【初心者】スレッド立てる前に質問をPart37【歓迎】 [無断転載禁止]©2ch.net
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史書は世界中にいくらでもあるけれども「正史」という考え方は支那文化特有とはよく言われるね。
ただこれも漠然とした言い方なので反論しようとおもえばスキはいくらもありそう。 聖書は世界中にいくらでもあるけれども「聖書」という考え方は欧米・中東文化特有とはよく言われるね。
ただこれも漠然とした言い方なので反論しようとおもえばスキはいくらもありそう。 聖書は英語ではBibleだけどこれはラテン語のbibliaから来ていてその意味は単に書物だ。
それを有り難そうな聖書と訳したのは誰だろうな? 東山文化が15c中頃に対して桃山文化文化が16c後半って書いてあるんだけど
この間は東山文化が続いたんですか? 「聖書」という語が登場したのは根拠あるところでは
いまのところ『神天聖書』(マラッカ、1823年)みたいね
むろん一般的な語として「聖」+「書」という文脈なら
漢書に「聖哲之書」という語があるようだ。 >>938
一般名詞から固有名詞への転用とか、わりと普通にないかな
書と言えば書経(尚書)、河と言えば黄河、江と言えば長江。みたいな(@中国語での例
日本だと何があるだろう?
正倉院と言えば「東大寺の正倉院」みたいなのか?(一般名詞「正倉院」はどこの荘園にでもあるようなありふれた施設です) 東大寺の正倉院が有名になったのは
明治時代に国が正倉院展を開催して一般人の目に宝物を公開するようになったからで
それまでは「正倉院といえば東大寺」ということもなかったよ >>939
ずっと続いてたんじゃなくて取り上げるような事物が無かったということです。 >>938
ギリシャ語、ラテン語のビブリアは書物一般を指すのでしょうが
英語のバイブルはすでに固有名詞化されているのでは? ナイル、ガンジス、インダスはすべて川という意味で探せば他にもあると思います
日本史では太閤、北政所、黄門あたりがそうでしょう
地名では「京」「都」など、あと港をあらわす一般名詞の「津」があてはまると思います(大阪や三重県) 京都在住者が国司/郡司に任命されて任地に赴任したら、
単身赴任になるの?妻や子供は京都に残したまま? >>941
黄河・長江は逆の例では?
川の名前は古くは○水と書かれていて、例えば淮河なら「淮水」なんだが、黄河のことは河水、長江のことは江水とかいてある
つまり河や江は元は一般名詞ではなく固有名詞で、後に一般名詞に変わったのでは?
そう思いながら見たら、河は黄河の上流域、周や秦の首都を囲むように流れているエリアをかたどった象形文字に見えてくる >>946
普通は妻子も一緒に連れて行く、ただし時と場合による
清少納言は子供の頃、国司になった父と一緒に周防国へ下っている
紫式部も20代半ば頃、国司になった父と一緒に越前国へ下ったが
途中で父を残して単身都へ帰ってきて都の貴族と結婚している >>946
郡司は地元の有力者が選ばれるんじゃないかねぇ。 関連質問なんですが、摂津や大和などの場合は京滞在なんですかね? 昔の人たちがたくさん文書で記録を残してくれたおかげで今の歴史学の基礎になっているわけだけど、すごいことですよね。
昔の人たちが今の歴史学のために史料を残してくれたわけではないでしょうし。 >>951
お公家さんとかの日記は子孫が仕事するときに先例を確認できるように記録を残したもの。
つまり子孫のためだ。 田原と猪瀬の対談か何かで、「よく、なぜ天皇はこんなに長く続いてきたのかって問いに
『日本の歴史、伝統だから』と答えが来るが、最初から歴史や伝統だったわけがない。
その時代時代を潜りぬけて、いつしか歴史や伝統になったのだろう」みたいなことが
話されていました
日本の歴史上で、だいたいいつぐらいの時代から、天皇が「日本の歴史、伝統」あるいは
「伝統的権威」という風に認識されたのでしょうか?
確かに、田原らが言うとおり、飛鳥時代とかの頃に「天皇は日本の歴史、伝統」と思われて
いたとは思えません
その頃は「リアルな統治者」って感じでしょうね 伝統だから長く続いたんじゃなくて時代時代を乗り越えて続いてきたから結果的に伝統になったんだよ。 >>954
いや、それはわかってるって
どの時代くらいから、天皇が歴史や伝統
のように認識されたのだろうって疑問だよ それは綏靖天皇の頃からです
だいたい貴殿の仮説は目的と結果を取り違えている。当初は長く続けることが目的ではない 戦国時代はそれぞれの戦国大名が独立国家の君主だったという認識でいいんですか
イメージとしては30年戦争後の分裂したドイツ? 戦国大名は天皇陛下の臣下に過ぎなかったのに何言ってんだ? イメージとしては古代中国の戦国時代かな。周王朝が天下を治めていた時代は遠くなり各諸侯が
それぞれに王を自称するけど周王も一応まだ居る頃。「戦国時代」という用語も中国のこの時代に
由来してるし。 >>959
各諸侯じゃなくて諸侯だな。頭痛が痛いになってしまった。 ドイツは選帝侯会議という統一機関があったから微妙に日本の戦国時代とは違うね。
戦国時代みたいに互いに領地をかけて戦うというわけではなかったし。
日本の戦国時代は>>958氏が言うように春秋戦国期だろうね。中央には西周みたく将軍や
天皇がいて、権威としての中心を置いて、盟約などのさいにはタテマエとして言及しても
実質的には武力割拠している状態だとおもう。 >>957
たいていの大名は幕臣なり近隣有力者の臣下なり、弱い主従関係を残してます
主命があれば、(自分の不利益が大きいと無視するとは言え)ある程度は命令を受けて行動してます
中世的な主従関係に近いとはいえ、完全な独立勢力ではありません 支那の春秋時代。周「王」として権威を認め諸侯は「公」止まり
30年戦争「中」の分裂したドイツ? 戦争「後」なら織豊政権 でも田氏が斉を乗っ取ったり、晋の卿(大臣)である韓・魏・趙の3氏が晋を分割して諸侯に成り上がったりと
下克上が戦国時代の定義の一つだからなぁ。
日本の場合も北条早雲や斎藤道三はもちろん織田信長だって尾張守護斯波氏の守護代清洲織田氏の
分家で清洲三奉行家の家柄からのし上がった。 猪瀬ってさ、
江戸幕府は現在の国連みたいなもので、
江戸藩邸は各国の大使館みたいなものだった
とか書いてる歴史音痴の阿呆だぞ 炒飯を初めて食べた日本人って
いったい誰なんですか?
(´・ω・`) >江戸幕府は現在の国連みたいなもの
黴の生えたような、古いリベラルが仕切ってる組織と、
江戸幕府は確かに真逆だわな。 >>956
>>綏靖天皇
二代目の天皇ですやん
質問の意図が全然汲み取ってもらえてないな
正確にはいつから天皇が始まったのか分からないけど、
それが時代時代を潜りぬけて長く続き、やがて結果として
天皇=日本の歴史・伝統、または伝統的権威になり、
その認識が定着していったんだろう
その認識が始まり、広がり、定着していったのはいつ頃から
なんだろうっていうのが疑問なんだけどね
もちろん、ただひとつの正しい答えなんてないだろうけど、
何らかの見解、学説、ヒントがあれば良いなって思うだけ
戦国の頃には既に伝統的権威って認識はあったっぽいし、
さらに時代をさかのぼるんだろうとは思う それは『日本書紀』の頃からです
だいたい貴殿の意図は歴史と結果を取り違えている。現在もその認識は定着してない >>969
サンクス
『日本書紀』、つまり奈良時代の頃からって感じですか
>>貴殿の意図は歴史と結果を取り違えている。
これの意味するところが自分にはいまいち分かりません
現実に皇室は長く続いてきて、現在では皇室は日本の
歴史や伝統を象徴するものと認識されていると思いますよ
(全員とは言わないけれど、多数の国民にとって)
しかし、そういう認識をされ始めたのは平成とか
戦後とかじゃないでしょう? 自分の定義がはっきりしてないからいくらでも他人の善意からの答えを否定できる
つまり中二病のお子様ってことだよ。 「主上御謀叛」という概念もあって天皇陛下より上位の概念があるんだよ
近頃も天皇御乱心で譲位を強行されたでしょ? 例えばGHQがその伝統を認識され始めたのは絶対に戦後のことですよ!!
馬鹿な左翼は戦前からと言いたげですがw 京都御所は何故、
国宝じゃないの?
(´・ω・`) 財産権の関係があったんじゃなかったっけたしか。
完全な私有物にしておきたいから国宝の指定を
断っているものがあるという話しは別件で聞いた
ことがある 「日本の歴史、伝統」や「伝統的権威」の定義を深く考えずにお答えすると
以前にもここで申し上げた気がしますが
崇峻天皇暗殺後に蘇我馬子が天皇にならなかったことから
この時には血統上での権威は確立されていたと思っています >>974
Wikipediaの御物や正倉院によると
指定しないのは単なる慣例で
理由として「宮内庁による十分な管理が行われているので指定は不要」と宮内庁が言ってるみたいです https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1515715115/809-810n
809日本@名無史さん2018/03/25(日) 18:27:33.67>>842
天皇家の権威が他の豪族と大差ないなら
崇峻天皇暗殺後に馬子は天皇になれるでしょう。
もっと前から一定の権威を確立していたと思います。
810日本@名無史さん2018/03/25(日) 18:29:51.20
リロードせずに書き込みました。
>>808でおっしゃることとかぶってるところもあると思います。
その権威をいつどうやってかくりつしたかはよくわかりません。 >>970
>(全員とは言わないけれど、多数の国民にとって)
多数の庶民が天皇の意味を知ったのは明治政府の努力の結果です。知識人は天皇を知っているけど庶民は
それが何かよく知らなかったので明治天皇を全国各地に行幸させたり写真を配ったりして知らしめる必要があった。 >>978
ありがとうございます。こちらではなくあっちでしたか >>974
国宝相当だとは思うが今の京都御所って
一番古い部分でも幕末安政年間の建造物でそこまで古いわけじゃないからなあ >>975
犬山城天守は、10年くらい前まで旧城主の成瀬家の個人所有だったよ 重要文化財(国宝含む)になると海外に売却できなくなるので
美術品関係はいやがられる >>982
個人所有だと維持費を背負いきれないので財団法人化したんだよな。 信長と正室の濃姫との間に子供がいなかったのは、
濃姫がスッゲーブスだったからなんですか?
(´・ω・`) 定説はないけれども親族関係が複雑な絵にかいたような政略結婚だから
後難を避けて最初から手を付けなかった可能性はあるね どうしてですか? 道三の孫がいたら美濃侵掠の大義名分が立ったのでは(毛利元就みたいに 当時の美濃は土岐頼芸派の方が圧倒的多数だったんじゃないかな 竜興が義兄になるしな。当初の力関係的にはむしろ従属させられる危険のほうが高かったんじゃないか。 >>986
龍興じゃなくて義龍では
道三の後継者は長子義龍か娘婿信長か、という形で争ってたわけだろ 琉球王国の清に対する朝貢貿易が赤字だったという文をネットで見ました
朝貢は進貢側が非常に有利な貿易だと思っていたのですが本当に赤字だったのでしょうか >>990
道三が義龍に攻められて娘婿信長が救援に来たから
道三は信長に美濃国を譲るとしたんだろう
(美濃国譲り状の話は史実ではないとも言われている)
濃姫が信長に嫁いだ時点から将来は息子にではなく信長に美濃国をやるよ
と道三が心づもりしていたわけでもなんでもない
道三が側室腹の長男義龍ではなく正室腹の孫四郎や喜平次に美濃国を譲ろうとしたことが
義龍との亀裂の原因だと言われている >>993
まあ、そりゃあたりまえだな
譲り状とかデマだろうけど、信長が美濃侵攻の口実に使えそうな建前なんて、他に見当たらない
そういう理屈をでっち上げて攻め混んでたんじゃないかと思った >>992
琉球王国・沖縄の歴史を学ぼう.
ttps://www.ryukyu-history.com/ryukyu-history/post-123 >>995
「日本から借金をしている」
と夏子陽が皇帝に進言したと書かれています。
誰が琉球に金を貸したって?そして海洋交易立国の琉球が皇帝からの返礼の品を売っても返せない
ような高額な貢納品なんてのもおかしな話だと思うんだけど。
と書いてる俺も実態を知ってる訳ではないが。 >>996
判りにくい文章になってしまったのでまとめます。琉球は地場産業が無いから海上交易で儲ける国なんだから
貢納品が高額になってもそれ以上の値段で返礼品を売れないとしたら商売が下手すぎます。 琉球からの輸出品なんか赤サンゴくらいしかなかったんじゃないのか
真珠とかもなかったはずだし このスレッドは1000を超えました。
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