崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するように妃のいない天皇たちがいる。
神武から孝安までだ。彼らが大王ならその血を残すために複数の后がいて当たり前。
つまり彼らは大王ではなかった。

では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。
その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
それがいるのだ。


@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王

見事にヒメとトヨの時代。

そして7代孝霊には複数の妃。
実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。

邪馬台国とはヒミコこと「ヒメ」タタラが住んだ奈良県御所市である。
纏向に卑弥呼はいない。