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【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001岡崎前門主
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2016/09/22(木) 21:48:13.09
・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
・相手に対して敬意を持ってレスしましょう。

前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/
0046日本@名無史さん
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2016/10/17(月) 00:41:33.07
>>44-45
仮にも貴種の出なわけだからして、下級貴族−−昇殿もできないレベルの貴族と同等の権威ぐらいはあったんじゃないか?
守護大名を上回る権威を持ち合わせることすらできそうにない。
0047日本@名無史さん
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2016/10/17(月) 23:16:04.91
西陣南帝の父宮である岡崎前門主に関する資料すらすでに乏しいので、西陣
南帝ご自身に関する資料はさらに乏しい。
ただ、貴族社会に連なる人物として認識されてはいただろう。
0048日本@名無史さん
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2016/10/18(火) 17:55:50.98
>>46
貴種だと思って担いだら紛いもんだったんやで
それで、謀殺されたんや。やから最期どうなったか不明なんや
0049日本@名無史さん
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2016/10/18(火) 23:38:50.81
西陣南帝は一応は南朝皇孫であることは事実だったのだろうか、
それとも徳川天一坊のようにまったくの偽者で、偽者であることが
露見したため、天一坊のように罰せられたのであろうか。
0051日本@名無史さん
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2016/10/20(木) 06:26:34.12
西陣南帝の末路を見ると成りすましの可能性も否定できない。
そもそも小倉宮系というのが怪しい。
小倉宮系は教尊が隠岐に島流しになり、子孫も残せずそこで死んで終了だからな。
教尊に兄弟がいたという話もないのだから、西陣南帝は本当は誰の子孫なんだという話が出て当然。
0052日本@名無史さん
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2016/10/20(木) 20:39:43.87
後南朝は史実から消えた。
それがすべて。

南朝後胤の最後の資料は、東大資料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という網文のもとに、次の四件あります。

A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
  山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送らて、
   越後より越前国北荘へ移った。

B同記三十日の条
  「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。

C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
  「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
  (現山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。

D同記明応八年霜月の記事
  「王」が明応八年霜月に流されて三島(現静岡県三島市)に着き、
  早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。

当時の文献上は、これで終了。

南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。
0053日本@名無史さん
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2016/10/20(木) 20:42:22.20
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)        
                               |                       
                               |(推定)         第104代
                               −岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
                                              |    
                                              −弟宮

小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、その後消息不明というのが史実と思われるが、当時の
文書等から西陣南帝に系譜をつなぐとこうなる。

*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
       その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
       関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
       その後の消息は不明。
0054日本@名無史さん
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2016/10/20(木) 20:43:32.36
教尊は血筋を断絶する為に寺に入れられたのだから、教尊に子供がいるのはおかしい。
可能性としては隠岐に流された後に現地で妻子を設けたくらいだが、監視の目があっただろうし
難しいのではないか?
教尊は隠岐に流されて監視されたまま子供を残せず死に、小倉宮流は断絶したとみるのが妥当だろう。
かすかな可能性としては教尊に他の兄弟がいて、その子孫という事だがそれも兄弟がいたとしても
同じように寺に入れられて断絶させられている可能性のほうが大きい。
なので、岡崎前門主とその子供(西陣南帝とその弟がいたらしい)は、南朝の傍系の子孫であるが
ネームバリューのある小倉宮流の直系を詐称したと見る。
0055日本@名無史さん
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2016/10/20(木) 23:06:21.32
>>52
「史料編纂所」の『大日本史料』の「綱文」ですよねと一応突っ込んでおきますが
後南朝かもしれない痕跡が明応まで存在するとは知りませんでした。しかも早雲と接触しているとは驚きです。
勉強になりました。地元に伝承など残ってないんですかねえ
0056日本@名無史さん
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2016/10/21(金) 05:52:16.66
>>55
>「史料編纂所」の『大日本史料』の「綱文」ですよねと一応突っ込んでおきますが
そう書いてあるだろうが。
日本語が読めないのか?
0058日本@名無史さん
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2016/10/21(金) 07:49:41.74
それともうひとつ、資料編纂所じゃなくて史料編纂所だろと言ってるのだと思う
0059日本@名無史さん
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2016/10/22(土) 01:41:12.64
西陣南帝は南朝皇族であるのはおそらく事実だが、「小倉宮」系というのは
詐称という理解で正しいだろうか?

西陣南帝が小倉宮系という自称を信じて、山名持豊が西軍の旗印として
推戴した。→ 「どうも小倉宮系というのは怪しい」という苦情が
西軍の武将の中から出てきた。→ 小倉宮系ではなく、南朝の末端皇族
に過ぎないということがわかってきた。→ 西陣南帝は西軍の旗印として
推戴するほどの尊貴さに乏しいと思われ、推戴するのが馬鹿らしくなった。
→ 「せっかく来てもらったけど、あなたに用はない。もう出て行って
もらえないか?」と、陣営から追い出された。
0064日本@名無史さん
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2016/10/22(土) 18:48:32.11
63を訂正する(オレは57-58な)

55は、52が綱文を網文と書き間違えてることと史料編纂所を「資」料編纂所と書き間違えてることについて
「一応突っ込んでおきますが」といってるんだよね

56は
>そう書いてあるだろうが。
といってるけど、元の文には文字違いで書いてありますよね
0065日本@名無史さん
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2016/10/23(日) 13:51:27.23
西陣南帝のほうから山名宗全に「自分は小倉宮の皇子だから、皇位につけて
くれ。そうすれば、西軍を応援する」と売り込んだのか?
それとも、山名宗全のほうから西陣南帝をスカウトして、「西軍の味方に
なって下さい。そうすれば、あなたを皇位につけてあげましょう」と
そそのかしたのか?
0066日本@名無史さん
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2016/10/23(日) 19:49:26.33
日本語が読めない55です。いろいろフォローありがとうございました
0067日本@名無史さん
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2016/10/24(月) 20:26:06.42
さんざん繰り返されているだろうけど、
元々、後醍醐天皇は一代限りの帝だとの父院の遺志を踏みにじって
後醍醐天皇本人とその子孫で皇位を独占しようとした結果の
南朝と後南朝なんだよなあ。

昔は俺も「浪漫」的なものを感じていたが、
吉野の山奥に孤立して最後は消滅したのもやむを得ないと思う。
0068日本@名無史さん
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2016/10/25(火) 01:07:14.63
> 一代限りの帝だとの父院の遺志を踏みにじって
> 後醍醐天皇本人とその子孫で皇位を独占しようとした
これ自体は皇室の歴史の中では全く珍しくない行為だね。
白河院にしても、後三條院から一代限りとされていたのを無視して自分の子孫に継がせたわけだし。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/25(火) 01:22:05.23
死んだ父院の希望をガン無視して自分の皇統に…なんていうのは、実際に守られた方が珍しいくらいよくあることだからそこは正直問題じゃない
当時の人だってその辺りを本気で問題視してたのは思ってたのは、それこそ梯子を外された後二条流の関係者ぐらいでしょ
0070日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/25(火) 19:38:22.48
>>68-69
それを突き詰めていけば、皇統争いで敗れて歴史から消え去っても単なる不運に過ぎないってことなんだよな。

敗色濃厚なままで「こっちこそ正統」とかやるのが理不尽
(いや、乾坤一擲をかけて勝負に出てるなら妥当だけどさ)


自分が何言ってるのかよく分からなくなってきた
0071日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/26(水) 00:11:29.43
後醍醐天皇がそれまでの皇位争いをした天皇と違うのは、吉野の山奥に
立てこもってまで徹底抗戦し、自分の皇統を守り抜こうとした、
抜群の意思の強さではないか?
よほどの信念がなければ、ここまで戦い抜くことはできない。
そして、その後の南朝・後南朝の天皇と近臣たちにも、その意思の強さを
感じる。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/26(水) 02:10:46.00
父院の遺志を反故にして皇位の独占を図った南朝が、「両統迭立の約束を守れ」と後小松天皇や足利幕府を責め立てても説得力がない。
それを言いたかった。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/26(水) 23:57:45.84
南朝の言い分には、あまり説得力がないということだね。
それにもかかわらず、南朝が正統ということになり、南朝はわが国の歴史観に
大きな影響を与えるようになった。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/27(木) 00:25:20.61
少なくとも、同時代人の大半は南朝と北朝のどちらが正統とも区別してなくて、自分の敵対者との対抗上の都合に基づいて所属先を選ぶ程度の認識しかない

南朝正統論が本格的に成立したのは南朝の子孫が完全に断絶して、復権の可能性が無くなった後のことだよ
0076日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/27(木) 06:08:16.97
重箱の隅を突いてるバカは満足したか?
肝心の中身を知らなかった無知のくせに感謝の言葉もないのな。
「ありがとうございました」くらい書けないのか。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/27(木) 11:27:26.75
>>72
それを言うと、自分から幕府に皇位継承に口出しするように持って行って自分の息子に皇位を譲らせた後深草院も相当あれだからなぁ
あれがなければ両統迭立なんてなかったし、なにより皇位継承を外部に委ねるなんて、凄まじく危険な行為だぞだ
0078日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/27(木) 19:20:12.27
そもそも後嵯峨の歿時に後継決めたときから幕府が介入してるのに今更だぞ

後深草たちはおそらく、亀山親政の根拠となった「後嵯峨帝の内意」が捏造で亀山を後継にする意図などなかったと推測されるなんらかの論拠を見つけて
騙されたという思いが募った結果として巻き返しを図ったと思われる

その論拠の信憑性はともかくとして。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/28(金) 02:28:16.28
後嵯峨院の遺志云々以前の問題として、後嵯峨自身が幕府の介入で即位している。
承久での後鳥羽の失敗が決定的だったということだね。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/28(金) 13:01:02.11
各地に転戦した南朝・後南朝庶流は、きっといらっしゃるはず。
神秘的ですら有る。
0081日本@名無史さん
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2016/10/28(金) 18:52:59.76
生きてる皇族の主だった面々は長慶か後亀山の元に戻っただろ

長慶に従った皇族は転戦し続けたかもしれんが後亀山に従った皇族は京都周辺の寺に入れられたから転戦しなくなったよ


長慶本人ですら行方知れず、足跡不明になってるぐらいだから、そっちに従った皇族の消息なんて誰にも分からんわな
たとえ子孫が居るとしても、たぶん子孫すら自分の祖先が皇族だと知らんだろってレベルでの消息不明だと思うぞ
0082日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 00:13:31.34
>>81
> 長慶本人ですら行方知れず、足跡不明になってる
行方知れずでもなんでもないだろ。
足跡が記録に残っていないにしても、当時は行方知れずでもなんでもない。
大乗院日記目録に崩じたという記録があるくらいだし。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 07:43:05.48
南朝の歴代天皇は単に記録が少ないというだけで、消息不明になったという
ことではあるまい。
後南朝の末期の天皇になると、消息不明ということは考えられる。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 10:05:11.15
来年の大河は井伊

南朝の香りが少しする
0085日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 13:04:55.12
ショッカー戦闘員「イイーーッ」
0086日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 14:59:27.12
>>65
応仁の乱が始まった頃、紀州で南方兄弟宮という人物が旗揚げして、
一時現地では相当勢いがあった。山名宗全は、これは利用価値がありと考えて
自軍に迎え入れることにした。入京時に、父と弟がいたことが分かっている。
のちに相模に追放されたが、相模の熊澤一族に、南朝皇胤と称するものがいるのが面白い。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 21:11:55.17
大覚寺統の嫡流は後二條流のはずだが、室町後期の混乱の中
消えていったな。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/30(日) 11:12:24.25
>>87
遠州の木宮さんがその末裔。
現在大学教授とかやってる人もいる。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/30(日) 19:49:51.46
>>86
有難うございます。勉強になりました。

すると、西陣南帝は山名宗全のほうからスカウトして西軍に迎え入れたが、
「この新帝が南朝皇胤というのは、どうも怪しい。こんなのをかついで
いては、かえって西軍の正統性に傷がつく。陣営から追い払おう」
ということになり、追放した。
だが、追放後も南朝皇胤を自称し続けたということは、本人たちは
あくまで自分たちが南朝皇胤であることを真実と考えていたという
ことだろうか。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/30(日) 20:32:57.61
ちがう

>「この新帝が南朝皇胤というのは、どうも怪しい。こんなのをかついでいては、かえって西軍の正統性に傷がつく。陣営から追い払おう」
>ということになり、追放した。

ではなくて、南朝皇胤を担ぐという行為自体に反対が出たからだよ
南朝皇胤の価値が下がったところに加えて信憑性まで怪しかったってこと。

もともと西軍は幕府内部の派閥争い程度の小さな争いのつもりで、義政に対抗する将軍候補(つまり義視)を担ごうなんて考えてさえいなかったぐらいだ
(それどころか、もとは将軍が言いだした幕府方針を変えてもらいたくて抗議というか武力抵抗するだけのつもりだった模様)
0091日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/31(月) 19:22:21.55
将軍より南帝のほうが高貴

どう考えても高貴
0092日本@名無史さん
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2016/11/01(火) 23:43:32.43
応仁の乱のころになると、すでに南朝の高貴性が薄れていたということだろうか?
南朝皇胤の存在はまだ知られていただろうし、それを擁立しようとする動きもあった。
だが、世の中の大勢はもはや南朝に威信を感じなくなっていたのかも知れない。
0093日本@名無史さん
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2016/11/02(水) 19:07:06.98
二世王(祖父が天皇だが父親は親王または諸王)ぐらいならともかく、四世五世の諸王になれば高貴さは薄れてるぞ
現職に就いてる将軍の方が(役職の分だけ)マシなぐらいに。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/02(水) 20:42:59.65
平安時代の源経基(2世王)や満仲(3世)に、高貴さを感じた人は少ないだろうが、
室町時代は平安前期に比べて皇胤が激減しているのでそれなりに高貴さを感じていたと思う。
南朝の皇族の首については大道に晒すということもなかったみたいだし、
出自がよくわからない北山宮・河野宮も壮大な三十三回忌が都で営まれている。
木寺宮末孫が遠州の龍雲寺にいたが、8世孫が大宮様とよばれたという。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/02(水) 20:51:46.82
確かに「天皇の血をひいてる」というだけで敬われるのはせいぜい孫の代までなんだよなぁ
臣籍降下した家は三代上級貴族として持てばいい方だし
清和源氏だって清和天皇のひ孫の代で上級貴族の使いぱっしりになってるわけで
0096日本@名無史さん
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2016/11/02(水) 22:50:46.74
>>94
昇殿もできない下級貴族でさえ相当に尊敬されるような辺境での話だから仕方がない
0097日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/03(木) 09:42:30.47
四世王、五世王くらいになると、臣籍降下して受領くらいの中級貴族に
なってもおかしくない世代だから、室町将軍や摂関のような高級権門
にははるかに劣る。清和源氏や桓武平氏も院や摂関の家司クラスに
落ち着いていった。

だが、>>94にあるように、平安期と室町期では皇胤の価値が違うこと
にも留意しなければなるまい。南朝皇胤を貴顕扱いしたり、政治カード
として利用する動きもあったのは間違いない。
0098日本@名無史さん
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2016/11/04(金) 17:46:36.00
>>97 もう古いNHK大河に「風と雲と虹と」というのがあったが、それはあなたの話の例の宝庫。
桓武天皇の五世の孫 平将門・同貞盛は藤原忠平の家人。興世王は武蔵権守。清和天皇の後裔六孫王源経基は武蔵の介
0099日本@名無史さん
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2016/11/05(土) 12:15:06.67
奈良・平安くらいの時代を見ると、皇族・臣籍降下したばかりの元皇族が
非常に多いのに驚く。
まだ朝廷に力があって、皇族・元皇族に地位をあてがう余力があった時代
なのだろう。
一方、こんなに大勢いると、一種の皇族のインフレで、高貴さを失うのも
早かっただろう。末端の名ばかりの皇族を指す「生孫王」という言葉が
生まれたのもこの時代だ。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/05(土) 17:23:13.06
>>99 江戸時代の後水尾天皇であるがこれだけの子女をどうしたの?
興子内親王(明正天皇)女二宮 高仁親王 若宮 昭子内親王 賀子内親王 菊宮 紹仁親王(後光明天皇)
守澄法親王 元昌女王 宗澄女王 桂宮 賀茂宮 文智女王 理昌女王 光子内親王 良仁親王(後西天皇) 
性真法親王 摩佐宮 理忠女王 八条宮穏仁親王 道寛法親王 尭恕法親王 常子内親王 眞敬法親王
證法親王 識仁親王(霊元天皇) 永享女王 尊光入道親王 盛胤法親王 文察女王 新宮 性承法親王
0101日本@名無史さん
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2016/11/05(土) 17:41:10.40
殆どの皇子皇女を寺に入れた。

門跡になって相応の暮らしが出来た方もいれば、
一介の僧侶で終わった人もいるだろうな。
0102日本@名無史さん
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2016/11/05(土) 17:45:49.58
俺の母が、江戸時代のある皇女のお墓が
宮内庁管轄なのに、ろくに手入れもされずに荒れ果ててたのを見て
ショックを受けてたな。で、墓なんか虚しいと真剣に考え出してるよ。

俺も京都の二尊院で、江戸時代の内大臣だののお墓が苔生して荒れ果ててるのを見て
本当に人生は無常だと思った。生前はいくら実権力は無いとはいえ
かなりの社会的地位にあった筈の公家たちが数百年経てば忘れ去られてる現実。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/05(土) 20:22:07.75
まぁ墓というもの自体がそういうものでもあるからなぁ
基本的には生きてる人が故人を偲ぶ為のものである以上、故人を偲ぶ人そのものが死に絶えてしまうと墓が忘れられていくのは道理といえば道理
それでもなお墓が大切にされる為には、生前の権威云々よりもどれだけその人が人々の間で語り継がれるかが重要になってくる

実際、権力を握ていたわけでなくとも『平家物語』なんかの有名な物語に出てくるような人の墓なら、今でも各地域で結構大事にされてたりするし
0104日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/05(土) 21:14:06.41
>>101 でも、寺に入れるのに金いるだろう。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/05(土) 21:43:14.10
奈良・平安時代の余剰皇族は、
臣籍降下→最初は中央貴族→受領クラスの中級貴族→地方に土着して武士に
→地方で子孫繁栄

江戸時代の余剰貴族は、
出家→門跡・住職→子孫断絶

江戸時代になると、国司として地方に赴任することもできず、地方に土着して
武士になることもできなかった(地方にはすでに大名がいる)。
だから、天皇になれなかった皇族は、運よく宮家を設立できたり、養子に
行けたりした人を除いて、出家して子孫断絶するしかなかった。
0106日本@名無史さん
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2016/11/06(日) 14:21:38.45
臣籍降下しても行く先がなくなってきたことで、皇族の運命が変わってきたよな
0107日本@名無史さん
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2016/11/07(月) 13:11:37.80
>>106 藤原北家でさえ秀郷の親父の村雄は下野掾まで落ちぶれて。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/12(土) 09:37:51.69
足利将軍家でも、嫡子の弟など将軍になれなかった人は出家して門跡などの
高僧になる人は多かったので、後継者から外れた人が出家するというのは
この時代の慣習だったのだろう。

だが、足利義教・足利義政・足利義視のように、出家したけど還俗して
将軍・将軍候補に返り咲いた例もある。だから、南朝皇胤の場合でも
いったんは出家したけど還俗して皇位をねらうケースがあっても
おかしくはない。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/12(土) 10:40:36.62
>>108 護良親王。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/12(土) 21:06:27.00
なんか中国語のwikiの後南朝の項目だと西陣南帝の帝位時期(?)が1458〜1514ってなってるけど
そもそも西陣南帝って1480年代前後辺りには不明になってたのに1514までいたって根拠はなんなの?

西陣南帝過世後,一般都被認為是後南朝完結的標誌,但自稱天皇的人多指西陣南帝以後還有後南朝的延續,更有書(《植月御所之真相》,田中千秋著)研究出後南朝是在元祿十年(1697年)時,幕府將軍コ川綱吉派人殺死後南朝皇太子良懷親王而結束的。
↑なんか1514年まで存在してたって出展らしいけど中国語分からんからどういう意味か分からん
0111日本@名無史さん
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2016/11/12(土) 22:20:29.50
熊沢氏の系図で永正11年(1514年)に没したと伝えているだけ
0112日本@名無史さん
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2016/11/13(日) 05:16:16.40
>>111
あー熊沢のアレか…
って事は中国語のwikiに乗ってる後南朝の皇族の諱も全部熊沢系譜のって事かな
謎が解けた
THX
0113日本@名無史さん
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2016/11/13(日) 12:21:49.87
中国語版の説明だと、西陣南帝の治世は50年を超え、昭和天皇や清朝の
康熙帝クラスの盛世ということになる。
その後も後南朝は元禄年間まで続き、将軍綱吉によって最後の皇太子が
弑逆されるまで続いた壮大な王朝だったということだ。
0114日本@名無史さん
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2016/11/13(日) 13:03:42.78
後南朝に歯向かった魔王綱吉は朝敵だな。

聖地を抱える紀州藩が天下取ったのも頷ける。
0115日本@名無史さん
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2016/11/13(日) 18:46:52.57
良懐ってのは美作後南朝の系譜だな
何でそっちを採用したんだかw
0116日本@名無史さん
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2016/11/13(日) 21:05:25.88
美作後南朝が帝なら、
津山藩が官軍なので
森将軍。
0118日本@名無史さん
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2016/11/19(土) 09:37:38.31
美作後南朝は皇位に就くことなく親王のままの主上が多いのが気になる。
親王のまま政務を執って、称制を行っていたと解釈していいのか?
0121日本@名無史さん
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2016/11/19(土) 19:26:56.53
弾圧された闇の歴史だから史料なんか無いとハナから開き直ってる
0122日本@名無史さん
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2016/11/19(土) 23:02:03.10
植月御所(美作後南朝)では100年余りにわたって親王が何代か続いた後、
後水尾天皇から植月御所の高仁天皇に譲位されたことになっている
すなわち、美作後南朝は一種の世襲宮家のようにして続いてきて、史実にある
天皇から譲位されて皇位に就いた、という話になっている
つまり、京都の朝廷からも公認された世襲皇統だったということだ
だが、江戸幕府が突然介入して、高仁天皇は廃位となって、もとの世襲宮家に
戻り、良懐新王のとき、親王号も幕府から奪われて、世襲宮家としての地位も
失って終焉を迎えた、という設定になっている
0123日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 00:02:50.87
美作後南朝は、長禄の変も美作での出来事だと主張しているから、
そもそも史実とリンクすらしていない。パラレルワールドのお話。
0124日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 09:23:00.58
美作後南朝なんて、このスレに住み着いてるポエマーみたいなのが捏造した話だからな。
信じる方がおかしい。
0125日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 11:02:04.02
美作後南朝は史実からかなり乖離していると思うが、そのような話を作り出した
動機のほうに興味を感じる
美作地方の人が郷土愛から、自分たちの地元に朝廷があったらいいだろうな、
地元の朝廷が有名になって、町おこしにつながったらいいなと願いを込めて
作ったのだろうか?
0126日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 12:15:06.93
>>125
作桜神社
さくら

鎮座地 岡山県津山市神戸(じんご)432

ご祭神 後醍醐天皇・児島高徳公
http://www.7kamado.net/sakura.html
だもんね。
0127日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 14:21:11.56
児島高徳公が後醍醐天皇をお迎えした故事のある土地なんだね
その勤王の赤誠を後世の人たちが受け継いで、美作後南朝の説話を
作り上げたのかも知れぬ
0128日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 15:44:11.58
皇室関連の歴史をでっち上げることと勤王精神は別のもんだろ
0129日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 17:50:34.21
>>127
その故事も創作誕であって史実じゃないから

創作が好きな土地柄って可能性ならともかく、縁がある土地ってことはない
0130日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 18:25:34.54
美作「近衛殿」の南朝伝承がでっちあげられた背景については、『國學院雜誌』106巻9号に
立石盛詞「中谷神社所有『菊花凹面柄鏡』と南朝伝承の形成について」という論考がある。
美作後南朝には特に触れられていないが、鏡の発掘など共通項があって示唆に富んでいる。
0131日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 19:17:31.68
美作っつうよりも吉備自体が中央(当時の京都)に対して何かしらの野心が有ったんじゃと思う
その辺りが美作後南朝の一つの発端にもなってるんでは
0132日本@名無史さん
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2016/11/20(日) 19:50:09.27
つかさ、美作後南朝って、熊澤天皇が現れた戦後になって、
何者かが作り上げた妄想だろ?
古い伝承ですらない。
0134日本@名無史さん
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2016/11/21(月) 01:25:32.47
>>130
こういうレスを待ってたよ。
後南朝伝承は大半が胡散臭いが、
どうしてそれが語り継がれるようになったかが
興味あるところだからね
読んでみます、ありがとう。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/22(火) 17:33:28.92
美作後南朝は備後鞆幕府よりは壮大だが実利で喜連川御所府に負けた感じですな
明治維新まで粘って欲しかった
粘れば最低でも爵位持ち
0136日本@名無史さん
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2016/11/22(火) 18:37:33.13
存在しなかったものが存続するなんて、あり得ないからなあ。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/23(水) 00:55:44.03
喜連川御所は明治維新後、子爵になって華族に列せられたが、美作後南朝の場合、
明治維新後にどんな処遇になるのか気になる。
改めて世襲宮家として承認して、伏見宮家のような位置づけにするのが穏当だと
思うが、臣籍降下させて公爵くらいにするのも考えられる。
その場合、家格は摂関家・徳川宗家と同列くらいだろう。
0138日本@名無史さん
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2016/11/23(水) 06:01:28.91
>>137 喜連川が子爵で新田宗家や菊池が男爵なのもなー。朝敵の徳川宗家が公爵だしなー。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/23(水) 13:12:51.58
徳川は政府と敵対せずに日本としての統一を維持する道を選んだ、そのおかげで内乱も早期決着して欧米植民地にならずに済んだ。
最大功労者が重く用いられるのは妥当なことだ。何が不思議なんだよ
0140日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/23(水) 14:07:06.94
>>139 彰義隊も奥羽越列藩同盟も榎本艦隊も甲陽鎮撫隊もすべて止めたんなら価値があるがな。
江戸を焼くのを食い止めたのも勝海舟と山岡鉄舟の功績。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/23(水) 16:23:39.33
幕臣でもない諸大名を止めるのは無理だが、
四百万石以上の大領が徹底抗戦してたらどうなったかを想像でしないのか。

それに、維新直後の時点で、その功績を足ががりに新政府に少しでも参加してたら、
政府の中で徳川派が拡大して方向性が大きく変わる可能性があるなかで、
あえて政府と距離をとりながらも反対することなく、つまり陰ながら協力する形をとったのも、
明治政府を大きく助けてたはずだぞ
そうじゃなかったら、明治時代の日本は内戦多発のgdgd時代になってた可能性が。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/23(水) 16:33:04.91
明治新政府にとって、特権を失った旧勢力が不満を抱いて敵対してくるのが
大きな恐怖であったはずだ。
だからこそ、旧勢力には高い爵位を与えて懐柔する必要がある。
華族制度には、この旧勢力の懐柔という一面があったと考えられる。
徳川宗家に最高位の爵位を与えて厚遇することで、幕臣・譜代・親藩などの
勢力を納得させることができたはずだ。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/23(水) 20:12:53.37
>>142
同意。
でも、新田・菊池のような南朝功臣や後南朝皇胤のほうに手厚く叙爵して
あげてほしいという意見も痛いほどわかる。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/23(水) 20:43:57.80
といっても、南朝功臣や後南朝皇胤の大多数は真贋すら定かではない怪しい経歴ばかりだから、容易には叙爵できなかったという側面がある
菊池だって偽物疑惑が色濃かったからこそ、それを払拭というか、アレしたくて極端な言説を。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/23(水) 22:27:22.78
>>143
全く理解できんね。先祖に贈位すれば充分だろ。
後南朝なんて存在しないものには、そもそも手厚くしようがないというのをおいたとしてもな。
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