なぜ古代天皇は100歳を超えるのか [無断転載禁止]©2ch.net
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出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。
白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…
ものすごくみじめです。
自尊心がズタズタです。
彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を古く古くすることでごまかしました。
また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップして、
卑弥呼であるヒメタタライスズ媛の記述をを最小限にとどめました。
そして神武をBC660年という遠い遠い過去に葬り去りました。
神武以降の天皇もそれに合わせました。
これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相です。 古代の天皇家って、男子が多かったように見えるね。
で、各地の豪族に婿入してるかんじ。
崇神以前は、絶対的な大王家だったようには見えないね。
丹波や近江の息長とか、そういうのと一緒に王族を作ってた感じ。
尾張の祖とか丹波の一族とか、まあどっちも同族みたいだけど、火明命の一族が
大きな勢力だったようにみえるわ。 海部家は、天皇家に仕えたことを誇るんじゃなくて、「うちこそが本家だ」と
なんで主張しないんだろうな。
そんなことをしたら暗殺される?まあ、そうかもわからんけどな。
九州へ行ってた天皇家よりも三代は早くに近畿に広がって、広大な土地を支配
していたように見えるけどな。
分家に乗っ取られたような感じがするわ。 >>112
>ついでに、複数大王制が存在していたのも、、圧殺し、唯一の大王(天王9しか存在しなかったという一時代一大王(天皇)
につじつま合わせをしたため、推古天皇の時代の男性男王が史書から抹殺され、
おかしなことになった。諸外国に対して倭国が外交を行うときは、単一の代表者名で対応したが、
国内的には、彼は必ずしも、唯一の王であったわけではなかった。<
考古学的に言えば10代崇神が4世紀初頭であるのはほぼ確実でしょうね。
ではそれ以前、複数王であるかと言えば、そうではなくやはり単独の王がいたと思います。
その根拠ですが、大和盆地には弥生時代の複数の環濠集落がありました。
唐古・鍵遺跡、天理市平等坊・岩屋遺跡、桜井市芝遺跡、桜井市大福遺跡、橿原市四分遺跡、御所市鴨都波遺跡などです。
これらの環濠集落が弥生時代末に一斉に連動し、環濠が埋没、大量の土器が廃棄され、
やがて土師器が現れ、それが全国に一斉に広まります。
大和盆地全体が一斉に連動し、やがて日本全国に広がる文化があったということは、
奈良盆地に強力な一人の王がいた証拠です。
それが卑弥呼でしょう。
崇神からわずか5〜6世代の話です。
もはや卑弥呼候補は一人しかいません。
イワレヒコという男も頭を下げたヒメタタライスズという姫様です。 訂正
×5〜6世代の話です。
〇5〜6世代前の話です。 複数大王制については、よく言われるような「ヒメ・ヒコ」制などとは異なり
、上代日本語の「おほきみ」(大君)という語彙の考察や、諸外国の所領分割に
よる王国内の分立が、事例となります。
フランク王国が分割相続であったのは有名であり、再統一したカロリンが朝
フランク王国が、たまたまローマ教皇の陰謀により、再興西ローマ帝国となったため、
カール大帝の3子による東西及び中部フランクとイタリアの3王国への分割が
、同一フランク王国内に3人の王が同時に存在する、という格好な事例になった筈が、
そのように見えなくなりました。
ロシアのsyズダリ公国などでも国内にも「分領公」と呼ばれる存在が居ました。
彼らは、同じ国内でのほぼ同格の君主だったのです(多少の上下差はあるが、
基本的な相違はない)。それどころかメリヴィンガ朝フランク王国では
修道院にいる王族の女性が、「自分は王の従姉妹だから女王である」と
述べたという記録もあります。モンゴルの㈣汗国でも、大汗と多くの汗が存在し得ました。
日本の上代でも、「おほきみ」(大君)は、「大王」を示すと同時に、男女の
王族を意味しました。 耳で聞く限り「オホキミ」と発音されても、それが
「大王」なのか「王族の誰かなのかは、区別できません。
これは区別する必要性が本来なかったからだ、と考えるべきです。
ある行「おほきみ」(大君)とは、「臣」と「大臣」、「連」と「大連」と同様に、「公・君」に対する「大君」であり、
王族全員が基本的に共有する「カバネ(姓)のようなものだと考えれば、理解しやすい。
現実的には実際に統治者として権威を発揮し、権利を行使するのは、
その地域での最有力の者が一人でしょうが、そのような実態と、その王族の
「成員の基本的な正生得権」とは同時に存在し得た。 >>1 トンスル東遷厨
>白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
>ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…
>ものすごくみじめです。
>自尊心がズタズタです。
>彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
>時代を古く古くすることでごまかしました。
根拠なし
要するに白村江(663)での敗戦がその契機になったという話だが
有名な
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」
でら隋の煬帝を激怒させたという小野妹子の遣使が607年
要するに白村江以前から「対等外交」の模索は始まってたわけだ >>1 トンスル東遷厨(畿内説スレを荒し回ったクズ)
>出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
>弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
>記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
>2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。
これも意味不明
硯があったから
「2世紀以降の王統譜はおおよそ伝わっていただろう」
などは飛躍(ジャンプ)通り越してワープ
じゃあ仮に王統譜が伝わってたなら帥升をスサノオウという神様にする必要があったんだ?
スサノオウと言えば誰もが知るように岩戸隠れ神話の外せない重要キャラで
高天原を追われてからは今度はギリシア神話のアンドロメダを怪物から救った
ペルセウスの如き活躍を見せるもう神話の世界の住人以外の何物でもない
相変わらず一つのネタでトンデモレベルのこじ付けするなあ 古代天皇の年齢研究サイト
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage6.htm
長男は18歳ぐらいで生まれる(第4代懿徳天皇や第6代
孝安天皇のように兄の娘との間に次の天皇が生れた場合
は33歳ぐらい)間隔で、神武天皇以降の天皇の生没年と
活躍次期を推定している。家系図通りだと神武天皇即位
は西暦114年〜116年、干支に拘ると121年のことになり、
神武天皇の没年齢は57歳になる。ただし同サイトは「欠史
八代の系譜矛盾」にも触れており、神武から崇神まで6世代
の可能性もあると述べている。天武天皇は舒明天皇が亡くな
って後の誕生で兄の天智天皇よりも姪の持統天皇と年が近か
ったとか継体天皇は実際は即位していなかったなどびっくり
仰天な主張もされている。子どもを作る年齢が異様に早い
と思うが興味がある方は覗いてほしい。 >>123
>要するに白村江以前から「対等外交」の模索は始まってたわけだ
そりゃ模索は始まってるさ。
だから何なのだ。
模索しようが何しようが、
2世紀3世紀に師升や卑弥呼が朝貢していた事実は変わらない。
白村江に負けたことでさらに劣等感が増しただろう。
おまえは何が言いたいのだ? >>124
だからその硯で何を書いてたのだ?
絵画、またはラブレターか?
おまえ本当に馬鹿だな。 >>124
>じゃあ仮に王統譜が伝わってたなら帥升をスサノオウという神様にする必要があったんだ?
「帥升をスサノオウという神様にする必要」でななくて、
記紀編纂者たちは、
国民に広く浸透してたスサノオが帥升であるととっくに気づいてたという話だが。
やっぱりアホだな、おまえ。 >>127 トンスル東遷厨(スカトロネタ大好きの変態荒らし)
>そりゃ模索は始まってるさ。
>だから何なのだ。
ん?そんなことも説明しなきゃ分からんのか?
少なくともお前のほざいてる
「白村江の敗戦が契機」
というような話には何ら必然性がないって話だよ
神武の橿原即位にしてもそれを古く潤色する動機は白村江以前にあったのだから >>128 トンスル東遷厨(コピペ荒らし、偽スレ荒らしなんでもござれの土器違い)
>だからその硯で何を書いてたのだ?
さあね
仮に当時文字を使う人間がいても
どれぐらいの語彙を使ってたのか?とか分からないからな
よしんば王統譜のようなものを書いてたとして
それがお前の言うような須佐之男に相当する人物を書いていた根拠がない
それが記紀編纂の時代まで伝わってたという根拠がない
そんな王統譜があるなら金石文の登場ももっと早かろうに
もし硯で実際に文字を書くために使ったとしたら
文字の普及した地域に当てた連絡をしたためるというのが蓋然性としては高いだろう
実際出てきた地域は大陸半島との通行に於いて先進的な地域だったのだから >>129 トンスル東遷厨
>記紀編纂者たちは、
>国民に広く浸透してたスサノオが帥升であるととっくに気づいてたという話だが。
で結局王統譜のようなものがありながらその
「国民に広く浸透してたスサノオ」を記紀に書いて
本来帥升にあたる人物をスサノオウに変えたって話だな
もっともそもそも民衆の伝承の中で
なんで帥升がスサノオウという神様になったのか?がまるで見えてこない話
仮に神話の雛形があってそれに習合したとしてもだ
結局いつもの「一代○年で遡って」で適当にそれっぽいのをチョイスしただけか? で最後本題の
「なぜ古代天皇は100歳を超えるのか」
・・・だが
これは逆に
「記紀において百歳超えの天皇の記述が止むのはいつか?(及び生年自体が不明だったりするもの)」
を考えればヒントになる
それは昔から指摘されてるように雄略の一代前の安康天皇から
雄略をヤマト王権の変質、中央集権への志向の画期と見れば
それ以前は一つの王統ではなく複数の勢力から王を出してとと見れば
崇神以後恐らく三輪にヤマト王権の実態が現れた時代以後も百歳オーバーが出て来る説明がし易い
神武の時代を古くしたのは対外的な箔付(笑)けとして
安康より前が”間延び”したのは
連続した王統ではなく複数の王統でそのすべての記録がなかったか
あえて自分達に近い系譜のものだけを残したか
○=記紀に残った天皇(大王)、●=記紀に残らなかった大王
●●○●○○●●●○●・・・(安康天皇以後)○○○○○○
まあ以上は何も自分のオリジナルでも何でもないだろう
「記紀において百歳超えの天皇の記述が止むのはいつか?」
について考えれば誰でも思いつく話
ただ>>1トンスル東遷厨のような「一代○年で遡って」と当てはめごっこの好きなやつには
その遊びの前提条件が崩壊するので面白くもない話だろうが(代数が不明なら意味がない) 神武天皇以来の万世一系も皇紀も信じる右翼は涙目だなw 古代天皇の年齢研究サイト
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage6.htm
安康天皇以降の年齢も要修正だって。なぜなんだろう。
継体天皇の在位年数=清寧(5年)+顕宗(3年)+仁賢(11年)
+武烈(8年、大和を武力制圧した継体の傀儡として)+安閑1年
左は日本書紀などによる誕生年。→右はそれを修正した推定誕生年。
()内は没年齢。
履中:336年(70歳)、369年(64歳)→ 428年(38歳)
反正:378年(60歳)→ 432年(39歳)
允恭:377年?(78歳)→ 434年(47歳)
安康:401年(56歳)→ 457年(27歳)
雄略:418年(62歳)、366年(124歳)→ 463年(44歳)
清寧:444年?(41歳)→ 494年(18歳)
顕宗:450年?(38歳)→ 477年(38歳)
仁賢:449年?(50歳)→ 476年(50歳)
武烈:489年?(18歳)→ 514年(20歳)
継体:450年(82歳)→ 485年(50歳)
安閑:466年(70歳)→ 505年(31歳)
宣化:467年(73歳)→ 506年(34歳)
欽明:509年?(63歳)→ 527年(45歳) やっぱり4世紀後期の神功皇后・応神天皇を実際より百数十年前の
人物に設定した結果、彼らより後の大王の在位年数や寿命が間延び
したんだろうね。それより前でも垂仁天皇の時代に新羅の王子が来
朝し天皇がその玄孫の世代まで生きる話があるが、新羅も建国年を
紀元前に繰り上げていたので、垂仁天皇の在位期間も紀元前と紀元
後をまたぐことになったとも考えられそうな。
神武の時代を古くしたことは結果的に対外的な箔付けにはなっただろうな。
100歳を超える天皇が多いのは記紀に残せなかった天皇の分を一代あたりの
在位年数を延ばして埋めることにしたとまあ考えられないこともないか。
でもそれだと天皇家が万世一系といえる保証はありませんと言ってるような
ものだな。 >>131
>さあね
人の質問に対して「さあね」としか答えられないなら、
その後のお前の戯言はまったく意味がない。 >>132
>で結局王統譜のようなものがありながらその
>「国民に広く浸透してたスサノオ」を記紀に書いて
>本来帥升にあたる人物をスサノオウに変えたって話だな
おまえはアホなのか。
全く人の話が分かってないではないか。
スサノオは実在し、それが帥升だと気づいてたという話だ。
だから時代を大きくずらして神話の時代に追いやったという事だ。 おい、ウンコ漏らし太朗。
おまえはアホスレに帰れ。
いまさら邪馬台国畿内説なんて当たり前なクソスレにな。
面白くもなんともない。 >>135
面白そうなのですが、そのリンク見れないのです。 古事記の干支が、およそ矛盾がないな。
崇神の没年318年頃。
258年では早すぎる。
記紀の記事とは合うんだがな。
248年ごろに卑弥呼が死んで後継者争いが起き、崇神が勝つ。
崇神は卑弥呼の宗女を嫁にする(婿入する)
でも、やっぱり早すぎるな。 各地の古い神社の伝承では、神武以前の神様を祀っているのがある。
神武一家がヤマトに来なくても、すでに天神天孫が各地を治めている。 それで
そのテンノウというのは、
現在のテンノウになるの?
ワタナベ一系? 北斗の拳にもジャギというのがいるみたいだけど
何か関係がありそう >>142
258年では早すぎるよ。
やはり318年だろうね。
応神が誉田御廟山である可能性は高いというかほぼ決まりなので、
文献史でも考古学でも390年元年だろう。
そうすると崇神まで遡ること4世代か5世代なので、
1世代20年弱として、
やはり崇神没は318年だろうね。 どうせ元々蛮族だった過去を闇に葬った北魏と一緒だろw
昔の鮮卑の歴史を書こうとした漢人が北魏皇室の怒りに触れて族滅されてるくらい蛮族だった歴史が恥なんだよ。 神武天皇から神功皇后まで15代(?世代)、
応神天皇から欽明天皇まで15代(7世代)なので
崇神天皇の崩御年を318年、応神天皇の即位年を390年
と見なすと、欽明天皇元年は540年なので、天皇が14人替
わるのに150年かかったことになる。神武天皇即位〜仲哀
天皇崩御まで150年とすれば、神武天皇は卑弥呼と同時代
の人物であることになる。スレタイでは神武は卑弥呼の夫だが、
敵対していた狗奴国の男王(かその縁者)の可能性もあるのではないか。 >>148
>神武天皇は卑弥呼と同時代 の人物であることになる。
同意見ありがとう。
神武天皇の「天皇」とは7世紀の新称号。
つまりイワレヒコという男は、7世紀に新称号「天皇」格上げされたのだと思っている。
それは同時に、実際は女王であったヒメタタライスズの「皇后」への格下げでもある。
記紀編纂者は卑弥呼が誰か分かっていた。
同時に5世代前の帥升が誰かも分る。
卑弥呼(ヒメタタラ)→帥升(スサノオ)という朝貢2トップの存在は、
国史編纂にあたって隠さねばならない。
日本国の歴史を「中華への朝貢」「中華の属国」という事実から始めなければならないから。 だいたい神武が大王ならば、日向にヒメタタラを呼べばいい。
そして先妻のアヒラツ姫を后に、ヒメタタラを妃にすればいい。
実際はまったくそれとは正反対で、妻を置いて大和に向かうわけで、
その姿は、ヒメタタラこそが女王であった証拠だ。
女王は、男王と違って後宮に美男3千人ということはしない。
その代わり、複数の男から気に入った婿を選び、一定期間一緒に過ごす。
そうしないと生れてきた子が誰の子か分からないからだ。
神武の死後に、神武の連れ子のタギシミミがヒメタタラの婿になった。
この形態こそは、ヒメタタラが女王であった姿そのものだ。 >>1
>.出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
>弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
何だこの強引極まりない理屈?
電波さんなの?(笑) >>151
だから硯で水墨画を描いてたのか?
何を書いてたのか聞いてるのだ。
文字があったとしか考えられないだろ。 >>153 トンスル東遷厨(ssn)
横だが
だからそれがなぜ
>記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
>2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。
まで飛躍するんだよアホw
必然性で考えれば文字を解する(半島大陸)相手とのやり取りだろうな
木簡でも出なきゃ実際に文字を使ってた根拠はないし
それで王統譜あるいはそれの元資料になるようなものを書いていた根拠がない
それがあったとしても記紀の時代にまで伝わってた根拠がない
病気レベルの妄想 >それは同時に、実際は女王であったヒメタタライスズの「皇后」への格下げでもある。
そもそも中国に朝貢したやつを格下げってのなら
素朴な疑問、倭の五王はどうなるんだ? >>154
>まで飛躍するんだよアホw
上の方で少し端折ったと書いている。
俺は文字があるなら干支もすでに導入されてたと思ってる。
原の辻遺跡では楽浪の遺物とともに出雲土器が出ていて、
古代出雲人が積極的に大陸の文化を摂取しようとしてた事が分る。
>木簡でも出なきゃ実際に文字を使ってた根拠はないし
三重の大城遺跡(2世紀前半)の土器の文字は? >>155
>そもそも中国に朝貢したやつを格下げってのなら
素朴な疑問、倭の五王はどうなるんだ?
その「どうなるんだ?」の意味が分からない。
記紀編纂のいちばん大きな理由は、中華への隷属の歴史の清算だろう。
推定80年くらいの時間差がある倭国王帥升と卑弥呼の朝貢2トップが誰か判明してたのなら、
これを大きくごまかすだろ。
だから神武東征をやたら強調し、
その時代を紀元前660年とかいう途方もない時代に設定したのだ。 >>156
墨書土器ぐらいじゃお前の言う王統譜を読み解けるだけの情報量がないだろうがよ
>>157
>その「どうなるんだ?」の意味が分からない。
お前の言うところの「格下げ」にしてないってことだ
比べりゃそれとなく分かるぐらいの内容
結局隠蔽したとするにも一貫性がない
帥升=須佐之男だっけ?
記紀編纂者が変えたんじゃなくて既に民間で変わってたって話だったか?
民間の伝承で変わるにしても須佐之男の何処に帥升の面影があるんだ?
結局代数からこじつけただけ >>158
>墨書土器ぐらいじゃお前の言う王統譜を読み解けるだけの情報量がないだろうがよ
最初、「木簡でも出なきゃ実際に文字を使ってた根拠はないし」と言ってて、
大城の土器を出せば、
「墨書土器ぐらいじゃ」と変える。
なんでゴールポストをちょこちょこ動かすのだ?
>記紀編纂者が変えたんじゃなくて既に民間で変わってたって話だったか?
意味が分からない。
質問なのか反論なのか何なんだそれ。
>結局代数からこじつけただけ
代数が合うのは有力な証拠だろ。
ところでおまえって記紀は無視してたくせに、
何で突然、自分は昔から記紀を無視していなかったような反論をしてくるのかな? 本居宣長
「お前ら間違ってる。中国に朝貢したのは九州かどこかの酋長で
大和朝廷とは関係がないところだ」 >>159 トンスル東遷厨(ssn)
こっちが言ったのは木簡
木簡なら1本でもある程度の字数は見込めるからな
何も要求を変えてない
流石に墨書土器ぐらいは予備知識にあるわ
更にそこから王統譜の・ようなものがあった根拠
記紀の時代にまで伝わってた根拠も聞いてるが?
硯があった→記紀の時代に自分の言う王統譜が伝わってた
とかどんだけ電波飛ばすんだよアホが
結局、須佐之男と帥升の類似なんて示せない
代数だけとかいくらなんでも馬鹿そのもの
変化したならしたでその変遷やどうしてそのような変化をしたかの理由付けも何もない
>ところでおまえって記紀は無視してたくせに、
意味不明
無視した覚えはない
ただ史実解明に使える部分と使えない部分の峻別を厳にせよ言ってるだけ
「 あ て は め ご っ こ に 意 味 は な い 」 >>161
>こっちが言ったのは木簡
木という有機物が残ってないから何なのかな?
それより硯で何を書いたのか答えろ。
>結局、須佐之男と帥升の類似なんて示せない
代数だけとかいくらなんでも馬鹿そのもの
代数が合うのは証拠だ。 カタコンベだったら、帝政ローマ時代からあるよ。
ローマは、地上よりも地下のほうが、もっともっと広くて深いんだ。
パリもな。とくにフランス革命の18世紀、パリの地下は広大となっていた。
断頭台ギロチンの前提条件こそ、この地下のカタコンベだったのだ。
古代ローマの全土を揺るがした、スパルタクスの反乱。
古代ローマの禁止された思想、キリスト教。
キリスト教での『 言論の自由 』は、絶対なのだ。
古代ローマ帝国では、権利を持っていた少数の市民いがいは、
ほとんどの人々が奴隷だったのだ。
キリスト教は、ローマ帝国の奴隷階級に『 自由と人権 』を説き、
またたく間にローマ全土に広まっていった。
人々は、地底で、皇帝によって虐殺されたキリスト教同志の
頭蓋骨や骨と伴に、それでも地底で暮らし祈ったのだった。
エドワード・スノーデンも言っていた、これが本物の地底人だった。
迫害されたキリスト教徒、というのは日本の隠れキリシタンのみのことではないのだ。
キリスト教世界での『 言論の自由 』は、絶対なのだ。
日本の安倍のようなカルトのリーダーは、けっして許されない。
いまや世界では、日本の安倍は北朝鮮のキムと並ぶ、カルトのリーダーとなっている。
思想の自由を求めて、『 自由と人権の新大陸アメリカ 』へと、キリスト教徒は旅立ったんだ。
キリスト教世界では、公明党のようなカルト政党、ましてや靖国カルト天皇カルトのような
危険なカルトは、絶対に許されない。
地下のカタコンベ、
それは虐殺された無限に多くの人々の頭蓋骨や骨とともに呪う
圧制の独裁者に対する
何十万何百万もの人々による
怨念の『 呪 殺 』の世界なのだ。
http://www.traveldarkly.com/wp-content/uploads/2014/01/palermo-catacombs-empiredelamort-7-of-11.jpg
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/a8/bb/d8/a8bbd849d3f3d688d88105d8570f1e39.jpg
https://farm7.staticflickr.com/6090/6117409583_037946e3fa_z.jpg
http://dazedimg.dazedgroup.netdna-cdn.com/786/azure/dazed-prod/1060/6/1066120.jpg 3世紀、大和の葛城に【ヒメ】と【トヨ】がいました。
太古から続く出雲族のお二人でした。
これだけなら誰が見ても魏志の卑弥呼と台与だと分かります。
だから記紀では時代を大きくずらしました。
そうしないと【ヒメ】から5世代前のスサノオが倭国王・帥升だと分かってしまいます。
107年、後漢の安帝に謁見、見返り品がないという事はどうやら朝貢は失敗したようです。
白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
新生「日本」の歴史を、始祖スサノオのぶざまな朝貢の記述から始めるわけにはいきません。
だから記紀では時代を大きくずらしました。
国史とはプライドです。たとえ100歳を超えるおかしな年齢になろうともプライドを優先しました。
そして新称号を採用しました。「天皇・皇后」です。
【ヒメ】には婿がいました。
日向から来たイワレヒコという男です。
この男を新称号「天皇」に格上げし、カムヤマト・イワレヒコ・スメラミコトという大げさな名前にして、
この男の東征をやたら強調し、大王感を演出、初代天皇としました。
そして【ヒメ】を新称号「皇后」に格下げし、母方の称号タタラと妹のイスズを付け足し、
ヒメタタライスズとしました。
【トヨ】にも婿がいました。スキトモと言います。
このスキトモもオオヤマトヒコ・スキトモノ・スメラミコトという大げさな名前にし、大王感を演出しました。
また大王たるもの、周りに複数の女性がいないと不自然なので、
泉媛、飯日媛、賦登麻和訶比売命など、とっくに途絶えていた磯城氏の娘を后とし、大王感を演出しました。
【トヨ】はアマトヨツとされ、4代皇后に格下げされました。 以下このスレの>>1ことトンスル東遷厨(ヤフーでの通名はssnらしい)の
畿内説スレに書き込んだ与太に対するレス
畿内説スレはもう早けりゃ今晩中に1000達しそうなんでこっちに書いておく
どの道アホの>>1トンスル爺はどこでも言ってる内容は同じようなものなので問題なかろうw >纏向遺跡の吉備・東瀬戸内(筑紫も)の要素が何なのか答えて見ろ。
まずはこれ↑
このアホが毎度毎度必死に鬼の首でもとったかのようにほざいてる台詞
「要素が何なのか?」と聞かれりゃ
「要素は要素、それ以上のものではない」と答えるしかないな
このアホが根本的に理解してないのは
要素なんてものは単なる文化の伝播で説明が付く
東征だか東遷を言いたけりゃそれ以上のものを出す必要があるのは
それを主張する側だ
「共通の要素がある」…なんてのは”必要条件”に過ぎない(それすらないなら話にならない)
が、それがあれば東遷説が証明できる”十分条件”ではない
「要素」なんて所詮全体ではないから「要素」
征服劇があったというのならそんな文化の伝播の範疇に収まらないものをもってくるのは当然
共通の要素があるなんてスタートラインに立っただけにすぎない
こんな小中学生が理解できるようなことすらこのアホ爺は分かってない >↑寂れてはいるが、みな九州にそんざいを谷川健一氏、鳥越憲三郎氏が確認ずみ
これも以前に言ったがそれぞれの年代はいつなんだ?というお話
そもそも九州の物部なんか
元々磐井の乱平定で継体から
「九州はお前の好きにしろ」
と言われ平定後入植したのかも決着付いてなかったと思うが
特にこのアホがほざくような話だと年代は2・3世紀にまで遡らなければならない
無論各地域に血縁集団はいただろうが文字も普及したなかった2・3世紀に
そんな広範囲に自分達は同じ氏族だという認識を持った氏族がいたなんて証明できたら
古代史なんて根底からひっくり返ってる
それどころか畿内説スレでも自分が振った話だが
弥生集落で一見大型集落と見えるものでも実は複数の集団の言わば
「寄り合い所帯」のようなものであったという見方まで出てきてる
2・3世紀にそんな巨大氏族がいたなんて事自体荒唐無稽レベルなお話
谷川健一だの鳥越憲三郎が言ったから今じゃあそういう認識にでもなってるのか?アホ >ところが碩学・上田正昭さんは復権を言ってたね。
>さぁどうする?
どうもしない
これも「それが何?」ってだけの話
このアホの芸風(というかこの手のアホのパターンだが)
自分の言うことに沿わない学者連中は
>学者として失格です。
とほざいておいて
我が意を得たりとホルホルして飛びついた学者は
「寺沢ガー」「上田ガー」とか持ち上げる
都合の良いときだけ虎の威を借るクズのクズ
無論学者の意見・説を借りるのはかまわない
(自分も含め)素人の掲示板の書き込みなんてほぼそれで成り立ってる
が、この手のアホはその学者のネームバリューに頼る卑屈な権威主義者
そんなハッタリが効くのはクズ(九州)説のようなアホ連中だけ
まともな畿内説の連中なら
例えば小林や佐原と言った学者の説だって今じゃ通用しない
淘汰されたものも多々あるなんてことは当然知ってる
ジャンルにかかわらずビッグネームで納得するなんてのは
およそ学術においてアホの極み
そういうところもこのトンスル馬鹿がクズのクズたる所以
自分に都合のいいところだけつまみ食いしてホルホルするのは
zarakokuとか言うキチガイジジイと同じ穴の狢 @神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代です。
そして孝霊には複数の后がいます。
実質の男王は孝霊の時代からでしょう。
それは箸墓古墳の時代になります。 >>165-168
sageながらほざくなw
おまえはまるっきし吉備・東瀬戸内の墓制である纏向を、
吉備・東瀬戸内人の大和入りであることさえ認めれない小心者w
卑弥呼は、彼ら吉備・東瀬戸内人の大和入り以前の先住系が擁立。
「其の国」は2世紀前半から存在してるだろ。
卑弥呼を擁立した部族「クラン」は一つしかない。
先住出雲系だ。
まだ分からないのか、このボ ケwww 以下畿内説スレでの話だがこっちで答えておく
どうせアホは同じことしか言ってないんだしw
>はいはい、楽な言い方だねw
楽な言い方?
そうそんな程度で一蹴できるのがお前のアホ理論だよド低脳爺www
>行く先々のどんな墓制でも取り入れるから
と言うのはまさしく東遷説のアホ理論
この場合瀬戸内東部外の要素が出てきても
「行く先々のどんな墓制でも取り入れるから」
で済ませるパターン
そもそも「吉備東瀬戸内の墓制」と言ってる時点で東遷説として馬鹿丸出し
A→B …という移動があったというのならそりゃスタート地点のAもピンポイントで絞り込むのが筋
「〜地域と」としか言えないのが「文化の伝播」の範疇で終わる証左だな
気づきなさいアホ爺さんw
そもそもこのアホの与太話なら王様は九州からやってきたのだから
その本命の九州にピンポイントでA点を探しB点と同じものがあって
それが伝播の範疇に収まらないということを証明して初めて成り立つ話だが
このアホはとにかく要素として取り入れられてたら己の与太が成り立つとホルホルしてるアホ
「吉備・東瀬戸内人の大和入り」なんてそりゃミクロな人の出入りなんてあったろうが
それがこのアホのほざく先代旧事本紀のメンツだったなんて根拠何処にもない
毎度毎度同じことを繰り返して叩かれてヒステリー起こして
ヤフーから2ちゃんに逃げてきたアホ爺がこのトンスル東遷厨(ssn)とzarakokuの基地害ジジイ ちなみにこのトンスル爺が鬼首モノではしゃいでる
吉備の特殊器台にしても
近藤なんかはそれを首長間の擬制的同祖同族関係を結ぶツールとして解釈してる
多分この解釈が今日一番有力だろう
少なくともそれで東遷の証なんて言ってる学者を俺は知らない
(まあ世の中広いんだし一人や二人いるかも知れんがw) またsageながらほざいとるw
楯築遺跡の双方中円という形の最終最大墳墓が、
崇神天皇陵・行燈山古墳にべったりへばりつく櫛山古墳だ。
これはどういうことだ?
おまえは説明できないだろw
偉い先生の言う事の受け売りばっかりしてるから想像力ゼロw
吉備・瀬戸内勢力が3世紀第3四半期の箸墓時代に実権を握ったのだ。
それが崇神の外威だ。
崇神時代の外威って誰だ?
まぁおまえに聞いても仕方ない、クロスナ層でも見続けて一生を終われ。 >>173
>近藤なんかはそれを首長間の擬制的同祖同族関係を結ぶツールとして解釈してる
多分この解釈が今日一番有力だろう
ではそれを受け入れた大和の首長って誰?
「其の国」は2世紀前半から存在するよね?
誰? --------(銅鐸)---------卑弥呼-台与
..........箸墓・・崇神(垂仁)景行
台与の治世が終わる頃に磯城の箸墓古墳に権力移動。
おそらく台与に子供ができなかったのかもしれない。 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するように妃のいない天皇たちがいる。
神武から孝安までだ。彼らが大王ならその血を残すために複数の后がいて当たり前。
つまり彼らは大王ではなかった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。
その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。
実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国とはヒミコこと「ヒメ」タタラが住んだ奈良県御所市である。
纏向に卑弥呼はいない。 中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、
原始的な磁器の鐸が見つかった。
南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、
日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。
肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、
鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は
上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。
日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、
長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、
実際に中国で出土したのは今回がはじめて。
楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、
日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』
2006年3月7日付の朝日新聞 だから何度も言ってるように
在日韓国人は日本の掲示板に書き込んではいけない
本国でやりなさい
いくらなんでも白村江の戦いの時代は天智天皇の時代
それをスサノオと混同するような日本人は一人も居ない
半島に帰りなさい なぜ嘘つき民進党は息を吐くように嘘を付くのか
過去は知らんが、今起こってる事実民進党さん
今辻元が起こってるよ、祭じゃー スサノオのモデルに相当した人物がいたのかはともかく
スレ主は白村江の戦をスサノオが生きてたときにあった
こととは言ってないぞ。しかも後からの権威付けとは断ってるが
神武や欠史八代の天皇のモデルの実在じたいは認めている。
在日韓国人は普通神武や欠史八代そのものを捏造と認定する。 >>182
スレ主だが何を言ってるのか理解できない。
私はスサノオを2世紀初頭に実在した帥升だと思っている。
そしてそれ以降の人物も実在したと思っている。
記紀編纂にあたって、
土下座朝貢した人物を始祖とは書けなかったから。時代を大きくずらした、
そう思っている。
それが天皇が古代天皇が100歳を超える理由だと思っている。
私のHP
「妃のいない大王」
https://o-yan216.wixsite.com/mysite >>179
確かに七代孝霊からが男王の時代かもしれないね。
后妃を複数人置き、子女の記録が詳しくなってくる。
日本書紀では初代神武から三代安寧までの皇后は
事代主神の血を引く女性。四代懿徳の皇后は懿徳
の姪だが、事代主神の玄孫と見ることも可能。
彼らの先祖は神話の中では出雲の神に対して国譲りを
強要しておきながら、現実の世界では出雲族の女性しか
妻にできなかったようだ。もし天皇家が初代から絶大な権力
を持っていれば出雲系以外の豪族からも妃をもらっていたはず。
国譲りなんてウソ、実は初期の天皇は出雲に頭が上がらなかった
ということか…。
四代懿徳と六代孝安については昔は叔父と姪の結婚ぐらい
当たり前だろうという意見もあるかもしれないが、逆に姪御さんしか
嫁さんに迎えられない、子どもが一人、二人しかいないという
初期天皇家の状況は、彼らがたいして権力を持っていなかったことを
暗示しているのかもしれない(家系図、世代数が事実と合うかどうかは
また別問題です)。 >>186
>彼らの先祖は神話の中では出雲の神に対して国譲りを
強要しておきながら、
というか、出雲の加茂岩倉遺跡と同型の銅鐸が奈良の上牧や大阪の陶邑に出る。
他にも淡路島や和歌山、兵庫にも出るようだ。
陶邑はあのオオタタネコの出身地。
オオタタネコも初代皇后ヒメタタライスズも鴨族・鴨氏。
カモ岩倉→カモ氏
そして安寧の后は鴨王の娘。
つまり卑弥呼や台与の時代まで出雲系葛城王朝であり、神武はその王朝に婿入りした人物であろう。 加茂岩倉の同范銅鐸の分布
https://static.wixstatic.com/media/349e69_6b06e14ca5e44904bd99ec1bb913e28a~mv2.jpg/v1/fill/w_558,h_459,al_c,q_80/349e69_6b06e14ca5e44904bd99ec1bb913e28a~mv2.webp それで?
今後、戦争が起きたとしよう
その神というのが出現して、一緒に戦闘でもするの
それとも、
助けてください 助けてくださいと唱えているだけなの? 井上光貞や安本美典は3世紀後期(280年頃?)に九州から
大和に攻め入った勢力があり、それが神武天皇の東征のモデル
になっている、あるいは神武の東征とは崇神の東征のことだ
と述べる学者もいるけど、もしかしたら東征してきたのは
孝霊という可能性もあるのではないか?つまり出雲系王朝
に婿入りした神武とは赤の他人が大和に侵略してきて古墳群を作った。
銅鐸が破壊された形で出土したりまるで打ち捨てられたかのよう
に山麓から出てきたりすることがしばしば和辻哲郎らの大和朝廷
北九州起源説の論拠にもなっているが、北九州から攻め込んできた
新興勢力が、葛城王朝のシンボルである銅鐸を破壊した可能性もある
のではないか?前王朝を支持する勢力が激しく抵抗したので、
彼らを手なづけるのに孝霊から3代後の崇神の時代までかかった。
崇神が天照大神と倭大国魂神(大国玉神は大国主神の異称)をうまく
祀れなかったのも、大田田根子を探し求めたのも崇神が葛城王朝
の血筋でないよそ者だったからでないかと思うのだが、考えすぎかな? >>191
>もしかしたら東征してきたのは
孝霊という可能性もあるのではないか?つまり出雲系王朝
に婿入りした神武とは赤の他人が大和に侵略してきて古墳群を作った。
そう考えたこともあったが、ならば纏向石塚〜ホケノと同じ前方後円墳になるからね。
もっとも箸墓古墳は考古学者の北条氏によると従来(纏向石塚〜ホケノ)と違って讃岐型の墳形らしいが。
やはり台与に子供ができなかったか何かで、ここぞとばかりに新興勢力側がうまく自分の子を大王位に就かせたのではないかな。
いわゆる女子力。 >>194
女王は複数の男の中から気に入った男を選べる特典が付いてます。 卑弥呼や台与が複数の男と子どもを作った可能性は
ありますか? >>197
「歳がすでに長大 夫はいない」
としか書かれてないのに、
生涯未婚であるとか、子供がいないとか解釈してたのが間違い。
「歳がすでに長大 夫はいない」以上でも以下でもない。 たしかに生涯未婚だった可能性が高い、とか子供がいない可能性が高いというレベルであって
断定は出来ないな スサノオ(帥升)から12世代遡ってアメノミナカヌシ
に相当する人物も実在したのかな?わが国初の支配者? 帥升から12世代前、およそ300年ほど遡ると紀元前の話になるな
徐福の渡来伝説と関係ありそうな 確証はないが >>201
タカミムスビは葛城にいた高天彦がモデルだと思う。
アメノミナカヌシは分らん。 高天原は、今では高天ヶ原と呼ぶが、昔は高天の原と呼んだ。
以上のことから、高天+原の造語。
おそらく、高天という地名があり、その原野のことを高天原といったんだろう。
この高天がどこにあったのか?というと
それは、高野山(たかのやま)と天野山(あまのやま)の山間の地域の名前だった。
両者の名前からとって、高天(たかあま→たかま)といわれていた。
現在は御所市にその地名が残っている。 >>205
まったく賛成。
高天原は九州にはない。
神武にハク付けするために高天原を九州に設定した。 記紀編纂者にとって、新生日本国の国史を中華皇帝・安帝への土下座(帥升)から始めるわけにはいかない。
したがって時代を古く大きくごまかした。
帥升と卑弥呼はおおよそ5世代離れている。
卑弥呼が誰なのか分かられると帥升も判明されてしまう。
これは避けねばならない。
彼らは神功皇后を強引に120年ずらし卑弥呼の時代にあてた。
もちろん時代的に神功皇后が卑弥呼であるはずはない。
しかし神功皇后が卑弥呼だと思ってくれる人がいれば、記紀編纂者にとってはこれ幸いなのである。
また彼らは卑弥呼墓と大きさが合う箸墓古墳とモモソ媛の関係を、日本書紀に取ってつけたように挿入した。
モモソ媛が卑弥呼だと思ってくれる人がいれば、記紀編纂者にとってはこれ幸いなのである。
また彼らはアマテラスをスサノオの姉に設定した。
スサノオは弟になり卑弥呼の男弟に相当することになる。
アマテラスが卑弥呼だと思ってくれる人がいれば、記紀編纂者にとってはこれ幸いなのである。
彼らは、将来、卑弥呼の比定を神功皇后、モモソ媛、アマテラスと間違えてくれと願い、
それを期待して記紀を編纂したのだろう。
おそろしく頭がいい。 >アマテラスが卑弥呼だと思ってくれる人がいれば
これはさすがにないだろう。卑弥呼がいつの時代の人物か
は中国に知られている以上、神武が卑弥呼の五世孫だと
神武は記紀編纂からせいぜい400年前の人物になってしまい
中国に対して王朝の古さが誇れないので記紀編纂者にとって
都合が悪い。やっぱり卑弥呼を神功皇后と思ってもらうのが
目的だよ。
それと文献上、瓊瓊杵尊は天すなわち空の上から日向の山に
降りたと解釈すべきであって、高天原が実際には地上のどこか
は重要ではない。 天皇の諡号にも意味がありそうだな。神武の武は後漢の光武帝の武、
安寧もしくは孝安の安は安帝の安、孝霊の霊は霊帝の霊とすると、
モモソ媛すなわち卑弥呼の頃に即位した男王が崇神ということになり、
日本の建国は西暦1世紀だみたいに思った人もいただろう。 >>210
>>アマテラスが卑弥呼だと思ってくれる人がいれば
>これはさすがにないだろう。
でもアマテラスだと思ってる人はかなりいるぜw
九州説の最有力候補なんだだもんw 推定3世紀大王譜
神武 「ヒメ」タタライスズ
綏靖 「ヒメ」タタライスズ
安寧 「ヒメ」タタライスズ
懿徳 孝昭 アマ「トヨ」ツ
孝安 孝霊 アマ「トヨ」ツ
孝元 開化
崇神
見事な卑弥呼と台与
https://o-yan216.wixsite.com/mysite 神産日神かみむすびのかみ
高御産日神たかみむすびのかみ
玉積産日神たまつめむすびのかみ
生産日神いくむすびのかみ
足産日神たるむすびのかみ
大宮売神おおみやのめのかみ
御食津神みけつかみ
事代主神ことしろぬしのかみ >>212
一部の人の意見を全体の意見のように語るんじゃないよ
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