【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ >>800
どこの記録? 日本は王を封じるに値しない、たまに朝貢してくる蛮族って認識だぞ、唐
記録があるというなら、どの天皇をなんという王位に何年に就けたか、わかってるんだよね? 大宝とかの頃はまだしも、20年ごとと約束(契約?)したから、いちおうは定期朝貢だぞ
たまに/不定期に朝貢する国という認識は早期に払拭されてるぞ そもそも古代東アジア世界で王という称号は、中華の皇帝から下賜されるものであり、当時の認識で日本の王号は新羅王と同じく唐から賜った同格のものでしょう。
天皇という言葉は当時の国際情勢的にはただの僭称にしか過ぎませんでした。
つまり天皇という言葉は国際的に認められたものではなく、格的に新羅王家や高麗王家と同じく王号なのです。
百済王家は日本で百済こにきしと名乗っていましたが、それと同じです。
テンノウという言葉は王号を表現する日本語の名詞と考えるべきでしょう。天皇という漢字を当てることは適切ではありません。
王家というのは、当時の東アジア国際情勢に則り、テンノウという日本語に王という文字をあて、天皇家を表現したものなのです。
韓国や中国で天皇家を日王と呼ぶのは、これが理由ですし、それが正当解釈です。
これが中世日本でテンノウを王と書いた理由です。 他のスレでも見たが、誤爆か無差別多連続投稿かどちらだね 応神 継体 天武 明治
万世一系ではないだろう
何度もアカの他人に政権簒奪されてんだから、中国と同じだろ 王号そのものは勝手に名乗ってもいいんだよ
東胡やビン越の王のようにね
ただ日本の場合は、倭の五王の時は王号のみならず、
安東将軍だの都督だの中国王朝の官位を欲しがっており、
朝貢していたことは確か
あと中国では現在は「天皇」と表記して報道していることが多く、韓国とは趣が違う >>803
そこが違う。
唐にとって、「日本は王号を与えるに値しない蛮国」
だから、朝貢は認めても王とは認めなかった。天皇はいわば蛮族の酋長という認識。
そこを日本は逆手にとって「天皇は皇帝と対等だから、王号を与えられるようなことはしないのだ」と国内的に言い張った。
時代が進むにつれ、日本(というか朝廷)は本気でそう考えるようになった。
宋の間、正式な国交が無かったのも影響しているのだろう。
だから、義満が明と交易するために「日本国王」になった時、日本の体面を損なうとして議論になった。
長くなったが、懐良親王がやらかしたことは、皇族が中国皇帝の家臣になったということで、遣隋使以前のレベルに逆戻り。
聖徳太子に土下座して謝るべき。 >>808
>唐にとって、「日本は王号を与えるに値しない蛮国」
>だから、朝貢は認めても王とは認めなかった。天皇はいわば蛮族の酋長という認識。
すごくデタラメだな。もしかして、お前さんの存在自体もデタラメなのか?
王と認めるかどうかの境目は規模。文明度も影響ないわけではないが、大きい相手について王と認めないとか、やってないだろ >>809
で、どの皇帝が何年の遣唐使の時にどの天皇を、何の官職につけたんだ? 天皇は中華皇帝から王号をもらって冊封されるのではなく、自分自身で権威を持つ
存在であり、権威の源泉であった。中華の冊封体制の外にいることで、そのしくみを
醸成し続けることができた。そして、近代に入り、国際社会から日本の「皇帝」の
地位を是認されるようになった。現在では、中国は天皇を「天皇」と呼ぶし、外交儀礼
では「天皇陛下」と、「陛下」の尊称をつけて呼んでいる。
中国の辞書では、天皇を「日本の皇帝」と定義している。 古代においては天皇は中国皇帝より安東将軍とか都督とかの官位をお願いして
もらっていたけど、朝鮮半島から撤退したことや律令体制の確立で
国内での天皇の最高権威性が揺るぎないものとなり、中国皇帝から官位をもらうことに必要性がなくなったのだろう 朝貢国の多くは、中国の権威が必要だから朝貢したり冊封されたりするわけではなく、中国との交易の利益が必要だから便宜的に冊封されてるだけだよ
むしろ中国から与えられた王号とかを国内には公開してない国の方が多くなかったかね そうすると、征西将軍・懐良親王が明朝の冊封を受けて王号を受けたのは、
明朝の権威が欲しかったのではなく、明朝との交易によって資金を獲得し、
征西府を強化しようとしたと考えてよいのだろうか? 当時の情勢見ても、明王朝の権威を欲しがったとは考えにくいと思うんだよ。
むしろ九州在住豪族らが交易を求めてて、拒否できなくて冊封を受けたんじゃないかって気がする。
または、部下が勝手にやった!
後に今川了俊が幕府の許可も無く勝手に冊封を受けようと試みた(明の方が拒絶したんだったか?)事もあったように、部下が勝手にって可能性も否定できないよな。
同様に、遣唐使の時だって冊封されてると思うよ。少なくとも唐の暦を持ち帰らされてたことは間違いない。 え、史料があるからの話じゃなくて
妄想ロマン語ってるの? 日本の記録はともかく、冊封したなら中国王朝側に記録が残ってるだろ。
お前が思うのはお前の心の問題だから止めないが、チラシの裏にでも書いてろよ。 唐代の記録は意外と散逸が激しくて残ってないよ。律令法典でさえ大半が散逸してるしね
散逸した唐律令の復元研究が衝撃的だった 唐の時代は文献が宋以降と比較して各段に少ない上、五代十国時代に相当部分が
散逸した。歴史だけでなく、文学の分野においても、唐の文献には不確かなことが
多く、解明できてないことが多い。 冊封も含めた外交の記録だって残ってるのはごく一部だけってわけだ
記録がないから冊封されてない、などとは言えないよな 朝貢の直接記述はなくても、冊封した朝貢国に対するのと同じ呼び方で日本のことを呼ぶ記述が残ってるんだから十分だろ
唐王朝の基本認識として日本を冊封国の一つと思っていたことが分かる、それだけで根拠になると思うが。 冊封された国は必ず朝貢国なのだから混同ではない
冊封国という集合は朝貢国の集合の中に含まれている
それを意識して読めば、「冊封した朝貢国」という文面は「冊封した国」と同義。どこに問題が? >>827
「偉大なるわが国日本が中国に朝貢するわけないんだ!」というように、
愛国心から起こる気持ちはわかるが、自分の政治イデオロギーから結論ありきで歴史をみる態度は適切とはいえない 日本は中国の朝貢国でした。
それも韓国や越南や琉球にも劣る半蛮族として入朝すら許されない程の辺地の王国と扱われています。
天皇というのは単于や大汗や皇太極などと同じ国内向けの王号に過ぎません。
格付けとしては韓国王や越南王に劣り琉球王未満となります。 >>829
日本が新羅と席次を争った際に唐王朝は新羅より日本を上位に置くよう変更したよ >>830
それは、新羅が日本の朝貢国だから、と日本が主張したからだよ >>830
新羅が譲ってあげたんだよ
大人の余裕を見せたということですな >>829
「偉大なるわが国朝鮮が日本に劣るわけないんだ!」というように、
愛国心から起こる気持ちはわかるが、自分の政治イデオロギーから結論ありきで歴史をみる態度は適切とはいえない 話を戻すぞ
よく南北朝長期化の理由として、惣領制で一族に内紛が起きたとか
幕府内の権力闘争を挙げる説が多い
もちろんそれらの説も正しいが、それだけで充足できないように考える
例を挙げれば宗良親王が居を構えた信濃大河原、
懐良親王が居を構えた筑後矢部
幕府軍は、この2か所に攻め寄せることはあるが、
本気で(つまりかなりの大軍で)攻めた様子がなく、結局2か所とも南朝軍が守り通している
高師直ですら吉野を落としながら、後村上天皇が避難した賀名生には追撃しなかった
また幕府は悪党出身の楠木討伐にはかなり尽力したが、
それと比べると公家の北畠征伐は実行しているものの、あまり本気を出していないように見える
幕府は力で南朝を滅ぼす潰す気が最初からなく、
最後の最後は平和的な南北朝合一を目指したいので、公家や皇族の命を取らないように
配慮していたのではないだろうか?
(もちろん尊良親王や春日顕国など例外はある) 冊封された国は必ず朝貢国なのだがその逆はイコールではない
冊封国という集合は朝貢国の集合の中に含まれているが
逆にいえば朝貢国がみな冊封されるわけではない
それを意識して読めば、「冊封した朝貢国」という文面は「冊封した国」と同義だが
「朝貢した冊封国」は「朝貢した国」と同義ではない。 >>829
入朝が許されてないわけねえだろ、遣唐使送ってるんだから 散るぞ悲しき〜辞世の唄
有名な辞世の句に曲を付けた名曲。
ドラマチックなラストが圧巻。↓
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4 >>835
足利政権側の認識として、南朝のもとに集まった武士団が主敵であって、南朝の
皇族や公家は主敵ではない、あるいは戦闘員ではない、という考え方があった
のだろうか?
鎌倉政権が倒れるとき、「北条高時追討」の綸旨が出たし、実際に北条氏は
滅ぼされてしまった。だが、鎌倉殿(親王将軍)や公家出身の実務官僚たちが
標的にされた気配はなかった。それと同様と考えてよいだろうか? 当初は足利氏の思惑としては両統迭立時代に戻したかったっぽいな
それを撤回して北朝一辺倒に変えようとし始めたのは、早く見積もっても義持時代以後。ひょっとしたら義教時代に入ってからかもしれん。 >>840
義満は両統定立はるか明後日の義嗣を天皇にしようとしたんではないか? その説は事実誤認を積み重ねたあげくの迷走だと考える人が今では主流 義満が願って贈られたわけじゃないし、参考にならんだろ常考 両統迭立に戻すということは、鎌倉幕府の方針に戻すということか
確かにこの方針が貫徹されれば、南北朝の対立はなくなり、戦乱も収束する 悪く考えれば両統並立なら朝廷は分断される
幕府としては朝廷の力が半減されていれば、「安心」して政権運営できる
後醍醐天皇は討幕したじゃないかという批判もあろうが、
あの時は鎌倉と京都で遠く、六波羅探題の対朝廷監視能力が不十分だったのだろう
でも足利幕府は京都が本拠地だから、十分に朝廷の「不審」な動きに目が届きやすい 鎌倉幕府が擁立していたのは親王将軍(摂家将軍)で、天皇とは一定の距離があったが、
室町幕府は北朝を擁立して、政権も京都にあったので、南北朝の対立の渦中に入って
しまうことになった。後南朝の時代まで含めると、長い対立となった。
室町幕府も鎌倉に政権を置いて、親王将軍を擁立して足利氏は執権になっていたほうが
政権は安定したのではないか? >>844
そんなこと忖度する皇族や公家がいたか義嗣がたのまなきやそんなことにはならんぞ。
義持はノシをつけて叩き返したらしいから頼むわけないし。 「足利義満が皇位簒奪を図った」という今谷明の学説は、今日では否定されている。
だが、仮にもし義満が北朝の天皇から皇位を簒奪していたら、どうなっていただろうか?
これは、南朝側から見れば、義満を征伐する大きな名分となる。
公卿はもちろん、守護大名や足利一門の中にも、皇位簒奪に異議を唱える人が出るだろう。
守護大名たちを巻き込んで、南朝側が盛り返すチャンスになっていたのではないか? 義満が天皇になっていたら、義満の朝廷と南朝の朝廷で対立するだろうな
幕府側は「義満天皇」では団結できまい
鎌倉公方あたりが南朝について、大動乱になる なんで朝廷は義満に太上天皇を贈ったかわからんなー? 太上天皇位を贈った理由が分からんのは事実だけど、849や850の言うとおり、簒奪が可能な状態ではなかったのだから、
朝廷側が何か勘違いしていたのが原因と考えざるをえないのではないかな もともと、準三宮だったんだから、亡くなったから追加しとこう、ぐらいじゃね? 太政天皇の称号は、後南朝が先手を打って贈ればよかった。
そうすれば、後南朝の存在感も増すことになった。 吉野山中を転々とするのではなく、地方の有力者の支援を継続的に受けられる形で
運営すれば、後南朝はもっと長続きしたように思う。
伝説上の存在ではあるが、美作後南朝のようにしておけばよかった。 支援を十分に受けられなかったから転々とせざるを得なかっただけだろ、好んで転々とするはずがないんだよ >>857
定着してたら、支援者ごと足利幕府に攻められるだろ
根無し草みたいに漂ってたからこそ、応仁の乱までなんとか生き残れた アニメの一休さんは義満が南朝復活を気にしてる描写けっこうあるな
同じ寺の小坊主が後南朝ゲリラに参加するために寺を出るエピもあるし。
なお、その小坊主は次の話だと寺に戻ってた。 一休さんは南朝子孫じゃなく持明院統の一員だから後南朝に含まれません
>>860
後南朝の前半時代は京都在住の南朝系皇族が連れ出されて蜂起してるから、吉野山中を転々としてたわけじゃないし、そもそも存続してなくて断続してるんだよな
応仁の乱を目前にした後半時代ってか足利義政時代に入ってからか、地方生まれの後南朝皇族が出てきたのって。 アニメの一休さんでは、旧臣が一休さんを呼び止めて、足利義満と戦うように
促す場面があった。一休さんは北朝の御小松天皇の皇子だが、反幕勢力に
担がれる要素もあったのだろう。
安国寺の先輩小僧・周念さんは後南朝に参加して戦うため、寺を出奔した
こともあった。 そりゃ、一休さんの実兄である崇光天皇が死んだ際、後小松の実子たる一休さんをさしおいて遠縁の伏見宮の子をを養子にして天皇にしてるから、
差し置かれた一休さんを担ぎ出したい勢力はいただろうさ
南朝支持でなく反幕府を目的にしてるなら一休さんのほうが後南朝系より役に立つ立場だから、
一休さんの同意が得られてたら担ぎ出してただろうよ
後南朝皇族は一休さんほどの有用性はないけど候補者が多いのと遠縁すぎて一休さんほどには監視されてないのとで
担ぎ出しやすかったんだろうな 一休生母が南朝遺臣花山院某の娘で
怨みを晴らさんと後小松天皇に女官として近侍し
寵愛を受けながら機会を伺っていたが
常に懐剣を所持しているのがばれたため御所追放
この時一休を懐妊中で一休は寺に入れられた
という話じゃなかったか >>866
一休宗純は後小松天皇落胤説だろ
崇光天皇は兄じゃないぞ
崇光天皇は後小松天皇の祖父・後円融天皇の実兄
一休が後小松落胤なら一休の異母弟が称光天皇
称光天皇没後、曾祖父後円融天皇の兄崇光天皇の曾孫にあたる伏見宮家の王が
後小松天皇の養子に入り後花園天皇になった ああ、ごめん、思いっ切り間違えてるな
崇光天皇じゃなくて称光天皇だった 後南朝に参加して戦う鉄斎さんのような僧もいたんだろうな
アニメといえども、時代背景をよく描いている
幕府、旧臣にかつがれた一休さん、後南朝についた鉄斎さんが
三つ巴になって戦う回もあったら見たかった >>868
崇光は後光厳の兄だろ
後円融は甥
あと
https://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11489858466.html?frm=theme
ここのブログの
>出家した宮は、践祚できない
>践祚できないということは、即位できないことを意味し
>継承権を失うことを意味します。
>これは仮に還俗しても一度でも出家すると践祚できません。
↑ってのが本当だとすると一休を担ぎ出したとしても天皇の資格が無い以上無意味って事になるが
(もっとも大昔大海人皇子が出家後壬申の乱で大友皇子を倒して”天武天皇”となった例も有るが) 後南朝の蜂起で担ぎ出された皇子の多くがそれ以前に一度は出家してるわけで、還俗しても即位できない風習がすでに廃れていたとしか解釈できないんだが 多いか
尊義王くらいじゃないのか
義有王は皇位じゃないし
それに北朝側で出家前に皇位に就いた人間は一人もいない
それどころか南北統一後でもそんな人間はいない
上で出てる大昔に天武天皇って例外はあるがそれくらいだしそれ以降は一人もいない
別に廃れてる風習でもないだろ
あれがルールにまでなってると言い切れるかどうかは別として
正統性が怪しいって言われる後光厳だって出家する寸前に皇位になったし 数年前のユダヤの陰謀スレ
漫画やアニメばかり観ているから、こんな事になってしまった
と言ってる人がいたんだけど、北斗の拳、ドラゴンボールとか?
北朝、南朝・・・北斗、南斗、南都? 311後だったかな、
どうした聖人でも殺したのか?と言ってる人がいたり
どのスレだったかな、
そのような事を言ってる人がいた そもそも、大海人皇子は戒壇が無い時代の出家だから、出家(自称)だし。
吉野に嫁さん連れて行ってるし。
後世の出家とは別物だろ。 大海人皇子の出家が偽装だとしたら日本国内で出家後に天皇なった人は一人もいないって事で
それこそ上の言ってる出家した者は天皇の資格を失うってのがますます成立するな
もっとも尊義王は実は出家してないって説も有りそれだと皇位自体は受ける資格は有るようだが つ称徳天皇
孝謙天皇は一度譲位し太政天皇となってから道鏡を戒師として出家
しかしその後、恵美押勝の乱に勝利して称徳天皇として重祚した 天武にせよ孝謙にせよ相当時代の違うものを前例として認めるかどうかかな
後光厳のだって義詮が継体って前例が有るんだーって滅茶苦茶な強引さで天皇させたが
こうなると前例云々じゃなくて結局担ぐ人間が強いかどうかって言う問題が重要だわ 皇族の出家=皇位継承権の剥奪のためなのは明確だが
上皇の出家はそうじゃない
同列には語れない 聖武や仁明のように在位中に出家した例もあるのに、
花山は出家即譲位だったんだから、この間に転換点がある 花山の辺りからそのルールみたいなものが成り立ったとみるべきか 皇族であれ、武士であれ、出家すれば家督相続を放棄したことを意味する。
だが、足利将軍家で出家していた人が還俗して将軍になった例が出てくる。
大名でも今川義元は出家していたが、還俗して家督を継いだ。
だから、流れによっては、出家していた皇族が還俗して皇位に就く可能性は
あったと見るべきだと思う。
一休さんも後南朝も皇位に就く余地は、可能性としてはあった。 >>884
花山より後の天皇でそういう存在が皆無な時点で
天皇は将軍や大名とは明らかに格が違うって証左だろ 臣籍降下したら即位要件を失う、皇位継承権はなくなるという不文律だって、
いざ皇位継承者が乏しくなれば容易に反故にされたように、
僧籍に入れば即位できない風習も反故にされる可能性は高かっただろうがな >>886
そもそも後光厳の即位だって不自然にも程が有るがそれでも強行したしな
一応前例主義の強い世界では有るが何か有ったら案外あっさりぶち破る事有ってもおかしくない 皇族以外から選ばれて即位できても
一度出家した者は皇位継承からずっと排除されていた事実を見れば
両者には越えられない壁があって
絶対的なルールが存在していたことを認めざるをえないと思う 一度は前例があっても臣籍降下した元皇族からの即位が一度で終わったあたり、よほどのタブーだったことは確実だね
それで即位した欠格天皇が、よりによって伝説的名君の一柱に数えられるに至ったから、非難しようにも非難しがたい状況でもあり。
再発防止が徹底された状況を見るに、臣籍降下と出家の間に質的な差があったとは考えがたいね
たまたまその時代が、出家するのではなく臣籍降下で皇位継承権を無くす時代だったから出家者じゃなかっただけで、臣籍降下も同等の、「壁のむこうがわ」だったと考えざるを得ないな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
IV2 皇族、足利将軍家など高貴な人が出家するのは、「後継者からはずされた」
「後継者から離脱する」ことを示す場合が多い。
だから、出家するということは、もはや後継者ではないというのは明らかだ。
だが、足利将軍家で出家者が還俗して将軍になった例があるように、
「やっぱりこの人を後継者にしよう」ということになれば、復活する可能性も
あるということだ。それはその時代のケースによるだろう。 権力さえあれば先例などどうにでもなる
先例が問題になるのは権力が充分ではないから 大海人皇子は出家して吉野に隠遁してから挙兵して近江朝廷を破り、天武天皇として即位に成功した
吉野は奇遇にも南朝と縁があるから、後南朝の出家した親王たちが大海人皇子の先例を 意識しても無理はない >>891
足利義教と今川義元が還俗の代表格だな
義元の場合、花倉の乱っつって後継争いが起きてるけど、
争った相手も還俗する予定で争ってる
状勢次第では天皇だって還俗皇族が駆り出される可能性があったとしか考えられないな
皇位を狙う皇族が多すぎたから、たまたま駆り出されなかっただけだろう 足利将軍家も将軍を継がない人は出家する傾向にあったね
義満の弟の満詮、義教、義視、義昭がそうだ
そして、義教、義昭は還俗して将軍になったし、義視も還俗して将軍になろうとした >一度は前例があっても臣籍降下した元皇族からの即位が一度で終わったあたり
宇多天皇、醍醐天皇。 【皇室】秋篠宮妃“紀子さま”と“美智子さま”の『異常性』〔心理学悪用編:小室眞子さま〕★2
ICU大学時代、山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話。
そのスキー部に眞子様もいた事実。
少ない人数のスキー部内で男を、とっかえひっかえの眞子様。
しかも小室さんに乗り換えた後、山守さんも居るスキー部で活動継続。
小室さんに騙されたとかいう風潮は、あまりにもおかしい。
2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持って・・・(以下略)
詳細は、以下のスレッドでどうぞ!!
〔2chのスレッド〕:https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1532735877/
〔記事元〕:http://www.laf.im/yahoo_co_jp-news-20180703 南北朝時代って考えてみれば、東西ローマ帝国みたいに東日本国、西日本国分裂時代と解釈していいのか? レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。