井上光貞や安本美典は3世紀後期(280年頃?)に九州から
大和に攻め入った勢力があり、それが神武天皇の東征のモデル
になっている、あるいは神武の東征とは崇神の東征のことだ
と述べる学者もいるけど、もしかしたら東征してきたのは
孝霊という可能性もあるのではないか?つまり出雲系王朝
に婿入りした神武とは赤の他人が大和に侵略してきて古墳群を作った。
銅鐸が破壊された形で出土したりまるで打ち捨てられたかのよう
に山麓から出てきたりすることがしばしば和辻哲郎らの大和朝廷
北九州起源説の論拠にもなっているが、北九州から攻め込んできた
新興勢力が、葛城王朝のシンボルである銅鐸を破壊した可能性もある
のではないか?前王朝を支持する勢力が激しく抵抗したので、
彼らを手なづけるのに孝霊から3代後の崇神の時代までかかった。
崇神が天照大神と倭大国魂神(大国玉神は大国主神の異称)をうまく
祀れなかったのも、大田田根子を探し求めたのも崇神が葛城王朝
の血筋でないよそ者だったからでないかと思うのだが、考えすぎかな?