生前の秀吉が淀殿「二ノ丸殿」と書いていたことに、なるほど!と思った。
でも秀吉は長男・鶴松を当時の常識にならい正室・北政所に任せて死んだことから、ねねに殺されたと直感したため、淀殿本人に次男・秀頼を育てさせるべく「豊臣の子ではなく、二ノ丸(淀)殿のみの子とする」と書き送った手紙を、
千田嘉博は、秀吉は自分の子供ではないと知っていた、という意味で紹介していたね。