>>525
応神元年を390年(即位当時70歳ではなく10代〜20歳ぐらい?)
とするためには、この問題を解決しないといけない。

雄略天皇は応神天皇のひ孫だが、皇后の二男の(皇后の)
四番目の子の(皇后の)七番目の子となると70〜80歳ほどの年齢
の差があったはずで、雄略天皇が生まれた年を引き下げる必要が出てくる。
西暦457年に即位した時点で40歳ではなく、倭王武の記録が現れる
西暦477〜480年頃に20代前半で即位し、武についての記録が最後となる
502年頃まで生きていたと見做してはどうかと思う。

そして日本書紀が記す継体天皇の没年齢が82歳であることから、
継体は雄略が亡くなったときには成人しており(日本書紀だと30歳だったことになる)、
年齢的に雄略の子どもたちより年上だったと考えられる。古事記によると
継体は485年に生まれたことになるが、雄略が500年代初め頃に亡くなった時には
成人していておそらく長男の安閑天皇(雄略10年生まれ)も次男の宣化天皇(雄略
11年生まれ)も生まれていたのではなかろうか。