■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供3■ [無断転載禁止]©2ch.net
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豊臣秀吉は、300数十人の女性と性的関係を持ったと
されている。
それなのに子供ができなかった。
これは医学上、秀吉は若いときの性感染症で生殖能力を失ったと思われる。
淀殿だけに2人も子供が生まれるなど常識的にありえない。
それに淀殿にとって、秀吉に大きな恨みがある。
秀吉に兄の万福丸を処刑され、母親の市の方を攻め殺した敵でもある。
淀殿は、浅井の血を天下人にする気はあっても仇の秀吉の子などを生み
天下を取らせる気はなかったのではないか?
徳川家康が淀方を攻め立てても、北政所や秀吉子飼いに
支持を失わなかったのも、当時から秀頼の出自が疑われてたから
ではないか? >>150
売れ残りってか秀吉が側室にするために妹たちを先に嫁がせて茶々をひとりにしたんじゃないの。
初の夫京極高次と江の初めの夫佐治一成はいとこだからずっと前から許嫁として決まってたとかないかな。茶々も誰か許嫁がいたかも。 >>150
三姉妹の結婚の順番ははっきりとはわかっていない
淀殿は鶴松を産んだ時に21歳だったので
この前年に側室になったのではないかといわれてるだけ
北ノ庄城が落城した15歳から鶴松を産む21歳まで淀殿の動向は不明で
この間に秀吉の側室になったのだろうということしかわからない
どんな女でも手に入る天下人の秀吉が
三姉妹の中で一番難のある女をわざわざ自分の側室にするとは思えない
淀殿が一番のお気に入りだったから他の男に嫁がせなかったのだろう
あと比較対象に京極竜子を出しているが竜子は淀殿よりだいぶ年上
最初は若狭武田氏の当主・武田元明の正室で
夫が明智光秀について秀吉に殺された後で
夫を殺した秀吉に側室として差し出されている
竜子が国松の墓を造ったことについては
京極家が国松を養育していたから
竜子の兄弟・京極高次の正室が淀殿妹の初で
その縁で京極家が養育し竜子もかかわっていたとみられる >>151
色々と間違いが多いが
淀殿が秀頼を孕んだのは名護屋城
秀吉はこの時期、朝鮮出兵を指揮するために名護屋城にいた
ここにお気に入りの側室の淀殿と京極竜子を呼んでいる
大野治長も名護屋城にいた
秀吉の歯が残っているのは豊国神社宝物館
加藤嘉明が賜ったと伝えられるものを末裔が寄付した
秀吉の歯があっても秀頼の遺骨がないので鑑定できない
(DNA鑑定は親子鑑定以外は確率がぐっと下がるために適さない) 大野治長っていつから秀吉に仕えてたの
淀殿に近づけることなんてできたんかな >>156
淀殿の乳母が大蔵卿局で、大蔵卿局の息子が大野治長
大蔵卿局は淀殿が産まれた時からずっと仕えていた乳母
そのため大野治長と淀殿は子供の頃からずっと知っている
淀殿が秀吉の側室になった時に乳母の大蔵卿局も一緒についてきているので
大野もそのときに淀殿や大蔵卿局の口添えで秀吉のところへ来た >>157
んー
それは知ってるんだけど、
乳母&乳兄弟って常に主人と一緒に動いてるものなの?
ドラマでは大坂の陣で初めて登場パターン多いけど。
弟たちは寺に預けられて育ったとか聞いたことあるような。
あと、治長は秀吉の馬廻りしてたらしいけど
いつからだろう。真田信繁も馬廻りしてたし同じ時期かな
母親が乳母やってるからって奥に出入りできるものなのかな
>>155名護屋城だったら大名と妻子たくさん集まってるし緩かったのかな >>68
大事にしすぎると妖怪が嫉妬して子どもをとられるとか捨て子はよく育つという迷信があったから、子どもは欲しくないとか太閤の子はひとりと言うことで、本当に拾った子のように扱って無事に育つようにと思ってたとは考えられない? >>158
大蔵卿局は淀殿付きなので基本は淀殿と一緒でしょう
下界とのつながりはお鈴廊下一つで常に厳重に鍵をかけられ
奥勤めの女たちが女ばかりの狭い場所に閉じ込められるようになったのは江戸城大奥からで
この頃は女たちも表へ出たり外出したりも比較的自由だったので
大野治長が大蔵卿局をたずねたり淀殿をたずねたりするのも難しくなかったと思うが 大野さんはあんまり能力はなかっただね
豊臣の天下を取り戻すどころか滅ぼしちゃったし 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
N9OXS 大河ドラマなんて史実をいつも逸脱しすぎるのものだから、
いっそ女武者として討ち死にする淀殿を見てみたい。
いまだ皆無なんだよな。 >>163
淀殿が馬に乗って家康の陣まで行く映画ならあった 神社仏閣に貴人のご婦人が子宝祈願で参籠(オコモリ)した際に、
第三者(神官や僧侶ほか)が種を授ける(セクスする)事は公然の秘め事。
それによって懐妊〜出産したお子様(父親は赤の他人)は神仏からの授かり物(者)として
実子とすることが広く行われていたそうな。
淀君も子宝祈願で参籠してめでたくご懐妊、、、
種無し(無精子症)の秀吉公からすれば、他人の子供なれど、豊臣家の為、対外的にも実子としなければいけなかった。
と言うこと。
子の実父が誰かは問題外だったかと。 >>166
その割には可愛がりすぎじゃね
豊臣家の為かな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
KB1 >>120
鶴松が死んだときは北政所さまが養育してた >>170
鶴松は淀城で生まれた後、まもなく秀吉が大坂城へ連れて行き
跡取りとして諸大名に披露
生母の茶々は淀城にいたので大坂城では嫡母である北政所が面倒見てたようだが
その後また茶々のいる淀城へ返されてるぞ
鶴松が亡くなったのは淀城だし >>172
死んだのは淀城に戻って結構たってからでしょ?
大体養育させたのは秀吉の命令じゃないの? >>1
秀頼が秀吉の子でないというのは歴史を面白くしたい現代人の強引すぎるきめつけ
秀吉もバカじゃないからその辺は徹底的に信頼できる監視を付けて管理してたはず
疑いの目をつけられたら即刻惨殺の憂き目は免れられない状況でそんな無謀なことをするやつがそうそういるとは考えられない 宣教師ルイス・フロイスが、お拾い(秀頼)を関白の実子であると信じる者は誰もいない、と記している。
また石田三成と片桐勝元は朝鮮出兵中でアリバイがあり、大野治長にはアリバイがない。秀頼は身長197cm、体重は160kg(豪栄道)もあり、祖父の浅井長政(180cm)にそっくり。
https://historivia.com/toyotomi-hideyori/3389/ >>174
当時から多くの人に疑われていたけどね。
特に、秀頼を激しく憎む秀次残党の田中吉政、池田輝政などは
秀頼は秀吉の息子ではなく不義の子だと言いふらしていた。 >>174
「大仏の 功徳もあれや 槍かたな(槍刀)
くぎかすがいは 子だからめぐむ」
関白秀吉は刀狩令を出して槍刀を差しだせ
そしたら大仏の釘鎹にしてやるから功徳を受けられるといったが
種無しの関白が子宝(鶴松)に恵まれたのも大仏の功徳かいな
当時から秀吉は種無しだと思われていた 秀吉も自分が種無しっぽいと解っていたんだろう。
滅ぼした浅井長政の今浜湊を長浜と改め一国一城の主となり、織田家中にあって中々子供が出来ず、正室寧々が自分の畑のせいかもしれないと自分を責め出したため、
(ねねの勧めもあって)設けた最初の側室に最初の子供が生まれ、秀勝(秀吉+勝家)と名付けたらしいが夭逝。
それ以来、羽柴の世継ぎを作らねばと焦り、側室を作りまくるも、全く子供が出来ず断念。姉友子の息子・秀次を豊臣の嫡男とせざるを得なくなる。
長浜時代に夭逝した秀勝も別種だったようだw
ところが甥の秀次には次々と子供が誕生し、豊臣が乗っ取られるという錯覚に囚われた秀吉は、側室茶々の産む子供であれば誰でも良いというような気持になったのではないか? >>174
秀頼の実父が誰か確定できないが秀吉の実子ではないという説を肯定する研究者は結構多い
出産経験のある女性を側室にしても子ができず、逆に側室から解放されて
他の武将と結婚して子供ができた女性を少なくとも二人は確認できるらしい
淀殿だけ二人も子ができたのは産婦人科医の意見でもありえないらしい >>150
そもそも茶々の背が高かったなんて信ぴょう性ないんだけどね
昨日奈良県立美術館であの「伝淀殿画像」の実物を見て
その解説書きで今までのいろんな疑問がとけたわ
あの画像に「伝」がつく以前から
元の所蔵がどこでどういう経路で今の奈良県立美術館蔵に至ったのかとか
淀殿画像であるという根拠が何も示されていないことが不思議だった
裏書や賛に書き添えがあるとも聞かなかったしね
でもほーんとに淀殿である根拠が超薄いという件が、昨日で解明
なので研究者でも何でもない何処かの誰かが
「淀殿画像の着物から身長を推定」で淀殿の身長はモデル並とか書いてたのは
元から間違ってるんだよなー 京極殿龍子は前夫の武田元明との間に2人もの男児を得ている
加賀殿おまあは秀吉没後に万里小路充房に嫁ぎ男児を産んだ
秀吉没後に伊達家に引き取られた香の前・お種も一男一女を産んでいる >>167
秀吉は小さい子ども猫可愛がりするよ
そういう文章が結構残ってる >>179
秀頼は何故か昔から不義の子って言われてるよななんでなんだ。
夫が出征中に妻が妊娠って分かりやすいシチュ故か 秀頼は大野治長と淀殿の浮気の子
家光は家康と春日局の浮気の子(秀忠に男子がないのに焦った家康が決めた。その直後弟・忠長が生まれ...w)
昔は、嫡男を決めておかないとお家騒動が起きて、骨肉の争いになるから、秀吉も家康も必死だったw 千利休は、ライバル秀長を毒殺したことがバレて切腹!
秀次は、(諸大名が前線の惨状を訴えるも)朝鮮出兵をやめようとしない秀吉を、監禁(主君押し込め)計画がバレて切腹! ちなみに長男・鶴松を殺したのは、北政所(兄・木下家定の五男・小早川秀秋を秀吉後継者としていたため)。
それゆえ次男・御拾い(秀頼)は、北政所(まんかか様)ではなく、生母の淀殿(かか様)が育てることとした。
https://www.youtube.com/watch?v=fG-w-rGoids 所JAPAN【息子を守る!最期まで秘密を隠し通した戦国最強シングルマザー物語】★1 生前の秀吉が淀殿「二ノ丸殿」と書いていたことに、なるほど!と思った。
でも秀吉は長男・鶴松を当時の常識にならい正室・北政所に任せて死んだことから、ねねに殺されたと直感したため、淀殿本人に次男・秀頼を育てさせるべく「豊臣の子ではなく、二ノ丸(淀)殿のみの子とする」と書き送った手紙を、
千田嘉博は、秀吉は自分の子供ではないと知っていた、という意味で紹介していたね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています