【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ 八条院みたいなのは複数の皇族の後ろ盾になったりするので、逆に特定のひとりを強くバックアップしてはくれないと思う
以仁王の後ろ盾は母親の兄だよ。藤原公光。以仁王が16歳の頃に失脚してる。
もっとも、
>院政期に親王宣下を受けるのは、原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子(法親王)のみだった。
>以仁王の母・成子は女御になれず、幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗した以仁王には親王宣下を行う根拠がなかった。
という論もあるので後ろ盾の失脚と無関係に親王宣下を受けられなかった可能性もある >>766
そいつらは幕府と講和して京都に住んでたんじゃない
無理やり寺に入れられて出家させられてた連中だ
小倉宮とは立ち位置が違う 小倉宮は当事者として自分自身で幕府と講和して京都に住んでいた
その他の連中は子供の頃に本人のあずかり知らぬところで強制的に出家させられてる
大違いだろ >>775
その部分の違いは史料的裏付けがあるのかね?
全部お前さんの空想だろ >>776
史実を否定するんだねwww
お前の中ではそれで良いんじゃないか? もしかして史料が無いとは言わんよね?
裏付けとなる史料が無いものは史実じゃないもんね。
で、史料はまだ? 資料はあるよ。知らないお前がおかしい。
お前の妄想こそ、資料はあるの?
自分は資料ないのに相手にだけ求めてるの?
それなら詭弁だよ。 以仁王も後南朝も皇族の中で不遇であった点は共通している。
だが、平氏政権に反旗を翻す機運が高まっていたので、源三位頼政という
有力者がバックについたし、以仁王の平家追討の「令旨」は効力を発揮した。
だが、室町幕府はおおむね大半の武士に支持されており、反乱が波及する
気運にはなかった。だから、伊勢北畠がバックについたとしても、後南朝は
なかなか表舞台に出るチャンスがなかった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D
後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、
南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。
ーーーー
よって小倉宮と北畠の挙兵も、後南朝の運動に入る
>>780
それも一理あるが、幕府への反乱勢力が南朝の天皇を担いでも
味方は増えないし、逆にお世話が後々面倒で忌避されるようになったのかもしれない
畠山義就は、かつて南朝の勢力基盤だった河内や大和を実効支配し、しばしば幕府から
追討の対象になり戦いを起こしたが、後南朝の天皇を担いだりはしていない
享徳の乱で幕府と戦った足利成氏も同様で、
書状では開戦前の年号を使い続けるのみで、後南朝の年号を使うことはなかった >>781
それは、室町時代には挙兵するとき、皇族をかつぐことの効果が薄れていたため
と考えてよいだろうか?
「皇族がついているから味方しよう」と思う武士は少なくなっており、
皇族の世話をする手間だけが増えて、何もメリットがない、という状態に
室町時代にはなっていたということだろうか? 仮に北朝の皇族を担ぐ機会があったとしたら、後南朝皇族よりは役に立っただろうと思うね
実際のとこ、北朝系の皇族で叛乱に利用できそうなのはいなかったけどさ やがて皇族をかついで挙兵ではなく、
足利将軍家内部で失脚した人をかついで、挙兵する事例が増えていったね
嘉吉の乱→足利直冬の孫の義尊をかついで赤松満祐が挙兵するも失敗
永正の錯乱→廃位された前将軍足利義材をかついで大内義興が挙兵し、上洛に成功
信長上洛→討たれた将軍義輝の弟の義昭をかついで織田信長が挙兵し、上洛に成功 仮に大内義興が義材を奉戴せずに、「大内家が天下を取るためだ」と
私利私欲丸出しで上洛の兵をあげたら、沿道の大名らが抵抗して、京都へ到着すらできなかったと思う 「後南朝の皇族では弱かったから」というのもあるが、たとえ北朝の皇族であった
としても、往時ほどのメリットがなくなっていたのでは?
「皇族をかついで綸旨や令旨を旗印に挙兵」という手法自体が古臭いものになって
いたのではないか?
だから、後南朝の皇族を擁立して戦ったのは、北畠のような保守的な公家大名
くらいしかいなかった 征西府が1392年以降も九州を平定したままならどうなっていただろう。 1391 征西将軍良成親王が肥後八代城を開城
1392 楠木の本拠地・河内国千早城陥落
南朝は軍事的大打撃を蒙っていた
一方の足利は明徳の乱で山名氏清を討ち取り、
大名支配を確立
だからこそ南朝があきらめて、
南北朝合一を受け入れた >>789
だから楠木は負けても征西府は九州から足利勢力を一掃していたらどうなる。 忠冬が九州で頑張り続けて、菊池が大友とかを駆逐しちゃってたらありえる可能性だと思うけど。
ただ、その場合、明に従属する勢力が九州を支配し続けるわけで、大陸の動静次第では
倭寇討伐に本腰を入れざるを得ないとかあるかも。 朝貢は従属じゃないぞ
九州勢が明に朝貢したのは事実だが、その主家は明じゃなく南朝のほう
だが、いずれにしても幕府が九州攻略に尽力して戦い続けただろうことは予想が付く >>790
それなら南朝は南北朝合一に同意しないだろう
二代将軍足利義詮の時に佐々木道誉と楠木正儀が和平交渉したが、
九州の大宰府は南朝軍が制圧していて、九州では南朝が優勢だったので南朝も強気であり、結局義詮が交渉の打ち切りを決断し、和平交渉は失敗した >>792
日本国王に封じられておいて、従属じゃないとか言われても >>794
古代の遣唐使の時と条件は変わらないんだけど。
日本国王に封ぜられて中国の暦を持ち帰らされたりしてるわけだよ、遣唐使の時も。
「倭の五王」だって日本国王に封ぜられてるけど、あれも従属とは普通は言ってないよ 呉の孫権が216年に魏王曹操にしたように、
形式的に従属したとはいう >>795
はあ? 遣唐使の時代に冊封されてた?
朝貢と冊封は全然別の話だぞ 後南朝は九州ではなく、関東に拠点を作ればよかったのでは?
関東は鎌倉公方・関東管領などが都の足利宗家と敵対することもあり、
政情不安定だ。北条氏の御内人の子孫もまだ生き残っている。
それらの反中央勢力を後南朝と浪岡北畠がまとめて鎌倉に拠点を
置けばよかったのではないか? >>798
浪岡北畠?
関東なら地下に潜伏した新田勢力が出て来るだろう >>797
日本側の認識はともかく唐の側の認識では日本国王に封じたつもりだったようだぞ、記録によると。 >>800
どこの記録? 日本は王を封じるに値しない、たまに朝貢してくる蛮族って認識だぞ、唐
記録があるというなら、どの天皇をなんという王位に何年に就けたか、わかってるんだよね? 大宝とかの頃はまだしも、20年ごとと約束(契約?)したから、いちおうは定期朝貢だぞ
たまに/不定期に朝貢する国という認識は早期に払拭されてるぞ そもそも古代東アジア世界で王という称号は、中華の皇帝から下賜されるものであり、当時の認識で日本の王号は新羅王と同じく唐から賜った同格のものでしょう。
天皇という言葉は当時の国際情勢的にはただの僭称にしか過ぎませんでした。
つまり天皇という言葉は国際的に認められたものではなく、格的に新羅王家や高麗王家と同じく王号なのです。
百済王家は日本で百済こにきしと名乗っていましたが、それと同じです。
テンノウという言葉は王号を表現する日本語の名詞と考えるべきでしょう。天皇という漢字を当てることは適切ではありません。
王家というのは、当時の東アジア国際情勢に則り、テンノウという日本語に王という文字をあて、天皇家を表現したものなのです。
韓国や中国で天皇家を日王と呼ぶのは、これが理由ですし、それが正当解釈です。
これが中世日本でテンノウを王と書いた理由です。 他のスレでも見たが、誤爆か無差別多連続投稿かどちらだね 応神 継体 天武 明治
万世一系ではないだろう
何度もアカの他人に政権簒奪されてんだから、中国と同じだろ 王号そのものは勝手に名乗ってもいいんだよ
東胡やビン越の王のようにね
ただ日本の場合は、倭の五王の時は王号のみならず、
安東将軍だの都督だの中国王朝の官位を欲しがっており、
朝貢していたことは確か
あと中国では現在は「天皇」と表記して報道していることが多く、韓国とは趣が違う >>803
そこが違う。
唐にとって、「日本は王号を与えるに値しない蛮国」
だから、朝貢は認めても王とは認めなかった。天皇はいわば蛮族の酋長という認識。
そこを日本は逆手にとって「天皇は皇帝と対等だから、王号を与えられるようなことはしないのだ」と国内的に言い張った。
時代が進むにつれ、日本(というか朝廷)は本気でそう考えるようになった。
宋の間、正式な国交が無かったのも影響しているのだろう。
だから、義満が明と交易するために「日本国王」になった時、日本の体面を損なうとして議論になった。
長くなったが、懐良親王がやらかしたことは、皇族が中国皇帝の家臣になったということで、遣隋使以前のレベルに逆戻り。
聖徳太子に土下座して謝るべき。 >>808
>唐にとって、「日本は王号を与えるに値しない蛮国」
>だから、朝貢は認めても王とは認めなかった。天皇はいわば蛮族の酋長という認識。
すごくデタラメだな。もしかして、お前さんの存在自体もデタラメなのか?
王と認めるかどうかの境目は規模。文明度も影響ないわけではないが、大きい相手について王と認めないとか、やってないだろ >>809
で、どの皇帝が何年の遣唐使の時にどの天皇を、何の官職につけたんだ? 天皇は中華皇帝から王号をもらって冊封されるのではなく、自分自身で権威を持つ
存在であり、権威の源泉であった。中華の冊封体制の外にいることで、そのしくみを
醸成し続けることができた。そして、近代に入り、国際社会から日本の「皇帝」の
地位を是認されるようになった。現在では、中国は天皇を「天皇」と呼ぶし、外交儀礼
では「天皇陛下」と、「陛下」の尊称をつけて呼んでいる。
中国の辞書では、天皇を「日本の皇帝」と定義している。 古代においては天皇は中国皇帝より安東将軍とか都督とかの官位をお願いして
もらっていたけど、朝鮮半島から撤退したことや律令体制の確立で
国内での天皇の最高権威性が揺るぎないものとなり、中国皇帝から官位をもらうことに必要性がなくなったのだろう 朝貢国の多くは、中国の権威が必要だから朝貢したり冊封されたりするわけではなく、中国との交易の利益が必要だから便宜的に冊封されてるだけだよ
むしろ中国から与えられた王号とかを国内には公開してない国の方が多くなかったかね そうすると、征西将軍・懐良親王が明朝の冊封を受けて王号を受けたのは、
明朝の権威が欲しかったのではなく、明朝との交易によって資金を獲得し、
征西府を強化しようとしたと考えてよいのだろうか? 当時の情勢見ても、明王朝の権威を欲しがったとは考えにくいと思うんだよ。
むしろ九州在住豪族らが交易を求めてて、拒否できなくて冊封を受けたんじゃないかって気がする。
または、部下が勝手にやった!
後に今川了俊が幕府の許可も無く勝手に冊封を受けようと試みた(明の方が拒絶したんだったか?)事もあったように、部下が勝手にって可能性も否定できないよな。
同様に、遣唐使の時だって冊封されてると思うよ。少なくとも唐の暦を持ち帰らされてたことは間違いない。 え、史料があるからの話じゃなくて
妄想ロマン語ってるの? 日本の記録はともかく、冊封したなら中国王朝側に記録が残ってるだろ。
お前が思うのはお前の心の問題だから止めないが、チラシの裏にでも書いてろよ。 唐代の記録は意外と散逸が激しくて残ってないよ。律令法典でさえ大半が散逸してるしね
散逸した唐律令の復元研究が衝撃的だった 唐の時代は文献が宋以降と比較して各段に少ない上、五代十国時代に相当部分が
散逸した。歴史だけでなく、文学の分野においても、唐の文献には不確かなことが
多く、解明できてないことが多い。 冊封も含めた外交の記録だって残ってるのはごく一部だけってわけだ
記録がないから冊封されてない、などとは言えないよな 朝貢の直接記述はなくても、冊封した朝貢国に対するのと同じ呼び方で日本のことを呼ぶ記述が残ってるんだから十分だろ
唐王朝の基本認識として日本を冊封国の一つと思っていたことが分かる、それだけで根拠になると思うが。 冊封された国は必ず朝貢国なのだから混同ではない
冊封国という集合は朝貢国の集合の中に含まれている
それを意識して読めば、「冊封した朝貢国」という文面は「冊封した国」と同義。どこに問題が? >>827
「偉大なるわが国日本が中国に朝貢するわけないんだ!」というように、
愛国心から起こる気持ちはわかるが、自分の政治イデオロギーから結論ありきで歴史をみる態度は適切とはいえない 日本は中国の朝貢国でした。
それも韓国や越南や琉球にも劣る半蛮族として入朝すら許されない程の辺地の王国と扱われています。
天皇というのは単于や大汗や皇太極などと同じ国内向けの王号に過ぎません。
格付けとしては韓国王や越南王に劣り琉球王未満となります。 >>829
日本が新羅と席次を争った際に唐王朝は新羅より日本を上位に置くよう変更したよ >>830
それは、新羅が日本の朝貢国だから、と日本が主張したからだよ >>830
新羅が譲ってあげたんだよ
大人の余裕を見せたということですな >>829
「偉大なるわが国朝鮮が日本に劣るわけないんだ!」というように、
愛国心から起こる気持ちはわかるが、自分の政治イデオロギーから結論ありきで歴史をみる態度は適切とはいえない 話を戻すぞ
よく南北朝長期化の理由として、惣領制で一族に内紛が起きたとか
幕府内の権力闘争を挙げる説が多い
もちろんそれらの説も正しいが、それだけで充足できないように考える
例を挙げれば宗良親王が居を構えた信濃大河原、
懐良親王が居を構えた筑後矢部
幕府軍は、この2か所に攻め寄せることはあるが、
本気で(つまりかなりの大軍で)攻めた様子がなく、結局2か所とも南朝軍が守り通している
高師直ですら吉野を落としながら、後村上天皇が避難した賀名生には追撃しなかった
また幕府は悪党出身の楠木討伐にはかなり尽力したが、
それと比べると公家の北畠征伐は実行しているものの、あまり本気を出していないように見える
幕府は力で南朝を滅ぼす潰す気が最初からなく、
最後の最後は平和的な南北朝合一を目指したいので、公家や皇族の命を取らないように
配慮していたのではないだろうか?
(もちろん尊良親王や春日顕国など例外はある) 冊封された国は必ず朝貢国なのだがその逆はイコールではない
冊封国という集合は朝貢国の集合の中に含まれているが
逆にいえば朝貢国がみな冊封されるわけではない
それを意識して読めば、「冊封した朝貢国」という文面は「冊封した国」と同義だが
「朝貢した冊封国」は「朝貢した国」と同義ではない。 >>829
入朝が許されてないわけねえだろ、遣唐使送ってるんだから 散るぞ悲しき〜辞世の唄
有名な辞世の句に曲を付けた名曲。
ドラマチックなラストが圧巻。↓
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4 >>835
足利政権側の認識として、南朝のもとに集まった武士団が主敵であって、南朝の
皇族や公家は主敵ではない、あるいは戦闘員ではない、という考え方があった
のだろうか?
鎌倉政権が倒れるとき、「北条高時追討」の綸旨が出たし、実際に北条氏は
滅ぼされてしまった。だが、鎌倉殿(親王将軍)や公家出身の実務官僚たちが
標的にされた気配はなかった。それと同様と考えてよいだろうか? 当初は足利氏の思惑としては両統迭立時代に戻したかったっぽいな
それを撤回して北朝一辺倒に変えようとし始めたのは、早く見積もっても義持時代以後。ひょっとしたら義教時代に入ってからかもしれん。 >>840
義満は両統定立はるか明後日の義嗣を天皇にしようとしたんではないか? その説は事実誤認を積み重ねたあげくの迷走だと考える人が今では主流 義満が願って贈られたわけじゃないし、参考にならんだろ常考 両統迭立に戻すということは、鎌倉幕府の方針に戻すということか
確かにこの方針が貫徹されれば、南北朝の対立はなくなり、戦乱も収束する 悪く考えれば両統並立なら朝廷は分断される
幕府としては朝廷の力が半減されていれば、「安心」して政権運営できる
後醍醐天皇は討幕したじゃないかという批判もあろうが、
あの時は鎌倉と京都で遠く、六波羅探題の対朝廷監視能力が不十分だったのだろう
でも足利幕府は京都が本拠地だから、十分に朝廷の「不審」な動きに目が届きやすい 鎌倉幕府が擁立していたのは親王将軍(摂家将軍)で、天皇とは一定の距離があったが、
室町幕府は北朝を擁立して、政権も京都にあったので、南北朝の対立の渦中に入って
しまうことになった。後南朝の時代まで含めると、長い対立となった。
室町幕府も鎌倉に政権を置いて、親王将軍を擁立して足利氏は執権になっていたほうが
政権は安定したのではないか? >>844
そんなこと忖度する皇族や公家がいたか義嗣がたのまなきやそんなことにはならんぞ。
義持はノシをつけて叩き返したらしいから頼むわけないし。 「足利義満が皇位簒奪を図った」という今谷明の学説は、今日では否定されている。
だが、仮にもし義満が北朝の天皇から皇位を簒奪していたら、どうなっていただろうか?
これは、南朝側から見れば、義満を征伐する大きな名分となる。
公卿はもちろん、守護大名や足利一門の中にも、皇位簒奪に異議を唱える人が出るだろう。
守護大名たちを巻き込んで、南朝側が盛り返すチャンスになっていたのではないか? 義満が天皇になっていたら、義満の朝廷と南朝の朝廷で対立するだろうな
幕府側は「義満天皇」では団結できまい
鎌倉公方あたりが南朝について、大動乱になる なんで朝廷は義満に太上天皇を贈ったかわからんなー? 太上天皇位を贈った理由が分からんのは事実だけど、849や850の言うとおり、簒奪が可能な状態ではなかったのだから、
朝廷側が何か勘違いしていたのが原因と考えざるをえないのではないかな もともと、準三宮だったんだから、亡くなったから追加しとこう、ぐらいじゃね? 太政天皇の称号は、後南朝が先手を打って贈ればよかった。
そうすれば、後南朝の存在感も増すことになった。 吉野山中を転々とするのではなく、地方の有力者の支援を継続的に受けられる形で
運営すれば、後南朝はもっと長続きしたように思う。
伝説上の存在ではあるが、美作後南朝のようにしておけばよかった。 支援を十分に受けられなかったから転々とせざるを得なかっただけだろ、好んで転々とするはずがないんだよ >>857
定着してたら、支援者ごと足利幕府に攻められるだろ
根無し草みたいに漂ってたからこそ、応仁の乱までなんとか生き残れた アニメの一休さんは義満が南朝復活を気にしてる描写けっこうあるな
同じ寺の小坊主が後南朝ゲリラに参加するために寺を出るエピもあるし。
なお、その小坊主は次の話だと寺に戻ってた。 一休さんは南朝子孫じゃなく持明院統の一員だから後南朝に含まれません
>>860
後南朝の前半時代は京都在住の南朝系皇族が連れ出されて蜂起してるから、吉野山中を転々としてたわけじゃないし、そもそも存続してなくて断続してるんだよな
応仁の乱を目前にした後半時代ってか足利義政時代に入ってからか、地方生まれの後南朝皇族が出てきたのって。 アニメの一休さんでは、旧臣が一休さんを呼び止めて、足利義満と戦うように
促す場面があった。一休さんは北朝の御小松天皇の皇子だが、反幕勢力に
担がれる要素もあったのだろう。
安国寺の先輩小僧・周念さんは後南朝に参加して戦うため、寺を出奔した
こともあった。 そりゃ、一休さんの実兄である崇光天皇が死んだ際、後小松の実子たる一休さんをさしおいて遠縁の伏見宮の子をを養子にして天皇にしてるから、
差し置かれた一休さんを担ぎ出したい勢力はいただろうさ
南朝支持でなく反幕府を目的にしてるなら一休さんのほうが後南朝系より役に立つ立場だから、
一休さんの同意が得られてたら担ぎ出してただろうよ
後南朝皇族は一休さんほどの有用性はないけど候補者が多いのと遠縁すぎて一休さんほどには監視されてないのとで
担ぎ出しやすかったんだろうな 一休生母が南朝遺臣花山院某の娘で
怨みを晴らさんと後小松天皇に女官として近侍し
寵愛を受けながら機会を伺っていたが
常に懐剣を所持しているのがばれたため御所追放
この時一休を懐妊中で一休は寺に入れられた
という話じゃなかったか >>866
一休宗純は後小松天皇落胤説だろ
崇光天皇は兄じゃないぞ
崇光天皇は後小松天皇の祖父・後円融天皇の実兄
一休が後小松落胤なら一休の異母弟が称光天皇
称光天皇没後、曾祖父後円融天皇の兄崇光天皇の曾孫にあたる伏見宮家の王が
後小松天皇の養子に入り後花園天皇になった ああ、ごめん、思いっ切り間違えてるな
崇光天皇じゃなくて称光天皇だった 後南朝に参加して戦う鉄斎さんのような僧もいたんだろうな
アニメといえども、時代背景をよく描いている
幕府、旧臣にかつがれた一休さん、後南朝についた鉄斎さんが
三つ巴になって戦う回もあったら見たかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています