【初心者】スレッド立てる前に質問をPart37【歓迎】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ
日本史・スレッド立てる前に質問をPart36
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1431960606/ 小さな神社は地主レベルで所領(100石とか単位の小さな村から年貢収入が有る)なんて持ってなくて統廃合された
大きな神社は武士や貴族同様に所領を持っていたが、これは版籍奉還や秩禄処分などにより取り上げられた
「神職としての収入」は増えたかもしれんが、「神社としての収入」は減ったとこが大半じゃないの?
複数の神社を統合したけど収入は元の神社ひとつ分しか残ってないとか、そんな感じなんじゃないかなあ。たぶん。 >>845
こういうスレなんだから、過去に出たのと同じ質問が再発するのは日常茶飯事だろうとは思う 常駐荒らしとご新規さんは別問と捉えた方が。
「再度書込み」と同じ質問をする荒らしと同じ“ような”は意図が違う うちの周り、小さい神社が乱立してて、神社の数、多すぎね?って思うんですけど
神社の数ってのは、時代を重ねるごとに増えていったんでしょうか? 上物ではなく土地の所有(占有)形態だけでみれば、本当にちいさな祠や地蔵などは代官に許可を
申し出て許されて建てるというもので、社格をもつようなものは神領寺領に関わる話しになるので
封主が本社に勧進して寄進するなどして建てられるという方式。上物については大半は記録にも
残っていないので、作られて保持されているものもあれば、壊れてそのまま森林原野などに飲み
こまれたようなものも多いのではないか。 日清戦争において日本陸軍は旅順において住民虐殺を行いましたが、なぜ日本は国際法を守らなかったのでしょうか。 これのことか
https://ja.wikipedia.org/wiki/旅順虐殺事件
>一方、欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨークワールド紙が
>ライバル紙と競い合って、イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を行っていたことが定説となっている[24][25][1]。
>事件の終息[編集]
>海外の論調は次第にこの旅順での事件のようなものは戦争ではつきものであって、欧米でも例がないわけではないという風に変化していったと、
>対応に当たった伊東巳代治は報告している。ただ事件が殺傷そのものがあったことが「虐殺」ではないことは認められ、アメリカにおける報道は無くなっていった[6][17]。 19世紀から既に米国は対日謀略活動をしていた証拠ですよね? 司馬遼太郎史観の「日露戦争までの日本軍は国際法を順守してた」という記述が批判される理由に「旅順虐殺をスルーした」と言われてるんですが
この批判は妥当ですか?
なお、日露戦争以後の日本軍が国際法を順守してなかったとは私も司馬遼太郎も言ってませんのであしからず つかそもそも国際法に違反する行為をしたとき相手の反撃に耐えられない国だった頃には、違反しようと思うわけないじゃん
自国が侵略される口実を相手に提供してしまうような愚行は避けようと思うでしょ
列強の一員(ハシクレではあっても)になったと思ってから後の遵守状況が重要では。
その辺の転換点が日露戦争あたりかもしれない。 国際法どころかいまだに国内で弾圧虐殺しまくってるシナ政府に聞いてこいよ 日露戦争あたりまでが領土拡張で侵略じゃなかったの?
それ以降は領土拡張してないや。ほんと時代錯誤している
>>856はしらんが司馬遼太郎は言ってるやろ >>835
江戸時代には神職の収入が少ないからか小規模神社の神職は専業ではなく兼業が普通だった
村役人と兼業してる例とか僧侶と兼業してるとか >>859
ちょうどその頃に国際環境がかわって領土拡張できなくなったんじゃないの 司馬がしょせん小説家だと言われる点のひとつだろ。仮に住民の殺害が国際法違反だという
素朴な理解に立って表現してるとしたらそれ自体が交戦法規への無理解を表わしてるわけで。 いずれにせよ日本近代史板で相手してくれないからといって
こっちで自説の主張はご遠慮ください。どうせ住人は似たような
もんなんだから、向こうでやろう。 無理解どころか虚構の上に成り立っているからこの人の戦争体験は
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」はいつどこで誰が言ったのか
ttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061025/hiki 藤原信頼はなぜクーデターを起こしたのですか
後白河院の寵愛を受けて権中納言にまで取り立てられたのに 室町時代や江戸時代に将軍や大名が
天皇に謁見する時は
天皇は基本的に簾越しだったのですか? >>867
そうです。
>>866
同じく後白河院の受けてやりたい放題の信西を排除するため。
>>865
鳥羽伏見の戦いが始まってこっそり江戸に逃げ帰った時に妾を連れていた。
つまり屋敷に妾を連れていたので遊郭に入り浸ってはいないでしょう。 白鳳文化の時代は古墳はもう作らなくなったの?
高松塚古墳が使われてた後に壁画を描いたの?
壁画のみが白鳳文化にあたるのがわからない、、 >>869
高松塚古墳もキトラ古墳も白鳳文化なので古墳はまだ作ってる。
648年(大化2年)薄葬令で規模は小さくなったがまだ古墳を作っている。
天武天皇と持統天 >>870
途中で送ってしまった。
天武と持統の合葬墓もまだ古墳です。この時期の古墳は終末期古墳と呼ばれる。 白鳳文化=古墳時代後期みたいな考え方でいいのかな?
ここに頼ってよかったありがとう >>868
簾越しというのは天皇独自のものですか?
将軍や大名も家臣と面会等する時に簾越しに
なることはあったのですか? 将軍はあるね。大名は聞いたこと無い。
きほん幕府も大名も御目見制度だから、将軍は旗本御家人のみの
ばあいはそのまま、御家人以下や南蛮人がくる場合は御簾。
大名は上士にはお目見えを許すけれども下士には許さない。 ×将軍は旗本御家人のみの〜
〇将軍は大名旗本のみの〜 >>872
ちゃうちゃう
古墳時代後期はほぼ6世紀に相当
白鳳時代はその次の古墳終末期 | 大和時代 |奈良時代
|古墳時代 |飛鳥時代 →→→→|
| |飛鳥文化 白鳳文化|天平文化 高松塚古墳とか先生に聞きに言ったら「興奮した」っていうくだらない洒落言われて笑ってる >>868
徳川慶喜が江戸へ逃げ帰るときに連れていた妾はお芳だが
妾がいれば遊郭に出入りしないというものでもないしなあ
結局、将軍就任前に遊郭に出入りしてたかなんてわからないんじゃないの
西郷どんで出てくる宿場町に滞在する飯盛り女も参勤交代する大名たちが
道中で楽しむためのものだし 出入りしないとは言わないけど入り浸ってるほど暇じゃないだろう。 >>874-875
将軍や大名クラスでも謁見する時は天皇は簾越しであり、
天皇の素顔を近くではっきり見ることはかなわないわけですね
しかし、天皇の側近や世話役、側室等は身分はもっと低くとも
天皇に真近で仕え、日常的に素顔を見ていたわけですよね >>883
4代〜13代将軍までは京都に来ていないので天皇との対面はないし
後水尾天皇の二条城行幸の際には
大御所徳川秀忠、将軍徳川家光と同座で簾越しではなかったはず
この時には中宮徳川和子も一緒にいて和子を通して義父、義兄である関係もあるが
内裏へ上がるには官位が必ず必要なので
側近や側室たちも全員官位持ちだぞ
江戸時代は武家官位なので大名の官位が高いからって
内裏ではあまり意味がない >>884
>内裏へ上がるには官位が必ず必要なので
春日局の例が有名だけど、吉宗の時代に輸入された象が江戸へ行く途中で中御門天皇が上覧する為に
象に官位を与えてるしな。 平安の初期までは昇殿が許されるのは天皇の本当の身内側近のみだったのが、3位までの位階制となり
さらに身の回りの世話をおこなう蔵人にも許されるようになった。 >>887
そもそも奈良時代までは建物が寝殿造ではないため昇殿という概念がない
平安時代初期から三位以上の公卿は昇殿を許されていたよ
四位、五位で昇殿を許された者が殿上人でこれは勅許によった
尚、昇殿が許されなければ天皇に会えないということではなく
建物の中に入れないだけ
テレビドラマの奉行所の裁定の場面でお奉行さまは建物の中
裁定を受ける庶民は地面に座るみたいなもん 旧体制 旧旧体制 と並んでいたら、もはや新生稚児も、そちらにあるわけじゃないの? >>888 大極殿できたのはずいぶん古いだろ。奈良以前なはず。 徳川幕府での旗本は知行地持ちと扶持米取りで区別があったそうですが、
これをミックスした形態ってあったんでしょうか?
例えば三百石の知行持ちと五十俵の扶持米取り、みたいな形態。
ちなみに役料での追加分無しの基本給扱いで。 >>892
お早い返答どうもありがとう。
知行持ちと扶持米取りは隔絶した差なんですね。 >>893
知行持ちは一応は領地を持った殿様だけど扶持米取りはサラリーマンだからねぇ。
知行と言っても実際には代官が治めるわけだけど。 >>890
お前、大極殿の造りを知らないのか
石畳で床がないんだぞ 暴れん坊将軍の「旗本の三男坊」って江戸時代ではどんな扱いだったんですか?
こんなやつでも「ははー武士様」とかやってたわけですか?んなわけないとおもうんですが >>897
徳田新之介のは特に仕事もなくブラブラしてても誰も気にしない自由な立場ということだと思います。
嫡子は家を継ぐ立場だから勝手な行動は許されませんが次男三男は兄が死んだ場合のスペアとして
ブラブラしてるのが仕事です。死にそうにない時は適当なところで見切りをつけて養子の口を探します。
大大名の14男井伊直弼は庶子だったせいもあってどこにも養子に行かなかったんでそのままだったら
武士としての立身を諦めて茶道の新流派を開くところだった。藩主だった兄が死んだことで運命が
変わって大老にまでなった。絵師酒井抱一も姫路藩主の弟で兄のスペアとして扱われていたがお役御免と
なったら養子の口は断って絵師になった。 >>898
ちなみにあの歳でまだ養子に行ってない徳田新之助は仕官は諦めて浪人するつもりと
周りから見なされてるかもしれない。ことわざにも「すまじきものは宮仕え」とあり仕官は性に合わない
自由人も居るから。茶道・絵師・剣客など一芸があれば仕官しないでもやっていける。 >>894
知行地は代官が治めるのだと、知行主は知行地に影響を及ぼせない?
知行地に行って「へへー、お殿様だー」って農民に土下座されることもないのかな。
それだと扶持米取りと大して変わらない気がするんだけど。
あと代官が治めるって、中世の国人豪族みたいな半ば独立的に
したくないからなんだろうか? >>900
旗本は江戸定府と決まっています。つまり基本的に江戸を離れられない。幕府の御用なら別ですが。
私用で江戸を離れる場合は幕府の許可が要ります。ただし一部の旗本は参勤交代を許されていて
これを交代寄合と呼びます。寄合というのは旗本のうちで3000石以上で無役の家格で旗本寄合席とも
言います。交代寄合は参勤交代を許されているけど義務ではないのでしない家もあったらしい。
交代寄合は旗本だけど若年寄支配じゃなくて老中支配で大名に準じた扱いです。参勤交代しない
場合は領地に住んでるんだ。へー。
旗本が江戸定府なのは幕府に何か起こったらすぐに駆けつけて軍勢を編成できるようにです。 ちなみに旗本の領地は関東が多いのですが小さい旗本領が細かく入り組んでいて捕り方に追われた
無頼の徒が越境するといちいち許可を取らないと捜査できないので国定忠治とかが暴れ回ってました。
そこで幕府は関東に限って境界を越えて追跡できるFBIのような捜査官を設置しました。これを
関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)と言います。長いので関八州廻りとか八州と呼びます。 大名とかでも1村1町単位でとんでもない場所に飛び地であちこちに領地もってる
こともあるものね。そんなところは在農の者に代官職をさせており、事実上はいまの
青色申告みたいに村民の自主納税と治安の自主管理に任せておき、定期的に
奉行や代官・目付が巡回しており、ちょうどイギリスの巡回裁判所やシェリフのような
機能を果たしていたようだ。 イギリスの巡回裁判所やシェリフを引き合いに説明するって… 基本的な質問で申し訳ないんだけど代官は知行地持ちが直接面接とかして雇ってるの?
それとも藩から派遣されて来るの? 図のリンク表示方法のテスト
1、図1(http://vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg)は、
2、http://vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg
3、 <a href=vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg> 図1</a>
4、 <a href=http://vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg>図1</a>
5、 ttp://vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg >>900
代官とは別に、領主のもとに年始とかに挨拶の行事みたいなのはあったらしい >>893
最初のうちは小規模なの以外は原則として知行、零細だけ扶持
後半、直轄地が足りなくなった影響から、できるだけ知行を廃止して扶持に切り替えていった 武士の家計簿にたしか
旗本だと幕府が任命した代官が統治し、年貢も届けてくれることが多い
なので旗本の子孫に取材すると知行地がどこか知らず教えてあげたら喜ばれることもある
とあったと思います
なので、高校の教材には旗本知行地は幕府直轄地とほぼ同じなどと書いてありました じぶんの領地がどこかも把握してないのが旗本じゃ幕末の動乱で右往左往するわけだ 旗本としての毎年の行事のひとつとして知行地の農村代表が年始?挨拶に来るって話も出てなかったか、
特に代官が治めてる土地だと良民と接する唯一の機会だから云々と。
扶持の場合は、さすがになかっただろうけどさ 昨日BSで銭形平次やってたんだけど、あれって下っぴきの八っつぁんも十手持ってるけど、岡っ引きはわかるけど岡っ引きの手下なんて実際には十手なんて預からせてもらえないよね?
勿論ドラマはドラマとして。 『半七捕物帳』や『銭形平次』などの時代劇において、岡っ引は常に十手を預かっているかのように描かれているが、
実際は奉行所からの要請に基づき事件のたびに奉行所に十手を取りに行ったとされている。十手を携帯する際も
見えるように帯に差すのではなく、懐などに隠し持っていた。また、時代劇で十手に房が付いていることがあるが、
房は同心以上に許されるものであって岡っ引の十手には付かない。ましてや紫色の房は要職の者が付けるものであり、
岡っ引が付けることはまずあり得ない。
つまり下っぴきはもちろん岡っ引きも公式な存在ではないので十手を常時携帯してるわけではない。手当も
奉行所からは出ないので同心が小遣いをくれるだけ。だからお上の御威光を傘に町人から袖の下を取ったり
他の商売と二足のわらじだったりした。 _>>901-902
旗本は将軍の親衛隊だから江戸在府ってことか。
参勤交代はそれを免除された格上なんだな。
いままで旗本の交代寄合が不思議だったが、旗本自身が
知行地に普通は居られなかったとは。
>>907
知行地の領民にマンパワーの要求までは出来なかったんだろうか。
奉公人が足りないからあまってる男子を江戸に寄こせとか。
でも話を伺ってると、そこまで要求出来なさそうだな。 >>914
>奉公人が足りないからあまってる男子を江戸に寄こせとか。
江戸は100万都市だから働き手はいくらでもいるよ。男ばっかだけどな。
地方で仕事にあぶれて江戸に出てきて仕事を見つけられないと無宿人になる。
そういうのが一杯いた。女は女郎屋に売り飛ばされるからあぶれるのは男ばっか。 奉公は知識集約業務だから、百姓あがりの寺子屋卒程度じゃ
とてもつとまらんでしょ。それこそ子供のころから屋敷奉公に
上がらせておかないと雑巾がけひとつですら打ち首にされかねん。 「西郷どん」の塚地武雅みたいな下男をイメージしてたよ。 >>914
室町時代の守護大名も常時在京で、江戸幕府の旗本と大差ないよ。
参勤交代なんてなくて常時在京な
ただ、遠隔地(関東と東北と九州)の大名は在京しない、どころか京都に赴くことすらないけど。
江戸幕府では遠隔地の薩摩藩島津でも参勤交代してたのと比べると、やはり室町幕府の求心力は弱いよね 室町時代の守護大名が在京してたのは政治への影響力を行使したいという面があったのでは 本来の目的は軍事だよ
南軍に京都を攻められて追い出されることが多かったから在陣させてたと思いねえ
その在京の軍を派閥争いで動員したりして大荒れになったりしてなかったかな
応仁の時とかは、その軍勢で足りないから各自が自分の領地から追加の軍勢を集めてるけどな 一休さんの
『そもさん』、『せっぱ!』って
いったい何なんですか?
(´・ω・`) >>11
壬申の乱でも「米を水に浸して食べた」という記述があるから、それぐらいは普通にする >>921
一休さんは禅僧なので修行の中に禅問答(公案)というのがあります。
禅問答というのは普通に考えたら答えが出ないようなことをあえて質問して、それに回答することで
論理を超えた境地を悟る助けになるらしいです。その禅問答の時に師匠が「そもさん」と言ったら
弟子は「せっぱ」と答えます。つまり「そもさん」は「出題します」であり「せっぱ」は「回答します」という意味になります。 中国には清史稿や清史がありますが
「江戸史」のような正史が今現在存在しないのはなぜでしょうか?
もしかして、教科書検定制度が正史なんですかね?w >>924
江戸時代の記録としては、徳川実紀、続徳川実紀があるよ >>924
江戸時代は単独の王朝ではないから、その時代を扱う歴史書を正史とみなさないだけだよ
正史というのは「王朝としての正統を記す歴史書」だからね 最初から侮辱するつもりで投稿したら反撃されて
無知さらけ出しただけだろ。質問なんかする意図
ねんだよこいつは 正史をどうとるかにかよると思います
デジタル大辞泉には「国家などが編纂した歴史」で対義語は「外史」とあります
これに従うなら徳川実紀はもちろん、会社編纂の社史あたりも比喩的に正史ということができます
逆に厳密にいうと、中国の正史は原則として滅亡した特定の王朝の歴史を紀伝体で書いたものですから
王朝交代の無い日本にはそういう意味での正史は存在しないことになると思います
確かにほとんどの国には正史は無いと思います
前代の歴史を都合よく叙述して自己正当化をはかる、中国の歴史利用の伝統を感じます 史書は世界中にいくらでもあるけれども「正史」という考え方は支那文化特有とはよく言われるね。
ただこれも漠然とした言い方なので反論しようとおもえばスキはいくらもありそう。 聖書は世界中にいくらでもあるけれども「聖書」という考え方は欧米・中東文化特有とはよく言われるね。
ただこれも漠然とした言い方なので反論しようとおもえばスキはいくらもありそう。 聖書は英語ではBibleだけどこれはラテン語のbibliaから来ていてその意味は単に書物だ。
それを有り難そうな聖書と訳したのは誰だろうな? 東山文化が15c中頃に対して桃山文化文化が16c後半って書いてあるんだけど
この間は東山文化が続いたんですか? 「聖書」という語が登場したのは根拠あるところでは
いまのところ『神天聖書』(マラッカ、1823年)みたいね
むろん一般的な語として「聖」+「書」という文脈なら
漢書に「聖哲之書」という語があるようだ。 >>938
一般名詞から固有名詞への転用とか、わりと普通にないかな
書と言えば書経(尚書)、河と言えば黄河、江と言えば長江。みたいな(@中国語での例
日本だと何があるだろう?
正倉院と言えば「東大寺の正倉院」みたいなのか?(一般名詞「正倉院」はどこの荘園にでもあるようなありふれた施設です) 東大寺の正倉院が有名になったのは
明治時代に国が正倉院展を開催して一般人の目に宝物を公開するようになったからで
それまでは「正倉院といえば東大寺」ということもなかったよ >>939
ずっと続いてたんじゃなくて取り上げるような事物が無かったということです。 >>938
ギリシャ語、ラテン語のビブリアは書物一般を指すのでしょうが
英語のバイブルはすでに固有名詞化されているのでは? ナイル、ガンジス、インダスはすべて川という意味で探せば他にもあると思います
日本史では太閤、北政所、黄門あたりがそうでしょう
地名では「京」「都」など、あと港をあらわす一般名詞の「津」があてはまると思います(大阪や三重県) レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。