ssn>なるほどYAP?さんの考えでは、神武=帥升があり得るというという事ですね。

 いえ、そうではなく、「倭国王帥升等」の武闘・強硬派路線との政争に敗れた
南部九州勢力(東鯷人勢力:会稽郡に朝貢していた倭種の集団)との融和派であり、
自身も隼人クマソ系と婚姻していた神武を含めた京大が、北部九州から、同族の居た
近畿へと、い儒した、という考えです。
「倭国王帥升等」と「  」で囲んだのは、「帥升」(あるいは「師升」)なる人物が、
倭人諸国を代表する王であったのか?がまず議論されるべきだ、という意味合いからです。

 抑々、一国の国王が、自ら中国に赴いて、皇帝に拝謁する、というのは、海を隔てた日本列島の
状況からは考えにくい。しかも『等』という文字がある。帥升が王名であるならば、
複数の王が居たか、王とその臣下を同列視している記載になる。
 従って「倭国王」の「帥」(又は「師」)即ち軍事指揮官の「升」という使者らが、拝謁を願い出た、
都解釈すべきです。
 「帥」は『後漢書』その他に北方、東方の諸民族の酋長というか、「大帥」「小帥」
等と用例がみられるし、「師」は軍事用語でもあり、軍官wp意味した語彙と考えて良い。
 そうすると、死者の名が「升」だと言う事になる。
 これを「スサノヲ」とするのは無理がある、という考えです。