとけばよかったのに。 オレはアンチ薩長の関西人だけど南朝びいきの宗教家がうざくて反論用に本を読んだからかな まあ、
俺が詳しく読んだわけではないけど、
神皇正統記や梅松論を考えると、
南朝正統説は本当だろうな。
これと後南朝との関係は知らんけど。 梅松論は南朝正統説じゃないだろ
神皇正統記は自分とこが正しいとプロパガンダをぶち上げる宣伝書であって客観じゃないから信憑性は話半分だよ
後南朝は単なる反乱軍であって正統性云々は関係ない >>453
あれ?
梅松論って南朝正統説じゃなかったっけ?
受験の時、神皇正統記と対で覚えたよね。 俺日本史そこまで詳しくないんだけど、
北朝の時に戦国時代になったの?
だとしたら、天の沙汰かなと思うけど・・・ 戦国時代になったのは応仁の乱ごろだから、北朝の天皇のころと言える。
だが、南北朝対立があってもなくても、戦国時代にはなったと思う。
武士の世の中になった以上、いつかは戦国時代になる運命にあった。 っつっても戦国時代の底流となってるのは南北朝での戦乱だし、室町時代の諸制度のうちでも戦国時代につながるようなものの多くは建武政権下で新設されたものを幕府が引き継いだものなんだよな
後醍醐帝の影響がずっと残ってたことが戦国時代につながったとも言えるわけだ
さすがに戦国時代後半になるとそれらもだいぶんと払拭されていくけどさ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています