【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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戦国時代じゃないから南朝にはいなかったかもな。 南朝には(暦博士も含めて)官人がほとんどいなかった、これは間違いない。
後南朝になると、ほとんどどころか全くいなかった。 >>647
熊を退治して
熊の肝を売れば財源には事欠かなかったと思いますよ! 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
PX51I 後南朝は国衙領や荘園からの収入が見込めなかったから、狩猟・採集などに
よって生計を立てるしかなかった
熊退治もその一環と言えるかも知れない 南朝の大覚寺党の荘園は後南朝に引き継がれなかったんだよな
それでは誰もついてこないわな 収入がない状態で、後南朝の南帝の食膳には、どのような大御食を奉ったのだろうか?
近侍の武者やわずかばかりの官人が吉野の山中で仕留めた鳥獣の肉が献上されたのか? 当時の天皇は鳥肉しか食べられなかったのに、
南朝の天皇は四足獣肉を憚らずに食べたため
神慮に違って没落したと『海人藻芥』に書いてある 南朝も後南朝も吉野の影響で修験者みたいな天皇や皇子が多いね(たまたま肖像画がそういう描き方してるだけかもしれないが)
当時の京都の洗練された支配層からは、南朝系の人達は野人の類に見えたのでは無いかと思う。 >>642
でも南朝を摂津の住吉大社が支援していた
行政実務や祭礼で協力を得ていたのでは? >>656
五条家みたいな事務官僚のエキスパートがこぞって懷良についていってるしね。 朝拝式自体が捏造でしょ
何もしてなかったのに途中から始めたんでしょ >>659
なんだかね
元は狩りで熊とか猪とか
そういう大物が取れた事を
山の神様に感謝する儀式のようだね 古くからあった土俗的な祭事が、後南朝によって宮中の祭祀に取り込まれたり、
南帝が崩御したときの葬礼と結びついたりして、現在の形に変化したのではないか? >>661
室町時代後半から戦国時代頃は南朝系祭祀を続ける動機がなかった時代だが、江戸時代後半に入ると捏造してでも南朝系祭祀を行う動機があったからなあ
その頃(または明治後期から大正頃)に創作された可能性はかなり高いだろうよ 後南朝を専門としている研究者は、フィールドワークなども駆使して、朝拝式の
研究をしてほしい。ゼミ生たちを引率して現地に入って、朝拝式に実際に参列して
みるのも効果的ではないか? >>663
1700年代って天下が太平になって、儒学が浸透した後だからな。 各地の神社で由緒やら来歴の偽作創作が行われだしたのも、だいたいその辺の時代だよな 後南朝の研究は、歴史的事実の究明も大切だが、なぜそのようなイデオロギーが
成立したのか、どのような経緯で成立したのかという、精神史・思想史の究明
という意味がある 北条早雲によって相模に送られた西陣南帝の末裔が相模の熊沢家 ちなみに遠州には、木寺宮の末裔の木宮氏がいて、現地常葉学園の学長などやっている。 後南朝って地方の修験者が箔をつける為に
京都の門跡の真似をして南朝の没落子孫を
担いだだけじゃないの?
比叡山延暦寺や仁和寺御室のような高貴な
箔を付けたかったという事じゃないのかね。
あの一向宗ですら皇族や公家から門首の嫁を
迎えている時代だから、修験が門跡を求めて
も不思議ではない。 >>669
いや、それ西陣南帝の後胤かどうかすら解らんのだが
あくまで当時の噂話を書き留めてるだけだし
それも王と書かれてるだけで、どこの誰かは不明なままだし >>670
それ自称な
木寺宮の子孫は一次資料では確認できていないよ >>671
西陣南帝はその可能性なきにしもあらずだが、
小倉宮や金蔵主、自天王は北畠氏、日野氏、楠氏が擁立していたから
本物の血統だと思われ 名古屋の熊沢家は相模の熊沢家と先祖名が共通しているので、おそらく同族
どちらも数百家と繁栄している。
木宮家は遠州に20家ばかり、宮崎にも同姓の家があるが同族かどうか不明 本人の意識では皇族でも、中央貴族たちと疎遠になり、朝廷から親王宣下や官位を
授かっていなければ、周囲の人から見れば「本当に皇族かどうかわからない」
状態になっただろう。
後南朝の末裔が、「王」と称しているだけの真偽不明の情報になるのは、
そのためではないか? >>677
いや、そもそも後南朝の末裔かどうかすら不明
そういう記述は当時の文献にはないから
王=異国の王の可能性もあるよ 朝鮮とか琉球とかね 西陣南帝とか出羽王を最後に、後南朝の消息はわからなくなったな
その後は、美作後南朝が出現するまで不明になっている 明応の政変で失脚した前将軍足利義材が、越中や周防で仮の幕府を開いて公方と
名乗っていたが、この時に後南朝の宮を天皇として擁立して、征夷大将軍に任命
してもらって、都にいる将軍足利義澄や細川政元に対抗するという図式がありえた
と思うが、それをしなかった
もはや北朝の天皇に正当性が認められていて、
別の天皇を擁立する余地がない「風潮」だったのだろう もうその頃には擁立するメリットよりデメリットの方が上回ってたんだろうな
権力こそ無くなったとは言え、幕府に加えて北朝天皇までもセットで敵に回すことは討伐/鎮圧される危険性が増すだけだったんだろうさ 室町時代の初期には、足利尊氏に敗れた足利直義が南朝に帰参するということもあった。
だから、北畠・浪岡北畠・楠木・名和などの功臣が後南朝の皇胤を擁立して仮御所を
作って、ある程度朝廷としての実態を作っておけば、反主流となった足利将軍家と
連携することもできたかもしれない。
反主流側の足利氏に征夷大将軍の官位を授けた実績を作れば、後南朝の威信を回復
することにもつながる。 それらの連中には仮御所を作る力は無かったよ。
北畠だけは、その力があったが小倉宮を担いで反乱して幕府の総攻撃受けて、当主が討死して以降は幕府寄りになったからな。 >>687
せいぜい「ポエマー氏よりはマシな内容」ていどだね
史料と論考の区別も付けてないし、考察と呼べるレベルには達していないよ >>687
ソースの提示無しで妄想を書き連ねているだけで、全く駄目だな 南朝の子孫は今でもいますよ。
一番確実なのが、神奈川県茅ヶ崎市香川の熊沢家。
後亀山天皇の孫(曾孫とも)が山梨の石和の豪族、熊沢氏の娘との間に
生まれた皇子がさらに相模の北条早雲のもとへ逃れ、現在の場所に定着し、
分家は20近くもあり、江戸時代の儒学者「熊沢蕃山」もこの一族。
で、尾張の熊沢家はこの香川の熊沢家の分家の分家だとか。
他にも和歌山の浅利家もやはり南朝の一族だとか。 >>690
どれも真偽不詳(というか、極めて疑わしい。この上なく怪しい。) 後南朝の子孫は臣籍に下ってしまった上、その系統が不明になってしまったので、
「ここの家は、元は後南朝」と言っても、なかなか信じてもらえないのが実情だ
臣籍降下するときに、後南朝の当主から源姓を賜姓され、堂上家としての家格を
認定されるという過程を経ておくべきだった 後南朝で源姓を賜姓されたのは後醍醐源氏くらいだよな 後南朝は初期のころは、熊野宮とか十津川宮のような宮家が自天王のような南帝の
藩屏となっていたが、いつの間にか臣籍に下っていたな 臣籍に下るってのは臣下としての籍を与えられることで、南朝系では籍を与えられて下ったものなどいないから間違い
没落零落凋落しただけだよ 熊沢とか、賜姓された記録あるの? つか、賜姓されてたら、天皇を自称するのおかしくない? 賜姓されないまま、ずっと末端の皇族として王を名乗っていた
明治以後に自分で苗字をつけて戸籍に登録し、地元に土着するようになった
だから、気分としては皇族だが、実態は地元民という形になった 何を言っているんだ
自称皇族でしかなく、証明できるものなんて何もないだろ
ただの地元民だよ 後南朝の皇胤は、地域社会で「王」を自称していたり、敬称で呼ばれたり
していただけで、社会全体では皇族扱いではなかったよ
明治維新のとき、南朝の遺臣が叙爵された際も、後南朝の皇胤が皇籍復帰
したり宮号を授与されることもなかった しつこいな
後南朝の皇胤なんていない
自称していた地元民がいるだけで、何の証明も無い
詐称って奴だよ 二条道平の日記(1333年)に記録された落書「くすの木のねはかまくらに成るものを 枝をきりにと何の出るらん」
『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、
もとは利根川流域に基盤を持つ武蔵の党的武士だった可能性が高い。
武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。
河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住したものと思われる。
討幕運動への参加は、同じ得宗方の紀伊湯浅党との勢力争いがきっかけである。
楠木正成は得宗勢力の内紛によって、旧主を裏切って後醍醐に接近したのであり、この点では足利尊氏(相模国鎌倉出身)と何ら変わるところがない。
(海津一朗・和歌山大学教授) 大友皇子とか安徳天皇とか平将門の末裔のほうがまだ優遇されてるのでは?
南朝末裔なんてホラ吹きばかり。 明治維新のとき、南朝の遺臣が叙爵された?
ホントですか?四百年もたってたのに。 >>708
明治13年7月20日に楠木正成が正一位を叙爵。 享年が数え年で八歳、満年齢で六歳四ヶ月だぞ、その年で死ぬまでに子供を残せたはずがない
壇之浦で死なずに落ち延びたと言うトンデモ説を前提にしない限り安徳天皇の子孫は存在し得ないよ >>708-709
過去の有名人に高位高官を追贈するのって、不人気な政府の人気取り手法として定番だったんだよね
明治維新当時の政府って不人気だったのか? 今では信じられないんだけど >>711
生き延びた説あるだろ。ここの後南朝末裔レベルの信憑性だがw 現代で南朝を正統という人の殆どが南朝に譲位しろと言わないくらい胡散臭いからねw 明治新政府は旧幕府勢力や不平士族からは相当に恨みを買っていたから、一定の
人気取りは必要だった。明治新政府は「天皇を推戴している」という点に正統性
のある政権だったから、過去の忠臣たちに官位を追贈したり、忠義の行いを
顕彰したりしている。
和気清麻呂、菅原道真、織田信長なども顕彰されている。
南朝、後南朝の廷臣たちもその一環として顕彰された。 >>716
楠木正行が正二位で菊池武光が従三位はおかしい。 九州で戦った征西将軍・良成親王の子孫とかいたはずだけど、どこへ行ったのやら? そんな子孫はいない。
伝承では寺に入った一族がいたくらい。
寺で子孫残せず終了コースのいつものパターン。 征西将軍懷良って九州の拠点を失ったあと脱出して吉野の方に戻ったとか、してないの?
九州のなかで転戦して消息不明になったの? 親王は矢部で死亡。
残された一族も寺に行ったとの伝承あり。
北朝に降伏し、子孫は寺で断絶させられたのでしょう。
親王も暗殺かもね。
五條氏はその後も矢部で勢力保ってるし、最後まで徹底交戦したとは思えない。 懐良親王の皇子には源姓を賜って臣籍降下した源良宗がいたが、征西将軍府が
衰退した後の消息は不明とされる
征西将軍府が隆盛のころは、賜姓源氏の貴族として重用されていたのだろうが
後南朝の再興に関わった記録はない 五条頼元流清原氏は、南朝功臣となったことで地下官人から立身したが、その後は
南朝時代に築いた勢力をもとにして、地方豪族として生きる道を選んだんだろうね 南朝は出家で跡取りなしとかだらしないね。
出家して子作りして天皇にした後水尾天皇見習えよw まず南帝として即位してから出家して法皇になっていたのなら、まだ望みがあるが
いきなり出家していたのが、後南朝皇胤のウイークポイントだ
法皇はおろか法親王を名乗ることもできないまま終わった方が大半だ 正統な皇統たる南朝を断絶せしめた北朝の罪は海よりも深し。
今上は己を罪する詔を内閣の助言と承認のもとに発し、
上は神祖に 下は万民に謝すべし。 幕府の方針が「正統は北朝」だからな
つか、南朝こそ本当の正統とか言い出すやつが出たのは南朝後裔が完全に滅亡して数百年の後、江戸時代後半のことだしな
同時代に南朝こそ正統で北朝は偽物と信じてたやつなんて全国で数人もいなかったレベルだぞ >>730
伊勢国司の北畠はどう思っていたんだろう? mike oldfield『let there be light』
(ミュージック・ビデオ、動画を観てみて)
『松傾』なぜか同じ 誰でも知ってると思う
『アナザー・ディメンション』 アナザー・ディメンション
>精神支配の技としては一輝の鳳凰幻魔拳と同等の威力とされる。 伊勢の北畠は、途中で見放したよ。
小倉宮を担いで戦い、当時の当主が討ち死にして、滅亡しそうなとこを幕府の温情で助けられたからな。
以降は、幕府に従順になり南朝を見放した。 >>738
楠木正儀も南朝に帰参せずにいたら河内守護あたりに任じられていたかな?
まあ細川頼之の失脚がなければ帰参もなかったんだが。 >>687
長慶天皇ー玉川宮ー玉川若宮(高義または高秀)−北山宮梵勝
弟河野宮梵仲
という推理は自分も考えた。
あと、西陣南帝が護良親王の子孫という熊沢伝承も面白い。 >>741
そのサイトもお前の推理も何の根拠も無いただの妄想
熊沢なんて詐称だし 伊勢北畠の支援が弱まってからは、後南朝は経済力が乏しくなったのが痛かった。
南帝の生活費はもちろんだが、宮中祭祀や政治活動自体が存続できなくなり、
後南朝はその存在感を弱めていった。だから、応仁の乱のころを境に、後南朝の
消息がぱったり絶えてしまった。 後南朝を抑圧してきた室町幕府は応仁の乱を境に、
天下を治める力がなくなったのに、同じ応仁の乱を境に後南朝も力を失って消息が絶えるとは不思議な奇縁だな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています