なぜ古代天皇は100歳を超えるのか [無断転載禁止]©2ch.net
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出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。
白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…
ものすごくみじめです。
自尊心がズタズタです。
彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を古く古くすることでごまかしました。
また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップして、
卑弥呼であるヒメタタライスズ媛の記述をを最小限にとどめました。
そして神武をBC660年という遠い遠い過去に葬り去りました。
神武以降の天皇もそれに合わせました。
これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相です。 >>66
倍歴の話になると私にはチンプンカンプンなのですが、
一方で、崇神を4世紀初頭〜前半と言っておられましたね。
これには大賛成です。
でも「崇神=4世紀初頭〜前半」を倍歴で説明はできないと思うのですがいかがでしょう? 継体欽明紀の記載ミスを根拠にされてもねえ
邪馬台国以来倍暦だった根拠はないんかい >>65
神武天皇が127歳だが今上はそれ位は超えそうだな ある部分は倍歴が当てはまりそうなところもあり
ある部分は思い切り60年を上乗せ、つまり干支は合うように
在位年数に手を加えているんじゃないかな。
仁徳天皇の場合、在位年数87年より在位年数27年のほうが
もっともらしそうだし、崇神天皇も4世紀初頭の天皇だとすると、
日本書紀の干支だけが正しいとして在位前97年〜前30年(68年間)
を在位324年〜331年(8年間)に変えればいいんじゃないかな。
神武天皇が亡くなった後、長男のタギシミミがヒメタタライスズヒメ
を娶った話が古事記にあるので、神武天皇が亡くなった時大和で生ま
れた子供たちが20代に達していたか疑わしい。神武天皇の在位年数は
38年(二倍歴)や25年(三倍歴)でなく16年(干支だけ同じ)ではな
かろうか。これは綏靖天皇が14歳で皇太子に立てられた計算になるこ
ととよく合っている。 ただ崇神天皇の先代の開化天皇、その後の景行天皇、成務天皇から
60年を引いてしまうと在位ゼロ年になってしまう。先々代の孝元天皇
の在位年数も57年、垂仁天皇の在位年数は99年を39年に改めても長す
ぎる印象がある。開化天皇の場合、実際の寿命は111歳から60年を引い
て51歳、在位年数は二倍年暦で30年ぐらいにすればよいかもしれない。
崇神天皇は在位8年40歳ぐらいで亡くなったとすれば短命だったという
記述も頷ける。垂仁・景行はそれぞれ20年は在位しただろうと思う。
垂仁は40歳ぐらい、景行は50歳ぐらい、成務は30代、仲哀は20代半ば
ぐらいで亡くなったと思う。景行が東国、九州征伐の業績を残してから
神功皇后がクーデターを起こし応神が即位するまでそれほど年数が経って
いない感じがする。 日本書紀では継体天皇は17歳で安閑天皇を、18歳で宣化天皇を
儲けた計算になる。継体天皇の崩御年が古事記の527年(丁未の年)
でなくそれに7年を加えた534年(甲寅)だとすると、継体は50歳で
亡くなったことになる。日本書紀ではこの年が安閑天皇の元年で、
安閑は翌年535年、70歳で亡くなったとされているので、これに二倍歴を
適用すると35歳になるから、継体は485年生まれ、安閑は501年生まれになる。 要するに、記紀の何れの記事からも、日本独自の「倭暦」が存在し、それは『魏志倭人伝』の
春耕秋収を、倍暦と解釈すれば、卑弥呼の時代にも行われていたことになる。
記紀の記録を全面的に正しいとして、そのつじつま合わせに、倍暦どころか、3倍暦や4倍暦をも仮定する人もいるが、
私はそれこそ根拠の曖昧なご都合主義だと思う。
S下肢、1年(トシ)=12月(ツキ)、一月(ツキ)=十四日(小の月)、十五日(大の月)という太陰暦の和暦の存在は
認められるべきだろう。辛酉革命説に拠り、神武紀元を遡及させた為、倍暦での年齢とも、大幅にずれが生じたのだと考えているが、正直、補正方が思い浮かばない。 国家の書いた書物なんだぞ。一年を二年と数える暦が使われていたのではなくて
年数をいじり回しての皇室の権威造作ぐらいやってると見ていいと思うが。 どちらにしても、考古学的には、崇神天皇が4世紀初頭になる可能性が極めて高い。
この時期の干支は、古事記の方がはるかに信憑性が高いと思う。
古事記によると崇神の没年干支は「戊寅」
考古学と照合すれば、それは318年だろう。 仲哀天皇の没年干支は日本書紀の「庚辰」のほうが
信憑性が高い。それに合うのは380年だ。
応神天皇の時点で王朝が変わったという見方もあるがそれは置いておき、
神功皇后の摂政元年は381年で摂政期間は9〜19年でないかと思う。
日本書紀編纂者は神功皇后が卑弥呼でないことぐらい百も承知で
180年も前の人物に設定した。そうなると神功に続き応神・仁徳・允恭も
史実より過去の人物とされ在位年数が伸びるのは当然のことだ。
60×3年分のズレを潰しまくってどこかで年代を正常にしなければならない。
継体天皇の即位年は526年頃だったがこれを20年前倒しし、彼が越前国で
青年期だったときの天皇、雄略天皇の在位期間を20年ほど前にずらしたことも
影響し、継体・安閑・宣化三天皇の寿命が伸びたのかもしれない。 以前、このような書き込みがあったはず
「それで、墓荒らしは、終わったの?」 それと、このような書き込みとか
「他人の家の、お墓参りに行く人なんていないでしょ」 >>81
>仲哀天皇の没年干支は日本書紀の「庚辰」のほうが
>信憑性が高い。それに合うのは380年だ
そうかな。仲哀なら、俺は古事記の壬戌(362)没が正しいと思う。
根拠は、崇神の前後である開化、垂仁、景行の没年干支が書かれていない。
書かれていないという事は「伝承できませんでした、すいません」と言ってる事だから、
じゃ、逆に没年干支が書かれてる崇神、成務、仲哀は正しいのだろうとなる。
一方、日本書紀はもう何が何でも書いてあるわけだから、
逆に信憑性が低いと思う。
古事記の方がよほど誠実だ。
というわけで日本書紀の応神元年390年までは考古学との整合性も出てきてるので、
信頼できると思うが、それ以前は信頼できない。 >>85
スレ主の主張と>>24の豪族系譜との比較により
神武(卑弥呼の時代)〜崇神までを6世代、仁徳までを10世代
とすると、仲哀天皇が340〜350年代の誕生で380年頃に応神天皇
を残して亡くなったとして特に問題ないと思われる。
継体天皇の誕生年を485年とすると、5世代前の応神天皇の誕生年
は362年頃もありうるが、380年であっても一世代21年で子供を作
ればちょうど105年差になるのでありえない話でもない。
崇神天皇崩御から成務天皇崩御まで37年(319年〜355年)を
入れ込むか39年(332年?〜370年?)を入れ込むかあまり大差ない。
仲哀はとりあえず崇神の孫世代と考えている。
記紀通り仲哀は崇神の玄孫だというなら崇神の没年を318年にすると
仲哀の没年を380年以降に持ってこないと不自然。362年52歳没だと
崇神の存命中の誕生になる。崇神天皇はよほどの長生きだったのか。
仲哀天皇は52歳でなくもっと若い年齢で亡くなったに違いない。 何も知らないんじゃないのか?『聖造』の人というのは何者だと思う 「大和朝廷こそ狗奴国である」で検索
blog.goo.ne.jp/ryuhide/e/fb574a4a6cc1891253885f48d1610171 ssn>倍暦の話になると私にはチンプンカンプンですが、
倍暦についても、安本美典、古田武彦氏ら、諸説がありますが、私が最も納得できたのは、
貝田禎造氏『古代天皇長寿の謎』(六興出版:昭和60年12月発行)です。
と言っても、全部に納得したわけではありませんが、倍暦の存在を認めざるを得ないと思いました。。
日付の入っている記事で、16日以降というものがほとんど存在しない、という事実と、
夏であるはずの季節にしばしば、雪の記事があることなどです。
しかし氏の年代観に完全に同意は出来ず、継体天皇の即位年から、逆算して、神武天皇即位年を出そうと試みましたが、
どうも成功していません。
一応、貝田氏の著書から、巻末の天皇の没年を記載します。
神武天皇:AD195年没
綏靖天王:AD204年没
安然天皇:AD213年没
懿徳天皇;AD222年没
孝昭天皇:AD242年没
孝安天皇:AD267年没
孝霊天皇:AD286年没
孝元天皇:DAD301年没
開化天皇:AD316年没
崇神天皇:AD333年没
私は欠史8代の前半の天皇の没年が詰まり過ぎているのが、気になります。特に神武と綏靖の年代差が10年に満たないというのは、
おかしいと感じています。神武は、AD107年前後には、成人していたと思います。 >>89
反正天皇あたりから古事記と日本書紀の干支が違ってきていますね。
特に応神以前からは大きく食い違いますね。
記と紀のどちらかが間違えてるという事ですね。
私は日本書紀だと思います。
理由は>>85にも書いたように、
「書かれていない」ということは「伝承できませんでした」という事で、
逆に誠実だと思うからです。
したがって崇神の没年干支が考古学と整合させて318年。
これ以前を遡るのは無理だと思います。 YAP?さん
>>89
>神武天皇:AD195年没
おっw
今気づきました。
私の年代観と同じだ。
つまり卑弥呼と神武は同時代ということですね。
もはや卑弥呼は一人に絞られましたねw
その時代にヤマトに女王がいました。
ヒミコという名前に最も近い女王でした。
いかがですか? 紀年のない古事記になぜか崩年干支
しかも分注として後で書き加えられたものだ
書写のいつ誰が書き加えたのかも分からない
信憑性?どこにあるの >>92
>しかも分注として後で書き加えられたものだ
書き加えて良いのなら、
開化、垂仁、景行の没年干支は何で古事記に書き加えなかったのだろう? 崩年干支は真福寺本とか一部の写本にしかないからねえ
往年の歴史学の大家はだいたい否定的だよね まあ崩年干支は神社伝承レベルだね
信じるも信じないもあなた次第 >>95
別に構わない。
考古学的に崇神が4世紀初頭である可能性が極めて高くなっている。
俺にとってはそれだけでいい。 >>93
全ての天皇について書き加えなかったからといって正しいことにはならないが? >>97
その理屈なら間違っているとも言えないよね。 スサノオが実在した、などとは津田史学や、
その影響を受けた近代文献史学の人達には、
にわかに受け入れがたいことではあるだろう。
しかしだ。
2世紀前半の出雲の田和山遺跡からスズリの破片が発見された。
この時代に文字があったとは認めれない学者は、
このスズリをあくまで「権威の象徴」と言ってた。
ところが九州からもスズリの破片が発見された。
もう弥生時代に文字がないとは言えなくなった。
ではその文字で何を書いてたのか。
王統、王権に関わること、「官」しか考えられないではないか。
崇神が4世紀初頭である可能性が高い。
ならば神武、または神武以前の系譜もおおよそ正しい。
そしてスサノオも実在した。
彼こそが師升であった。 『古事記』の崩年(没年)干支や、或いは太歳年号と言ったものを、同艦がW手良いのか、正直な所判りません。
従って今の所は、記紀の「系譜部分」を基本的に信用する(時間との関係が切断されている神代の神々は徒然除く)
という考えで、記紀を解釈していryにが私の立場ですが、神武とその子綏靖の貝田氏説が、記紀の系譜を信じる以上、
整合的でない事は明らかです。
神武・綏靖・安寧の初期3代が、没年が9年違い、というのは、生年に触れていない以上、生物学的にはあり得る話だが、
現実の親子孫3代では、神武の子のタギシミミ、キスミミの存在を考えると、成立し得ない話です。この辺りの貝田氏の論稿は記憶していないが、
或いは安本氏の古代天皇の平均在位年数約10年という説の影響を受けているのかもしれません。
貝田氏の推定没年邑知、初期の3人に加え、4代懿徳天皇も、父の没後9年で死亡しており、以後の5代孝昭天王意向が、その父天皇よりも
15〜25年後に死亡しているという、極めて生物学的に自然な状況と考えられるのと皮脂、
明らかに、神武・綏靖・安寧・懿徳4代は、一律9年刻みの死亡間隔と異常性を示しています。
これは生物学的により自然な、20年程の没年の感覚を考えれば、懿徳天皇の没年AD222年を基準とすれば、
安寧天皇AD202年、綏靖天皇没年AD182年、神武天皇没年AD162年頃となります。
実際には、タギシミミ、キスミミと綏靖が1世代差あったとも考えられるので、
神武天皇はAD150年頃に没し、タギシミミが義母を娶り、神武末年の子である綏靖天皇兄弟3人が
ほぼ成人に達し、異母兄を除いたと想定すべきでしょう。
宋であれば、神武は,AD107年の倭国王帥升等の生口献上時には、既に生誕しており、この事件と
神武東征とが関係があると考える余地が出て来る。 なるほどYAP?さんの考えでは神武=帥升があり得るという事ですね。
記紀の神武の時代が、古く大きく引き伸ばされてる理由を、
日本の国史を「中華の属国でした」から始めるわけにはいかなかったので、
それゆえ、時代を大きく引き伸ばしごまかしたという事では納得できる説ですね。
もう、おそらくそれ以外に理由はなかろうと思います。
私は帥升=スサノオだと思ってます。
神武が実在なら、スサノオはほんの5世代前の人物ですから、
これを非実在にしてしまうのは無理があるような気がします。
結局、考古学的にも整合性がある4世紀初頭の崇神を基点に、
神武まで6世代と見るか(先代旧事本紀、中臣、鴨、三上祝などの系図)
記紀の通り9世代と見るかの違いですね。
私は6世代だと思います。
それで卑弥呼も解けますから。 【田布施システム】の定義
・全ての戦争は支配層マフィアによる茶番である。 (少なくてもワーテルロー以降の殆どの戦争や事件に関して証明出来る)
・全ての宗教は支配層マフィアの道具である。
・敵対する思考・組織を乗っとれば、それらを完全にコントロールする事が出来る。
・世界中の中央銀行と金の価格を決める権利が在れば世界を支配する事が出来る。
上級者以外視聴完全不可 イルミナティとは
https://www.youtube.com/watch?v=HDctJ2IN6us
陰謀論の研究、日本を牛耳る田布施システムとは
※週刊ポスト2017年1月13・20日号
http://www.news-postseven.com/archives/20170106_480581.html
銀行のタブーに気付いた経済学者は大学を追われマスコミも無視する。これは陰謀論ではなく現実に日本も闇の勢力に支配されている証拠ではないか?
https://www.youtube.com/watch?v=kG3TeORdYkI
天皇は山口県田布施朝鮮人部落出身
https://www.youtube.com/watch?v=BNLdWvMNSu(NG)ワードU
歴史=支配者都合で創られたモノ
「宗教」も「天皇」も支配者の道具として外国から来た
2chで「田布施システム」で検索 ssn>なるほどYAP?さんの考えでは、神武=帥升があり得るというという事ですね。
いえ、そうではなく、「倭国王帥升等」の武闘・強硬派路線との政争に敗れた
南部九州勢力(東鯷人勢力:会稽郡に朝貢していた倭種の集団)との融和派であり、
自身も隼人クマソ系と婚姻していた神武を含めた京大が、北部九州から、同族の居た
近畿へと、い儒した、という考えです。
「倭国王帥升等」と「 」で囲んだのは、「帥升」(あるいは「師升」)なる人物が、
倭人諸国を代表する王であったのか?がまず議論されるべきだ、という意味合いからです。
抑々、一国の国王が、自ら中国に赴いて、皇帝に拝謁する、というのは、海を隔てた日本列島の
状況からは考えにくい。しかも『等』という文字がある。帥升が王名であるならば、
複数の王が居たか、王とその臣下を同列視している記載になる。
従って「倭国王」の「帥」(又は「師」)即ち軍事指揮官の「升」という使者らが、拝謁を願い出た、
都解釈すべきです。
「帥」は『後漢書』その他に北方、東方の諸民族の酋長というか、「大帥」「小帥」
等と用例がみられるし、「師」は軍事用語でもあり、軍官wp意味した語彙と考えて良い。
そうすると、死者の名が「升」だと言う事になる。
これを「スサノヲ」とするのは無理がある、という考えです。 大丈夫です。今上天皇が150歳まで生きられるから今上の存在をもって神話の正当性、及び皇統の神秘性をすべて証明する生き証人になられる事であろう。 >>1
日本の歴史は奈良時代あたりからだよ
それ以前は妄想と作文の世界 >>1
70年前の南京虐殺や慰安婦問題もはっきり解らないのに1500年前のことなど妄想作文でしかない >>104
なるほどそうですか。
まぁ屁理屈言えば、当時の実質の王はアマテラスという女王だったわけですからねw
スサノオは軍事長官的な意味合いもあったかもしれません。
とはいえ、アマテラスなんて本当に実在なのかという話になりますからね。、 とはいえ、崇神が複数の考古学的痕跡から4世紀初頭である。
そして奈良盆地で環濠集落が終わり、
古墳時代になるという大変革がおきる2世紀末までおおよそ5〜6世代。
崇神以前の5〜6世代の人物は充分にその実在を想定してよいし、
欠史8代なんて言ってた津田史学はもはや昭和の遺物となりつつあります。
私は嬉しくて仕方がありません。
堂々と卑弥呼探しができるのですから。
そして見つけましたw 白村江の戦いで日本が勝っていたら記紀の編纂はなかった。
帝紀と旧事で充分であった。
帝紀と旧事には、おおよその実年から卑弥呼と師升が誰なのか書かれてたはず。
「我が国は卑弥呼と師升の時代、中華に朝貢してました。属国でした。
しかし、今、あの中華帝国に戦争で勝ちました。
すごいでしょ、日本は」
となってた。
勝ったことで精神的優位になれた。
まるで今の日本人が中国にコンプレックスを感じないのと同じ感覚だったでしょう。
しかし白村江の戦いで負けた。
卑弥呼や師升の時代、中華に朝貢していた上に、
さらに白村江の戦いでも負けた。
当時の日本人には精神的劣等感しかない。
そうなれば卑弥呼や師升の時代、中華に朝貢していた事実を隠すしかない。
そして大きくずらした。
それが100歳を超える天皇の記述になった。
そういう事でしょう。 記紀が日本御統治権を主張する根拠を、中国中原王朝(後漢、曹魏、劉宋以下南朝)に求めず、
北朝の後継者たる隋・唐とも、半島支配権をめぐって利害が対立したという時点で、
支配の正当性を中国とは絶縁し、自らの祖神に求めるという決断がなされたのでしょう。
この時点で、その支配者の起点をどこに置くかで、辛酉革命説を採用したことにより、
古代の大王=天皇の寿命と在位期間大幅な増加とその在位時期の遡及が決定したが、
一方で変えてはならないのは、大王の属する「宗族」即ち王族〜皇族の祖先祭祀であり、
従って、その系譜からは、記紀編纂時の大王家とは無関係の大昔の大王は除かれた(省かれた)。
結果的に、応神以前は、単純な父子継承の形になった。しかし継体欽明皇統が前王統の
直系ではないことは、当時の近現代史年て、皆が認識していたから、応神王統については、
兄弟継承が記録された。
時代の遡及には、和暦(倍暦)が中国の太陰太陽暦(元嘉暦、儀鳳暦)の2ばい8以上)となっているのを
利用したが、それでもBC660年には遡及させられない為、史官が何らかの机上操作を行った。
ついでに、複数大王制が存在していたのも、、圧殺し、唯一の大王(天王9しか存在しなかったという一時代一大王(天皇)
につじつま合わせをしたため、推古天皇の時代の男性男王が史書から抹殺され、
おかしなことになった。諸外国に対して倭国が外交を行うときは、単一の代表者名で対応したが、
国内的には、彼は必ずしも、唯一の王であったわけではなかった。
そのように考えれば、日本の史書と中国の史書との矛盾は、解決される。 日本の神話の一部だけをあげつらって日本を卑下するやつっておもろいね。
じゃあ、人間は神が作ったとかイブはアダムの肋骨からできたと書く聖書と
それを信仰する人たちをバカにしないのは何で?
血の雨を降らせた中国の神話をバカにしないのは何で?
ギリシャ神話のばかげた話をバカにしないのは何で?
どうして「日本神話の天皇が100歳を超える」ことだけを取り上げるの?
アダムの肋骨や蚩尤に比べたら、ささやかなお話だと思うけどなあ。
ねえ、なんで肋骨をばかにしないの?蚩尤をばかにしないの?
ねえ、どうして?
え?白人はすべて正しい?中国は中華の国ですべて正しい?
日本ごときがでたらめな神話で古い国家の起源を主張するんじゃねえよって?
100歳を超える天皇がいるから、日本の神話は全部でたらめで、天皇の皇統も
全部デタラメのでっち上げのはずだって?
肋骨やイエスが神の子は正しくて、日本神話はデタラメのでっち上げ?
蚩尤は正しくて、アマテラスはでっち上げ? >>86
仲哀は若くで死んだのに賛同する。
古代の天皇の子女の数は、天皇が長寿であれば多くなり、后妃が多ければ多い。
古代でなく中世も近世も同じだ。武家でも同じ。
信長も家康も子女は多い。
40〜50歳まで生きたら子女はもっと多いはずだ。
数人しか残さなかったということは、30歳前後で死んでしまったのだろう。 古墳の年代や七支刀や中国朝鮮の記録から総合的に見れば、神功皇后は四世紀後半に
活躍した人であり、427年頃に死んだ仁徳のばあさんであるから、矛盾はない。
仲哀は若死であり、親世代である成務も若死にである。
景行は長寿と考えられる。
成務が355年であるなら、景行は350年頃に60歳位で死んでおり、仲哀が362年頃に
30歳位で死んだのなら、矛盾はない。
両道入姫命の存在を考えると、また景行の時に皇位相続争いが見当たらないことも
見れば、垂仁は特別短命ではなく、どちらかと言えば長寿に近かったと考えられる。
それからすると、垂仁の時の争いは、崇神がそれほど長寿ではなかったことに
なるが、短命ともいい難い。
五代の天皇に使えたという伝承の武内宿禰が75歳まで長寿だったならば、400年頃に没し
325年頃に生まれており、18歳頃から数年間晩年の景行に仕えていることになり、
矛盾はない。70歳でも矛盾はない。
成務が死んだ時、ヤマトタケルはすでに死んでおり、成務とヤマトタケルは
それほど年が近かったとは思えないが、何故仲哀が後継者にされたのかよくわからない。
成務と同母の五百城入彦皇子もいたはずだが。 古代の天皇家って、男子が多かったように見えるね。
で、各地の豪族に婿入してるかんじ。
崇神以前は、絶対的な大王家だったようには見えないね。
丹波や近江の息長とか、そういうのと一緒に王族を作ってた感じ。
尾張の祖とか丹波の一族とか、まあどっちも同族みたいだけど、火明命の一族が
大きな勢力だったようにみえるわ。 海部家は、天皇家に仕えたことを誇るんじゃなくて、「うちこそが本家だ」と
なんで主張しないんだろうな。
そんなことをしたら暗殺される?まあ、そうかもわからんけどな。
九州へ行ってた天皇家よりも三代は早くに近畿に広がって、広大な土地を支配
していたように見えるけどな。
分家に乗っ取られたような感じがするわ。 >>112
>ついでに、複数大王制が存在していたのも、、圧殺し、唯一の大王(天王9しか存在しなかったという一時代一大王(天皇)
につじつま合わせをしたため、推古天皇の時代の男性男王が史書から抹殺され、
おかしなことになった。諸外国に対して倭国が外交を行うときは、単一の代表者名で対応したが、
国内的には、彼は必ずしも、唯一の王であったわけではなかった。<
考古学的に言えば10代崇神が4世紀初頭であるのはほぼ確実でしょうね。
ではそれ以前、複数王であるかと言えば、そうではなくやはり単独の王がいたと思います。
その根拠ですが、大和盆地には弥生時代の複数の環濠集落がありました。
唐古・鍵遺跡、天理市平等坊・岩屋遺跡、桜井市芝遺跡、桜井市大福遺跡、橿原市四分遺跡、御所市鴨都波遺跡などです。
これらの環濠集落が弥生時代末に一斉に連動し、環濠が埋没、大量の土器が廃棄され、
やがて土師器が現れ、それが全国に一斉に広まります。
大和盆地全体が一斉に連動し、やがて日本全国に広がる文化があったということは、
奈良盆地に強力な一人の王がいた証拠です。
それが卑弥呼でしょう。
崇神からわずか5〜6世代の話です。
もはや卑弥呼候補は一人しかいません。
イワレヒコという男も頭を下げたヒメタタライスズという姫様です。 訂正
×5〜6世代の話です。
〇5〜6世代前の話です。 複数大王制については、よく言われるような「ヒメ・ヒコ」制などとは異なり
、上代日本語の「おほきみ」(大君)という語彙の考察や、諸外国の所領分割に
よる王国内の分立が、事例となります。
フランク王国が分割相続であったのは有名であり、再統一したカロリンが朝
フランク王国が、たまたまローマ教皇の陰謀により、再興西ローマ帝国となったため、
カール大帝の3子による東西及び中部フランクとイタリアの3王国への分割が
、同一フランク王国内に3人の王が同時に存在する、という格好な事例になった筈が、
そのように見えなくなりました。
ロシアのsyズダリ公国などでも国内にも「分領公」と呼ばれる存在が居ました。
彼らは、同じ国内でのほぼ同格の君主だったのです(多少の上下差はあるが、
基本的な相違はない)。それどころかメリヴィンガ朝フランク王国では
修道院にいる王族の女性が、「自分は王の従姉妹だから女王である」と
述べたという記録もあります。モンゴルの㈣汗国でも、大汗と多くの汗が存在し得ました。
日本の上代でも、「おほきみ」(大君)は、「大王」を示すと同時に、男女の
王族を意味しました。 耳で聞く限り「オホキミ」と発音されても、それが
「大王」なのか「王族の誰かなのかは、区別できません。
これは区別する必要性が本来なかったからだ、と考えるべきです。
ある行「おほきみ」(大君)とは、「臣」と「大臣」、「連」と「大連」と同様に、「公・君」に対する「大君」であり、
王族全員が基本的に共有する「カバネ(姓)のようなものだと考えれば、理解しやすい。
現実的には実際に統治者として権威を発揮し、権利を行使するのは、
その地域での最有力の者が一人でしょうが、そのような実態と、その王族の
「成員の基本的な正生得権」とは同時に存在し得た。 >>1 トンスル東遷厨
>白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
>ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…
>ものすごくみじめです。
>自尊心がズタズタです。
>彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
>時代を古く古くすることでごまかしました。
根拠なし
要するに白村江(663)での敗戦がその契機になったという話だが
有名な
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」
でら隋の煬帝を激怒させたという小野妹子の遣使が607年
要するに白村江以前から「対等外交」の模索は始まってたわけだ >>1 トンスル東遷厨(畿内説スレを荒し回ったクズ)
>出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
>弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
>記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
>2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。
これも意味不明
硯があったから
「2世紀以降の王統譜はおおよそ伝わっていただろう」
などは飛躍(ジャンプ)通り越してワープ
じゃあ仮に王統譜が伝わってたなら帥升をスサノオウという神様にする必要があったんだ?
スサノオウと言えば誰もが知るように岩戸隠れ神話の外せない重要キャラで
高天原を追われてからは今度はギリシア神話のアンドロメダを怪物から救った
ペルセウスの如き活躍を見せるもう神話の世界の住人以外の何物でもない
相変わらず一つのネタでトンデモレベルのこじ付けするなあ 古代天皇の年齢研究サイト
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage6.htm
長男は18歳ぐらいで生まれる(第4代懿徳天皇や第6代
孝安天皇のように兄の娘との間に次の天皇が生れた場合
は33歳ぐらい)間隔で、神武天皇以降の天皇の生没年と
活躍次期を推定している。家系図通りだと神武天皇即位
は西暦114年〜116年、干支に拘ると121年のことになり、
神武天皇の没年齢は57歳になる。ただし同サイトは「欠史
八代の系譜矛盾」にも触れており、神武から崇神まで6世代
の可能性もあると述べている。天武天皇は舒明天皇が亡くな
って後の誕生で兄の天智天皇よりも姪の持統天皇と年が近か
ったとか継体天皇は実際は即位していなかったなどびっくり
仰天な主張もされている。子どもを作る年齢が異様に早い
と思うが興味がある方は覗いてほしい。 >>123
>要するに白村江以前から「対等外交」の模索は始まってたわけだ
そりゃ模索は始まってるさ。
だから何なのだ。
模索しようが何しようが、
2世紀3世紀に師升や卑弥呼が朝貢していた事実は変わらない。
白村江に負けたことでさらに劣等感が増しただろう。
おまえは何が言いたいのだ? >>124
だからその硯で何を書いてたのだ?
絵画、またはラブレターか?
おまえ本当に馬鹿だな。 >>124
>じゃあ仮に王統譜が伝わってたなら帥升をスサノオウという神様にする必要があったんだ?
「帥升をスサノオウという神様にする必要」でななくて、
記紀編纂者たちは、
国民に広く浸透してたスサノオが帥升であるととっくに気づいてたという話だが。
やっぱりアホだな、おまえ。 >>127 トンスル東遷厨(スカトロネタ大好きの変態荒らし)
>そりゃ模索は始まってるさ。
>だから何なのだ。
ん?そんなことも説明しなきゃ分からんのか?
少なくともお前のほざいてる
「白村江の敗戦が契機」
というような話には何ら必然性がないって話だよ
神武の橿原即位にしてもそれを古く潤色する動機は白村江以前にあったのだから >>128 トンスル東遷厨(コピペ荒らし、偽スレ荒らしなんでもござれの土器違い)
>だからその硯で何を書いてたのだ?
さあね
仮に当時文字を使う人間がいても
どれぐらいの語彙を使ってたのか?とか分からないからな
よしんば王統譜のようなものを書いてたとして
それがお前の言うような須佐之男に相当する人物を書いていた根拠がない
それが記紀編纂の時代まで伝わってたという根拠がない
そんな王統譜があるなら金石文の登場ももっと早かろうに
もし硯で実際に文字を書くために使ったとしたら
文字の普及した地域に当てた連絡をしたためるというのが蓋然性としては高いだろう
実際出てきた地域は大陸半島との通行に於いて先進的な地域だったのだから >>129 トンスル東遷厨
>記紀編纂者たちは、
>国民に広く浸透してたスサノオが帥升であるととっくに気づいてたという話だが。
で結局王統譜のようなものがありながらその
「国民に広く浸透してたスサノオ」を記紀に書いて
本来帥升にあたる人物をスサノオウに変えたって話だな
もっともそもそも民衆の伝承の中で
なんで帥升がスサノオウという神様になったのか?がまるで見えてこない話
仮に神話の雛形があってそれに習合したとしてもだ
結局いつもの「一代○年で遡って」で適当にそれっぽいのをチョイスしただけか? で最後本題の
「なぜ古代天皇は100歳を超えるのか」
・・・だが
これは逆に
「記紀において百歳超えの天皇の記述が止むのはいつか?(及び生年自体が不明だったりするもの)」
を考えればヒントになる
それは昔から指摘されてるように雄略の一代前の安康天皇から
雄略をヤマト王権の変質、中央集権への志向の画期と見れば
それ以前は一つの王統ではなく複数の勢力から王を出してとと見れば
崇神以後恐らく三輪にヤマト王権の実態が現れた時代以後も百歳オーバーが出て来る説明がし易い
神武の時代を古くしたのは対外的な箔付(笑)けとして
安康より前が”間延び”したのは
連続した王統ではなく複数の王統でそのすべての記録がなかったか
あえて自分達に近い系譜のものだけを残したか
○=記紀に残った天皇(大王)、●=記紀に残らなかった大王
●●○●○○●●●○●・・・(安康天皇以後)○○○○○○
まあ以上は何も自分のオリジナルでも何でもないだろう
「記紀において百歳超えの天皇の記述が止むのはいつか?」
について考えれば誰でも思いつく話
ただ>>1トンスル東遷厨のような「一代○年で遡って」と当てはめごっこの好きなやつには
その遊びの前提条件が崩壊するので面白くもない話だろうが(代数が不明なら意味がない) 神武天皇以来の万世一系も皇紀も信じる右翼は涙目だなw 古代天皇の年齢研究サイト
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage6.htm
安康天皇以降の年齢も要修正だって。なぜなんだろう。
継体天皇の在位年数=清寧(5年)+顕宗(3年)+仁賢(11年)
+武烈(8年、大和を武力制圧した継体の傀儡として)+安閑1年
左は日本書紀などによる誕生年。→右はそれを修正した推定誕生年。
()内は没年齢。
履中:336年(70歳)、369年(64歳)→ 428年(38歳)
反正:378年(60歳)→ 432年(39歳)
允恭:377年?(78歳)→ 434年(47歳)
安康:401年(56歳)→ 457年(27歳)
雄略:418年(62歳)、366年(124歳)→ 463年(44歳)
清寧:444年?(41歳)→ 494年(18歳)
顕宗:450年?(38歳)→ 477年(38歳)
仁賢:449年?(50歳)→ 476年(50歳)
武烈:489年?(18歳)→ 514年(20歳)
継体:450年(82歳)→ 485年(50歳)
安閑:466年(70歳)→ 505年(31歳)
宣化:467年(73歳)→ 506年(34歳)
欽明:509年?(63歳)→ 527年(45歳) やっぱり4世紀後期の神功皇后・応神天皇を実際より百数十年前の
人物に設定した結果、彼らより後の大王の在位年数や寿命が間延び
したんだろうね。それより前でも垂仁天皇の時代に新羅の王子が来
朝し天皇がその玄孫の世代まで生きる話があるが、新羅も建国年を
紀元前に繰り上げていたので、垂仁天皇の在位期間も紀元前と紀元
後をまたぐことになったとも考えられそうな。
神武の時代を古くしたことは結果的に対外的な箔付けにはなっただろうな。
100歳を超える天皇が多いのは記紀に残せなかった天皇の分を一代あたりの
在位年数を延ばして埋めることにしたとまあ考えられないこともないか。
でもそれだと天皇家が万世一系といえる保証はありませんと言ってるような
ものだな。 >>131
>さあね
人の質問に対して「さあね」としか答えられないなら、
その後のお前の戯言はまったく意味がない。 >>132
>で結局王統譜のようなものがありながらその
>「国民に広く浸透してたスサノオ」を記紀に書いて
>本来帥升にあたる人物をスサノオウに変えたって話だな
おまえはアホなのか。
全く人の話が分かってないではないか。
スサノオは実在し、それが帥升だと気づいてたという話だ。
だから時代を大きくずらして神話の時代に追いやったという事だ。 おい、ウンコ漏らし太朗。
おまえはアホスレに帰れ。
いまさら邪馬台国畿内説なんて当たり前なクソスレにな。
面白くもなんともない。 >>135
面白そうなのですが、そのリンク見れないのです。 古事記の干支が、およそ矛盾がないな。
崇神の没年318年頃。
258年では早すぎる。
記紀の記事とは合うんだがな。
248年ごろに卑弥呼が死んで後継者争いが起き、崇神が勝つ。
崇神は卑弥呼の宗女を嫁にする(婿入する)
でも、やっぱり早すぎるな。 各地の古い神社の伝承では、神武以前の神様を祀っているのがある。
神武一家がヤマトに来なくても、すでに天神天孫が各地を治めている。 それで
そのテンノウというのは、
現在のテンノウになるの?
ワタナベ一系? 北斗の拳にもジャギというのがいるみたいだけど
何か関係がありそう >>142
258年では早すぎるよ。
やはり318年だろうね。
応神が誉田御廟山である可能性は高いというかほぼ決まりなので、
文献史でも考古学でも390年元年だろう。
そうすると崇神まで遡ること4世代か5世代なので、
1世代20年弱として、
やはり崇神没は318年だろうね。 どうせ元々蛮族だった過去を闇に葬った北魏と一緒だろw
昔の鮮卑の歴史を書こうとした漢人が北魏皇室の怒りに触れて族滅されてるくらい蛮族だった歴史が恥なんだよ。 神武天皇から神功皇后まで15代(?世代)、
応神天皇から欽明天皇まで15代(7世代)なので
崇神天皇の崩御年を318年、応神天皇の即位年を390年
と見なすと、欽明天皇元年は540年なので、天皇が14人替
わるのに150年かかったことになる。神武天皇即位〜仲哀
天皇崩御まで150年とすれば、神武天皇は卑弥呼と同時代
の人物であることになる。スレタイでは神武は卑弥呼の夫だが、
敵対していた狗奴国の男王(かその縁者)の可能性もあるのではないか。 >>148
>神武天皇は卑弥呼と同時代 の人物であることになる。
同意見ありがとう。
神武天皇の「天皇」とは7世紀の新称号。
つまりイワレヒコという男は、7世紀に新称号「天皇」格上げされたのだと思っている。
それは同時に、実際は女王であったヒメタタライスズの「皇后」への格下げでもある。
記紀編纂者は卑弥呼が誰か分かっていた。
同時に5世代前の帥升が誰かも分る。
卑弥呼(ヒメタタラ)→帥升(スサノオ)という朝貢2トップの存在は、
国史編纂にあたって隠さねばならない。
日本国の歴史を「中華への朝貢」「中華の属国」という事実から始めなければならないから。 だいたい神武が大王ならば、日向にヒメタタラを呼べばいい。
そして先妻のアヒラツ姫を后に、ヒメタタラを妃にすればいい。
実際はまったくそれとは正反対で、妻を置いて大和に向かうわけで、
その姿は、ヒメタタラこそが女王であった証拠だ。
女王は、男王と違って後宮に美男3千人ということはしない。
その代わり、複数の男から気に入った婿を選び、一定期間一緒に過ごす。
そうしないと生れてきた子が誰の子か分からないからだ。
神武の死後に、神武の連れ子のタギシミミがヒメタタラの婿になった。
この形態こそは、ヒメタタラが女王であった姿そのものだ。 >>1
>.出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
>弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
何だこの強引極まりない理屈?
電波さんなの?(笑) >>151
だから硯で水墨画を描いてたのか?
何を書いてたのか聞いてるのだ。
文字があったとしか考えられないだろ。 >>153 トンスル東遷厨(ssn)
横だが
だからそれがなぜ
>記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
>2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。
まで飛躍するんだよアホw
必然性で考えれば文字を解する(半島大陸)相手とのやり取りだろうな
木簡でも出なきゃ実際に文字を使ってた根拠はないし
それで王統譜あるいはそれの元資料になるようなものを書いていた根拠がない
それがあったとしても記紀の時代にまで伝わってた根拠がない
病気レベルの妄想 >それは同時に、実際は女王であったヒメタタライスズの「皇后」への格下げでもある。
そもそも中国に朝貢したやつを格下げってのなら
素朴な疑問、倭の五王はどうなるんだ? >>154
>まで飛躍するんだよアホw
上の方で少し端折ったと書いている。
俺は文字があるなら干支もすでに導入されてたと思ってる。
原の辻遺跡では楽浪の遺物とともに出雲土器が出ていて、
古代出雲人が積極的に大陸の文化を摂取しようとしてた事が分る。
>木簡でも出なきゃ実際に文字を使ってた根拠はないし
三重の大城遺跡(2世紀前半)の土器の文字は? >>155
>そもそも中国に朝貢したやつを格下げってのなら
素朴な疑問、倭の五王はどうなるんだ?
その「どうなるんだ?」の意味が分からない。
記紀編纂のいちばん大きな理由は、中華への隷属の歴史の清算だろう。
推定80年くらいの時間差がある倭国王帥升と卑弥呼の朝貢2トップが誰か判明してたのなら、
これを大きくごまかすだろ。
だから神武東征をやたら強調し、
その時代を紀元前660年とかいう途方もない時代に設定したのだ。 >>156
墨書土器ぐらいじゃお前の言う王統譜を読み解けるだけの情報量がないだろうがよ
>>157
>その「どうなるんだ?」の意味が分からない。
お前の言うところの「格下げ」にしてないってことだ
比べりゃそれとなく分かるぐらいの内容
結局隠蔽したとするにも一貫性がない
帥升=須佐之男だっけ?
記紀編纂者が変えたんじゃなくて既に民間で変わってたって話だったか?
民間の伝承で変わるにしても須佐之男の何処に帥升の面影があるんだ?
結局代数からこじつけただけ >>158
>墨書土器ぐらいじゃお前の言う王統譜を読み解けるだけの情報量がないだろうがよ
最初、「木簡でも出なきゃ実際に文字を使ってた根拠はないし」と言ってて、
大城の土器を出せば、
「墨書土器ぐらいじゃ」と変える。
なんでゴールポストをちょこちょこ動かすのだ?
>記紀編纂者が変えたんじゃなくて既に民間で変わってたって話だったか?
意味が分からない。
質問なのか反論なのか何なんだそれ。
>結局代数からこじつけただけ
代数が合うのは有力な証拠だろ。
ところでおまえって記紀は無視してたくせに、
何で突然、自分は昔から記紀を無視していなかったような反論をしてくるのかな? 本居宣長
「お前ら間違ってる。中国に朝貢したのは九州かどこかの酋長で
大和朝廷とは関係がないところだ」 >>159 トンスル東遷厨(ssn)
こっちが言ったのは木簡
木簡なら1本でもある程度の字数は見込めるからな
何も要求を変えてない
流石に墨書土器ぐらいは予備知識にあるわ
更にそこから王統譜の・ようなものがあった根拠
記紀の時代にまで伝わってた根拠も聞いてるが?
硯があった→記紀の時代に自分の言う王統譜が伝わってた
とかどんだけ電波飛ばすんだよアホが
結局、須佐之男と帥升の類似なんて示せない
代数だけとかいくらなんでも馬鹿そのもの
変化したならしたでその変遷やどうしてそのような変化をしたかの理由付けも何もない
>ところでおまえって記紀は無視してたくせに、
意味不明
無視した覚えはない
ただ史実解明に使える部分と使えない部分の峻別を厳にせよ言ってるだけ
「 あ て は め ご っ こ に 意 味 は な い 」 >>161
>こっちが言ったのは木簡
木という有機物が残ってないから何なのかな?
それより硯で何を書いたのか答えろ。
>結局、須佐之男と帥升の類似なんて示せない
代数だけとかいくらなんでも馬鹿そのもの
代数が合うのは証拠だ。 カタコンベだったら、帝政ローマ時代からあるよ。
ローマは、地上よりも地下のほうが、もっともっと広くて深いんだ。
パリもな。とくにフランス革命の18世紀、パリの地下は広大となっていた。
断頭台ギロチンの前提条件こそ、この地下のカタコンベだったのだ。
古代ローマの全土を揺るがした、スパルタクスの反乱。
古代ローマの禁止された思想、キリスト教。
キリスト教での『 言論の自由 』は、絶対なのだ。
古代ローマ帝国では、権利を持っていた少数の市民いがいは、
ほとんどの人々が奴隷だったのだ。
キリスト教は、ローマ帝国の奴隷階級に『 自由と人権 』を説き、
またたく間にローマ全土に広まっていった。
人々は、地底で、皇帝によって虐殺されたキリスト教同志の
頭蓋骨や骨と伴に、それでも地底で暮らし祈ったのだった。
エドワード・スノーデンも言っていた、これが本物の地底人だった。
迫害されたキリスト教徒、というのは日本の隠れキリシタンのみのことではないのだ。
キリスト教世界での『 言論の自由 』は、絶対なのだ。
日本の安倍のようなカルトのリーダーは、けっして許されない。
いまや世界では、日本の安倍は北朝鮮のキムと並ぶ、カルトのリーダーとなっている。
思想の自由を求めて、『 自由と人権の新大陸アメリカ 』へと、キリスト教徒は旅立ったんだ。
キリスト教世界では、公明党のようなカルト政党、ましてや靖国カルト天皇カルトのような
危険なカルトは、絶対に許されない。
地下のカタコンベ、
それは虐殺された無限に多くの人々の頭蓋骨や骨とともに呪う
圧制の独裁者に対する
何十万何百万もの人々による
怨念の『 呪 殺 』の世界なのだ。
http://www.traveldarkly.com/wp-content/uploads/2014/01/palermo-catacombs-empiredelamort-7-of-11.jpg
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/a8/bb/d8/a8bbd849d3f3d688d88105d8570f1e39.jpg
https://farm7.staticflickr.com/6090/6117409583_037946e3fa_z.jpg
http://dazedimg.dazedgroup.netdna-cdn.com/786/azure/dazed-prod/1060/6/1066120.jpg 3世紀、大和の葛城に【ヒメ】と【トヨ】がいました。
太古から続く出雲族のお二人でした。
これだけなら誰が見ても魏志の卑弥呼と台与だと分かります。
だから記紀では時代を大きくずらしました。
そうしないと【ヒメ】から5世代前のスサノオが倭国王・帥升だと分かってしまいます。
107年、後漢の安帝に謁見、見返り品がないという事はどうやら朝貢は失敗したようです。
白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
新生「日本」の歴史を、始祖スサノオのぶざまな朝貢の記述から始めるわけにはいきません。
だから記紀では時代を大きくずらしました。
国史とはプライドです。たとえ100歳を超えるおかしな年齢になろうともプライドを優先しました。
そして新称号を採用しました。「天皇・皇后」です。
【ヒメ】には婿がいました。
日向から来たイワレヒコという男です。
この男を新称号「天皇」に格上げし、カムヤマト・イワレヒコ・スメラミコトという大げさな名前にして、
この男の東征をやたら強調し、大王感を演出、初代天皇としました。
そして【ヒメ】を新称号「皇后」に格下げし、母方の称号タタラと妹のイスズを付け足し、
ヒメタタライスズとしました。
【トヨ】にも婿がいました。スキトモと言います。
このスキトモもオオヤマトヒコ・スキトモノ・スメラミコトという大げさな名前にし、大王感を演出しました。
また大王たるもの、周りに複数の女性がいないと不自然なので、
泉媛、飯日媛、賦登麻和訶比売命など、とっくに途絶えていた磯城氏の娘を后とし、大王感を演出しました。
【トヨ】はアマトヨツとされ、4代皇后に格下げされました。 以下このスレの>>1ことトンスル東遷厨(ヤフーでの通名はssnらしい)の
畿内説スレに書き込んだ与太に対するレス
畿内説スレはもう早けりゃ今晩中に1000達しそうなんでこっちに書いておく
どの道アホの>>1トンスル爺はどこでも言ってる内容は同じようなものなので問題なかろうw >纏向遺跡の吉備・東瀬戸内(筑紫も)の要素が何なのか答えて見ろ。
まずはこれ↑
このアホが毎度毎度必死に鬼の首でもとったかのようにほざいてる台詞
「要素が何なのか?」と聞かれりゃ
「要素は要素、それ以上のものではない」と答えるしかないな
このアホが根本的に理解してないのは
要素なんてものは単なる文化の伝播で説明が付く
東征だか東遷を言いたけりゃそれ以上のものを出す必要があるのは
それを主張する側だ
「共通の要素がある」…なんてのは”必要条件”に過ぎない(それすらないなら話にならない)
が、それがあれば東遷説が証明できる”十分条件”ではない
「要素」なんて所詮全体ではないから「要素」
征服劇があったというのならそんな文化の伝播の範疇に収まらないものをもってくるのは当然
共通の要素があるなんてスタートラインに立っただけにすぎない
こんな小中学生が理解できるようなことすらこのアホ爺は分かってない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています