後南朝は史実から消えた。
それがすべて。

南朝後胤の最後の資料は、東大資料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という網文のもとに、次の四件あります。

A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
  山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送らて、
   越後より越前国北荘へ移った。

B同記三十日の条
  「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。

C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
  「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
  (現山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。

D同記明応八年霜月の記事
  「王」が明応八年霜月に流されて三島(現静岡県三島市)に着き、
  早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。

当時の文献上は、これで終了。

南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。