なぜ古代天皇は100歳を超えるのか [無断転載禁止]©2ch.net
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出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。
白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…
ものすごくみじめです。
自尊心がズタズタです。
彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を古く古くすることでごまかしました。
また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップして、
卑弥呼であるヒメタタライスズ媛の記述をを最小限にとどめました。
そして神武をBC660年という遠い遠い過去に葬り去りました。
神武以降の天皇もそれに合わせました。
これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相です。 >天皇家が海人族であったなら改めて親戚関係を結ぶ必要はない
海幸彦・山幸彦神話、山幸彦が海神の宮を訪れて海神の娘豊玉姫を娶り、
その間に生まれた鸕鶿草葺不合尊が叔母の玉依姫を娶って神武と三人の
兄を儲けた話は、天皇家に海神族の血が流れているという事実を表して
いるのでは? >>685
もう一つある。天鏡尊(あまのかがみのみこと)。
日本書紀では異伝に登場する神で、国常立尊の子で
伊弉諾尊の曽祖父とされる。天の鏡は太陽、あるいは月
を意味すると考えられる。天照大神や月読尊より古い、
太陽か月を神格化した神に違いない。国常立尊から伊弉諾尊
までの系図は宋史日本伝では天御中主尊を初代とし、
鸕鶿草葺不合尊に至る神々の系譜の一部になっている。 記紀には鴨王と書かれてる天日方奇日方(あまひがた くしひがた)もいるんだけどね。 ┏━━┓ ┏━┓┏┓┏━━━┓
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┗┛ ┗━┛ ┗━━━━━━━┛┗┛┗┛┗┛ ┗━┛ ┗┛ ┗━━┛ ┗┛ 朝鮮半島から渡ってきた神様とか普通にいるじゃんアメノヒポコだっけ? 日本のカミタマなんていないんだよ、
海とか山、木・・・とかそういうカミならいる 神武天皇の即位年が紀元前660年に選ばれた理由は
辛酉革命説が有名だが、あるサイトによると、神武を
東洋の偉人とされる孔子と釈迦より100年以上前に生
まれた設定とするためと書いてあった
他には、中国の書物に周の成王の時代に倭人が薬草を
献上したという記録があったが、神武を周王朝が成立
した紀元前11世紀に持ってくるのは無理があったので、
同じ成王でも400年後の楚の成王(在位 前672〜626)
と取り違えたことにしたみたいな説も見た 素戔嗚<su jian wu、中古音 so tsen o>も
帥升もそのまま人名っぽいな >素戔嗚<su jian wu
この漢字は後世の当て字なんで中国語で読んでも意味がないのじゃない。
日本語で「スサノオ」
倭国王帥升:Shuai sheng / Shuai4 sheng1
やはり似ているね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E7%AF%80
2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。その具体的な計算方法
は明らかにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。
干支紀年法は、後漢の元和2年(ユリウス暦85年)に三統暦を廃止して以降は、60の周期で単純に繰り返すように
なっている[5]。神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の編年(720年(養老4年)に成立)を元に計算
すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」
である。そこで西暦(先発グレゴリオ暦)で紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定
される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」にならない。した
がって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日とした。なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すな
わち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府
による計算では考慮されなかったと考えられる。なお、現代の天文知識に基づき当時の月齢を計算すると、この日[6]
は天文上の朔に当たるが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を即位日としたと考えられている。 ↑この文章は明治初期に紀元節が決定される経緯だが、「なお」のあとにサラっと書かれてるのは明治初期の話ではなく、その根拠となった日本書紀自体の編集者の意図を推測したものだろう
つまり、日本書紀が作られた当時、編集にあたって、紀元前660年春正月即位というのがあらかじめ何らかの理由で決められていて、その日の日干支を計算してみたら庚辰の日だという結果が出たから、即位日の干支として書いたんだろう、というわけだ
これに対して>>580では、逆に、辛酉年春正月の庚辰の日に即位したことまでが伝承として伝えられていて、それを逆算して庚辰の日が春正月となる辛酉年を探したところなかなか見つからず、紀元前660年まで遡ることになったと考えている
ここまで一致しなければ、ふつうは伝承が間違ってるか、なんらかの理由で計算ミスしてるかのどちらかだが、日本書紀の編集者はそうは考えず、紀元前660年という計算結果をそのまま採用したのだろう
で、>>580では、そこまで遡らないと一致しなかった理由を、なんらかの理由で計算ミスしてるものと考え、その「なんらかの理由」として、西暦692年の改暦以前の暦の干支がそれ以降に伝わらなかったせいだと考えたわけだ
で、それ以前の暦の干支をさまざまな資料をもとに逆算して構成し直し、それをもとに計算し直したら、紀元後の西暦377年3月12日と出たわけだ 神武天皇が西暦377年即位だって?第29代欽明天皇が
即位したのが西暦540年だが、163年の間に神功皇后を
含む29人も王様が交替したの? >>701
系譜上に於ける初代神武天皇とは、海(天)村雲命。
かれは徐福の孫なので生存時代は紀元前2世紀〜1世紀の人。
、、、二回(三回とも)渡来した「徐福」さまは一回目は山陰/出雲王国に至りホアカリを(出雲王国の王女(現在なら内親王/プリンセス)と結婚して五十猛/カゴヤマを生む。カゴヤマの御子がムラクモ(母親はホヤ媛(徐福と市杵島姫の娘)))、
二回目九州佐賀(吉野ヶ里)に帰化したさいにはニギハヤヒ等を自称。
本名は徐市(徐フツ)で諱は彦福。
「フツ」ミタマや「フツ」主神等は徐福の事、
また、スサノオはキキ神話創作に際して考えらた徐福や子孫の事。 >神武天皇が西暦377年即位
ありえん、そんな事言ってるのは安本美典くらい。
377年なら神功皇后の時代。 >>701
欽明はもっと後だろうし神功皇后含め何人かの天皇は創作だろうしね >>701 >>703
>>699は西暦692年の改暦が原因でおかしくなったと考えているわけで、当然、欽明天皇の即位も、神功皇后の時期も、計算し直す必要がある 日本書紀は日本書紀執筆時の有力氏族の口承伝承を全部ぶちこんで
中国書のコピペだのでいい加減に繋いでいる代物だから
長くなってるんだよ
計算なんぞまったく何の意味も無い >>706
だな
先祖全部神様にするとか頭がおかしいw >>706
そういう話も聞いたことはあるが、
神武から履中天皇までずっと父子継承が続いたなんて話はありえないとしても、
おおよそ応神天皇が4世紀末、崇神天皇が4世紀初〜前半、
そして神武が2世紀末から3世紀初頭あたり、
これは考古学的にも有力になってきている。 つーか神武だの応神だのという後世の人間が勝手に付けた
ニックネームを使うのをいいかげん辞めるべきだね
本居宣長が偽書だと証明した旧事本紀が広めた一種の嘘なんだから カムヤマトイワレビコとか、ホムタワケノミコトとか言われてもピンとこないし、紛らわしい名前も多いし、神武天皇のように即位前のヒコホホデミから改名したりすると別人と誤解されたりもする
漢字の諡号で統一してるほうがいい /∧_∧ \
./ <;`∀´>、 `、
/ /\ \つ つ、ヽ
| | ,\ \ ノ | | 朝鮮ヒトモドキの書き込みは禁止とします。
ヽヽ レ \ \フ / /
\[チョンコ禁止]'/ (*^○^*)/No More Humanoid roach
ヽ、 ____,, /
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|| >>711-714
そうそう。ニックネームを見て、誕生したばかりの大和政権の
王や大王を奈良時代以降、日本列島の広域が統一できて以降の
天皇と同レベルで捉える人はそういないだろう。一部の馬鹿右翼
ならそういう錯覚させるのが好きかもしれないがw。 左翼の視点では統一国家ができて以降が真の歴史で、
国家が統一される過程やその神話的なルーツは語るに
値しないものなんだろ。じゃあ、司馬遷が秦王朝につ
いて記してることで信用できるのは始皇帝から三代だ
けで、春秋・戦国時代の秦についての記録も語るに値
しないものなんだろうな。 (´・ω・`)
/ `ヽ. おいチョンコ
__/ ┃)) __i | 出された薬は
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\ ちゃんと飲めよ >>710
実際の名前が分からない人物だらけだから
ニックネームを使うのは仕方がない >>702
神武天皇は履中天皇まで父子継承の連続なら西暦1世紀(60〜75年辺り)の人物。
(履中天皇は日本書紀では在位400〜405年、古事記では432年崩で、60代から
70代の老齢で亡くなったとされるが、実際には在位450〜455年頃の人物で
40歳に満たない年齢で幼少の皇子を残して弟に大王位を譲って亡くなったと思われる)
しかし、このスレのように神武から崇神まで6世代ぐらい、さらに景行が
崇神の孫でなく息子(>>671)というなら、神武は卑弥呼と同時代の人物になる。
>>708は考古学的にと言ってるが、家系図から判断する限りでは、>>708の言うこと
はもっともだ
しかし、崇神天皇は西暦4世紀初頭(310年頃)でなく3世紀半ば頃(250年頃?)
の人物だという説もある。神武天皇が秦の始皇帝の時代(在位前246年〜前210年)
の徐福の孫、海(天)村雲命なる人物で、紀元前2世紀頃の人物だとすれば、神武天皇
と10代目の崇神天皇の間に400年以上もあるので、その間の何世代分も天皇が系図か
ら脱落していることになる。神武天皇と崇神天皇の間の血統の断絶も疑われる 応神天皇は4世紀末に即位して5世紀初め頃まで生きてる
その後仁徳天皇が30年ほど在位した >>707
キチガイも何も、皇室が自らを日本列島を作った神々の子孫と称するのは
日本を永久に支配するため、天皇位の世襲を不動にするためだわな
俺の先祖はこの国の国土と自然、ありとあらゆる物を産んだんだなんて
神話を作ったら、天皇家以外の誰も日本列島の支配者になれないじゃん
本当は神武天皇即位以前にもいくつかでも日本に王朝は存在したかもしれないよね
神話の利用は支配者らしい知恵ですよ 血統が切れてるも切れてないもないんだよ
日本書紀執筆当時の複数の氏族の口承伝承の寄せ集めなんだから
寄せ集めであることは当時のヤマト政権を構成する氏族は全員周知のこと
自分とこの氏族の伝承はあの記
あそこの氏族の伝承はあの記と知ってるんだから
当然万世一系なんてトンデモな発想は誰にもない
かつ「つなぎ」に大量の中国書のコピペを使っているから
外交文書として外に出せる代物でもない
これが我が国の歴史ですといって中国人に渡したら
それが中国のドメジャーな書の殷の初代皇帝の記述の完全コピペでした
なんて馬鹿げたことができるわけがない
夏休みの読書感想文の宿題を教科書丸写しで提出する小学生じゃあるまいし
日本書紀は当時の大和政権を構成する氏族の休戦協定書・憲法なんだよ
各氏族の口承伝承を一書にまとめることで
全氏族が一族郎党であるいうフィクション
それによって各氏族の人権・所有権が承認される >>725
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7491#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%8B
宋史の日本の記述には「年代記」からの要約として、天御中主からの神話の神々と、神武天皇以降の歴代天皇の名前が日本書紀の順番通りに列挙されてるんだが、この「年代記」って、日本書紀のことじゃないのか? 複数の氏族の口承伝承を寄せ集めて、つなぎに大量の中国書のコピペをしたものが2つあって、それがたまたま、つないだ順序が完全一致したのかよ 要するに、日本書紀は中国人に対して「これが我が国の歴史です」と堂々と渡してるわけだ 弥生時代には文字があった。
だから王統の伝達はできたはず。
でもそれは大変まずい事になる。
スサノオが帥升だからだ。
だからスサノオ=帥升の百年後になる卑弥呼の時代を神武東征紀に変え、
女王国であったことを隠した。
そして神武の時代をBC660年に設定した。
これが日本の古代史の真相だ。 日本書紀って天皇が自分は朝鮮の親戚ですって紹介する本のことでしょ? ∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
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| |r┬-| | / < 無能ヒトモドキ
\ ` ー'´ // まるだしwww
/ __ /
(___) / >>731
日本書紀は漢文で書かれてるので中国側が見ることを意識しているのだろう。
もっといえば中国史書に対するレスポンスであろう。
国史とはプライド。
7世紀の朝廷はかつての中華王朝への朝貢というものをなかったことにしたかった。
だからスサノオ=帥升を時代をとんでもなく古くすることでごまかした。
あと記と紀で継体天皇以前の干支が違っている。
これはおそらく倭王武の上表分(おそらく雄略であろうが)、
これをごまかす目的があったと俺は推定している。
自ら中華皇帝の臣下になりたがるという、つまり日本側のプライドが許さなかったのであろう。 中国から移住して来た豪族もいたんだから
先祖伝来の伝承が中国と一致しててもおかしくないんじゃないの? >>737
古事記は漢文ではないなどと言ってないが。 >>738
遣隋使、遣唐使は使者だろ。
帥升のように王みずから渡海したわけではないからね。 昔あった小さい国が朝貢したくらいで朝廷の価値は下がらないと思うがなあ 長年に渡って三跪九叩を強制させられてたという惨めな歴史がある朝鮮ヒトモドキが「倭は帥升の土下座外交から始まったニダ〜」って喜びたいだけ でも倭に百余国あるうちの一つの王でしょ
土下座くらいさせてやれよ |`゙'''ー==============ー'''゙|
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∨ ∨ ∨ ∨ Σ ガンガンガガガン… >昔あった小さい国
小さくない。
弥生時代の青銅器文化圏は西日本全体にわたる大きなもの。
ここの王が朝貢したのなら小さい話ではない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/87_65.jpg 本当に頭が悪いんだな
アメリカに住んでいる、住んでいたけど、
中国人(漢民族)ですというのと同じ
ちなみに家は『松傾』?本人なのかな?
中華だと言っている人がいるでしょ >>746
お前はとにかく1秒でも早く首を吊って死ねってば >>742
神武天皇以降を架空と言わなくなっただけ進歩してる |`゙'''ー==============ー'''゙|
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∨ ∨ ∨ ∨ Σ ガンガンガガガン… >>748
あれを架空扱いしてたのってGHQじゃん
朝鮮の人たちは実在を前提に、それに対抗して檀紀を作ってた >>745
それが統一王朝なら百余国とか書かれるわけがないじゃない 日本書紀は元々雄略紀が第一巻
雄略紀から日本書紀執筆時期の「近代」にあたる部分は
中華帝国人に執筆してもらった
だからこの部分が日本書紀の本編=本紀であり
紀伝体で言うところの「紀」すなわち歴史的経過を記そうとしたもので
他国特に中華帝国人の目に入ることを前提とした
正統な漢文となっており中国書からの丸パクとならないよう配慮がなされている
実際には少なくとも口承伝承の歴史範囲では「土着」の氏族の共通の伝承となっていた
雄略もはっきりとした時代は当時の人間にはわからなかったし
雄略より後の何世代もの大王の伝承も怪しげなものだった
仁徳なる人物が実在してかつその嫁が書いた詩が本物なら
仁徳は雄略よりずいぶん後の時代の人物になってしまうとかね
これに対し日本書紀本体の執筆からずいぶん遅れて書かれた
雄略紀より「前」の部分は百済訛り+和習のなんちゃって漢文
中国書からのパクりにもいっさい躊躇がない
この部分は元々紀伝体の「列伝」つまり紀=歴史の流れとは
別に人物評を記すもので
その順番は実際の歴史の順とは関係がない
ましてや血統のつながりなんぞとは本来まったく関係がないんだよ
日本書紀の場合本紀には含まれなかった各氏族の口承伝承を
「列伝」としておさめる作業の中で各列伝をすべて「紀」=歴史的経過に書き換えた
そのずいぶん乱暴な細工がなされたのが日本書紀の「前半部」 >>752
なるほど
巻22、23も完全に創作ってことか >>751
>それが統一王朝なら百余国とか書かれるわけがないじゃない
それは国という概念の問題。
江戸時代にも「信濃の国」「越後の国」などたくさんの国があった。 あ、ごめん。
アンカーミスではなかったね、すいません。 >>755
江戸時代の外国人が日本は百余国に分かれてるなんて思うかな?
本国にそう報告するかな?
しないと思うよ 日本の古代史のスレで、半島系パヨクが日本の歴史を短くしようと
コンプレックス丸出しで書き込むのはどうにかならんかね? いや、日本の歴史はこのスレの主張に合わせても
十分に長いと思うぞ。崇神天皇による建国から1700年。
卑弥呼と神武(実際には大王じゃないけど)の時代から
でも1800年あるし、帥升からだと1900年もあるじゃん。
天皇を人間と見なさず、考古学的な裏付けもなしに非科学的な
天皇の長寿を前提とする皇紀を使おうという右翼こそ日本の恥
さらしだよ。現代の日本は土人国かな? 右翼はどうしてそこまで捏造、誇張された「皇紀」
なるものに拘るのかな?人を騙すのが好きなの? ┏━━┓ ┏━┓┏┓┏━━━┓
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>卑弥呼と神武(実際には大王じゃないけど)の時代から
卑弥呼と神武は同時代ではない
卑弥呼は崇神と同時代 帥升がスサノオなんて、帥升をスサと読んだ上でのただの語呂合わせ、駄洒落レベル 何も左翼団体が言うみたいに天皇制反対とか皇室を潰せとか
いう類のことは一言も書き込まれていないだろ?
「皇紀は正しくない。実際の建国年代はずっと後だ」と考える
ことじたいは理性的な歴史批判であって、思想的に右とか左とか
関係ない >>765
その可能性もゼロとは言えないが、崇神は推古天皇(生没年 554〜628)
の12代前の先祖だから、卑弥呼(生没年 175?〜248)よりはかなり若くない
とおかしい。5世代でだいたい100歳差だから、崇神天皇誕生から推古天皇誕生
までの13代は300年ぐらいはあるかもしれない。だが、このスレでは11世代ぐらい
と見なされている。 仮に日本書紀が完全に虚構で、日本書紀が編纂された720年にいきなり天皇が始まったのであってそれ以前の歴史が完全にウソだとしても、それでも天皇家は現存するどの王族よりも歴史が長いし、中華民国や中華人民共和国なんかよりも10倍以上の伝統がある >>765
崇神が卑弥呼の存命中から大王(卑弥呼とともに共立された王とか、卑弥呼=
ヤマトトトヒモモソヒメ)だったら、日本書紀はわざわざ年代を誤魔化してまで
卑弥呼と台与を神功皇后に見立てる必要はなかったと思う。崇神天皇の前に欠史八代
と呼ばれる天皇の業績が記されない時代があった(大和の豪族であったのは確かだろう)
のは、欠史八代(正しくは九代)の時点では、天皇家が日本列島の広域を支配できておらず、
別に日本列島の広域を支配する氏族が存在したからだと考えられる。 >>770
>欠史八代(正しくは九代)の時点では、天皇家が日本列島の広域を支配できておらず、
その通りだと思う。
というか、欠史8代に事蹟がないのは、事蹟が伝わっていなかったからではなく、
事蹟を書けなかった。
書くと、卑弥呼とトヨを隠してきた意味がなくなるから。
事蹟を書くと、卑弥呼からトヨ、そして崇神に至る日本史の一番の激動時代を説明してしまうから。
>別に日本列島の広域を支配する氏族が存在したからだと考えられる。
それがいわゆる大物主。
大物主とは役職名、崇神がクーデターを起こし、倒したのは最後の大物主・アタガタス。
この人物がモモソヒメと結婚した人物であろう。
このアタガタスの後に崇神が須恵村から呼んできたオオタタネコが鴨氏の宗主になってる事でもわかる。 >>768
崇神/イニエ王は九州の吉野ヶ里を旅立ち(「天の磐坐放ち(徐福以来の都の吉野ヶ里を旅立ち)」天の八重雲を伊豆の千分きに千分て、、、、)
球磨地方で募兵。それが物部軍の精鋭、久米族
鹿児島で出雲族の豪族(出雲神族)の姫に一目惚れ〜ヨバイして一発必中の特別に濃い種水を注ぎ入れて処女の姫は一夜にして御懐妊。
やがてイクメで出産して産まれ出でた御子は出生地からイクメの御子と呼ばれました。
かれが後の物部イクメ大王(垂仁)=リアルの東征を成功させた神武の実体。 崇神から神武までの物部、中臣、鴨の相関関係。
中田憲信「諸系譜」より。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/87_116.pdf
崇神から神武まで、おおよそ5世代である事が分かる。 三上が抜けてた。
意冨伊我都命から始まるのが三上氏。
近江と関係が深い。 >>771
×オオタタネコ
○太田タネ彦=三輪大王。
彼の姉が出雲族らが信仰する三輪山の「太陽の女神の媛巫女(ヒメミコ)、
「モモソ日女命」(トトビ日女命は彼女の後継者で別人)
彼女はまた「太陽の女神の顕現」の様に崇拝されて「大日霎貴命」と崇敬を受けた。
モモソ日女命は旧来の出雲族の信仰を守りながら、
九州から侵攻してきた物部族の祭祀形態も巧く融合させて新しい祭祀形態を考案して
新参の物部族にも在来の出雲族らにも絶大な人気を得て女王の様であったようです。
新しく考案なさった祭祀形態とは、
出雲族の信仰、習慣では丸いモノは女神の宿るモノ。
長いモノ/木の根っ子は男性自身の形代で主神の表れ。
物部族は道教を信仰していて、元々は大きな銅戈をトーテムとしていたところが
東征にあたり銅鏡を祭祀のトーテムに変更。
天才のモモソ姫さまは、、、
天の岩戸開き神話の記述にある通り、
大きな榊を根こそぎ引き抜いて祭場に据え、その枝に物部族の鏡/神獣鏡の反射面を観衆/参拝者側に向けて取り付て、、、 >>766
>帥升がスサノオなんて、帥升をスサと読んだ上でのただの語呂合わせ、駄洒落レベル
とんでもない。崇神がおおよそ4世紀前半であり、行灯山古墳である可能性は極めて高い。
そこから上記の>>773の中田憲信「諸系譜」にみられるように神武まで5世代。
卑弥呼と神武の時代が同時期。
神武からスサノオまで5世代。
倭国王師升とはスサノオだ。
記紀がとんでもない時代に神武天皇を置いた理由、
それは日本の歴史が中華皇帝・安帝へのスサノオの「土下座」から始まってるからだ。 >>775
モモソ姫が件の如く三輪山の太陽の女神の媛巫女(ヒメミコ/中国人にはヒミコと聞こえたらしい)として奉仕為さる事で
攻めて側の物部族、守勢側の在来の出雲族ほか共に争乱は下火〜沈静化して平和な世の中がやっと訪れたとか。
人々はこの平和を「モモソ姫の平和」と呼んだとか? >>776
師升。はヤマトの国オシヒト大王/孝安天皇
中華思想の下、シナ以外の周辺諸国や人名、地名等には獣や魚類等による卑字を持って書き記し、同時にフルネームではなく耳に残るアクセント等部分等で略したモノで表記していました。
速記官はヤマトから遠路はるばる来訪したオシヒトのアクセントのシヒを取り
当初、「師飛」と「草書で記入」。
後、速記録から正式な記録として転記する際に
草書の「飛」が読み間違えか更に略した「升」として記録されて
「師升」となったようです。
ちなみにオシヒト大王は特産物や適当な贈答品がなかったので、
中国人は奴隷を喜ぶと聞いて行き掛けに広島県の生口島で大量の奴隷狩をして
中国に連行して献上したとの事。
その凄惨な奴隷(生口)狩をした事から生口島の島名になったようです。 では神武の墓はどこか。
神武の墓は壬申の乱のころまで、普通に知られていたようだ。
それは壬申の乱の際に「待ち合わせ場所」として神武陵が出てくることでもわかる。
ならば後、律令制において五色の賤が組織化されたとき、真っ先に神武陵には陵戸が置かれたであろう。
ということは、やはり安本美典が言ってたように、畝傍山の丸山であろう。
神武の墓を守ってきた陵戸たちは、明治になって平地に降りてきて、いわゆる被差別部落を形成する。
神武の墓は畝傍山にあった。
しかし、高天原(御所市高天)ではなかったことに留意。
これで神武という人物の立ち位置が分かる。
彼は日向から来た「女王の婿」であったからだ。 >>778
>師升。はヤマトの国オシヒト大王/孝安天皇
いや全然時代が違うのでね。
150年ずれている。 日本やユダヤの初期の王が非科学的な長寿なのが他勢力へのコンプレックスから歴史を古く見せようとしたと言うのは納得できる
だが、最古の文明人たるシュメール人には日本人やユダヤ人にあるようなコンプの対象は存在しないはずだ
彼らが歴史を古く見せようとする意味は分からない
初期の王が常識的、科学的に納得できる寿命と在位期間でも最古の文明たる地位は揺るがない
では、何の為に初期の王をあんなに長寿にしたのか? ユダヤの族長たちは長生きだけど、ダビデ王朝の王様に
はダビデの70歳を超えて長生きした人物が一人もいない
日本の初期の天皇が百数十歳も生きたのは昔の人は長生き
だったでは納得できない。神武天皇が即位したとされる紀元
前7世紀の世界で百三十歳も生きた王様の記録なんてないから >>772
>鹿児島で出雲族の豪族(出雲神族)の姫に一目惚れ…
鹿児島に出雲の神々が祀られていた形跡はあるの? >>768
末子相続だから一世代30年ぐらいと見るのが妥当
10世代で300年
崇神天皇の時代を新しくし過ぎている
崇神垂仁景行の三代の宮処が磯城・纏向とされているのだから、
纏向遺跡の推定年代を定点として、そこを基準に考えた方がよい >>770
>崇神が卑弥呼の存命中から大王(卑弥呼とともに共立された王とか、卑弥呼=
>ヤマトトトヒモモソヒメ)だったら、
弥生終末期はヒメヒコ制
ヒメ王・祭祀王が広域で統一(共立)され、それが共立範囲の代表=倭王とされた
佐治国男弟は、統一ヒメ王卑弥呼を補佐しつつ、その地位はヤマト国ローカルの
ヒコ王の立場に留まる
ヒメ王の職掌は倭国の広範囲で統一されたが、ヒコ王・世俗権力は各地の
首長(のちの豪族)が握り続ける状態
卑弥呼の死後、佐治国男弟が倭王として振る舞おうとしたが、ヒコ王の統一は
認められず、新たに統一ヒメ王が倭王として立てられた
その意味で佐治国男弟=崇神は、ヤマトのローカル王 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています