0052日本@名無史さん
2016/10/20(木) 20:39:43.87それがすべて。
南朝後胤の最後の資料は、東大資料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という網文のもとに、次の四件あります。
A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送らて、
越後より越前国北荘へ移った。
B同記三十日の条
「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。
C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
(現山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。
D同記明応八年霜月の記事
「王」が明応八年霜月に流されて三島(現静岡県三島市)に着き、
早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。
当時の文献上は、これで終了。
南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。