記紀が日本御統治権を主張する根拠を、中国中原王朝(後漢、曹魏、劉宋以下南朝)に求めず、
北朝の後継者たる隋・唐とも、半島支配権をめぐって利害が対立したという時点で、
支配の正当性を中国とは絶縁し、自らの祖神に求めるという決断がなされたのでしょう。
この時点で、その支配者の起点をどこに置くかで、辛酉革命説を採用したことにより、
古代の大王=天皇の寿命と在位期間大幅な増加とその在位時期の遡及が決定したが、
一方で変えてはならないのは、大王の属する「宗族」即ち王族〜皇族の祖先祭祀であり、
従って、その系譜からは、記紀編纂時の大王家とは無関係の大昔の大王は除かれた(省かれた)。
結果的に、応神以前は、単純な父子継承の形になった。しかし継体欽明皇統が前王統の
直系ではないことは、当時の近現代史年て、皆が認識していたから、応神王統については、
兄弟継承が記録された。
 時代の遡及には、和暦(倍暦)が中国の太陰太陽暦(元嘉暦、儀鳳暦)の2ばい8以上)となっているのを
利用したが、それでもBC660年には遡及させられない為、史官が何らかの机上操作を行った。
ついでに、複数大王制が存在していたのも、、圧殺し、唯一の大王(天王9しか存在しなかったという一時代一大王(天皇)
につじつま合わせをしたため、推古天皇の時代の男性男王が史書から抹殺され、
おかしなことになった。諸外国に対して倭国が外交を行うときは、単一の代表者名で対応したが、
国内的には、彼は必ずしも、唯一の王であったわけではなかった。

 そのように考えれば、日本の史書と中国の史書との矛盾は、解決される。