【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ 後南朝の皇胤は、地域社会で「王」を自称していたり、敬称で呼ばれたり
していただけで、社会全体では皇族扱いではなかったよ
明治維新のとき、南朝の遺臣が叙爵された際も、後南朝の皇胤が皇籍復帰
したり宮号を授与されることもなかった しつこいな
後南朝の皇胤なんていない
自称していた地元民がいるだけで、何の証明も無い
詐称って奴だよ 二条道平の日記(1333年)に記録された落書「くすの木のねはかまくらに成るものを 枝をきりにと何の出るらん」
『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、
もとは利根川流域に基盤を持つ武蔵の党的武士だった可能性が高い。
武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。
河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住したものと思われる。
討幕運動への参加は、同じ得宗方の紀伊湯浅党との勢力争いがきっかけである。
楠木正成は得宗勢力の内紛によって、旧主を裏切って後醍醐に接近したのであり、この点では足利尊氏(相模国鎌倉出身)と何ら変わるところがない。
(海津一朗・和歌山大学教授) 大友皇子とか安徳天皇とか平将門の末裔のほうがまだ優遇されてるのでは?
南朝末裔なんてホラ吹きばかり。 明治維新のとき、南朝の遺臣が叙爵された?
ホントですか?四百年もたってたのに。 >>708
明治13年7月20日に楠木正成が正一位を叙爵。 享年が数え年で八歳、満年齢で六歳四ヶ月だぞ、その年で死ぬまでに子供を残せたはずがない
壇之浦で死なずに落ち延びたと言うトンデモ説を前提にしない限り安徳天皇の子孫は存在し得ないよ >>708-709
過去の有名人に高位高官を追贈するのって、不人気な政府の人気取り手法として定番だったんだよね
明治維新当時の政府って不人気だったのか? 今では信じられないんだけど >>711
生き延びた説あるだろ。ここの後南朝末裔レベルの信憑性だがw 現代で南朝を正統という人の殆どが南朝に譲位しろと言わないくらい胡散臭いからねw 明治新政府は旧幕府勢力や不平士族からは相当に恨みを買っていたから、一定の
人気取りは必要だった。明治新政府は「天皇を推戴している」という点に正統性
のある政権だったから、過去の忠臣たちに官位を追贈したり、忠義の行いを
顕彰したりしている。
和気清麻呂、菅原道真、織田信長なども顕彰されている。
南朝、後南朝の廷臣たちもその一環として顕彰された。 >>716
楠木正行が正二位で菊池武光が従三位はおかしい。 九州で戦った征西将軍・良成親王の子孫とかいたはずだけど、どこへ行ったのやら? そんな子孫はいない。
伝承では寺に入った一族がいたくらい。
寺で子孫残せず終了コースのいつものパターン。 征西将軍懷良って九州の拠点を失ったあと脱出して吉野の方に戻ったとか、してないの?
九州のなかで転戦して消息不明になったの? 親王は矢部で死亡。
残された一族も寺に行ったとの伝承あり。
北朝に降伏し、子孫は寺で断絶させられたのでしょう。
親王も暗殺かもね。
五條氏はその後も矢部で勢力保ってるし、最後まで徹底交戦したとは思えない。 懐良親王の皇子には源姓を賜って臣籍降下した源良宗がいたが、征西将軍府が
衰退した後の消息は不明とされる
征西将軍府が隆盛のころは、賜姓源氏の貴族として重用されていたのだろうが
後南朝の再興に関わった記録はない 五条頼元流清原氏は、南朝功臣となったことで地下官人から立身したが、その後は
南朝時代に築いた勢力をもとにして、地方豪族として生きる道を選んだんだろうね 南朝は出家で跡取りなしとかだらしないね。
出家して子作りして天皇にした後水尾天皇見習えよw まず南帝として即位してから出家して法皇になっていたのなら、まだ望みがあるが
いきなり出家していたのが、後南朝皇胤のウイークポイントだ
法皇はおろか法親王を名乗ることもできないまま終わった方が大半だ 正統な皇統たる南朝を断絶せしめた北朝の罪は海よりも深し。
今上は己を罪する詔を内閣の助言と承認のもとに発し、
上は神祖に 下は万民に謝すべし。 幕府の方針が「正統は北朝」だからな
つか、南朝こそ本当の正統とか言い出すやつが出たのは南朝後裔が完全に滅亡して数百年の後、江戸時代後半のことだしな
同時代に南朝こそ正統で北朝は偽物と信じてたやつなんて全国で数人もいなかったレベルだぞ >>730
伊勢国司の北畠はどう思っていたんだろう? mike oldfield『let there be light』
(ミュージック・ビデオ、動画を観てみて)
『松傾』なぜか同じ 誰でも知ってると思う
『アナザー・ディメンション』 アナザー・ディメンション
>精神支配の技としては一輝の鳳凰幻魔拳と同等の威力とされる。 伊勢の北畠は、途中で見放したよ。
小倉宮を担いで戦い、当時の当主が討ち死にして、滅亡しそうなとこを幕府の温情で助けられたからな。
以降は、幕府に従順になり南朝を見放した。 >>738
楠木正儀も南朝に帰参せずにいたら河内守護あたりに任じられていたかな?
まあ細川頼之の失脚がなければ帰参もなかったんだが。 >>687
長慶天皇ー玉川宮ー玉川若宮(高義または高秀)−北山宮梵勝
弟河野宮梵仲
という推理は自分も考えた。
あと、西陣南帝が護良親王の子孫という熊沢伝承も面白い。 >>741
そのサイトもお前の推理も何の根拠も無いただの妄想
熊沢なんて詐称だし 伊勢北畠の支援が弱まってからは、後南朝は経済力が乏しくなったのが痛かった。
南帝の生活費はもちろんだが、宮中祭祀や政治活動自体が存続できなくなり、
後南朝はその存在感を弱めていった。だから、応仁の乱のころを境に、後南朝の
消息がぱったり絶えてしまった。 後南朝を抑圧してきた室町幕府は応仁の乱を境に、
天下を治める力がなくなったのに、同じ応仁の乱を境に後南朝も力を失って消息が絶えるとは不思議な奇縁だな 後南朝は継続的に存在したのではない
南朝後胤を担ぎ出して反乱を起こす勢力が出たときにだけ、
散発的に出現しただけだよ
南朝後胤は平時には都にいた。寺の中だが。
けっして地方勢力として戦い続けてはいなかった
北畠とかは、後南朝が蜂起したときに参加することは多かっただろ、
けっして後南朝を見限ってしまったわけではないよ
もっとも、戦国時代になると北畠じたいのちからが傾いてるので
支援することなどできなくなってたかもしれんけど 後南朝の時代には北畠は支援してないよ
南朝の小倉宮と組んで幕府に反逆して、幕府に潰されかかったが助けてもらって、恩義を感じて以降は幕府よりだよ
せいぜいが後南朝が実質的に潰れた時に残党を伊勢に匿ったくらい(楠木氏とか) いつも支援したわけではないけど支援したときもあるじゃん 『アヴェスター』ググると出て来たでしょ?
『宥罪』という言葉
神、翡翠、リン、ビンビン(不明)、話とか
長竿、トトロのような話 >>747
いつ北畠が後南朝を支援したんだい?
具体的にご教授願えますか? 伊勢北畠の支援があるうちは、経済力だけではなく、伊勢国司で村上源氏の堂上家が
支えているという社会的威信が大きかった。
だが、伊勢北畠の支援が弱まり、楠木正理などの土豪が支えるだけになると、後南朝の
周囲にはめぼしい公卿や守護大名が存在しない事実が明らかとなり、後南朝の衰退が
誰の目にも明らかになった。 皇族というのは、確かに「支えてくれる有力者」がいてこその存在だよな
以仁王は親王宣下も受けていない末端皇族だったが、源頼政に擁立されて
その発給した令旨が大きな役割を果たした
後南朝も支えてくれる有力者がいたかどうかが境目だったんだろう お前たちの言う皇族というのは、
先住民のこと?それとも中華(中国)の本当の皇族のこと? 頭の良い人は気づいている
お前たちの言っていることは、
ほとんどデタラメ
この掲示板に限った話ではない、
他のサイトや書籍など・・・デタラメ
合致(符合)も、何もしていない >>752
おまえの後南朝の定義がわからん
北畠に擁立されていた小倉宮は後南朝に入るだろう 中華じゃ数百年ごとに王朝交代があって皇族なんて全面入れ替わりしてるだろ
中華の皇族にありがたみなんてないな
せめて千年つづく王朝のひとつでも出してから言え googleで検索すると出て来たでしょ?
『お盆の夜は満月だった:僧侶も知らない本当の起源』
このような言葉⇒『宥罪』【このページを訳す】
訳して、読んでみたほうが良い >>754
王で令旨が出せるなら高見王・高望王・経基王・興世王でもだせるんか? 諸王の身分では本来なら出せない令旨を、親王を詐称して発したらしい
wikipedia>令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。
>中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、
>太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。 >>762
以仁王は親王宣下されていないのは何故なんだろうね? >>758
小倉宮は後南朝には入らない
何故なら幕府と講和して京にいたからね
そのまま幕府に従い、京で死んでるし
彼は南朝皇族に過ぎない
後南朝というのは、京から逃げ出した後の自称南朝後胤で幕府に反逆していた連中の事を言う >>763
単に、後ろ盾がなかった(いたが早世した)だけだろ >>764
後南朝蜂起の代表格とも言える禁闕の編だって蜂起直前までは京都で寺にいたわけで小倉宮と大差ないんだが 親王宣下を受けていない以仁王が平家追討の令旨を出して、その令旨を受けて
源頼朝が挙兵した例は参考になるな
後南朝の皇族であっても、伊勢北畠クラスの有力者が擁立し、呼応する公卿や
武士がいるなら、室町将軍追討の令旨を出すこともできたということだ 叛乱を起こしたがっていた地方武士たちが大義名分がわりに利用したという側面は大きいな、以仁王の場合は。
後南朝の蜂起も同様のパターンだが、叛乱を起こされる側の不人気度が足りなかったり状況の切迫度が低かったりしたか、叛乱の規模が広がっていない 八条院みたいなのは複数の皇族の後ろ盾になったりするので、逆に特定のひとりを強くバックアップしてはくれないと思う
以仁王の後ろ盾は母親の兄だよ。藤原公光。以仁王が16歳の頃に失脚してる。
もっとも、
>院政期に親王宣下を受けるのは、原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子(法親王)のみだった。
>以仁王の母・成子は女御になれず、幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗した以仁王には親王宣下を行う根拠がなかった。
という論もあるので後ろ盾の失脚と無関係に親王宣下を受けられなかった可能性もある >>766
そいつらは幕府と講和して京都に住んでたんじゃない
無理やり寺に入れられて出家させられてた連中だ
小倉宮とは立ち位置が違う 小倉宮は当事者として自分自身で幕府と講和して京都に住んでいた
その他の連中は子供の頃に本人のあずかり知らぬところで強制的に出家させられてる
大違いだろ >>775
その部分の違いは史料的裏付けがあるのかね?
全部お前さんの空想だろ >>776
史実を否定するんだねwww
お前の中ではそれで良いんじゃないか? もしかして史料が無いとは言わんよね?
裏付けとなる史料が無いものは史実じゃないもんね。
で、史料はまだ? 資料はあるよ。知らないお前がおかしい。
お前の妄想こそ、資料はあるの?
自分は資料ないのに相手にだけ求めてるの?
それなら詭弁だよ。 以仁王も後南朝も皇族の中で不遇であった点は共通している。
だが、平氏政権に反旗を翻す機運が高まっていたので、源三位頼政という
有力者がバックについたし、以仁王の平家追討の「令旨」は効力を発揮した。
だが、室町幕府はおおむね大半の武士に支持されており、反乱が波及する
気運にはなかった。だから、伊勢北畠がバックについたとしても、後南朝は
なかなか表舞台に出るチャンスがなかった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D
後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、
南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。
ーーーー
よって小倉宮と北畠の挙兵も、後南朝の運動に入る
>>780
それも一理あるが、幕府への反乱勢力が南朝の天皇を担いでも
味方は増えないし、逆にお世話が後々面倒で忌避されるようになったのかもしれない
畠山義就は、かつて南朝の勢力基盤だった河内や大和を実効支配し、しばしば幕府から
追討の対象になり戦いを起こしたが、後南朝の天皇を担いだりはしていない
享徳の乱で幕府と戦った足利成氏も同様で、
書状では開戦前の年号を使い続けるのみで、後南朝の年号を使うことはなかった >>781
それは、室町時代には挙兵するとき、皇族をかつぐことの効果が薄れていたため
と考えてよいだろうか?
「皇族がついているから味方しよう」と思う武士は少なくなっており、
皇族の世話をする手間だけが増えて、何もメリットがない、という状態に
室町時代にはなっていたということだろうか? 仮に北朝の皇族を担ぐ機会があったとしたら、後南朝皇族よりは役に立っただろうと思うね
実際のとこ、北朝系の皇族で叛乱に利用できそうなのはいなかったけどさ やがて皇族をかついで挙兵ではなく、
足利将軍家内部で失脚した人をかついで、挙兵する事例が増えていったね
嘉吉の乱→足利直冬の孫の義尊をかついで赤松満祐が挙兵するも失敗
永正の錯乱→廃位された前将軍足利義材をかついで大内義興が挙兵し、上洛に成功
信長上洛→討たれた将軍義輝の弟の義昭をかついで織田信長が挙兵し、上洛に成功 仮に大内義興が義材を奉戴せずに、「大内家が天下を取るためだ」と
私利私欲丸出しで上洛の兵をあげたら、沿道の大名らが抵抗して、京都へ到着すらできなかったと思う 「後南朝の皇族では弱かったから」というのもあるが、たとえ北朝の皇族であった
としても、往時ほどのメリットがなくなっていたのでは?
「皇族をかついで綸旨や令旨を旗印に挙兵」という手法自体が古臭いものになって
いたのではないか?
だから、後南朝の皇族を擁立して戦ったのは、北畠のような保守的な公家大名
くらいしかいなかった 征西府が1392年以降も九州を平定したままならどうなっていただろう。 1391 征西将軍良成親王が肥後八代城を開城
1392 楠木の本拠地・河内国千早城陥落
南朝は軍事的大打撃を蒙っていた
一方の足利は明徳の乱で山名氏清を討ち取り、
大名支配を確立
だからこそ南朝があきらめて、
南北朝合一を受け入れた >>789
だから楠木は負けても征西府は九州から足利勢力を一掃していたらどうなる。 忠冬が九州で頑張り続けて、菊池が大友とかを駆逐しちゃってたらありえる可能性だと思うけど。
ただ、その場合、明に従属する勢力が九州を支配し続けるわけで、大陸の動静次第では
倭寇討伐に本腰を入れざるを得ないとかあるかも。 朝貢は従属じゃないぞ
九州勢が明に朝貢したのは事実だが、その主家は明じゃなく南朝のほう
だが、いずれにしても幕府が九州攻略に尽力して戦い続けただろうことは予想が付く >>790
それなら南朝は南北朝合一に同意しないだろう
二代将軍足利義詮の時に佐々木道誉と楠木正儀が和平交渉したが、
九州の大宰府は南朝軍が制圧していて、九州では南朝が優勢だったので南朝も強気であり、結局義詮が交渉の打ち切りを決断し、和平交渉は失敗した >>792
日本国王に封じられておいて、従属じゃないとか言われても >>794
古代の遣唐使の時と条件は変わらないんだけど。
日本国王に封ぜられて中国の暦を持ち帰らされたりしてるわけだよ、遣唐使の時も。
「倭の五王」だって日本国王に封ぜられてるけど、あれも従属とは普通は言ってないよ 呉の孫権が216年に魏王曹操にしたように、
形式的に従属したとはいう >>795
はあ? 遣唐使の時代に冊封されてた?
朝貢と冊封は全然別の話だぞ 後南朝は九州ではなく、関東に拠点を作ればよかったのでは?
関東は鎌倉公方・関東管領などが都の足利宗家と敵対することもあり、
政情不安定だ。北条氏の御内人の子孫もまだ生き残っている。
それらの反中央勢力を後南朝と浪岡北畠がまとめて鎌倉に拠点を
置けばよかったのではないか? >>798
浪岡北畠?
関東なら地下に潜伏した新田勢力が出て来るだろう >>797
日本側の認識はともかく唐の側の認識では日本国王に封じたつもりだったようだぞ、記録によると。 >>800
どこの記録? 日本は王を封じるに値しない、たまに朝貢してくる蛮族って認識だぞ、唐
記録があるというなら、どの天皇をなんという王位に何年に就けたか、わかってるんだよね? 大宝とかの頃はまだしも、20年ごとと約束(契約?)したから、いちおうは定期朝貢だぞ
たまに/不定期に朝貢する国という認識は早期に払拭されてるぞ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています