【初心者】スレッド立てる前に質問をPart37【歓迎】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ
日本史・スレッド立てる前に質問をPart36
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1431960606/ どのスレだったかな
徳川の話ばかりだからw
と言ってる人がいたんだけど、
その後、嫉妬団のようなものが現れ、倒幕?
本当に詳しい人は、いないのかな 本当に詳しい人がいたとしても、面白い質問じゃなきゃ
まともに相手してくれないよ。大学のゼミじゃないんだから。 >>344-345
サンクス
「権威」「存在感」という部分ではいかがでしょ?
室町〜戦国期と江戸(幕末除く)の比較で そういう具体化しようのない概念は小説家の領域じゃないのか 後北条市が台頭する前の関東って、なんで戦乱が続いてたんですか?
山内、扇谷の両上杉に古河公方が領地を獲ったり獲られたりと
不毛な争いを続けていたとしか思えない。
決定打が出ないのならやめとけって思うんですが。 >>350
旧鎌倉幕府が置かれていた関東への警戒から
足利尊氏が息子を下したことが戦乱の元かもね
関東はもともと都に対して独立意識が高い地域だったことが挙げられる
初代鎌倉公方・足利基氏は2代将軍足利義詮の同母弟
鎌倉公方は血筋の良さから将軍への野心が強く将軍継嗣問題に首を突っ込み度々反発
都の将軍と不和となり将軍が新たな鎌倉公方として堀越公方を関東に下すと
旧鎌倉公方は古河へ移り古河公方として対立
鎌倉公方の補佐役・関東管領上杉氏は山内、扇谷に分かれてそれぞれ堀越公方と古河公方について対立
幕府創設期より鎌倉公方の存在が足利家を二分していたことに加え
堀越公方を下した時点で世は応仁の乱で
将軍家に古河公方を討つ力がなかったことが問題 >>344
>それなりに金もあったわけだ。
後水尾上皇が修学院離宮を建てた金は
後水尾上皇中宮・東福門院(徳川和子)が
兄の3代将軍徳川家光に頼んで用立てた
禁裏御料で別荘建てる金まであったわけじゃないよ >>352
えー、そうなの。それはそれで幕府に抵抗しながらも貰うものは貰う強かさではあるが。 >>351
途中省略が多くない?
将軍位をうかがったり叛乱の疑いが出たりしたことで一旦は鎌倉公方は滅亡してる(6代将軍義教の時期)
んで、その後も戦乱続きだったことから、8代将軍時代に入って、鎌倉公方家再興を許して関東の安定化を求めたが、
その新しい鎌倉公方も将軍と対立したことから、将軍の弟を新しく鎌倉公方に据えようとして討伐軍を派遣したが埒があかず、
将軍が鎌倉公方家から手を引いたことで旧鎌倉公方(鎌倉からは逐われたので古河公方)が生き長らえた
将軍の弟は関東に入ることができないまま伊豆堀越で滞在し、少なくなった支持者の元、堀越公方となった
あと、堀越公方が関東に赴いてから応仁の乱が勃発するまで十年近い時間が経ってたのではなかったか、その間もずっと関東は戦乱。
一部の説では、古河公方討伐軍の動員を廻るゴタゴタが応仁の乱の原因のひとつだとさえ言われるぐらいの時間差があるよ
守護家家督継承問題のひとつである斯波家の義廉が斯波家に養子入りした理由は鎌倉公方討伐問題以外に考えられないしな
(義廉の実父が堀越公方の執事(副官)である渋川義鏡だが、義廉が斯波家を接収する間もないうちに翌年には早くも義鏡失脚なので、実際には連携することはできなかった) 享徳の乱はややこしいよね
初心者は手を出しづらい
でも戦国時代につながる決定的な出来事だからな 京都市の歴史を調べてたら、幕末期に朝廷が市民から借金していたという証書付きの解説があったんですが
その金を集めてたのは幕府の代官所なんですが>>345の皇室領の管理者ってのは結局幕府なんですよね?
それなら、皇室領と言っても結局は名ばかりで、幕府がなかったら税金すら集められなかったんですかね? 旗本領の実際の統治は代官が勤めてて旗本は統治してないってのと、システム的には同じだな >>355
上杉家は何故主君に対して叛逆的だったのですか?
尊氏の生母の実家というだけで高師直を殺害し,主君に叛乱を起こし
最後は他家に名跡を上げてしまう。凄い家筋ではないか >>358
全く機能してないから伝習隊とか新規の兵を集めることになった。
幕府や会津が集めたわけではないが新選組もそうだろう。
鉄砲を撃つのは鉄砲足軽の仕事だとして旗本は鉄砲隊としての調練を拒否した。
侍が足軽の真似はできないというわけだ。時代が変わったのについていけなかった。
平和ボケしたのもあるけど。 >>356
皇室御領、公家領は京都所司代(のち細分化され財務については京都郡代のち代官が支配
宮廷向きの財務はすべて幕府の支配で行われた、で間違いないです。公家にも家臣がおり
そのなかには警護の者もふくまれていましたが、外様大名でいう下士(御家人)の部類ですね。 >>359
>尊氏の生母の実家というだけで高師直を殺害し,主君に叛乱を起こし
幕府内で早期のうちから派閥争いが勃発していた。師直派vs直義派という形で派閥が形成されちゃって、直義派の幹部の一人である上杉は直義派として行動した
師直殺害に関しては、師直に殺された関係者の仇討ち的な側面が強いと思う
関東での騒乱については、当初主君を諫める立場で動いていたが鎌倉公方に逆恨みで追放されたり領地とられたりなんやかんやあって怨みがつのったのではないかと
特殊な行動ではなく、よくあるありふれた話です 大河ドラマ徳川慶喜で、徳川慶喜が大政奉還の前に
「諸々の問題の根源は、貧乏公家どもの不満を朝廷に突き上げた結果起きたことだから
山城一国を朝廷に与えれば、貧乏公家どもが文句を言わなくなって政を正常に行える。」
と言ってるのですが、そんなことで解決するような問題だったんですか? 秋篠宮が天皇になった場合、皇太子になってない天皇は歴史上ないとか言ってる方がいるんですが
本当ですか? 遡っていけば明治天皇や光格天皇が立太子を経ずに践祚してる
さらに古代をみれば立太子なんて制度ができたのは律令期だ
日本書紀の後付けを認めても推古天皇や持統天皇は皇太子にはなってないな >>367
後水尾天皇から譲位された明正天皇も女帝で本来は天皇になる筈ではなかったので皇太子になっていない。
内親王宣下と譲位を受けたのが7歳。天皇になったおかげで結婚も許されない悲しい人生だった。 >>363
大政奉還と一所で
親がお金を管理するのは怪しからんと子供が騒ぐのでまとまったお金を渡して黙らせようとした
苦情が朝廷へいくことを願った。南朝鮮と同じで解決はしないが,金を払ったと言い逃れする 正長の土一揆は庶民が初めて抵抗権を行使した画期的な事象ですが、それ以前の庶民はなぜ行動を起こせなかったのでしょうか。 ここ何年か、ヘイトスピーチに象徴される「排他的」な世相とされています
規模の大小は違いますが、幕末の空気感っていうのはこういう感じだったんでしょうか >>368
立太子すると東宮職が置かれて役人が決められ経費が掛かる
そのため江戸時代は立太子を行わないのが普通だったんだよ
未来の天皇は「儲君」などと呼ばれることはあっても皇太子は置かない
東宮職の経費削減のためだ
同様の理由で江戸時代は立后もほとんど行われていない
中宮になると中宮職を置いて役人を置かないといけないので
摂家出身の天皇の正妃であっても女御止まり 江戸末期の日本が、開国と幕藩体制維持を両立できなかったのはなぜでしょうか?
当時海外を知る行政官は幕府が最も多数を有していたので、むしろ幕藩体制を維持した方が開国はスムーズだったようにも思えるのですが。 「大河ドラマは歴史考証がひどい」とかいう人に「太平記もひどかったよね」と煽ったら怒るか無口になるんですが
そんなに太平記って別格なんですか? >>378
一般に、「Aが悪い」という命題に対して「でもBも悪いですよね」ということで何かを示せた気になっている人物に対しては
そのバカさ加減に怒るか、呆れてものも言えなくなるかのどちらか >>378
後醍醐という我儘放題な諸悪の根源を
悪く描けない事情があった >>379
いや、太平記を別格扱いにする人をあえて馬鹿にしただけだから、その反応がすごく面白くてここに書いたんですがwww 日本史板的には悪評紛々だけど平清盛は優美でよかったけどなあ ここで「それ、ドラマの話ですよ」っていう人いるけど
太平記や花の乱に関しては学者とかが太平記に触れたりしたりと、思い出補正を超えた何かがあるから恐ろしい
「装束が〜」「考証が〜」とか、「太平記を見て時代考証の仕事につきました!」ってどや顔で語るFさんとか >>382
倉山満か…
「太平記」が悪い点は
・北畠顕家を後藤久美子が演じた
・義詮無能にして上皇置き去りを捩じ込んだ
セリフとして面白いのもあったね。
尊氏「私にも覚悟があります」
貞氏「何の覚悟だ? 家出する覚悟か。花夜叉と駆け落ちする覚悟か。」 ドラマはドラマだよ。考証の指摘ならまだしも
解釈や作品評論なんか学問板でやられては困る >>378-380
大河ドラマの太平記?
あくまでも大河ドラマの一つであって、対置するようなものじゃないよね 金閣寺の三階部分の飛び出た物、多分とゆだと思うけど、あれも当時からあったものですか? 金閣寺は国士によって燃やされました。なので389が正しい 方言らしい
樋 -とい?とゆ?とよ?-
ttps://togetter.com/li/214265 寺にすると、寺にした家族は功徳を積めるし、何より故人の菩提を弔ってくれる場所ができる >>394
お寺を立てることは功徳を積むことになる。お釈迦様の時代にも祇園精舎とか竹林精舎とか
信者が寄進した逸話が色々あったとされている。精舎というのは出家修行者が住して修行する場
つまりお寺です。在家の信者は出家者のような修行はできないけど精舎や食べ物などの必要品を
寄進したり印刷術がない時代にお経を増やすために写経したりすることで功徳を積むことができます。
邸宅を寄進してお寺にするのはその一環です。 >>385
尊氏の愛人は藤夜叉だろ
花夜叉は旅芸人一座の座長 >>390
今でも金閣寺は通称
正式名称は鹿苑寺
舎利殿の別名が金閣で
このように呼ばれるようになったのは江戸時代から 寺院は荘園・封建社会で課税の対象にならず自治自衛が一定範囲で認められてたからだろう。
西欧でも封建領主が嗣子でない子どもを教会に寄託するさいに財産を教会に寄進する慣習が
あり、これがのちの信託制度のはしりになった経緯がある。金閣銀閣のような庭園なら維持ふ
くめて多大な費用が発生するのは自明だから、将軍家の相続財産とするよりは寺社として
独立採算にまとめ経営させたほうが良いと判断したのだろう。 ↑
真性さん?
だれが足利将軍家に課税する設定なのかな たしかにwそりゃそうだww
自分で書いてて気が付かなかったわw いずれにせよ歳費削減は寄進という体裁をとるうえで重要だったとは思われる。 院政期の皇室領荘園はけっこう寺院名義になっていますし
課税はともかく
世俗サイドからの攻撃や圧力をかわしやすいという側面はあったと思います。
五山が特にそうですが、寄進者や外護者は住職人事に介入できることが多いですから
実質的な支配権はにぎっています。
ますますずれますが正倉院の宝物が長らく護持されたのも寺院管理だったことが大きいですし。 >>407 サラリーマンの家庭みたいなの想定して話ししてんじゃねーよな? 「あんたのお父さんが道楽で始めた別荘の維持補修に、
なんでうちの実家の財産つかわなきゃなんないのよ!」
ああ、リーマンの家庭でもふつうにトラブル成りえたわ(´・ω・`) >>408
荘園の領有権は本家領家下司(など)と階層に別れてますでしょ
最上位の領主たる本家が皇室で中位の領主である領家が寺社なだけでしょ >>415
東寺なんかは皇室が衰退した後も
その時々の政権から寺領を保証されたし
本家が皇室とも決まっていない >>416
いや、すべての荘園の本家って意味じゃなくて皇室領荘園の本家は皇室じゃないの? シャーロックホームズについて調べてたら
「当時の日本人が知らなかった正倉院の存在について、なんでイギリス人のコナンドイルが知ってるんだよ」って記述があるんですが
本当に日本人は正倉院を知らなかったんですか? 1922年に英国皇太子(のちエドワード8世)が特別に拝観したという
記録があるから、そのさいイギリスにも知れたのだろう。 正倉院は明治8年(1875)に政府の所管になったあと、
13年まで毎年開かれていた奈良博覧会に宝物が出陳されていたし、
知識層にはかなり早くからその重要性は知られていたよ 知識層っていうか、大百科事典に載ってるか載ってないかだと思う >>422
微妙に気になったんだが、内大臣管轄下や宮内省は政府じゃないのでは?
内閣総理大臣の管轄が及ばないのは政府と言えるのか 連投して申し訳ないけど、戦前の史料見てると総理大臣が指す政府には宮内省は入ってないわけだから
正倉院が政府所管というのは間違いだと思う
異論あるなら、知識を増強したいのでお願いします >>424-425
「内閣総理大臣の管轄が及ばないのは政府ではない」とすると
現行憲法下における会計検査院も政府に入らないことになるよ 会計検査院は戦前も戦後も政府ではないだろう
では、帝國陸海軍は政府軍なのか?という馬鹿げた話に 総理大臣が指す政府(行政府・中央政府)
と
政府
は違う。当たり前だろう。 正倉院を最初に所管したのは内務省
ついで農商務省
政府の所管で間違いないぞ >>428
叛乱軍の対語としては政府軍は成り立つ
ただ日本において(民衆の支持を得た)叛乱は歴史上存在しなかったので
使われない 内閣総理大臣が管轄しないと政府でないなら
王政復古から内閣制度成立までの三職制や太政官制の時期には
日本には政府が存在しなかったことになるな 視点は面白いね。内閣総理大臣を政治的に権威づけるものは『帝国憲法は
総理大臣に対して発布された』という、ほぼその1点につきるものね。しかも
総理ふくめ諸大臣は(義解によれば)天皇の輔弼であり決して代理人でも
代行人でもないことになってる。そういう意味では政府は天皇を頂点として
天皇に指名された廷臣たちの差配する「朝廷」とでもよぶべき総体をさす
ことになるのだろう。 政府ってのは近代国家の統治機構のことで
広義には立法、行政、司法すべての機構の総体を指す
(地方自治体も含まれる)
狭義には中央の行政府のみを指す
広義でとらえるか狭義でとらえるかが原因だろ
ただ>>424-425は、>>422がレスで触れてる年代における、
正倉院の所属先くらいは調べておくべきだったな >内閣総理大臣が管轄しないと政府でないなら
>王政復古から内閣制度成立までの三職制や太政官制の時期には
>日本には政府が存在しなかったことになるな
2年前ぐらいにこのスレで質問したのですが
太政官制から内閣官制に移行した理由というのは
藤原による身分から薩長の門閥への移行ってことでよろしいですか> 王政復古直後の三職制段階やその後の太政官制のメンバー調べてみろよ 太政官制は実質的には江戸時代の老中システムでこれに和洋折衷の
元老院が付属していた。ところが元老院は自由民権運動にみられる
反政府運動の牙城に利用されがちで、けっきょくそれよりも権威が低く
なおかつ議員数が圧倒的に多い帝国議会置き換えられた、一方で
太政官制はイギリス・ドイツの内閣制(のようなもの)に置き換えることで
形式的には近代的な政体に改変された、という関係
ただ各大臣の職掌や権限、総理大臣の権限のなさなど、実質的には
明治憲法下の内閣は老中システムや太政官制と同じような構造を
もってたと言えるんじゃないかという気はする。 京極高氏は何故南朝に裏切り足利高氏・義詮追討の綸旨を貰ったのですか? 王政復古関連なのですが
内閣官制導入の目的の一つに、明治維新以前の門閥を排除するということはあったのですか?
太政官制で内大臣は公卿の三条実美でしたし
まあ、その門閥も薩長土肥になったわけですが 学制が出されたのが明治5年で、小学校から大学までという
学歴システムが完成したのが明治19年以降だからな。明法寮や
東大なんかも推薦されて試験うけるような状態だったわけで
官吏なども下級は一般公募にせよ上級管理で採用試験がはじま
ったのが明治21年なので実質的には推薦と任命という形式に
ならざるをえなかったろう。なにしろ制度自体がなかったのだから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています