↑この文章は明治初期に紀元節が決定される経緯だが、「なお」のあとにサラっと書かれてるのは明治初期の話ではなく、その根拠となった日本書紀自体の編集者の意図を推測したものだろう
つまり、日本書紀が作られた当時、編集にあたって、紀元前660年春正月即位というのがあらかじめ何らかの理由で決められていて、その日の日干支を計算してみたら庚辰の日だという結果が出たから、即位日の干支として書いたんだろう、というわけだ

これに対して>>580では、逆に、辛酉年春正月の庚辰の日に即位したことまでが伝承として伝えられていて、それを逆算して庚辰の日が春正月となる辛酉年を探したところなかなか見つからず、紀元前660年まで遡ることになったと考えている
ここまで一致しなければ、ふつうは伝承が間違ってるか、なんらかの理由で計算ミスしてるかのどちらかだが、日本書紀の編集者はそうは考えず、紀元前660年という計算結果をそのまま採用したのだろう
で、>>580では、そこまで遡らないと一致しなかった理由を、なんらかの理由で計算ミスしてるものと考え、その「なんらかの理由」として、西暦692年の改暦以前の暦の干支がそれ以降に伝わらなかったせいだと考えたわけだ
で、それ以前の暦の干支をさまざまな資料をもとに逆算して構成し直し、それをもとに計算し直したら、紀元後の西暦377年3月12日と出たわけだ