日本人に仏教が果たした役割とは [無断転載禁止]©2ch.net
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もともと日本は川の国だ。溜まる池や沼とは違う、また海とは違い、雨が山で浄化され流れる清らかな川は飲み水から食糧の源として大切だった。
その意味で古くは、縄文時代から特別であってもおかしくない。また日本書紀には、日本土着の畑の土の文化と、弥生時代に伝来した水田稲作の水の文化の対比があり、
いまの天皇に連なる神々は水の文化であり、清らかであることが神の特性の大きなものとなり、現代まで神道の基本である。
さらには仏教の伝来は日本人の清らかさへフェティシズムを加速させたと言われる。仏教も先の三輪清浄で上げたように清らかさの文化がある。
これを受け入れるとともに、神道はより清らかさを過敏となる。それが「穢れ」の嫌悪である。「穢れ」の概念は日本書紀からあるが、伝染病のように怖がるぐらい過剰にさせたのは仏教の影響と言われる。
その結果、神道は仏教よりも清いという、現代の神社とお寺の差異に見られるような、神聖で清らかな神道、そして濁りを清らかにする役割としての仏教という日本人独特の対比を生み出した。
日本での仏教が葬式仏教であるのは、最大の穢れである死穢を清め成仏させたのは仏教のみが持つ力による。「死体穢れ観」から「死体往生者観」へ。
そしてこの力が、江戸時代には、泥にまみれる農業や金を儲ける商業の卑しさを清めて、職分への勤勉さへ転倒させた。
この勤勉さは日本近代へ繋がり、西洋における「資本主義の精神とプロテスタンティズム」と対比される。
ただし西洋における「資本主義の精神とプロテスタンティズム」が資本主義の黎明期のみであったと言われるのに対して、
日本では現代まで続いていて、GDPにカウントされない非貨幣価値のサービスを提供し続けている。
こんな日本人の特殊な資本主義経済って、経済成長率や、一人あたりのGDPで語ることができるのだろうか。 仏教は江戸時代に死んだ論は間違いで、
寺檀制によって、江戸時代にこそ、仏教は日本の隅々にまで行き渡った。
ただしそれまでに日本の仏教は現世利益重視に、
変わっていたので、
極楽と地獄、成仏、勤勉さなどの、生活倫理として浸透した。
ここに現代の日本人の原点がある。 >>1は何もかも誤って居るけれども所謂叩き台ってやつ? >>
私がこの神話(日本書紀)でもっとも重視するところは 、高天原の主宰神とされる天照大 (御 )神が 、高天原でみずから 「営田 」した 「水田種子 」 (稲 )を天降る 「天孫 」に「神授 」し 、
粟 ・稗 ・麦 ・豆の 「陸田種子 」をこの世に生きている民の食物とする認識にもとづいて位置づけている点である 。
神話構成上の認識としては 、水稲は支配者層の文化を象徴し 、粟 ・稗 ・麦 ・豆などの 「陸田種子 」は被支配者層の文化としてシンボライズされている 。
弥生時代以降 、稲作を中心とするマツリは支配者層においてまずひろがり 、
水稲耕作の拡大によって 、民衆生活においても重要な意味あいをもつようになるが 、民衆の間にあっては 、粟や麦など焼畑耕作にうかがわれるような非稲作の文化のくらしを営んでいた 。
私の日本古代史(上)―天皇とは何ものか――縄文から倭の五王まで― 上田正昭 新潮選書 [Kindle版] ASIN:B00D3WJ5NK
<< >>
慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220
慈悲は他者に対してのみあらわれるものであるから、その具体的な顕現のすがたは他人に対して何ものかを与えるということになる。
「檀(dana 与うること)は慈相たり、よく一切を救ふ。」しかし他人のために何ものかを与え奉仕するということも、空の精神にもとづいて行われなければならない。
したがって、ときには慈悲と施与とが殆んど同義に解せられていることがある。
後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。
奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。(心地観経)
もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。
真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P128-129
<< >>4
そうだな。プラス儒教から来るマナー、接待の思想とかも。 祈祷技術であるとか、
成仏技術であるとか、
日本人の仏教受容は、現世利益重視であり、
テクニカルなんだよな
日本人には、根源的な魂の苦しみ、そして救済への渇望というのが希薄なのかね。
でもさ、ない方が普通のような気がするんだけど。 日本史で言うなら現世利益重視なのは上層の人間だけじゃないか?
平安の頃から極楽往生みたいな死後の救済への希求は根強くある もし仏教でなくてイスラム教やキリスト教だったら…
恐ろしや〜 >>
近代世界の苛烈な生存競争に勝ち残った二つの国が遠からず武力によって雌雄を決する 。
一方は西洋文明の代表国としてのアメリカである 。もう一方は 『法華経 』の信仰を体現する日本でなければならない 。
これは石原の宗教的確信です 。世界情勢を分析しての評論や学問ではない 。日本がアメリカに勝利して 『法華経 』の約束する理想郷をついに世界にもたらすのだ 。
世界最終戦争に日本が勝ち残ると 、現世はそのまま仏国土に変じて永遠の理想郷と化す 。理想郷にはもう戦争はない 。
だから本当に最終戦争である 。そのためには 「持てる国 」のアメリカに負けぬ国力を日本が持つ必要がある 。
しかし 、そんなことが可能でしょうか 。石原はその方策が知りたくて伊勢神宮に参拝したと言ってよいでしょう 。
「持たざる国 」の日本がなるたけ早くアメリカと拮抗できるほどの 「持てる国 」に変ずるにはどうしたらよいのか 。
伊勢神宮で祈ったら 、日本から飛び出した光が満洲に射し 、その地が輝いたというのです 。
なるほど 、満洲を一大根拠地にすれば 「持てる国 」になれるのか 。石原はそう受け取ったわけでしょう 。
同年夏 、関東軍参謀に任じられ 、秋には旅順に赴任します 。
別に石原本人がそういう人事を希望したのではありません 。陸軍の巨大な組織はいちいち希望を聞いてくれるようには出来ていません 。
たまたまと言うべきでしょう 。石原はそこに超越的なものの導きを感じていたものと思われます 。
伊勢神宮での啓示から一年を経ずして満洲の日本陸軍の中枢に入ったのですから 。石原の計画に基づく満洲事変が起きたのは一九三一年九月一八日です 。
翌三二年三月一日には満洲国が建国されました 。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命― 片山杜秀 新潮選書 ASIN:B00ASUXZ6S
<< 慈悲エコノミーが日本人を優秀民族としてきた。
慈悲エコノミーという過去から今に続く日本人の謎の源泉。
まさに右翼思想である。
しかし慈悲エコノミーは謎でもなんでもない。
文化人類学的な人間原初のエコノミーである贈与交換。
すなわち貸し借りによる共同体の形成に対して、
見返りを求めない贈与としての慈悲。
それが特に江戸時代以降、統治技術もして重視され、
平安の時代を構築してきた。
天下、あるいは世間という想像力の元に、それぞれが自らの職を全うする、慈悲行。
これは、仏教的な無我の思想として、経済則を超えて、宗教的な力を持つ。
すなわち自らの死さえ与える。
そこに生まれる清らかさであり、根源的な救済。
慈悲エコノミーは明治に入り、国家神道と深く結びつく。
国家のため、天皇のため、死さえ捧げる。 >>14
キリスト教は日本人を奴隷として売ろうとした宣教師の存在を知り
秀吉家康は禁止した
元は信長同様擁護してたけどな 慈悲エコノミーが日本人を優秀民族としてきた。
慈悲エコノミーという過去から今に続く日本人の謎の源泉。
まさに右翼思想である。
しかし慈悲エコノミーは謎でもなんでもない。
文化人類学的な人間原初のエコノミーである贈与交換。
すなわち貸し借りによる共同体の形成に対して、
見返りを求めない贈与としての慈悲。
それが特に江戸時代以降、統治技術もして重視され、
平安の時代を構築してきた。
天下、あるいは世間という想像力の元に、それぞれが自らの職を全うする、慈悲行。
これは、仏教的な無我の思想として、経済則を超えて、宗教的な力を持つ。
すなわち自らの死さえ与える。
そこに生まれる清らかさであり、根源的な救済。
慈悲エコノミーは明治に入り、国家神道と深く結びつく。
国家のため、天皇のため、死さえ捧げる。 ■アメリカ人のプロテスタントと日本人の大乗仏教
1 アメリカ人の思想の特徴
プロテスタントとしての天職概念。
商売は卑しいことではない。富を得ることは、努力によって天職を全うし、神に認められた
結果である。カトリックでは商売は卑しいものとされてきた。
プラグマティズム。
欧州には合理主義の伝統がある。それが啓蒙主義へと繋がった。プラグティズムは、欧州の
合理主義の限界を語り、それを補うのは各人の実働である。だから成果によって解であると
する。広大な土地の中で生き抜くために、思弁より実働が重視された。
科学的合理性へ楽観的信頼。
アメリカ人の合理性は科学的な合理性である。科学は真実をしるのではなく、活用されて成
果を生むことができる。それが解である。
近代初期の欧州での科学革命から啓蒙主義(理性主義)へと合理性が世界を解明すると信じ
られていた楽観主義の時代を継承しつつ、その後のヒュームの合理性への懐疑論さえも取
り込み、科学による成果が合理性であると、すなわちやったものが解であると楽観的に突き進む。 プラグマティズムとアメリカ人の躍進
科学の合理性は、演繹による合理性ではない。帰納による合理性である。帰納とは、個々の
具体的な事柄から、一般的な命題や法則を導き出すこと。パースはさらに論理的推論アブダ
クションを導入する。たとえば反証可能性。反証可能であることが解の条件である。すなわ
ち可謬主義。誤謬から逃れることはできない。重要であるのは反証できることで誤謬を見つ
け、さらに改善できること。だから推論し続けることが重要である。
アメリカ人の思考、「科学的合理性による成果が正義である。」とは、科学が世界を合理に表
記するということではなく、世界を合理的な表記することなど不可能である。世界はただ開
拓されるためにあり、そのもっとも効果的な方法が科学である、すなわち科学的に合理的な
方法がもっとも成果を生み、正しいという楽観的な信頼だ。
なぜこのような科学への信頼を持ったのか。アメリカ人が欧州から独立して、自らの思想を
成熟させた時期が、まだ科学革命の熱狂の時代だったこと、また過酷なフロンティアを生き
抜くために実際に輸入された科学技術が大きな成果を生んだことなどが考えられる。
このアメリカ人の科学的合理性へと楽観的な信頼は、大陸横断鉄道網の構築を経て、巨大な
マスを生み出す。点の集まりだった町を繋ぐセールスの流通網、供給する巨大な工業化から、
さらに大量生産大量消費社会、そして海外への輸入。巨大な富、巨大な軍事力、そして世界一へ。
大陸横断鉄道網が作られていた頃、日本も明治時代で国を挙げての工業化を推進したが、
なんと言っても国土は小さく資源がない。そのために、中国への進出を試みる。しかし侵略
は対立を生み、単に工業発展的とはいかない。結局、太平洋戦争の頃にはその差は圧倒的だった。 日本人とアメリカ人
日本人は、古来より現世主義で、プラグマティックである。弥生時代の水田稲作の早い取り
込みや、青銅、鉄の導入だと、新しい技術の取り込みも早い。島国、地震、豊かな資源など
と関係するのだろう。自然との実働的な関わりを重視する。だから労働に対する差別は薄い。
誰もが職により世間のために働く役割を重視する。仏行職分主義というプロテスタントの
天職論に近い思想もある。
アメリカ人との違いは個人主義と集団主義にある。しかし日本人はそれほど集団主義にだ
ろうか。日本人は案外、他人に冷たく利己的である。集団主義的なのは役割においてである。
役割を全うしないと、集団からの排除圧がかかる。しかしだから集団主義とは言えない。た
とえば本音と建て前があるという表現がある。建前とはそとずら、役割であり、本音はウチ
の顔であり、利己的な個人だ。これは良し悪しではなく、日本人の二面性があることを表す。
個人主義の通路をきちんと持っている。戦後、ここにアメリカ人の思想がつながる。
建前とはそとずら、役割であり、本音はウチの顔であり、利己的な個人だ。これは良し悪し
ではなく、日本人の二面性があることを表す。プラグマティックである面から、成果に貪欲
である。個人主義の通路をきちんと持っている。戦後、ここにアメリカ人の思想がつながる。
現代では逆に日本人は個人主義的だと言われる。集団主義的な面は避難されることが多く、
逆転しているようであるが、まだまだ日本人は役割を重視する。世間圧はまだしっかり働い
ている。とともに、日本人の個人主義はアメリカのそれとはかなり違う。 >>
近代世界の苛烈な生存競争に勝ち残った二つの国が遠からず武力によって雌雄を決する 。
一方は西洋文明の代表国としてのアメリカである 。もう一方は 『法華経 』の信仰を体現する日本でなければならない 。
これは石原の宗教的確信です 。世界情勢を分析しての評論や学問ではない 。日本がアメリカに勝利して 『法華経 』の約束する理想郷をついに世界にもたらすのだ 。
世界最終戦争に日本が勝ち残ると 、現世はそのまま仏国土に変じて永遠の理想郷と化す 。理想郷にはもう戦争はない 。
だから本当に最終戦争である 。そのためには 「持てる国 」のアメリカに負けぬ国力を日本が持つ必要がある 。
しかし 、そんなことが可能でしょうか 。石原はその方策が知りたくて伊勢神宮に参拝したと言ってよいでしょう 。
「持たざる国 」の日本がなるたけ早くアメリカと拮抗できるほどの 「持てる国 」に変ずるにはどうしたらよいのか 。
伊勢神宮で祈ったら 、日本から飛び出した光が満洲に射し 、その地が輝いたというのです 。
なるほど 、満洲を一大根拠地にすれば 「持てる国 」になれるのか 。石原はそう受け取ったわけでしょう 。
同年夏 、関東軍参謀に任じられ 、秋には旅順に赴任します 。
別に石原本人がそういう人事を希望したのではありません 。陸軍の巨大な組織はいちいち希望を聞いてくれるようには出来ていません 。
たまたまと言うべきでしょう 。石原はそこに超越的なものの導きを感じていたものと思われます 。
伊勢神宮での啓示から一年を経ずして満洲の日本陸軍の中枢に入ったのですから 。石原の計画に基づく満洲事変が起きたのは一九三一年九月一八日です 。
翌三二年三月一日には満洲国が建国されました 。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命― 片山杜秀 新潮選書 ASIN:B00ASUXZ6S
<< >>1
水田稲作かわ弥生時代で間違ってるし、日本だけでは無く大抵の文明が川の国
従ってチャンチャラおかしい 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
XE4RN 佛とは嘘で在り、悪で在る。
仏教なる名目に於いて一般労働からの逃亡を謳歌せし僧侶達は常に自己と周囲を欺く。
何ぞ反動的冒険を行えど、其れすら仏道の証と決定し、粉飾に塗れた生涯の一頁に刻むのだ。
例を挙げん。特権階級は道義的な労働条件から全く逸脱した人権の蹂躙たる酷使や富の再分配を忘却した独占主義なる犯罪行為に手を労働者の血で染めては其れを「ノブレスオブリージュの代償」と呼ぶ。
労働争議で被虐者が起てば、工場は生産是れ唯一の場所に非ずと言い出す。
資本家は青春の二文字をさも金科玉条かの如くに思慕し、如何なる一般的解釈も社会通念も屈曲する。
支配層に係れば虚偽も欺瞞も、詐術も弾圧さえも青春の香辛料でしか無いのだ。
又、封建領主は其の悪行に、其の詭弁に特別性を見出す。自己の労働からの逃亡は遍く青春の一部分で在るが、労働者の逃亡は青春でなく只の叛逆にして重罪であると断じるのだ。
仮に逃亡する事が仏道の証で在るのなら、資本家化を拒絶した労働者も又青春の中軸でなければ破綻的矛盾を生む。
しかし、肥え太った僧侶共は其れを認め無いだろう。
何の事も在らぬ。全体汚らしい豚の都合主義の範疇を超え無い。畢竟、其れは欺瞞に他成らぬ。虚偽も欺瞞も詐術も弾圧も糾弾される可き物だ。
資本主義は悪の源泉だ。
演繹的にも帰納的にも前衛的に仏道(笑)を謳歌してい無い労働者の方が正当な真理的正義で在る。
結論を言おう。
共産主義こそ根本である。 |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::|
ililililil ilili〆 /⌒ lili/ /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::|
(ili -・=V =・- V) i::::::l゛ .,-・= ,!. =・- l::τ
゚li " (・_・)ヽ l* |:::::| :⌒ /.. iヽ ⌒u|::i
)人 > ⇒( 人( (i::i″ ,ィ__) i/
_ __:ヽ、__ __,イ_ ヽ U / ::::/:::〈 i
/;:;:/゚。 ⌒。゚\;ヽ ヽ_ ノ::``ーー''ヽ _/
|:;:;:;:;Y * /;く;:\ __人 ` ̄´ 人_
|;:ヽ:;:;: \ ̄/;:;/;:;:\ /: : : : : ` " λ : :ヽ: :\
|:;:ヽ:;:;:;:;ヽ/, / ⌒つニ/⌒ ヽ: : : :\ /▼ヽ/: :く: : : \
|;:;:\;:;:;:// /< 二二)(二二): : : : : :\▲/:_・:/: :_: : : :ヽ__
|:;:;:;:\;:;:|| | < __)ゝ__人: : : : : : : ▼// ̄__つ (__)
;:;:;:;:;\:;| | <___ノ (___): \: : : : : :// / < __)(____)
ヾヽニニ/ヽ--'/: : : : : :\: : : :| | | < ___) (__)
反 知 性 主 義 者 飢饉や災害時に多少は蓄えを難民に恵める寺
あれど、そんなに裕福でもない。亡くなった方
の供養や人々の病や因果について正しい方向や
心の有り様について、仏教がなければ日本人は
存在しえ続けなかったであろう。しかしそこが
溜まり場や仮設住居化していたら生臭坊主だがな。 >>21
プラグマティズムは仏教特に禅と親和性がある。
参禅して独自の哲学を作った西田きたろうはプラグマティズムのウィリアム ジェイムスの純粋経験の概念を自分の哲学の機軸にした。
ジェイムスも仏教を高く評価しジェイムス研究者はジェイムスの哲学は禅的だという。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
PLC 明治政府は廃仏毀釈を意図していませんでした。
明治政府が行おうとしたのは穏健な神仏分離政策だったんですね。
しかし、それまでの仏教や僧侶に対する民衆の不満が爆発して
廃仏毀釈へと進んでしまったわけです。
以下証拠資料名
○「神仏分離を慎重にすべき令」
(太政官布告第二に六号、慶応四年4月10日)
○「神仏分離は廃仏毀釈ではない旨の論達」
(御沙汰第第五〇四号、慶応四年6月22日)
○「僧侶が妄りに復飾することを禁じた件」
(行政官布告七五二) 仏教が伝わった欽明天皇の時も
大仏を造った聖武天皇の時も国内に疫病が流行った。
しかし、八幡神の裏切りがあって仏教はついに国内に受け入れられて
しまったが、仏教が流行した日本中世は国内は血みどろの争いの世と
なってしまったのであった。 今日、神社とお寺の行事がバッティング。
今年3月まで両方の役員してた。
そのままだったら面倒なことになってた。
神社は毎年11月3日が年間最大のお祭り、
お寺は旧暦9月26日が年間最大のお祭り・・・
どれ、まず神社から行くことにするか。 禅仏教がプラグマティズムに一杯食わされることの方が面白いだろうに。
日本仏教というと渡来から渡航で伝わったわけのわからない感情も含めて
日本の移民に対して戦場でこそ張っていくべき自信作の日本文化なのでしょう。 仏教徒 ゴータマシッタールダ は元気な子だったそうです。
それが年を経て座って落ち着いて大成された。
地球世界をを背負っていく宗教家になると誰が予想したでしょうか。他我によって
鍛え込まれた自我は、喧嘩のまなざしでしょう。 一人孤独に歩むこと。それがブッダの一番大切な教えです。 素晴らしい建築技術をもたらしたが
アーチはもたらされなかった >>15
『法華経』の国を作ろうとしているのになんで「伊勢神宮」に参拝するの? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
.
お寺の五重塔と比べると、古墳がダサく見えてしまってついには廃れてなくなってしまった
古墳は数多くの石を積み上げてもあのくらいの高さにしかならないが
五重塔なら古墳よりもはるかに簡単に高さを得ることができたからだ
そのかわり古墳ならだれもが頂上に登ることができたかもしれないが
五重塔では出資した有力者しか上ることができなくなった
(五重塔は上からの見晴らしを楽しむものではないし上れるようにもつくってないのだろうが)
古墳では、近隣の村が祭りになったらまわりに集まっていただろうが
お寺では、修行者など選ばれたものしか塀の中に入ることができなくなった
古墳祭祀には貧しいものへの再分配の機能が副次的にあったろうが
寺院建築では技能のあるものが優先的に財を得るようになっただろう
(以上個人的な推測) >>1
仏教は、民を救うブッダの化身としての皇帝や国王による、古代東アジアの中央集権強化政策だったんだよ
大仏は、時の中国皇帝や朝鮮王、日本の天皇の銅像でもあるわけ
奈良東大寺の大仏は聖武天皇の銅像になっているとかいないとかw 仏教がないと日本は功利主義に走るだけ
功利主義ではギスギスした社会になる どう考えても蘇我氏は仏教で列島土民を教化するための百済の先遣隊 支配階層が6〜7世紀でごっそり入れ替わったんだよ
「聖徳太子」の憲法は多数派になった仏教を信じる新渡来系氏族の勝利宣言 十七条憲法の第一条が三宝(仏教)を敬えでなく和を以て貴しとなすというのは興味深い 「聖徳太子」存命とされる時期に実際になされた制圧宣言は
もっとえげつないもんだったろうさ
仏法僧に手を出したやつは「和」を乱したとして容赦なく処刑 後世に蘇我氏を悪者に仕立てたせいで
推古紀を改ざんするより他なかったから、中学生レベルのなんちゃって漢文(倭習)で偽書を作った
以上 51
んなら責任とらしてその系統のやつらの宗教は抹殺、子孫も抹殺でよいやん >>1
仏教は日本人を文明化するうえでは功績が大きいよ。
あの時、物部が勝っていたら日本人の文明化はかなり遅れていたと思う。
一足先に鎖国をやっていたと思う。 パターン1
蘇我氏を悪者に仕立てたのでそれ以前の蘇我氏の事跡を削除
その場合の蘇我氏を悪者にした理由
畿内の支配権を禅譲させたため
パターン2(パターン1と因果が逆)
蘇我氏の事跡を消したかったから後世に悪者に仕立てた
これだとなぜ蘇我氏の事跡を消したかったのかという理由が必要になる 日本古来の八百万神を衰退させ、祭祀を仕切っていた物部氏本家を没落させた 穢多非人は前世で悪いことをしたからだと因果応報論で身分差別を生み出した。 像を必ず戻してくれる状況が整うなら
※(大正時代に萬福寺にあった隠元の歯と髪を中國にあずけて文化大革命で行方不明になった過去があります)
駐中日本大使があほな予感
高僧隠元像、中国「里帰り」検討 国交50年、インゲン豆の由来
www.iwate-np.co.jp/article/kyodo/2021/11/2/783402
【北京共同】在中国日本大使館が来年の日中国交正常化50年に向け、
江戸時代に中国から日本に渡った黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の
高僧隠元(1592〜1673年)の禅師像を、
中国側に一時貸し出す方向で検討していることが2日、分かった。
日中関係筋が明らかにした。隠元は禅宗「黄檗宗」を開き、
インゲン豆を伝えたことで知られる。
高僧の「里帰り」という文化交流を通じ、日中関係改善の後押しを狙う。
萬福寺によると、像は木造で高さ161・7センチ、生前の毛髪とひげを使い1663年に制作された。
萬福寺の担当者は「像を必ず戻してくれる状況が整うなら前向きに検討する」としている。 宗教というものは、民衆を骨抜きにするために
権力者がツールとして使ったもので
全ての宗教はユダヤ教から派生している
日本に伝わった仏教は、汚い部分を排除して、とても良い仕上がりになっているそうだ
もっと源流に近いチベット仏教など、信者はみな●しにすべきと思われるくらいに酷いものだ
中国がやっている宗教弾圧は先進的で正しいものだから、むやみに批判すべきではない
日本の歴史の中で、政府が民のための政治を行ったのは江戸時代のみだ
江戸時代は天皇も仏教だった
バテレン大名が火薬欲しさに娘を海外に販売していることに対して
徳川は「金を出すから連れ戻せ」と言って戦争になったのが島原の乱だ
そんな素晴らしい政府を育んだのは仏教だったのだろう
その仏教を迫害した明治政府の連中の正体は、李氏朝鮮の李家だったようだ
李家はキリスト教だが、国民に戦争させるために英国と共に腐れ神道をでっちあげた
そして日本は元祖ISISになった
アッラーの神でなく、寄生虫朝鮮神だが 仏教は神道と共存できたのが大きい
ほかの宗教だと神道はなくなっていた
宗教戦争起こってた インドから中国に入った大乗仏教では大きな船で衆生と共に彼岸を目指すとは言ってもまず衆生を教化させて五戒やらなんやら守らせないと行けないのは釈迦仏教と変わらなかったのだが
(大乗には仏性やら唯識やら釈迦仏教にはなかった概念はあるが)
日本の仏教は
南無阿弥陀と唱えれば死後は極楽浄土に往生できる(法然、親鸞
南無阿弥陀と唱えてる瞬間瞬間にその都度極楽浄土に往生している(一遍
南無妙法蓮華と唱えるとこの世が寂光土という浄土になる(日蓮
坐禅をすること自体が仏の姿である(道元
と衆生でも割合と簡単に仏国土に行けたり仏になれたりする所に特徴がある
これで厳しい修行をしなくても救われると思った日本人は多いだろう
事実、法然が浄土宗を広めてから人々は安心して自殺できるようになったという
南無阿弥陀と唱えてたら自殺しても極楽往生が決まっているのだったら安心して自殺できるから 冠婚葬祭板 関連スレッド
どうせ宗教信じないんだし葬式等も坊さん抜きでやろうぜ!無宗教葬でいいじゃん
主題歌
みんな バイバイ坊主 無宗教なら バイバイ坊主 実行しよう
真面目に 宗教自体を 君は否定するの?
ヤツらに お布施を出すのも アホらしくなるだろ
「坊さん呼んで どうぞ お願い」なんて
ああ釈迦は そんな事は 一言も言ってない!
※ みんな バイバイ坊主 忘れないで バイバイ坊主 日本中で流行れば
バイバイ坊主 葬式仏教 バイバイ坊主 消えてなくなる ※
Fool 深い欲望で Fool 腐敗堕落した
出家とは 名ばかりの 煩悩メカニズム
「お墓は寺に 建てて お願い」なんて
ああ釈迦は そんな事は 一言も言ってない!
【※ くり返し】 >>1
なんだかんだと言っても、日本人に文明を伝授した功績はでかいと思うぞ。 キリスト教が未開地の統治支配に利用されたのと一緒
仏教が日本列島で普及したのは現地人を教化して扱いやすくするため 神仏混合したのは8世紀だろ
天武天皇が天智朝から王権を簒奪してその正統性を捏造するために記紀の編纂を始めたのがキッカケ
それまで土着信仰は社すら建てていなかった
仏教の中国式の荘厳な建物を参考にして建てるようになっていった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています