【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
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そう、よかったね。
で、なんで後南朝の自称天皇は皇室から無視されてんの? >>432
平姓畠山氏は秩父平氏なので、一応は皇胤ではある。信憑性は〜だけど。
だから清和源氏の足利とも遠い親戚にはなる(三浦や千葉と同レベルの)。
畠山は、平姓の家に源姓が養子に入ったことが特徴で、苗字と家を考える上で好例。 当時の史料に出てくる「出羽王」などは、ニセ皇族という指摘もあるが、
皇族、しかも後南朝皇族であるのは本当だったのではないかと思う
吉野や南紀で活動していた後南朝の皇胤が、活動拠点を失って、
各地を放浪した時期だったのではないか? 第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)
|
|(推定) 第104代
−岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
|
−弟宮
小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、その後消息不明というのが史実と思われるが、当時の
文書等から西陣南帝に系譜をつなぐとこうなる。
*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
その後の消息は不明。
教尊は血筋を断絶する為に寺に入れられたのだから、教尊に子供がいるのはおかしい。
可能性としては隠岐に流された後に現地で妻子を設けたくらいだが、監視の目があっただろうし
難しいのではないか?
教尊は隠岐に流されて監視されたまま子供を残せず死に、小倉宮流は断絶したとみるのが妥当だろう。
かすかな可能性としては教尊に他の兄弟がいて、その子孫という事だがそれも兄弟がいたとしても
同じように寺に入れられて断絶させられている可能性のほうが大きい。
なので、岡崎前門主とその子供(西陣南帝とその弟がいたらしい)は、南朝の傍系の子孫であるが
ネームバリューのある小倉宮流の直系を詐称したと見る。 6代将軍の義教の時に、南朝皇族は滅亡させる方針に変わった。
小倉宮の子孫はじめ主要な皇族は仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実。
自称傍系の子孫らしいのが細々と吉野や紀伊の山奥で活動してただけ。
活動規模はもはや山賊レベルで驚異にはならなかった。
その傍系も赤松遺臣に討たれ滅亡した。
そこから先は伝承に過ぎず南朝の名前を利用されただけ >>443
後南朝の蜂起ってのは基本的に、京都周辺の寺に入れられてた南朝皇胤の宮が脱出ないし拉致で地方に行って蜂起するもので、
地方在住のかくれ皇族が蜂起したわけではないよ みなさん、
なんでそんな後南朝について詳しいの?
受験勉強でもほとんど出てないと思うし、
本もあんまり聞かないなあ。
ネットで調べて、
自分流に解釈したって感じですか? >>447
後南朝の本はある。
でも1冊の本で現在確実なことは事足りてしまうほど事績に乏しい。
要するにまあ、長い天皇の歴史で見たら、傍系の1つでしかないわけです。
(正統は当然今の彼らとして、今突然南朝末裔が出てきても何の意味もない。公安委員会はマークしてるかも知れないけど。)
いくらか同情してる向きもなきにしもあらずだけど、知的興味が一番の動機じゃないかな。 >>447
今でも南朝尊崇の気持ちを抱く草莽の烈臣が多く残っている。
その人たちは南朝の皇胤や遺臣たちが粘り強く活動し、南朝の皇統を
維持して再び皇位を伺ったその事績を顕彰したいと考えている。
その忠烈無比の精神がこのスレの原動力となっている。 >>447
長州人ですが、あれやこれやの陰謀論があまりにうざくて、叩いてるうちに詳しくなりました。
不敬な会津人は明治時代のうちに全部樺太に追放しとけばよかったのに。 オレはアンチ薩長の関西人だけど南朝びいきの宗教家がうざくて反論用に本を読んだからかな まあ、
俺が詳しく読んだわけではないけど、
神皇正統記や梅松論を考えると、
南朝正統説は本当だろうな。
これと後南朝との関係は知らんけど。 梅松論は南朝正統説じゃないだろ
神皇正統記は自分とこが正しいとプロパガンダをぶち上げる宣伝書であって客観じゃないから信憑性は話半分だよ
後南朝は単なる反乱軍であって正統性云々は関係ない >>453
あれ?
梅松論って南朝正統説じゃなかったっけ?
受験の時、神皇正統記と対で覚えたよね。 俺日本史そこまで詳しくないんだけど、
北朝の時に戦国時代になったの?
だとしたら、天の沙汰かなと思うけど・・・ 戦国時代になったのは応仁の乱ごろだから、北朝の天皇のころと言える。
だが、南北朝対立があってもなくても、戦国時代にはなったと思う。
武士の世の中になった以上、いつかは戦国時代になる運命にあった。 っつっても戦国時代の底流となってるのは南北朝での戦乱だし、室町時代の諸制度のうちでも戦国時代につながるようなものの多くは建武政権下で新設されたものを幕府が引き継いだものなんだよな
後醍醐帝の影響がずっと残ってたことが戦国時代につながったとも言えるわけだ
さすがに戦国時代後半になるとそれらもだいぶんと払拭されていくけどさ 元禄年間まで続いた美作後南朝が、後南朝の末裔としては最も長く続いたが
記録が乏しく詳しいことはわかっていない
天皇が在位したことは伝わるが、本拠地の植月御所で即位礼や大嘗祭が
無事に挙行されたという詳しい記録は伝わっていない >>460
何言ってんだ。熊沢天皇はじめ、戦後まで複数の天皇が代を重ねてたじゃねえか。 >>460-461
どちらも架空の天皇だぞ
前者は存在自体が架空で後者は存在こそ事実だが天皇であるという自称が嘘であって皇位は架空 美作後南朝というのは、一種の平行世界。ラノベで言うと異世界のようなものだ。
だから、史学的に史実として認識することはできず、つねに茫洋としている。 美作後南朝は、伏見宮家のような一種の世襲宮家として位置付ける
ことができる
ただ、時々散発的に皇位に就いた当主が出てくるのが気になる 美作後南朝なんて存在しないのに何を言ってるんだ?
ポエマーはどうしようもないな むしろ誰がどのような動機で美作後南朝という構想を立てたのかを考えるべき
そこにこの問題を解くカギがある 最近では南朝が正統ということを知らない人が多い
学校の日本史の授業でしっかり教えるべきではないか? 南朝正統説は宗教であって史実ではないから教えないのが正しい そろそろ北朝が正統であると歴史教育で教えるべきだと思うな
いつまで水戸学の呪縛にとらわれているのか
まずは歴代天皇の代数を正しくカウントするべきだろう
ついでに弘文天皇も歴代から削るべき
非即位 大友皇子
95代 後醍醐天皇
不登極帝 光厳院
96代 光明天皇
吉野朝1代 後村上天皇
97代 後光厳天皇
吉野朝2代 長慶天皇
98代 崇光天皇
99代 後円融天皇
不登極帝 後亀山院
100代 後小松天皇
125代 今上天皇 >>471
弘文天皇や光厳天皇は戦乱で敗れて廃されたのであって不登極ではないぞ
後醍醐は廃された後に戦勝によって重祚したというのが実態であって、
自称したような「ずっと皇位についていた」わけではないぞ 実態はたしかに重祚だが、そのような手続きはとっていない
ということは後醍醐の主張する通りずっと即位したままだったとするか、隠岐に流された後は僭称とするしかない
光厳院は即位の実態はあったが、後醍醐により在位を否定される代わりに上皇待遇を受けている
後亀山院は現在譲位した扱いになっているが、後小松天皇が合一時ゆあらためて践祚した事実はない、そしてやはり在位を否定される代わりに上皇待遇を受けている
弘文天皇はそもそも即位した証拠がなく、即位の前に戦乱で敗れた皇族だ まあ弘文天皇の時代は「皇太子の立場のまま事実上の天皇として政治を行う」という形が許容されてたんでしょうね、
弘文天皇の父親である天智天皇の先例に基づいて。
正式な即位については証拠がないとは言え、少なくとも「事実上、天皇(同然)として政治を行った」という点には疑いの余地はないですよ
政治の実質という面ではむしろ廃帝として扱わないとおかしくなってしまう。
まあ、名分論の立場の人たちは実質というものを軽視しすぎるから弘文天皇非登極にこだわりたいのでしょうけど。 >正式な即位については証拠がないとは言え、
>少なくとも「事実上、天皇(同然)として政治を行った」という点
史料が記紀しかない古墳時代でこれを強調し過ぎると収拾付かないんだわ。
倭建命や神功皇后は別にしても、菟道稚郎子、木梨軽皇子、市辺押磐皇子、
飯豊女王、春日山田皇女、間人皇女、倭姫王にも即位説が唱えられてるし。 天武天皇の巻のみ「即位前」と「在位期間」に2分割されてるのは「即位前紀」の実質が弘文天皇在位時代の意味で扱われたからじゃないの、独立で巻を建てなくてはならないほどには区切りが必要だったってこと
正式に即位したかしてないかを区別する証拠がないんで肯定も否定もできないってトコだが、事実上の弘文天皇紀とも言える巻が分けられてるところに実は即位していたんじゃないかとの憶測が生じることになる >>468
いや、近世に捏造した奴がいるだけの話なんだが・・・ 素直に考えれば、勤王だった備中松山が賊として討伐された恨みで、あいつらなんか偽朝廷の偽官軍だ、って主張したんじゃねえの? 貴種流離譚の一つとして山の民に利用されただけ
平家の落人と一緒 弘文天皇、淳仁天皇、仲恭天皇に諡号が贈られたのは御一新の後なんだよな
だが、後南朝の歴代南帝には、まだ諡号が贈られていない その三帝にはいちおう天皇としての活動実態があるけど後南朝は天皇としての活動実態がゼロ、
むしろ山賊か反乱軍としての活動実態しかないから、よほど熱烈な信仰に基づかない限り贈位を行おうとは考えないよ 後南朝の時代になると本当に後醍醐の子孫かどうかも怪しいからな
南朝皇族は仏門に入れられて断絶が基本
「そこから逃れてきた子孫です」って言い張ってるだけだから
血筋が怪しいから、かつて南朝を支えた北畠氏を始めとする勢力も支援しなかったのだろう >>482
ぶっちゃけ、これが「明治天皇は後南朝の末裔にすり替えられた!」って奴への一番シンプルな反論だよな。
今の天皇家が後南朝系なら、なんで直系の先祖を顕彰しようとしないんだ、って。 後南朝で天皇に擬されたことがあるのは
金蔵主、北山宮、西陣宮だけでしょ 後南朝の天皇の諡号としては、中興天皇・天基天皇・招慶天皇といったものが
知られるが、これらは近臣たちが贈ったものであって、必ずしも公認された
ものではないことに注意が必要だ 必ずしも、って……
公認されたものがひとつでも存在してるかのように勘違いする言い方だな 後南朝は大半が後亀山天皇の子孫だが、大塔宮とか兼良親王の子孫もいる
中には系譜が不確かな人もいる 小倉宮が大半は言い過ぎ。むしろ聖承亡き後は、
護聖院宮と玉川宮(北山宮・河野宮も含む)が
中心になって抵抗運動を牽引していたイメージ。 抵抗運動など存在しない
まれに武装蜂起する反乱軍が必要に応じて京都にいる宮を連れ出して挙兵するだけ
南朝後裔の宮たちはみんな京都にいたんだよ
応仁の時の南方宮が例外的に京都以外にいただけだ コイツは駄目だな(不適合)という人物が現れた場合、
山奥に連れて行かれたり、幽閉されたり、殺されたりするという伝説は?
教育(矯正)しても無駄だという場合、殺す?
廃嫡 良く調べてみて
『宮刑』
このようなものがあったり、日本の話? 冤罪事件というのがあるでしょ、
やってもいない事を、メディアを悪用し、流す手法、悪評とか。
進化した、いまなら、そういうやり方。 『天子神璽』
冤罪事件に関係している人物の名前が出てこない?
似ている名前 悪く言うわけではないけど
某国は核、大量破壊兵器を作ったり、
隠し持ったりいるんじゃないか?
同じような感じがする
兵器の話ではないけど、
実際、そのようなものは、なかったという話もあるでしょ 本当に古典的、下等人間の考えるようなやり方だよ
冤罪で地位や名声、財産・・・生命(死刑?)も奪う
廃嫡にも通じる >>495
おいおい、それって腐刑のことじゃんよ。日本では行われた記録なんてないんじゃないか? 熊野宮と十津川宮は地元で一定の勢力を築いていた
一方で後南朝本拠地の北山御所では騒乱が相次いだ 熊野も十津川も幕末には北朝朝廷のために滅私奉公してるんだよな。
幕末までに後南朝のかけらさえ消え去ったことは明白 熊野にも十津川にも後南朝勢力はフィクション内以外には存在しない 南朝を正統とする思想を突き詰めていくと、南北朝合一を認めないということになる。
したがって、後南朝皇胤の正統性を主張し、その何人かの皇族を天皇に擬する
ことになった。 本当に途切れてないのか江戸時代後半に創作された偽物かは区別が難しいな >>505
あれ?
出席者が口にサカキの葉を加えるのは、
吐息が自天王の遺品にかからないようにするためなのか
赤松残党というよそ者を信じて味方へ引き入れてしまったことへの反省で、
秘密は口外しないぞという意味だと思ってた 赤松がかつて南朝方だったことがある縁から、
それと幕府内で不遇な立場に置かれていることへの不満があるはずと言う点から、
うっかり信じてしまったのは仕方がないとも言えるんだが。 赤松は反鎌倉幕府だったが、建武新政期に干されて以降、ずっと足利派だけど。
いつ南朝方だったの? 赤松円心には子供が複数いて、そのうちの4男だったかがずっと南朝側。
兄貴たちは皆、北朝側で優遇されてるけどね。
この4男は、最後は播磨国で追い詰められて子供含めて全滅している。 >>509
実は観応の擾乱で
一回だけ円心も南朝に寝返って
護良親王の息子を擁立したことがある
ただこれはやらせ説もある
近江の佐々木も同時期に南朝に通じて
謀反を企てたとして尊氏が近江へ、
そんで義詮は赤松を討つと称して播磨へ出陣
対立する直義だけが京都に残る形となったからだ >>510
後南朝から神器を奪還した赤松旧臣はずっと北朝方だった方の赤松だろ。
南朝方の赤松とは縁がないじゃん。 >>513
馬鹿だろ お前
過去に同族が南朝側だった事があるから信用したという流れなんだが、スレの流れが読めんのか? >>514
そんなん言ったら、足利家含めてどの武家も全部信用できることになるじゃん。
武家内部の家督争いとかで不利になった方が南朝に(一時的に)つくのがスタンダードだったんだから、
一族内でだれも南朝についたことの無い家なんて、ほとんど無いだろ。
で、残ってるのは南朝方にならなかった方、もしくはいったん南朝に付いたが北朝に帰順した方。赤松も一緒。
赤松だけ特別扱いする理由にならん。 >>507
自天王(もしくは忠義王)の子孫が本当は村にいるけど、
村人や郷士たちが「外の者はもう信用できぬ」ということで、
頑なに箝口令を発して現在に至るまでひた隠しにしていたとしたら面白いな
ミステリー小説の題材になれそうw >>515
やっぱりスレの流れが読めないんだな 可哀想に
何故、赤松を信用したかの話になってたから補足情報を書き込んだ人がいただけ
それに噛みついて、あげくに「他の武家も同じだー!!」って騒いで、みっともないと思わないのかね 南朝も、後南朝に至ってはもっとそうだが、
自前の兵力だけでは足利を破って北朝を廃して天下を取り返すのは無理だとわかっている
だからかつての敵である北条得宗家の残党でも、
足利尊氏の弟でも息子でも、
南朝に味方したいと申し出る者には、すぐさま迎え入れて味方にせざるを得なかったんだよ
赤松残党を後南朝が信用した背景には、そうした歴史的経緯があったからだと考える必要がある いや、別に南朝が赤松残党を信じたのは史実なんだから別に異論はないんだが、
その理由を赤松は「南朝だったから」、といわれると、何言ってんの?としか感じないんだが。
南北朝騒乱は敵味方が頻繁に入れ替わる戦乱なのに、赤松に裏切られたから○○の儀式がある、
とか言われても、裏切られるたびに儀式してたら、365日儀式で埋まるんじゃね?としか思えん。 赤松氏がツテを持ってたのは南朝そのものじゃなくて北畠氏だったかも
うろ覚えですまんね >>519
赤松に裏切られたから宮が殺されて、宮を弔うためにあの儀式ができた。
それは事実。
それまで否定するとは頭が残念な人だね。 >>522
違うだろ。
「赤松に裏切られたから宮が殺されて、宮を弔うためにあの儀式ができた。」と主張してるんだろ。
南朝の宮が殺された事件なんてゴロゴロしてるのに、この件だけ儀式を作ってるのはおかしい。
他の起源の儀式を、後世になってこじつけたんじゃないのか? 自天王はただの宮じゃなくて南朝の「天子」だ
意義が異なる
だからこそ三種の神器の一つを持っていたし、
それを奪還した赤松氏のお家再興を幕府が認めたんだよ
ただの南朝の宮を斬っただけでは、将軍を討った大逆の罪は消えないよ 赤松再興を狙う細川が神器奪還と賊の討滅を命じてお家再興を提案約束したんだろ >>523
全くダメだね 君は。
最近、本当に日本人かと疑わざるを得ないくらい言語能力が低い人がいるけど、そのたぐいだね。
根本的なところで間違ってる。 将軍を討って「お家取り潰し」になった罪を、
(後南朝とはいえ)天子を討つことで「お家再興」となる
赤松家もすごいというか何というか
>>525
それはそうだが、この時期の細川は明応の政変後の細川とは違って、
将軍家の権威を大きく軽んじたり、他の守護大名らが眉をひそめるような
無謀な政務は出来ない
「後南朝の天子を討ち取る、三種の神器の一つを奪還する」功績ならば、
将軍を討った謀反人の家でも再興できるという「共通理解」が、
将軍家、幕府の重臣、有力守護大名らにもあったということは重要 共通理解とまではいかないだろうが、再興に反対しにくいほどの大きな手柄と思われるレベルではあったんだろうな
そこらの守護一人程度の叛乱よりは危険視されるレベルの重大事件だったんだろうな。
じゃなくてな、派閥人事の一環として、かつて細川閥にいた赤松を再興させたら派閥の面で助かると思ってそそのかしたんじゃないかって言っただけで。
派閥問題溶かなかったら赤松には声かけてないんじゃないかと。 赤松による強襲がなかったら、後南朝の正統はこの後も続いたことだろう。
無事に江戸時代まで存続できたら、5000石くらいで、将軍の客卿のような
地位を得たのではないか?
そして、やがて水戸藩によって、高く顕彰される日が来たことだろう。 本来なら大和国の守護である畠山氏が自天王を捕えて、
隠岐か佐渡へ流すべきだったと思うんだがな
何で守護や幕府の正規軍が自天王確保に動かなかったのか謎である 畠山氏は自分ちのお家騒動に夢中で後南朝ごときに構う余裕などなかったから仕方ないな
嘉吉以来の、このあとも戦国時代初期まで続く長い紛争だ。 守護大名たちは後南朝を討伐する余裕はなかった。
だから、後南朝が追手を逃れて生き延びる余地は十分にあった。
吉野朝廷だけでなく、関東とか九州に親王を派遣して、将軍府を作っておけば
仮に吉野朝廷の自天王が討たれても、誰かが生き残ることができた。 応仁の頃から、後南朝の担ぎ出しを求める人が激減した
後南朝の支持者がいなくなったんだよ 南朝の正統かどうかすら怪しいというのが実態
誰の血統なのかすら不明の山奥に潜む山賊で自称南朝の後胤
それが後南朝 吉野や紀伊である程度の勢力をもった奴らが南朝の後胤を名乗っただけの可能性も大きい
実際良くある例だし
例えば戦国時代に木曽谷を支配していた木曽氏
木曽義仲の末裔と自称しているが最近の調査で元々は藤原氏の子孫を名乗っていたが
木曽谷で勢力を拡大してゆく過程で、木曽が生んだ英雄の木曽義仲の子孫を詐称したのが判明している
その地域を支配するのに都合が良いから詐称した訳だ >>535
後南朝蜂起で担ぎ上げられた皇族の大半は京都近郊の寺から連れ出されて担ぎ上げられていて、
少なくとも当時の関係者の間では系統不明ではなかったんじゃなかったかな
応仁の乱の時に出てきた南方の宮が京都以外で担ぎ上げられた最初で最後だと思う。たしか紀伊あたりで出てきたんだっけ? >>537
その寺に入っていた宮がそもそも誰の子どもかよくわかってないだろ。
自称皇胤で世間もそのように扱ってるけど。 当時の関係者は知ってたけど特に記録に残さなかったから分からなくなった、程度だろ
関係が薄い立場の人しか日記に記録を残してくれなかったから誰の子か分からんだけだと思うが 時々このとんでも主張の「後南朝の皇子は京都に住んでていつでも抜け出せた説」を書く奴がいるけどありえないだろ。
寺に入れるのは南朝の皇統を断絶させるためだぜ。
簡単に抜け出せる訳がないし、子供を残す可能性が出るから女との接触すら難しかっただろ。
どう考えたらホイホイと抜け出せるんだよ。
しかもそういう事件があったら当時の人の日記とかに出てくるだろ。
たしか記録に残ってる南朝の皇子が寺から逃げ出して行方不明ってのは1件だけ。
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