【初心者】スレッド立てる前に質問をPart37【歓迎】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ
日本史・スレッド立てる前に質問をPart36
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1431960606/ >>271
全員が、ってわけではないけど、
上皇や大御所で権威、権力を行使した
者の力の源泉は天皇、将軍の経験者と
しての部分によるところが大きいと
思うけどね
最後の行は興味ある
詳しく教えて >>274
天皇経験者としての実績が何よりも重要ならば
19年間も天皇としての実績を立派に積んだ崇徳上皇が院政をとれなくて
わずか2年間しか天皇じゃなかった後白河上皇が
その後何十年も院政をとってるのはおかしいわな
「元天皇、前天皇ではないのに
家長だから院政を取った人物もいる」
守貞親王(後高倉院)、西園寺寧子(広義門院)
いずれも院政をとったが天皇として即位したことはない >>274
最後の行って、
>逆に元天皇、前天皇ではないのに、家長だから院政を取った人物もいる
のことだよな、>>272が言ってる後高倉院が代表格
高倉天皇の子で後鳥羽上皇の弟。天皇としての即位はしてないが、乱後の新しい天皇 後堀河天皇の父親とし上皇宣治を受けて院政をおこなった
あと、正平一統の後に即位した後光厳天皇の時、祖母の広義門院(西園寺寧子、後伏見上皇の女御で光厳天皇及び光明天皇の実母)が院政を行った。
紹介されてる名前のチェックぐらいしとこうよ 北条でも誰でも良いんだけど、
子孫や末裔はいるの?仮に、いたとして、何をしているんだろう
ググってみると『北条 末裔』いるよと書いてあるし 肥(コーエー)のゲーム?
ばかりやっていると・・・と言ってる人がいたよ
何々家は滅亡しましたと出てきて、
子孫も末裔zero??
このように洗脳されるとか 数年前の肥(こえ)関係のスレ
こんな????(忘れた)企業、なんだよ!
と言ってる人がいたり、そういう書き込み 自民党の無役だけど力持ってる長老と
総理総裁みたいな関係性? 東豎子(あずまわらわ)という女官は、「三つ子は天皇を守るという故事」から来ているそうですが、
この故事というのはどこに由来するものでしょうか?
女官が男性名を名乗るというのがとても興味深く感じて気になりました 少なくとも奈良時代には、女官が男性名を名乗って一般の官僚として働いた事例も見つかっているらしいけどね
逆に名前だけでは性別を確定できないらしい。 古代中国では豎は戴冠していない童僕のことで周礼天官に「内豎掌内外之通令,凡小事」とあって
こまごました雑務を扱わせるものとしている。この慣習が日本で襲用されるさいに、どういう経緯か
女性となって、さまざまな呪術的意味合いが付加されたのだろう。「豎子」は孺子(こぞう)という程度の
意味だからね。これに東(あずま)がついているあたりは何かを意味させようとはしてるのだろうけれども
根拠あることについてはちょと分からない。 安斎随筆10には「姫マウチギミ(姫松)」でかるく言及してるんだけどwikipediaに書いてある
範囲をこえないコメント程度、公事根源に東豎子について言及があると示唆してある。 平安時代の途中から幕末くらいまで、例外的なケースを除いて歴代の天皇は
親政をしていませんでした(摂政や関白、大臣、幕府に委任?)
(明治〜戦前も親政ではありませんが、政治への関与は増えたかと思います)
こういった天皇の政治行政への関わり方と、現在の天皇陛下の政治行政への関わり方は
本質的にはほとんど同じようなものなのでしょうか?
象徴行為とか国事行為とか祭祀とかは別にして >>286
>象徴行為とか国事行為とか祭祀とかは別にして
戦後はそういう形でしか関われないと思うけど。 >>281
北条一族内の力関係なので別次元の話と思いますが、強いてあてはめるならば
田中角栄、竹下登両元首相と現役の首相の関係が近いと思います。
私は鎌倉時代が専門ではないので詳しくは知りませんが
得宗と執権の関係をややこしくしているのは得宗の時宗が執権になる前の時期です。
力関係では時宗の方が執権の長時、政村より上だったと思います。
時宗がほぼ成人した政村時代は時宗は連署をつとめて経験を積み
18歳で執権に就任、政村は連署にまわります。いわば大政奉還です。
このあたりは天皇、将軍経験者が実権をにぎる院政や大御所政治とは違う形態になります。
しかも貞時、高時時代には内管領が力を強め、得宗は思い通りにはできません。
(それを得宗専制政治と表現するのは私も納得がいかないのですが)
こんなややこしい話を中学生に理解させるのは困難です。
実態を無視して執権に収斂させるしかないでしょう。 象徴行為 → 戦後GHQの造語
国事行為 → 政治行政への関わりそのもの
祭祀 → 政治行政と無関係
結論:何が言いたいか分からない >>288
>しかも貞時、高時時代には内管領が力を強め、得宗は思い通りにはできません。
>(それを得宗専制政治と表現するのは私も納得がいかないのですが)
得宗の側近であることを権力の源泉としているはずの内管領が実権を握ってる状態を得宗専制と呼ぶ現状が妥当であるなら、
室町時代の足利義政期前半ごろの、側近政治の時代も将軍専制と呼べることになってしまうんだよな、誰も呼ばないけど。 >>290
しかし、鎌倉幕府は北条高時の死によって終焉したわけで
長崎高資の死によって終わったわけではない
そういう意味では得宗専制といえる
江戸時代だって実際に実権を握っているのは側用人でも
大名たちは柳沢吉保のために忠義を尽くすわけではなかったからねえ >>291
>しかし、鎌倉幕府は北条高時の死によって終焉したわけで、長崎高資の死によって終わったわけではない
>そういう意味では得宗専制といえる
同じことは足利義政にも言える。義政時代に権力を持った側近たちは、「将軍家とのつながり」ではなく、義政個人とのつながりによって権力を持ってたんだ。
だから、同じように将軍専制の時代と呼んでもおかしくないはずだ、だが誰も言わない。 >>292
義政の時代も政治のトップは義政だろう
義政の幼少期、もしくは政治に興味を失った後は
側近が実務を執り行ったり富子が跡取りを決めたりすることはあったにしても
義政に政治のやる気がある時には義政の意見が最優先されており
将軍の意見よりも優先するほどの実権を近臣が握っていたわけではない
それをいったら院政期にも後鳥羽や後白河が実権のトップにいても
実務は院近臣たちが行っており必ずしも院がすべての政治を行っていない
ただし後鳥羽や後白河が意見を言った場合にはそれが院近臣の意見に優先している >>287 >>289
わかり難い文章ですいません
現在の天皇は政治行政に直接的に介入できません
また、内閣や議会が正式な手続きで決めた政策に対して
拒否権等もありません
しかし、同時に天皇陛下の決済(御璽)がなければ正式決定になりません
例えば江戸時代の天皇等は江戸幕府が決めた政策に対して
拒否権があったのかどうか?また、最終的に天皇の決済がなければ
正式決定にはならないのか?天皇の決済がなくても正式決定になったのか?
そういう部分をお聞きしたいのです >>294
江戸時代の天皇は幕府によってほとんどの権限を制限されて決裁権も拒否権もないから後水尾天皇の
紫衣事件とか勝手に譲位事件とか起こった。(詳しいことはググれ)
ところが長い平和が続く間に水戸学や国学などの尊皇思想が蔓延した結果幕末には開国に天皇の勅許が
必要という事態になってしまった。鎖国したのは幕府なのに開国するには勅許が必要っておかしな話だが
それが時代の空気ということなのだろう。
現在の憲法では決済が必要とは書いてあるけど拒否したらどうなるとは書いてない。内閣の決定を拒否しない
という暗黙の了解のもとに成り立っている。 >>295
ちなみにペリーの開国要求への勅許を孝明天皇が拒否した結果、大老井伊直弼の裁可で勝手に開国して
その結果井伊直弼は暗殺された。 >>296
ちなみに孝明天皇は開国反対、攘夷攘夷という思想だが何故か幕府への信任が厚く
開国後も幕府に神戸や大阪の開港をやめろと指示するのに攘夷派の長州には耳を貸さなかった。
不思議だね。おかげで長州は御所を襲撃する禁門の変を起こして朝敵に成り下がった。 >>294
逆に尋ねるわ。日米通商条約は正式決定になったのか? ならなかったのか?
君はどう思うんだ? 同様に日米和親条約については?
“正式”の効力はそういうもの。幕府の力に依存する >>295
>内閣の決定を拒否しない
>という暗黙の了解のもとに成り立っている。
自己レスだけど、国民主権という大前提があるから国民が選んだ内閣の決定を天皇が拒否することは
有り得ないということになるんだろうな。 >>295
開国のとき幕府が朝廷に勅許を求めたというのは実はデマで、
幕府が求めたのはただの同意だった
開国時の幕府方針は全大名の同意を得てから開国するというもので、
朝廷のことは大名と同列にしか思ってない
大名の同意を求める一環で朝廷にも同意を求めただけ
それを勘違いして勅許を求めたとして騒いだ勘違い君が事態を悪化させた >>295
そのへんは、憲法では明確な規定がないから一般法の規定で決まるってことではないの
現行法ではどう規定されてるの >>301
規定はない。そういう事態は想定されない。それが日本という国だ。 >>300
>開国時の幕府方針は全大名の同意を得てから開国するというもので
諸大名に意見は求めたけど同意は求めてない。 >>295 >>298にお礼レスと私見を書き込んだらエラー(NGワードが含まれる)になって
書き込めなかったけど、テストだけ書き込んだらOKだった
よう分からん
別に変なワードなんか使ってなかったのに・・・ 国際法の側も歴史的に発展してきてるからね。1600年以前の外交条約なんて
口頭による契約が原則で、証人や証書があれば足りたけれども、ウェストファリア
条約以降の多国間外交時代では、誰が権威を与え、誰が正式な交渉団であり、
誰が批准し、失効条項や留保条項や解釈宣言はどうか、という近代国際法の慣習が
確立してきたことがある。幕末開港期の列強外交団が幕府と朝廷の二元外交を忌避
したのにも理由がある。ペリーが国書を奉拝するにしても幕府に対してでよいのか
どうか、あいまいにされてはペリー自身が米国大統領に対して申し開きが立たない
ことになる。 対面子と実行力は別だからね
支那と交渉しようとした場合,北京でやるか台北でやるかの違い以上に微妙な問題 >>300
もともと鎖国は諸大名や朝廷の同意を得て行われたものではなかったし
江戸幕府は将軍主導のもと譜代しか幕政に参加させてこなかった
ところが当時、将軍徳川家慶は危篤、世継ぎの徳川家定は少々精神薄弱と
幕府で上からガツンと強い態度で命令できる者が不在だった
そのため対応に追われたのが老中阿部正弘
阿倍は老中主席という立場ではあったが諸大名に上からガツンと言える立場にない
結果、従来幕政に意見できる立場ではなかった
旗本、外様大名、朝廷にまで意見を求めた
しかしここで活気づいたのが外様や朝廷
幕政に参加したい者が同盟を組んで意見していこうとなり
朝廷と外様が急接近→討幕 戦前も天皇親政ではなく、内閣や議会が政治を決めていましたが、2.26事件のような
内閣が機能不全に陥るような緊急事態において昭和天皇が政治判断を行うことがありました
今の日本国憲法下、象徴天皇制下において、万が一内閣や国会が機能不全に陥るような
緊急事態において、戦前のように天皇が政治判断を行うことってあり得ますか?
また、国民がそれを望む可能性ってどうなんでしょうね? じぶんで結論書いてるだろ。そういうのは日本近代史板あたりで
延々馬鹿あいてに論じてなさい。ここは質問スレです。 >>303
冒頭では意見を求めるとか言ってるけど、それは会議の体裁のための前置きに過ぎず、幕府の方針は開催以前から内定してたんだよ
それを知らない外野が、幕府は困り果てて対策も立てられないとか吹聴しただけで、実際の方針は既定路線 >>311
三部会を招集したルイ16世と同じで悪手だったんだよ
外野が,幕府は困り果てて対策も立てられないと看破し倒幕
でも安政の大獄は内部崩壊だから ちょっとすっ飛ばし過ぎじゃね?
阿部は、越前、薩摩、肥前などを巻き込んで慶喜の下での幕政改革を志向
↓
阿部が倒れて井伊が登場、家茂を擁立して、阿部の構想を全否定
↓
井伊がやり過ぎて暗殺され、幕府の権威が地に落ちる
って流れじゃなかったっけ? 内部資料では、幕府側で開国方針が決まったのはペリーの出港よりも前、
早期に最初の条約締結相手をアメリカと決めて、それ以外の国は交渉を避けて引き延ばす方針が決定。
ペリー艦隊に対しては早期の到着を待っていたんだがな
ペリー艦隊到着時の港湾警備は、攘夷派が艦隊に攻撃をしかけて交渉を妨げられるのを嫌ったためで、それゆえ海側でなく陸側に警戒を向けて警備したんだよ
刀を向ける方向が逆じゃないか艦隊を向いてないぞって当時の野次馬たちも言い残してるだろ その割には身分ある奉行自ら交渉にあたるわけにはいかないと下っ端に身分詐称させてるのはおかしな話だろう。 >>313
1. ネッケルは3部会を招集してルイの下での財政改革を志向
2. ○○が登場,ネッケルを罷免
3. ○○がやり過ぎて暴動を起こされ,王の権威が地に落ちる
アルトワ伯でもいいけど,変わらないあ 立憲君主制でクーデターが起きたらどうするの?って話って
「23-Fでぐぐれ」ですべて解決しなくね? >>309
国民の一定数は天皇の政治判断を望むのじゃないかね?
内閣とか与党とかのひとまとまりの判断じゃなく、政治家個人の
判断に任せるくらいなら、それより陛下の判断を仰ぎたいって
声は一定数出るだろう >>295
もうご覧になっていないでしょうが
完全に個人的な考えを申し上げます
戦前までの天皇は決定権をもっていたが、摂関・院政・幕府に拘束されて行使できなかった
戦後の天皇は憲法で権限をもたないものと明確に定められた 行使できなかったではなく行使しなかっただよ。戦後の社会契約説で明治憲法を解釈するから
そういうおかしな表現をつかってしまう。戦前は国家有機体説なのだから、主権者たる皇帝が
権利を行使「できない」などということは法の構成上ありえない(現に勅令がある)。そうではなく
皇帝(天皇)は個人として憲法を尊重することで権力を行使「しない」という政治体制だった。
こういう文脈で解説する必要がある。戦後はおっしゃるとおり天皇は政治的に無権限(=無責任)と
明確に記述され社会契約説のもとの象徴天皇と規定されている。 >>320-321
憲法上は大権を持つことになっているが、もろもろの法律の規定で実際の権力行使ができないように制度化されていたぞ >>318以降の話が
全て823-Fでぐぐれで解決する話でワロタ >>325の話が
全て国家転覆罪の死刑で解決する話でワロタ >憲法を形式的に解釈すれば、「国王」はスペイン憲法第62条第h号に規定された「軍隊の統帥権」を行使するためには内閣総理大臣または主任の国務大臣の「副署 (Refrendo)」が必要です 。
>しかし、副署する権限のある全て者が下院議事堂内で身柄を拘束されているため、彼らの副署承認は不可能な状況です。
>国王はこういった非常事態に対して「憲法」を守るために、最善の努力を行いました。
>政府機能が停止した場合における国王の役割は大変に大きいことが分かります。 社会契約で王政をろんじても戦前の天皇は理解できないって言ってるのに。
226みたいに皇室の藩屏を殺害したり反逆したりした時点で、いかに理念が国家皇室を
思う行為であっても臣民ではなく反逆者だとするのが国家有機体説なんだよ。
国民のための国王っていう時点ですでに比較にならない。臣民は皇帝の手であり
皇帝は世界すべてに対置し、なにも見えていない「民」を支配し世界に君臨する、
それが国家有機体説。 は?
別に君主制じゃなくたって国家有機体説はありうるが? 可能性の話しをしているのではなく事実の話しをしている。
戦前の日本は国家有機体説で運用されており、天皇が臣民の
手となり臣民に仕えるなどという思想は無かった。 今だ!333ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ
戦前の日本は国民向けの顕教とエリート官僚たちの密教の二本立て
顕教は国体信仰、これに反する者は取り締まりの対象。
密教は天皇機関説であって、官僚養成機関である東大の教義。
どっちにしろ国家有機体説ではない。
国家有機体説はむしろ民間の右翼思想家が支持していたが
国家からは弾圧される対象 後白河天皇 死刑復活
後醍醐天皇 南北朝の争乱
孝明天皇 毒殺
と臣民を酷使すれば天皇陛下と雖も天罰が下る。だからそんなことは興り得ない
ですよね? >>324
天皇陛下がどうする、じゃなく、国民の
一定数がそれを望むんじゃないの?って話 >>332
しかし律令でも大日本帝国憲法でも天皇の権限は無制限ではないからなあ
例えば戦前に運用されていた大日本帝国憲法においては議会の開催が明記されていた
天皇は日本の元首であったが議会の決議を無視する言動は事実上できないようになっていた >>335
望まないと思うよ
世襲制だと竹田君みたいな変なのが出てくるよ 間違った
民主制だと安倍君みたいな変なのが出てくるよ >>338
安部が嫌いなら選挙で落とせよw
天皇も皇族も選挙で落とせない >>338
間違ったってお前337と別人だろう
俺がニートなのは安倍のせいだと平成30年スレで毎日ぼやいているニート >>335
過半数ではなく一定数でとどまっているなら、
現行システム上、天皇側もどうしようもないだろ
国民の過半数の合意を得ていることが国民投票なりで示されてなければ
天皇側が何らかの政治的意思表示をしたら憲法違反となり、
状況が落ち着いたら天皇側廃止につながりかねない 室町時代〜戦国期の天皇と江戸時代(幕末除く)の天皇は相対的に見て、
どちらの方が権威、存在感、経済力があったんでしょうか?
経済力に関しては、戦国期が皇室の歴史上もっと貧困窮乏状態だったと聞きますが
(お金がなくてお葬式が出せないとか、測位式が出来ないとか) >>343
このスレで少し前にあげた江戸時代初期の後水尾天皇は紫衣事件で幕府に怒られた腹いせに勝手に
譲位したのちも4代にわたる天皇の後見として院政を行った。同時に修学院離宮という別荘も作った。
つまり幕府に権力を制限されつつも幕府と闘争したし、それなりに金もあったわけだ。 江戸期の皇室御領は山科国周辺で4.7万石程度だっけ。公家領は3万石。 どのスレだったかな
徳川の話ばかりだからw
と言ってる人がいたんだけど、
その後、嫉妬団のようなものが現れ、倒幕?
本当に詳しい人は、いないのかな 本当に詳しい人がいたとしても、面白い質問じゃなきゃ
まともに相手してくれないよ。大学のゼミじゃないんだから。 >>344-345
サンクス
「権威」「存在感」という部分ではいかがでしょ?
室町〜戦国期と江戸(幕末除く)の比較で そういう具体化しようのない概念は小説家の領域じゃないのか 後北条市が台頭する前の関東って、なんで戦乱が続いてたんですか?
山内、扇谷の両上杉に古河公方が領地を獲ったり獲られたりと
不毛な争いを続けていたとしか思えない。
決定打が出ないのならやめとけって思うんですが。 >>350
旧鎌倉幕府が置かれていた関東への警戒から
足利尊氏が息子を下したことが戦乱の元かもね
関東はもともと都に対して独立意識が高い地域だったことが挙げられる
初代鎌倉公方・足利基氏は2代将軍足利義詮の同母弟
鎌倉公方は血筋の良さから将軍への野心が強く将軍継嗣問題に首を突っ込み度々反発
都の将軍と不和となり将軍が新たな鎌倉公方として堀越公方を関東に下すと
旧鎌倉公方は古河へ移り古河公方として対立
鎌倉公方の補佐役・関東管領上杉氏は山内、扇谷に分かれてそれぞれ堀越公方と古河公方について対立
幕府創設期より鎌倉公方の存在が足利家を二分していたことに加え
堀越公方を下した時点で世は応仁の乱で
将軍家に古河公方を討つ力がなかったことが問題 >>344
>それなりに金もあったわけだ。
後水尾上皇が修学院離宮を建てた金は
後水尾上皇中宮・東福門院(徳川和子)が
兄の3代将軍徳川家光に頼んで用立てた
禁裏御料で別荘建てる金まであったわけじゃないよ >>352
えー、そうなの。それはそれで幕府に抵抗しながらも貰うものは貰う強かさではあるが。 >>351
途中省略が多くない?
将軍位をうかがったり叛乱の疑いが出たりしたことで一旦は鎌倉公方は滅亡してる(6代将軍義教の時期)
んで、その後も戦乱続きだったことから、8代将軍時代に入って、鎌倉公方家再興を許して関東の安定化を求めたが、
その新しい鎌倉公方も将軍と対立したことから、将軍の弟を新しく鎌倉公方に据えようとして討伐軍を派遣したが埒があかず、
将軍が鎌倉公方家から手を引いたことで旧鎌倉公方(鎌倉からは逐われたので古河公方)が生き長らえた
将軍の弟は関東に入ることができないまま伊豆堀越で滞在し、少なくなった支持者の元、堀越公方となった
あと、堀越公方が関東に赴いてから応仁の乱が勃発するまで十年近い時間が経ってたのではなかったか、その間もずっと関東は戦乱。
一部の説では、古河公方討伐軍の動員を廻るゴタゴタが応仁の乱の原因のひとつだとさえ言われるぐらいの時間差があるよ
守護家家督継承問題のひとつである斯波家の義廉が斯波家に養子入りした理由は鎌倉公方討伐問題以外に考えられないしな
(義廉の実父が堀越公方の執事(副官)である渋川義鏡だが、義廉が斯波家を接収する間もないうちに翌年には早くも義鏡失脚なので、実際には連携することはできなかった) 享徳の乱はややこしいよね
初心者は手を出しづらい
でも戦国時代につながる決定的な出来事だからな 京都市の歴史を調べてたら、幕末期に朝廷が市民から借金していたという証書付きの解説があったんですが
その金を集めてたのは幕府の代官所なんですが>>345の皇室領の管理者ってのは結局幕府なんですよね?
それなら、皇室領と言っても結局は名ばかりで、幕府がなかったら税金すら集められなかったんですかね? 旗本領の実際の統治は代官が勤めてて旗本は統治してないってのと、システム的には同じだな >>355
上杉家は何故主君に対して叛逆的だったのですか?
尊氏の生母の実家というだけで高師直を殺害し,主君に叛乱を起こし
最後は他家に名跡を上げてしまう。凄い家筋ではないか >>358
全く機能してないから伝習隊とか新規の兵を集めることになった。
幕府や会津が集めたわけではないが新選組もそうだろう。
鉄砲を撃つのは鉄砲足軽の仕事だとして旗本は鉄砲隊としての調練を拒否した。
侍が足軽の真似はできないというわけだ。時代が変わったのについていけなかった。
平和ボケしたのもあるけど。 >>356
皇室御領、公家領は京都所司代(のち細分化され財務については京都郡代のち代官が支配
宮廷向きの財務はすべて幕府の支配で行われた、で間違いないです。公家にも家臣がおり
そのなかには警護の者もふくまれていましたが、外様大名でいう下士(御家人)の部類ですね。 >>359
>尊氏の生母の実家というだけで高師直を殺害し,主君に叛乱を起こし
幕府内で早期のうちから派閥争いが勃発していた。師直派vs直義派という形で派閥が形成されちゃって、直義派の幹部の一人である上杉は直義派として行動した
師直殺害に関しては、師直に殺された関係者の仇討ち的な側面が強いと思う
関東での騒乱については、当初主君を諫める立場で動いていたが鎌倉公方に逆恨みで追放されたり領地とられたりなんやかんやあって怨みがつのったのではないかと
特殊な行動ではなく、よくあるありふれた話です 大河ドラマ徳川慶喜で、徳川慶喜が大政奉還の前に
「諸々の問題の根源は、貧乏公家どもの不満を朝廷に突き上げた結果起きたことだから
山城一国を朝廷に与えれば、貧乏公家どもが文句を言わなくなって政を正常に行える。」
と言ってるのですが、そんなことで解決するような問題だったんですか? 秋篠宮が天皇になった場合、皇太子になってない天皇は歴史上ないとか言ってる方がいるんですが
本当ですか? 遡っていけば明治天皇や光格天皇が立太子を経ずに践祚してる
さらに古代をみれば立太子なんて制度ができたのは律令期だ
日本書紀の後付けを認めても推古天皇や持統天皇は皇太子にはなってないな >>367
後水尾天皇から譲位された明正天皇も女帝で本来は天皇になる筈ではなかったので皇太子になっていない。
内親王宣下と譲位を受けたのが7歳。天皇になったおかげで結婚も許されない悲しい人生だった。 >>363
大政奉還と一所で
親がお金を管理するのは怪しからんと子供が騒ぐのでまとまったお金を渡して黙らせようとした
苦情が朝廷へいくことを願った。南朝鮮と同じで解決はしないが,金を払ったと言い逃れする 正長の土一揆は庶民が初めて抵抗権を行使した画期的な事象ですが、それ以前の庶民はなぜ行動を起こせなかったのでしょうか。 ここ何年か、ヘイトスピーチに象徴される「排他的」な世相とされています
規模の大小は違いますが、幕末の空気感っていうのはこういう感じだったんでしょうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています