壇ノ浦の戦いで平家はなぜ退却しなかったの? [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
坂東平氏の有力御家人
・上総介広常
・千葉常胤
・三浦義村
・和田義盛
・大庭景義
・梶原景時
・畠山重忠
・河越重頼
・葛西清重 上総介広常と河越重頼(義経の舅)を除いて、粛清したのは北条氏やし。
千葉、葛西は長く続いた。
・侍所所司→別当
・播磨・備前・美作・備中・備後の守護
・十三人の合議制のメンバー
景時が無官というのも問題じゃないな。
愚管抄にもその名が挙げられ、子供の景季、景茂は任官してるからね。
特に景茂の任官は、頼朝の成功推挙の選に入った景時の権利を譲られたもの。 >>93
?源平合戦時の話だぞ?梶原氏全体を見ても当時は無位無官じゃね? >>94
播磨・備前・美作・備中・備後の守護になったのは、まさに源平合戦の最中ですよ。
長男の景季が、義経に便乗して無断任官したのも源平合戦の最中。
(例外的に頼朝の咎めなし)
そりゃあ梶原氏は、足利・三浦・千葉・小山・宇都宮のような大身じゃあない。
相模平氏の分家筋だからね。 >>93の梶原景時が「有力御家人」でないのなら、
和田義盛や畠山義忠も有力御家人ではないことになるよ。
いずれも、三浦氏や秩父平氏の分家筋で、
頼朝に一本釣りされて引き上げられた人間なのだから。
頼朝生前の北条時政(北条丸さん)・江間義時親子は言うまでもない。 >>83 でも、貞盛の末裔でなく良文の末裔で傍流。 >>86
四国の拠点屋島を奪われて、壇ノ浦で最後の戦いを挑んだんでしょ。 >>101
勝ってもその後の展望がないような。
補給は続かないし陸地は敵だらけ。
降伏するか、沖縄や奄美に新天地を求めるくらいしかなかったんじゃ? この時期は、島津も、大友も、まだ土着してませんよw
たとえば豊後は、まだ緒方惟栄(後に義経に肩入れして流罪となる)が
平家と平家方の宇佐神宮とやりあっていた時代。
島津家初代の島津忠久が、島津荘下司職に任命されたのも、
壇の浦と同じ文治元年(1185年)で、平家滅亡後のこと。 外国と交易してたんだから、倶利伽羅峠辺りで海外から援軍頼めば良かったのでは? 秘密裏に海底基地を作っておくという道もあった。
壇ノ浦で入水して滅亡したと見せかけて、海底基地に逃れて、そこで
平穏に暮らせば、源氏に見つかることはあるまい。
二位の尼が安徳天皇に語った「水底の都」をリアルに実現するという
ことだ。 琉球諸島に接近した平家艦隊が、為朝の矢で撃沈されまくるんですね 源為朝に対して安徳天皇が赦免状を発給し、官位を復することによって、
平家と源為朝が和解できるのではないか?
平家軍に加わった源為朝が琉球から射た矢は、本土の源氏軍にまで届いて、
源氏の軍勢を次々に倒していくことだろう。 いや、為朝は琉球王だから、日本の官位なんて必要としてないから。
とはいえ、「琉球王」としては、平家と無理に争う必要が無いのは確か。
大陸への防波堤として雇ってもらえるかもしれない。 安徳天皇が為朝を琉球王に冊封するというのもありかも知れない。
安徳天皇・平宗盛などの公卿による日本国朝廷と、源為朝による琉球国朝廷の
二重国家になるのだろう。
源為朝に琉球の統治権を認めるかわりに、年貢を上納させることとし、
八重山諸島・奄美大島など周辺の島嶼は安徳天皇の直轄地とすればよい。 人形師だと、清盛が「おまいら鬼界ヶ島行きね」って宣告した瞬間の三人のリアクションが
マジビビリだったからね。 沖縄本島の首里に都を造営し、安徳天皇や建礼門院がお住まいになる御所、
琉球王・源為朝の住む王府を建設する。また、平家の公卿たちの居館がその
周囲にできて、首里はたちまちにぎわうことだろう。
平家の築いた貿易のノウハウで、宋との交易も復活し、経済的にも繁栄する
のは間違いない。沖縄は宋の江南地方と地理的にも近いので、交易には
よい立地だ。 >>121
遣唐使船が沖縄に寄ったというんだが…海が荒れて行っちゃったということだとか 琉球が中継貿易の拠点として栄えるのって、いつぐらいからなんだろ。
日宋が直接貿易してると中継貿易の必要性がないよね。 >>125
鎌倉時代の琉球って原始時代みたいな生活だったんじゃ? 土着の漁民はそうだけど、九州から大量に移民して来た集団がいるから >>126
領主が群雄割拠していたというだけで
それほど文化水準が違っていたわけではないだろう
日本本土でも平安時代まで農民は縄文時代と同じ
竪穴式住居だったからな
ちなみに当時の琉球は台湾辺りまで含んでいた
(台湾も群雄割拠していた) >>130
50年ぐらいしたら蒙古が攻めてくるぜ? 対馬・壱岐方面に逃れていたら、数十年後に蒙古に攻められてしまう。
だから、琉球方面へ逃げておくのがよい。
琉球に逃げておけば、その後、台湾や海南島へ逃げるルートも開ける。 >>132
いや。平家が生き残っていたら義経は高館で死ぬことも成吉思汗になることもなかった 義経は奥州ではなく、沖縄に来るように、平家が呼びかければよい。
為朝に加えて、義経も味方につければ、平家は最強だ。
壇ノ浦で八艘飛びをした義経は、本島から石垣島・与那国島まで
軽々と飛び越えるのではないか。 >>136
琉球語は古い九州方言がもとだから九州の人とは通じたはず 範頼が豊後に上陸して九州への逃避経路を抑えた為退却する事も出来なかったんだよ >>144
東国が飢饉で食糧カツカツの状態でまがりなりにも軍団維持してる時点で少なくとも無能ではない 無能だから頼朝は大嫌いな義経を起用せざるを得なくなったんだけど >>147
最初から嫌いだったわけではないだろう
後白河法皇から直接任官を受けると言う
頼朝の家臣であることを忘れた態度に出るまでは >>149
頼朝の命令で出陣した義経が平家討伐で名前をあげるまでは
後白河法皇は源義経なんて知らないだろ >>144
屋島で逃げられた轍があるから九州の退路を絶ってガチで滅ぼしにかかった。平氏は西国強いので九州に引かれると面倒な事になりかねない 後白河が頼朝と義経を対立させようとわざと煽ったんだろ? 義経っていつ頃から後白河法皇に顔知られるようになったんだろ。
三種の神器奪還失敗して心情は良くないと思うんだけど 木曽義仲と戦う前から九郎義経の名前は朝廷に知られていたし、
義仲を追い払った後で義経が中心になり後白河を護衛していただろうが。
あと三種の神器はさほど問題視されてない。井沢本なんか読むのやめとけ。 三種の神器を重要視していたのは、朝廷や後白河院よりも、むしろ頼朝の方だろ。 平家は一の谷や屋島のような畿内に近いところではなく、九州を拠点にして
本軍は鹿児島あたりに置けばよかった。
源氏が追ってくるには遠いし、仮に攻め込まれても、奄美大島や屋久島に
すぐに逃げることができる。 京都と朝廷の奪還を狙ってたのに、南の果てで持久戦体制に入ってどうするんだよ >>157
へ?
後白河が頼朝に三種の神器取り返せと命令したんでしょ? >>162
まずは、違うという理由を述べてからソースは?と言おう >>163
160=162だ
単純にあんたらの持論の根拠を知りたいのであって163が間違いだとは一つもゆーてないわ 一次史料は不明だが、頼朝が義経に三種の神器の奪還を「厳命」した、とか
義経が草薙の剣の回収に失敗して頼朝が「激怒」したとかはありふれた記述でしょ。
一方で、後白河院が頼朝に対して「激怒」した、義経に対して「激怒」した、
とかいう記述は、以前から無いわね。
朝廷や後白河院が三種の神器をそれほど重要視していなかったことは、
最近は特に指摘されることだ。
頼朝としては、対朝廷交渉のカードにしたかった、
鎌倉方の手柄にしたかったんだろうけどね。 だいたい三種の神器の草薙の剣はレプリカで、本物は熱田神宮にあるわけで。 御霊を分けた存在なので、霊的にはオリジナルと同等の価値がある存在だよ。
無くなってからと言って仕方ない、で済むレベルじゃない。 >一次史料は不明だが
その一次史料がないと語るわけにはいかんでしょ。
司馬遼太郎の小説を真に受けて事実だと誤認してるあほもたくさんいる。
あの戦乱の状況下で回収して来いって方が無理な命令なのであって、
回収できなかったら最初に叩かれるべきは義経になる。
でも義経が朝廷側から寵愛されていたという事実を考えれば三種の神器そのものは大した問題じゃなかったと思う。 そうか?
後鳥羽が水没した剣の捜索を後に命じているぐらいだから >>168
そんなこと言ったら、どっちとも言えない、何も言えないでしょ。 >>169
後白河≠後鳥羽
神器無しで即位したという負い目を抱える後鳥羽が神器に拘るのも、また当たり前のこと。 >>170
一次史料になければ、〜があった、なんて断言するのは無理、それが史学。 >>172
無いとは言ってない。
ありふれた記述、誰もが記述しているが、
一次史料の出典が確認できなかったというだけだ。
吾妻鏡なのか、玉葉なのか、愚管抄なのか、吉記なのかわからない。
あれだけ自然に記述されていれば、根拠となる一次史料があると考えるのは自然なことだ。 >>173
壇浦の、義経が平家の舟の漕ぎ手を狙うよう指示したこともあちこちで見るけど、
あれが一次史料どころか平家物語にもないことくらいわかるよね。 >>1
沖縄に逃げても自活出来ないよ。新田開拓から始めて何年もかかる
>>37
元寇で10万以上動員してるのに1万は過小過ぎる >>176
太平洋の小島に何万人も送り込んで補給の船を沈められて餓死した日本軍になるわ 平家はまだ都で栄えていたうちに準備しておけば、南九州・奄美大島・沖縄への
逃亡ルートを作ることができた。都落ちしてから慌てて逃げて、しかも屋島を
失陥したとき、彦島しか残っておらず、ほとんど粘ることができなくなったのが
いけなかった。 食糧が原因と確かに、昔聞いた。玄米とか、当時食糧事情、栄養が都は足りていなかった。
野山かけまわって鳥や獣とか庶民は食うだろ、内緒にしろさあ、干物、乾物ではビタミンを足りない
庶民の方がよほどうまいものを食う、源氏と平家、その差、聞いたことがあったけれど? 当時は西日本が不作だったらしいね
そのため、平家は武士の動員力が低下し、劣勢になったらしい
富士川の合戦で潰走したのも、臆病だったからではなく、源氏側と
軍勢の人数に差が付き過ぎたためらしい >>181
言い訳だけは一丁前の京都人
京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 退却するより和睦に応じたらよかったのに
一定の勢力を保持したまま次の時代に移れたのに >>184
後白河法皇がそれを許さなかったのでは?
半ば法皇が仕掛けてるから。
保元平治の乱なんてまさにそれだし。 一の谷とか屋島とか、退却した場所が都に近すぎたのがいけなかった。
源氏に追撃されたとき、逃げるのに一苦労だった。
最初から南九州あたりを本拠地にして源氏と戦いながら、奄美大島や
琉球にも拠点を築いていけば、逃げ場所に困らなかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています