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南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
は、後続文
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國
次有鬼奴國次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡 に、よって 

邪馬壹國 が、伊都国、奴国のような、特定の都市名ではなく
21国で構成されている国名である ことが判る。
従って、邪馬壹國 が 女王之所都 である、という訳はおかしい。

海峡を南へ水行十日で、邪馬壹國に入国して 女王之所都 へはさらに 陸行一月
という解釈にならなければ、文法的に成立しないのではないかな?

>どっから陸行始めたんやろね?
なら、九州上陸から、と考えられる。

ただし、これは 到伊都國 で終る積算1万5百里の
都市間を里程で示した行程ではなく、別の大局観での地理説明である。

240年梯儁の魏の軍船による卑弥呼への印綬行軍は上陸地点が、
248年倭人船に便乗して来た張政の僻地 末盧國である必要は無い。

正々堂々、博多湾に上陸し、残りの陸行も
伊都の一大卒に駐留、検閲されることなく、郡から万二千里の女王宮に向かっている。

この時が、
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
であれば、戦争を始めるだけの、海賊退治余裕の魏軍の行軍だったはずである。