【初心者】スレッド立てる前に質問をPart37【歓迎】 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
分からないことがあるときは、スレッドを立てて聞く前にこのスレで質問してください。
専門的な質問については、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
質問が続くようでしたら、「名前」欄に「最初の質問のレス番号数字」を入れることをお奨めします。
人名・用語について調べたいときは、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。
※まずは下記でチェックしてください。
日本史・世界史FAQ
http://www.geocities.jp/magurogyosenn2000/index.html
<お願い>
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・このスレでは過度な論争は自粛してください。
前スレ
日本史・スレッド立てる前に質問をPart36
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1431960606/ >>44
レスありがとうございます。
>刊行物ではなく、
>宮内庁で作成した内部資料(行政文書)の可能性が高い
まさに検索しても特定ゲーム関連でしか引っかからないため
そうではないかと思われるので聞いたのです。
やっぱり宮内庁問い合わせしかないですか。
Wikipediaでも「御物調書」の書名で引用元としてるんですがどうやったんでしょうね。 >>45
>どうやったんでしょうね。
記事を書いた人が閲覧できる人なんじゃね。 実在するなら情報公開請求したか公文書館で閲覧したかだろうけど
宮内庁の行政文書目録でも宮内公文書館の目録でもひっかからない
(両方とも宮内庁ホームページから検索できる)
まったくのでっち上げで実在しない可能性もあるな
問い合わせの際の聞き方をうまくすれば、別のタイトルであったり、別の文書の一部であっても教えてくれるんじゃないか? ふつーに先帝崩御に伴う財産目録だろ
正倉院御物の御物調書は昭和九年だったか
ISBNが付与されない限定本で関係者のみに配られたとか
地方のフォーラムなんかでISBNなんかつけずに頒布している
ぶっとい本なんかググってもまずヒットしない 官公庁がつくった刊行物なら国会図書館へ納本されるはずなんだがな
実際、国会図書館のサイトで「宮内庁」をキーワードに検索すると、
宮内庁要覧とか宮内庁職員録とか一般には出回っていないものもヒットする
しかし、御物調書はヒットしない
つまり、御物調書は、刊行物ではない、との推論が成り立つ 献本制度を何か勘違いしてねぃか?
まぁそう思いたいならそういう考え方も否定しないけどね
誰の中にもその人なりの真実はあるさ
世間的に正しいかどうかは別として… >>51
そもそも
>宮内庁の行政文書目録でも宮内公文書館の目録でもひっかからない
>(両方とも宮内庁ホームページから検索できる) >>43
いちいち関所でがちがちに固めていたわけでもないんだから行きゃぁ行けるだろう
ただ、川向うなんて行くのは子供心にも緊張したもんだ
他所の校区だと小学生でも中学生あたりでも難癖付けて来るからな
もっと昔だと幕領と小さな大名領なら税率も違うし、片や侍なんて居ない幕領、片や城下に侍が居て気を使わなきゃならない大名領
さらに川を挟んでいれば普段の往来も不便で、住民同士も疎遠となって対抗意識も出てくる
上が統制しなくても、自然と下同士で反目し合うことになりやすいシチュエーションだな
親戚も友達も川向うにはあるだろうし、そういう付き合いならいいけど、用事もないのに足を踏み入れるのはトラブルの元となりそうだな 前方後円墳は丸いほうが後ろなのに、
なんで写真では丸いほうを上にしてるんですか? >>56
丸い方がお墓の本体で方形の部分で祭祀を行ったと考えられているので
祀る側の目線で丸い方が上になってます。(うそ) 1 前方後円って名称は江戸時代についたもので、たいした意味はない
2 逆さまにすると、めちゃくちゃ座りが悪い
3 前方後円墳の側から見て、前がこちらを向いているので、実は理にかなっている
4 古墳の本義である埋葬施設は後円部にあるから、後円部を上にするのは正しい
好きなの選べ どうして大中小ではなく、大中少なのですか?
大納言中納言少納言
大将中将少将 >>56
建造物は入り口(前)を下(手前)にするのが普通じゃね?
方形部分は神社仏閣で言う参道みたいなもんだし。
鳥瞰で描いたとき、前を上にすると
画面正面には勝手口や裏手が見えることになって見映えも利便性もわるい 現代史で凶悪犯罪史って
大学入試に出ますか?
(´・ω・`) 戦国時代の話で、.九州は筑前の城井谷の宇都宮一族は
秀吉の九州征服のあと、伊予の国に転封を命じられて拒否。
このまま城井谷に残らせてくれと運動したが適わず、
一揆起こして新領主の黒田を撃退したものの結局は
和睦の席で謀殺され滅んだ。
何で素直に伊予の国に行かなかったのか不思議だ。
そうすれば滅亡も避けられたろうに。
島津を降伏させるくらいの秀吉の力を目の当たりにしていて
逆らった意味がわからん。
誰か答えてくれ。 そういう例は他にもいくつもあるので、先祖伝来の土地との結びつきは死んでも
滅んでも譲れないのだろう。 三河時代の家康は一向一揆の内乱後家臣の再編成を試みたが思うようにできず
“鉢植えの大名”化できたのは関東移封後
この点だけは秀吉に感謝したとか、俗説だとか、後世の後知恵だとか >>65
あくまで土地に居たいのなら帰農するか新領主の家来になるか。
一揆起こすって最悪の悪手だと思うんだが。
「おぬしは手ごわいの。わかった、今までの土地の所有認めるから」
となるわけないだろうに。
思えば家康や上杉景勝も動かされたのにな。
>>66
鉢植え大名に出来たのは検地のおかげと聞いたことがある。
それまで自己申告の石高だったのが正確に把握されたため、
土地に根付いてる大名を
「一万石足すから別の地方に行け」
と出きるようになったと。 いや…
検地と一言で言うけど、実態は一冊の本がかけるほど細かいのだが
あと、地権者が正直に申告するわけもなく見つからなきゃラッキー
逆もまた真で他所の土地に行っても地権者がゴチャゴチャ五月蠅い
“一円支配”が約束されている土地は身内同士で使い回し
面倒な土地柄を押し付けられるのは外様 >>67
>一揆起こすって最悪の悪手だと思うんだが。
それが武士の一分というものだろう。 戦国時代の武田の勘兵衛だか誰かは「日本には孫氏は当てはまらない」とか言ってたらしいですが
結局勝ったのは小田とか徳川でした。
とすると戦国時代にも孫氏は当てはまったんでしょうか? その誤変換。面白いと思ってやってんの?
芭蕉はそらに「古人の跡を求めず、古人の求めたることを求めよ」と言ってるね。
カラスの一啼きで大悟した僧もいる。
役に立つか立たないかは、その人次第。 そうそう。国士無双の韓信も当時兵法家として有名だった陳余に対して、自分が読んでるような兵法書は
相手も当然読んでいる前提でわざと絶対やってはいけない背水の陣を布いて油断させてこれを打ち破った。
つまり知識は知ってるだけでは役に立たなくて、それをどう応用するのかが大事である。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
VOZ8U 江戸時代の庶民にとって一番偉いのは藩主で、江戸の将軍の雲の上の存在、京の王家は忘れ去られた存在だったのでしょうか。 日本は鎖国中、オランダを通してヨーロッパの情報を得ていましたが
その中で多分蒸気機関についての情報も得ていたと思うのですが
なぜ「よし作ってみよう」みたいにならなかったのでしょう >>75
オランダからの情報はカピタン(オランダ商館長)が作成して出島の通詞が翻訳したオランダ風節書という
報告書の形で伝わるが国際情勢が主で蒸気機関みたいな細かいネタは扱わないでしょう。
さらにその情報は幕府の一部だけが握って広めなかったから仮に蒸気機関のことが書いてあっても島津斉彬
みたいな欄癖大名が老中にならないと作ってみようとはならない。
近年、鎖国は無かったとか言われてるけど実際にはそんなに情報にアクセスすることが自由ではなかったです。
情報にアクセスできるのはあくまで幕府の一部だけです。 「鎖国はなかった」説はひでえよなあ…
文字通りの完全鎖国してるわけがないだろっていう
鎖国してないならなんで開国(開港)要求しに来るんだよって
ほんとアスペが増え過ぎだと思うわ
「聖徳太子がいなかった」説も
”生存当時そう呼ばれてなかったから”とかいいだしてて
そんなもん歴代天皇全員「今上」とかなんだから同じだろっていう >>75
実用可能な蒸気機関の技術はイギリスがずっと独占していて
ヨーロッパの他の国に広まるのが幕末直前
よく誤解されるけど欧米は蒸気船が実用可能になるとすぐ日本に来て開国迫ってるんで
鎖国中の外国の技術はそれほど大したことない
ペリーのころは外国でも帆船が主流で軍艦だけが蒸気帆船、つまり蒸気船=軍用なんで
外様だと蒸気船を作ると幕府ににらまれる恐れがあるんで秘密裏に研究し、模型と称して試作はしてる
なので黒船に乗り込んだ日本人が技術的な質問をしまくって外国人をびっくりさせてるし
ペリー来航の翌年には機能は多少落ちるけど本物の蒸気船も作ってる 鎖国がなかったというのは、幕末の開国論に対応した造語で江戸幕府の政策ではないとかなんとか…
まぁ太平洋戦争は無条件降伏ではない論のような、違うような…
五・六年前に「関孝和の著作は一年だか二年だか前に欧州で出版された本の盗作」という本がでて、
朝日新聞が何度も書評やレビューで関孝和をデスってたなw
時間的には可能だが、関孝和が入手できたかどうかは…
幕府が望んだ欧州の書籍はあらゆるジャンルに及んでいて、幕末に日本へやってきた欧米人は
一・二年遅れの欧州事情に精通していた日本人に驚いていたとか
西国雄藩は出島から江戸へ届けられる欧州出版物をコピペする為、あらゆる手練手管を用いたとか
真意は定かではないけどwww 結局この手の話はこいう↑過度に一般化する奴が乱入してくるから話がグダグダになるんだよなw 何を言っているのか自分でも分らないムズカシイ言葉を使いたがるお年頃?
幼稚園か小学校で言われなかったのかなぁ…
「○○クンは、話し出す前に、何を言いたいのかよく考えてから喋りなさい」、と。 悪左府、悪源太、悪党等の悪は悪いという意味ではなくて強いとかパねぇとかいう意味でしょうか? 山川の「詳説日本史研究」みたいな通史解説本の
さらにレベル高いやつが読みたい場合はどうすればいいんですか
小学館の「日本の歴史」全16巻とか、講談社の全26巻とかは
著者の解釈や切り取り方がかなり入っていて
(それはそれで面白いし意義があると思いますが)
純粋な「教科書」ではないですよね
高校の教科書と同じようなノリで
「学界で異論のない部分」だけを
ただひたすら時代順に連ねていってる本はないですか? たぶん、「学会で異論のない部分」を集めているの「が」、
高校の教科書ではないかと思いまする。
それでも、山川だと採用してない旧仏教の位置付けの仕方を
実教出版でやってるとか、「異論」はあるようなので。
「学界の現状」ってのはパッケージ化された瞬間に
もう「現状」から乖離してしまうんでないかな >>67
一揆起こすのは悪手という考え方は、現代だから言えること
中世だと一揆などの武力抵抗に一定の正当性があって、必ずしも鎮圧排除されなかった。
抵抗する=敵対と考える見解が出てきたのが戦国時代後半ごろかな、
秀吉とか抵抗するやつは叩き潰せとの、強圧的な支配貫徹を求めてたから、
その見解に不馴れだった連中が大規模に鎮圧されて潰されてるね、特に東北とかで。 古代〜現代までの日本史の流れを一通り勉強できて、しかも一冊にまとまってる本を教えて下さい 通説まなぶのは学校教科書がいちばん多数の手が入ってるぶんだけ
「現代の」「定評のある」史観をまなぶにはベストだろうね。 「鎖国」の例外相手は
支那では宋が滅んで,元明清と反日王朝が続いた
朝鮮では百済が滅んで,独立国が自体が…
オランダはナチスに滅ぼされて,日本を逆恨みするようになった
阿呆じゃん? 歴史的な、お寺や仏教僧と周辺住民との関係、神社や神職と周辺住民との関係に
興味があります
比較的お寺や仏教僧の方がイメージしやすいです(イメージだけで、正しいかどうかは不明)
神社や神職の方はイメージがしにくいです
古代や中世、近世の神社や神職と周辺住民との関係、神社の役割、存在感、影響力などを
簡単にレクチャーしていただけないでしょうか? >>77
天皇はそれにあたる大王という地位があったのだからいいだろ
ただしこの時代は先の大王が死ぬと群臣が集まって次の大王を擁立するという制度のため
皇太子制度はなかった
聖徳太子は皇太子の称号でありこれはおかしい >>94
判ってないなぁ。聖徳太子という称号は後世に付けられたもので生前に使われてないから非実在というのが
聖徳太子非実在説なわけだ。それだったら歴代の天皇も生前に推古天皇とか呼ばれてないんだら非実在だろ? >>94
皇太子制度はないのに天皇制はあったのか?w
摂政も否定か? 当時何と呼ばれていたかは誰も知らないんだから突っ込むなということ。
「鎖国」はなかったんだろうな。こっちが誤解を生んだ表現
でも替わる表現ないし >>95
念のために書いておくけど「推古天皇」は諡号と言って死後に付けられる号だから生前には使われてなかったのは
もちろんだが、さらに「推古天皇」のような漢風諡号は奈良時代に初めて付けられた。それまでは和風諡号で
「豊御食炊屋姫尊」もしくは「豊御食炊屋比売命」とか呼ばれていた。それも死後のことで生前は違う。 >>92
近世以前には専業の神職はほとんどがおらずだいたいが仏僧との兼業だと思った方がいい >>96
元々は「鎖国」ってのは幕府が一括管理していたことを指してたんだろうが
そういう経緯を知らないアスペが幅を利かせ始めると
交易はしてた!鎖国なんてなかった!って話になってしまうんだな 勘合貿易にしろ何にしろ国家(幕府であれ)が一括管理しない貿易がそもそも存在しないんだがw
だから表現が可笑しいんだよ。表現に固執するからアスペとか言葉に対する冒涜やん
(お前ほんとアスペの意味分かっているのか? アスペの巣窟が学会だぞ
「関係者立ち入り禁止」を監禁とは呼ぶべきかいなか いや「鎖国」って当時には呼ばれていない、ってことだろ? 鎖国というのは明治期にケンペルの「鎖国論」を邦訳してからできた造語だな 後付けと言えば、士農工商の身分ってのも後付けだよな
もともと朱子学の言葉だが、日本の身分制度のことを示すために使われ始めたのは明治に入ってから
昔は/江戸時代には士農工商の身分制度があったと言い出した。
実際の江戸時代の身分の扱いとは全く違う呼び方なんだよ >>100
戦国時代(室町時代!?)の大内氏が朝鮮と直接貿易してたろう。
それが目的で大内氏は百済の子孫を称してるくらいだ。 >>105
お前はアスペを倣って「戦国」時代の意味を字句通り解釈できないの? 士農工商は管子や漢書にもでてくる概念だから、出典となれば恐ろしく古いよ。
漢学者や儒学者の間では当然のように言及されてるし。それが社会階層として
大衆にどこまで知られていたか、あるいは民衆がどこまで意識していたかは
別の話し。 管子には士農工商は同じところに住ませてはいけない
社会が混乱するもとだと政治の提要のひとつとして言及してある 戦後1、2をあらそう名宰相として日本史に記述されるとおもいますよ。
すくなくともあらゆるデータがそれを傍証しています。 >>98
サンクスです
同じ場所(神宮寺とか神社とお寺が隣同士とか)に僧侶と神職が併存していたわけじゃなく、
同じ人間が僧侶と神職を兼任していたってことですか?
つまり、仏教や経典についての知識と神道や祝詞についての知識を持ちあわせ、読経や
葬式などの仏事と慰霊や祭祀などの神事を同じ人間が執り行っていたのですか?
もう少しレクチャー願いたいです 神も仏なんだから大方仏式だけで事足りる
現代人の思い描くような神式の慰霊や祭祀なんて
江戸以前にはほとんど存在しない >>113
サンクスです
>>現代人の思い描くような神式の慰霊や祭祀なんて
>>江戸以前にはほとんど存在しない
これは俄かには信じ難いことなんですが、マジですか?
新嘗祭とかかなり歴史が古いと思うのですが、規模の大小は
さておき、神社における祭祀も歴史が古いのでは? 現代の神事って大体は明治以降に再編されたものだよ
本来は神道的だったであろう古い祭りも神仏習合で原型は復元できなくなってる 神社の祭りってのも、江戸時代あたりに民間習俗と道教その他の諸要素を混ぜて作られたようなのが多い
祇園祭とか、もっと古いのもあるけど、平安時代末より遡れる祭りはないのでは?
奈良時代以前のものはだいたい、廃れて消え去ってるね 渡り神事は伊勢神宮はじめいくらでも伝承されていて神輿もそれでしょう。
ただあの「わっしょいわっしょい」は江戸の町人文化であってきわめて
ローカルなものじゃないかな。祇園祭や博多山笠、東北のねぶたみたいなのは
神事があって祭礼をおこなうというより、先に祭事があってそれに神事が
あとづけで権威づけられたようなものなので、そういう2つ方向からの「まつり」の
成立は考えると面白い。しばしば地方の祭事祭礼が神社と氏子で分裂して
対立したり裁判沙汰になったりしているけれども、むしろそういう対立こそが
おまつりの本質を映し出しているようにも思う。 高校日本史程度の知識の無い人がなぜ回答めいたこと書くのだろう 正月に神社で行われる四方拝や歳旦祭なんかも明治以来の伝統なん? 今、神社で四方拝・歳旦祭をやってるなら、それは皇室祭祀を真似た新しいもの
皇室祭祀である四方拝は、ルーツは飛鳥時代に記録があるとされるが、
祭祀対象に星が含まれているなど、明らかに道教の影響を受けている祭祀 >>121
序文の宇宙創成の『混元既に〜』が道教が元になっていたりとか
日本の古神道は文字と同時に中国の宗教と接触したため特に道教から理論の部分を吸収してしまったらしい 何故正史たる『日本書紀』を軽んじて『三国志』や『古事記』の記述を重視したのですか? 近隣諸国で「創設千年の大学」とか言ってるところがあるんですが
もし日本で同じような論法を使うとしたら、創設千年以上の大学ってどこですかね? 東大寺や比叡山?
でも現在大学に発展していないだけかな >>127
1000年前レベルだと平安時代だが、このへんで教育機関っていうと、寺院と、あとは貴族の氏族教育関係か
前者は着実に引き継がれてる(ただし近代までは続いてなさげ)が、貴族の方のは中世まで続いてたかどうか。
いちおう、中世の教育関係で名前が出てくる足利学校も広い意味では氏族教育からの派生ではあるだろうけど……
これだって近代までは続かなかったよな >>124
皇室祭祀と神社の祭祀、さらに国家祭祀、それらはどれくらい共通性があり、
また共通性がないのでしょうか? >>121
道教の要素だと知られてないものが大量に定着してるんだがなあ
神道のなかにも、日常の文化にも、仏教のなかにも。 国策によって、神道を国家の中軸に据え、国家が神社を管理するスタイルを
国家神道と呼びます
であるならば、奈良時代のような
国策によって、仏教を国家の中軸に据え、全国に国分寺や国分尼寺を建立したのは
まさに国家仏教じゃないですか?
なぜ国家仏教みたいな呼び方はされないのでしょうか? 四方を拝礼するという儀礼は、おそらく人間の生理的な欲求なり世界を把握する
理性に由来するものなので、これ自体が道教による影響というのは主客転倒の
議論のようにおもう。むしろ重要なのはその祭礼を式日とくに正月におこなうという
暦法の伝来の方だろう。暦の数え方のほうこそが重要な影響であって、その日に
日本なりの祭礼をおこない、その祭礼に対して中国的な呼称(四方拝)という呼称を
与えたという解釈のほうが適切に思われる。 四方拝では、北斗七星の属星を7回唱え再拝、呪文を唱える所在があったんだよ 昔、光栄にあった維新の嵐ってゲームで
薩摩藩と佐賀藩だけが他藩者は入国禁止だったんですが、薩摩はまだわかりますが、佐賀が禁止だった理由を教えてもらえないでしょうか
無理でしたら、入国禁止ってのは、一般的な措置だったんでしょうか? >>111
正論って糞雑誌が歴代内閣ランキングっての載せたことあるんだが
一位が吉田茂で、最下位も吉田茂だったよ >>134
鎮護国家って言葉は聞くけど、鎮護国家仏教や国家仏教なんて言葉は
聞いたことないけどな〜
実質的に国家仏教みたいなものだとは
思っているけど、あくまで表現の問題な 国分寺の設置なんかは仏教教理を国家統治に利用しようとした試みだと
おもうけれども、基本的に仏教思想は地方経営や行政といった思想を
内包していないから、すぐに論理破綻したんだとおもう。行政というのは
したから積み上げて形成されるものじゃなくて上から形而上的に定義されて
その指定の範囲で行うものだから、仏教により国家を統治するという概念だけ
先に提示されて実際やってみたけれども、すぐ現場で無視されるようになった
ということだろう。 仏教には暦や所有という基本概念の規定はないし、身分などの規定もない。
職制の分類という概念もないし犯罪の処罰や服制などの規定もない。ただ
人民を救済するための道徳と行儀作法が規定されているばかりなので
総合的な思想体系たりえなかったということだろう。このあたりは西欧における
ローマ法とキリスト教の関係に相似する。中国から日本に散発的に渡来する
思想体系は、個々はそれぞれすばらしいものには違いないと推定されるものの
具体的にどのような性質のものかは当時の権力者たちには理解しようがない
ものであって、最新の法令律のようなもの、道徳律のようなもの、服制律の
ようなものを解釈しながら興味本位でやってみたり取捨選択していたり、というのが
実態であったと思われる。 そもそも「国立戒壇」のキーマンだった鑑真が仏教の政治利用を嫌ったぐらいなんで仏教を国家統治に利用する試みは完成することすらなく崩れだした気がするが、
奈良時代前半の律令政府がその方向を目指していたのは事実だろう
その後、別方向ながらも、荘園群統治/経営の面で仏教は大きな力を発揮してはいる
なんせ、そういう経営方面に必要な知識を仕入れる窓口が仏僧の留学ぐらいしかないってぐらいに限られちゃったしな >>142
中国から日本に渡来した仏教は中国で変質して道教的要素を多く含む物になってから伝わってるから、仏教自体ではなく「中国から伝わったときの仏教」として考えないと駄目だよ
道教を筆頭に儒教含む中国思想を多く混入した複合思想として伝来してるんだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています