天皇制と身分制度について持論を吐き出すスレ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
『 日本における「身分」や「家格」は天皇家との距離で決まる。
日本人はすべてこの物差しで<格付け>される。』
このテーゼは「宮中席次」「叙勲制度」「菊栄親睦会」という形で
華族制度廃止後の現在にも当てはまる。
日本人の身分意識、家格制度と幕府 天皇制と庶民、その他あれこれと
スレタイや>>1に少しでも引っ掛かってたら良し。一家言お持ちの方々、
胸に秘めていた持論を吐き出して下さい。(近現代の話題OK) >>18
貴種ハードル越えはやはり無理だっただろうと思うね。時宗時代は得宗の北条氏一門内の覇権確立が
未だ不十分だったし。元寇という国家の非常事態の時期でもあった。
当時 源氏信仰が強まった(北条氏自身がそれを流布したとの見方も)ので、少し考えられない。
ようは、得宗に鎌倉殿になる気があろうがなかろうが、越えられない壁が歴然と目の前に立ちはだかっていた。 >>19
いや、元寇の後の話。
多分元寇撃退の褒美とか言ってせびりゃ、朝廷はくれただろう。
しかし時宗は元寇後、公武合体よか朝廷を弱らせる道を取ったし、本当にどうでも良かったんじゃないかな?
なる気になればなれたと思うよ。
御家人共が反抗すりゃ霜月騒動みたいに大掃除をすればいいだけだしね。
その結果、どうなるかは分からないが。 官位を貰えたとしても 7代将軍源惟康の従二位の下だな。主君を超えるわけにはいかない。
得宗が皇族将軍廃止して自分がその地位に就くとなると、全国的なゴタゴタが起こるな。大義名分が無いので人がついていかない。。
北条氏が鎌倉殿になることは全く不可能に近い。史実もそうなった。
ここが北条氏の限界でもあり、鎌倉幕府の基本構造だった。
北条氏が鎌倉殿になるには自ら鎌倉幕府を倒幕しないとダメだな。
それをやり抜いたのが足利尊氏だがな。 >>20
>いや、元寇の後の話
時宗は弘安の役の3年後に死去。幕府はモンゴルの第3回目の侵攻に備えて準戦時体制の状況。
嗣子貞時はまだ10歳であり、霜月騒動後は平頼綱の専制政治。頼綱失脚後に貞時の親政となるが、
貞時の時代って、得宗専制の完成期でもあり同時に後半は衰退期でもあるんだよね。嘉元の乱以降は
本人 政治に全くやる気なしで酒と女の不摂生生活で早世。 >>1
創業者って大変なんだぞ いくら金や軍事力を掌握したところで
自分の元上司や元先輩たちが本気で従うわけないだろ
本心では「この成り上がり者めが」ってナメてるに決まってる
そんな創業者にとって自分の地位の正当性を固める方法といえば
天皇の権威を利用するしかないじゃないか
「俺の地位は朝廷がお認めになったからだ」とか
「俺の実家は皇室の末裔だったんだ
だから俺も元々はお前たちより格上の身分だったんだぞ」
とかな
そもそもロシアだって創業者はバイキングの親玉あがりにすぎなかったのを
教会のお墨付きを得て「モスクワ大公国」になったんだからな そんなことよりも『叶真道』というのは
『伊達の桃太郎』門人のことでしょ 門人というか校正?
のような事をしていたのかな
実際は門人ではないでしょ 北条氏が鎌倉殿の地位に就くチャンスがあるとすれば、貞時のときだろう。
貞時のとき、得宗の権力が最大になった。
だが、嘉元の乱の失敗を見てもわかるように、貞時は一門ですら制圧に
失敗している。後半生はその挫折感からか、酒びたりになり早世してしまった。
貞時の人生が得宗権力の強さと限界を示しているのではないだろうか?
そして、貞時の次の代には、北条氏は滅亡する。
後世の人は北条氏の権力について、過大評価して、その実態を見誤り、
その結果、「北条氏は鎌倉殿になれた」「将軍になれた」「どんな高い
官位にも就けた」などと考えてしまうのではないだろうか? 最近資料読んであっとおどろいたんだが、
後鳥羽上皇が流された時、道中で「いつ死んでもいいように」僧侶がつけられてるんだね。
義時は、後鳥羽を、京を出たあたりで斬ってしまうことも考えたんだろうね。
今から考えれば、その決断は是非とも必要だった。
後鳥羽を斬っていれば、後醍醐だって斬られただろし、
何よりも自分勝手なゴダイゴはびびって倒幕なんてできなかっただろう。
義時は卑しい出だから将軍になれないなんて言われてるがそんなのは結果論。
彼は生前からて竹内宿禰の生まれ変わりと崇められた。竹内は人臣最高の地位なのだから、
義時でも望めば関白太政大臣も有り得たと思う。 天皇家と関係を結び、地位を高めようと試みたのは藤原氏や平家だけではない。
頼朝が娘の入内を企み(挫折)、徳川秀忠が娘を入内させ次期天皇を産ませたり、
足利義満が自身の正室を准三后とするなどは、天皇家との距離を狭めることで家格を上げることに努めた。
これとは反対に北条氏が天皇家と距離をとったことは日本史上では異例の事だった。
北条氏が巨大な権力と反比例して、朝廷ヒエラルヒーの中では下位に甘んじたことは政治的判断としては正しかった。
低い出自を逆手に取って有力御家人たちとの摩擦を最小限に抑えることが出来たからである。長期安定政権の秘訣はここにあったと言える。 今谷明氏によると天皇の権威が最も低かったのは室町時代(前半)だという。
足利義満時代の一番“底”を過ぎ、権威復活の最初の一手になったのが永享の乱における「治罰の綸旨」の発給だった。
義満は有力大名の討伐はあくまで将軍の権威において行い決して朝廷を介在させなかった。
しかるに6代義教が治罰の綸旨と言う禁断の果実に一度手を出してからは、
その後頻繁に頼るようになった。
天皇の権威は戦国時代にさらに高まる。 鎌倉開府以降 武家の叙位叙官はすべて幕府(官途奉行)の奏請を必要としたが、戦国期には大名と天皇が直接官位のやり取りをし始める。幕府の力が弱まり金欠病になった天皇が官位のバーゲンセールをやり出した。
その結果 官位の“市場価格”が下がり、大内義興の従二位、三木頼綱(勝手に姉小路家を称した)の従三位などが平気で現れた。(続く) 武家が朝廷より官位を受けることに異論を唱えたのが新井白石である。
白石は大名が官位を得るーーつまり、「朝廷の臣下となる」ことで将軍家と大名が天皇の下では対等になってしまうと考えた。
白石によれば、明徳・応永の乱は有力大名の内心にこういった意識があったため起こったとする。
ゆえに幕府は朝廷より独立した身分制度が必要であると説いた。
この白石の指摘は尊王論が高揚した幕末期に現実となった。 義時・泰時・時頼・時宗など、歴代の執権(得宗)の特徴は、とても勤勉に
実務をこなして働くことだと思う。この「実務をこなして働く」ということが
実質的な権力につながっているように見える。
ちょうど、省庁の課長が毎日夜中まで働き、実質的に省庁を動かしている
ようなものだ。
「課長はなぜ大臣になれないのか?」と論じても仕方ないのと同様、
「執権はなぜ将軍になれないのか?」と論じても仕方ないのではないか?
実務者が精力的に実務をこなして、実質的に組織を動かすこと自体に
使命感を感じていたと理解すべきなのではないか。 >>31
新井白石の指摘は、非常に鋭いと思った。
確かに、江戸幕府は、自前の官位を作り、朝廷の律令制の官位を受けない
ことにしてもよかったはずだ。徳川宗家の当主自身が征夷大将軍の官位を
受けることさえ不要で、単に「江戸殿」でよかったはずだ。
「江戸殿」が大名や旗本に自前の官位を授ければよかった。
そうすれば、江戸幕府は尊王論にゆさぶられることはなかった。 まあ、この説を鵜呑みにしたところで徳川宗家が朝廷の権威を利用していることでは
征夷大将軍と同義なんだけどね。 >>34
この本は征夷大将軍職が権力の原泉であることに疑義を呈しているなどの点で問題提起としてはよかった
その後の論理展開は… >>33
家康の征夷大将軍就任は豊臣家の「武家関白制」に対抗する手段でもあったと思う。
これで最終的に武家関白制(豊臣家の世襲)を廃止出来たし、家康も豊臣家康から源家康に戻れた。
家康の政権確立にはこういう手続きが必要だったんだよ。でないといつまで経っても家康は豊臣政権の筆頭大老のままだ。
執権北条氏のようなスタイルで権力世襲もあり得るが、やっぱりいつまでも豊臣家の家臣というのはねえ。 天下を取った者が源氏の嫡流。武田が天下取ったら武田が、佐竹が天下取ったら佐竹が源氏の嫡流となる。
鎌倉時代 足利氏が源氏の嫡流を自称していたようだが本人(とその一門)以外の世間がそう認識してたわけでもない。
頼朝の近親なら吉見氏や阿野氏がより嫡流筋なわけで、いい加減なことこの上ない。 要は自称か。
まぁそんなモンだろうな。
天下人の家系図なんて自称が殆どだ。
秀吉が藤原な訳無いしな。 江戸時代の大名家の先祖ほど怪しいものはない。 信用ならん。 そもそも六孫流の本来の嫡流は頼光流で代々殿上人も輩出している
頼朝に近いから嫡流とか視野が狭いのか知識がないのか頭が悪いのか 桜町天皇が譲位した際、女御だった二条舎子は皇太后になった
だから太上天皇と皇太后の両立は無問題(まあ当時は「天皇」ではなく「院」だったが)
今上は譲位後「太上天皇」となるべきで、皇后は「皇太后」になるべき
「上皇」はあくまで太上天皇の略称だから正式なものにするのはおかしい 秋篠宮は皇嗣殿下じゃなくて皇太弟じゃダメだったの? >>42
清和源氏六孫王流に限定せずに「源氏の嫡流」などと言ってるとしたらもっとアホだと思うが 皇嗣の英訳はCrown Princeになるようだが
Crown Princeはヨーロッパ的な通念から言えば法定推定相続人heir apparent(その継承順位を超える君主位継承権者が今後現れる可能性のない者)の称号であり
推定相続人heir presumptive(その継承順位を超える君主位継承権者が今後現れる可能性のある者)でしかない秋篠宮の称号としては不適当
日本の伝統から言えば皇嗣という近代皇室典範上の説明概念に過ぎない用語より適当な儲君という称号がある
また皇太子や皇太弟の称号は東アジア世界の通念から言えばheir apparentに限るものではないので日本語称号を皇太弟とし訳語はまた別のものを考案するというやり方も考えられる
また上皇后という噴飯物の称号を案出したのは皇太后=Empress Dowager(未亡人たる皇后の意)だからということだが
これはそれこそ訳語の変更を検討すればよいだけの話で翻って日本語を弄る合理的な理由はない
候補としてはEmpress Motherという称号がありうるが
これは定義上君主のMotherであるEmpress Dowagerということらしいので採用はできないかも知れない
無理に対応する訳語を考えるのではなく英語の慣用的な用法に従って
現君主をThe Emperorその后をThe Empressと定冠詞付き固有名詞なしで表記し
前君主をEmperor Akihitoその后をEmpress Michikoと定冠詞抜き固有名詞ありで表記するということもできる
片や英語だけCrown Princeというヨーロッパ的には適切とは言えない称号を用いつつ皇嗣という新奇な語を採用し
片や皇太后=Empress Dowagerでは諸外国に誤解を与えるとして上皇后という学識もセンスも欠如した名前を案出するというのはダブルスタンダードと言える
単にオリジナルの称号を是が非でも考案し功績を誇りたいだけなのかも知れない
上皇や上皇后の英訳語については話題にも上らないが案外特に何も考えていなさそうで「有識者」連中の思慮の足りなさを自ずと明らかにしている >>45
頼朝の基本スタンスは頼義流の嫡流をアピールしていたことを知らないの?
どのレスを指して勝手に六孫流と脳内補正したのかわからないけど、頼朝は清和源氏とも河内源氏とも
その嫡流を自称したことはないはず。(違ってたら教えてくれ)
ちなみに君はあまり詳しくなそうだから少し解説すると、頼義流の嫡流は義忠迄で、為義が嫡流かどうかは
諸見解がある。源義国は義忠の後は自分が頼義流の嫡流だと称したこともあったようだ。
頼朝はそこを整理して自らを頼義流の宗家とした。(御門葉に摂津源氏が混じっているのはご愛嬌だがw)
で、源氏将軍家滅亡後は足利が頼義の息子義家流の嫡流であるかのように喧伝しだした。
大体新田と足利 どちらが義国流の嫡系だがこれも何とも言えない。
頼朝や足利のハナシで嫡流云々の議論してたら、普通は河内源氏か頼義流かの話だろ。
それを自分で勝手に「清和源氏」と脳内設定するのは中学校レベルの歴史知識でしかないことを
暴露しているようなもんだ。
どうせつっこむなら、「鎌倉時代 源氏の長者は土御門家だぜww」と来たら少しはパンチがった。
>>41>>45を読むと、どうも源氏長者って清和源氏だけの棟梁だと思っているようなきらいがあるが、
そこは大丈夫かね? 47 ちょっと誤字がいくつかあるがすまん。得意の脳内補正してくれ 馬鹿が論理的限定も付さず不用意に「源氏の嫡流」などとほざくから突っ込まれるんだろ
基本的なわかりきった話をさも自分だけしか知らない話かのように語るのもいかにも間抜けだ
ちなみに源氏の長者は源氏の筆頭公卿が占める職であって嫡流という意義はない
また村上源氏中院流の嫡系は官途などを勘案すれば久我であると考えられる(ちなみに久我祖の通光は土御門祖の定通の同母兄のはず)
土御門はそれに次ぐが堀川とどっこいだろう
通親が土御門と呼ばれていたから嫡流と勘違いしたのかね >>49
あーもー わかったわかった。 足利や頼朝の話題をすれば それは頼義流か河内源氏のハナシと世人は読み取る、と
思っていた俺がおまえみたいなバカの???なツッコミを予想できずに「論理的限定」(←ワロた)を
ちゃーーーーーーーんと わかりやすーーーーーーく 書かずに言葉足らずだったのが悪かった。
ていうか、
>基本的なわかりきった話をさも自分だけしか知らない話かのように
書き込んだのはおまえさんのココ↓
>そもそも六孫流の本来の嫡流は頼光流で
そんなもん 誰でも知ってるがなww鎌倉将軍家のハナシをしてるのに誰が摂津源氏の話をするのか。
当然 頼義流か河内源氏のハナシやがな。
>また村上源氏中院流の嫡系
はいはい、土御門通親の後裔という意味で 端折って「土御門家」って書いちゃったよ。
ようするにおまえさんは「源氏」を論理限定していないと他人さんを攻撃しているが、
「源氏」には六孫流以外にもあるぞ、という批判ならわかるがそうでもない。
「源氏」を清和源氏まで脳内補正しえおきながら、もうちょい踏み込んで頼義流までオツムが至らないお前さんの方が
マヌケだろ普通。 やれやれ
むしろ「源氏」という開けっ広げで放漫極まりない茫漠たる言葉と実際に語っているらしい頼朝流・義光流界隈の間を取って清和源氏六孫王流にまで限定してあげたんだがね
最初>>38の「天下を取った者が源氏の嫡流云々」というナイーブな命題を見て
「もしかして源氏と言ったら清和源氏の頼朝周辺しか思い浮かばないウスラ馬鹿かな?」と思ったくらいで(この発言を見たらそう思うのが当然だろう)
それゆえ「知識がないのか視野が狭いのか」と言ったわけで
敢えて清和源氏の枠内に話を合わせてその上で「源氏の嫡流」などとほざくのは馬鹿丸出しだと言っているわけだ
ところで論理的限定という言い回しは記号論理学における限定を念頭に置いている(低学歴には思いも及ばないだろうが)
論理的思考力のない低学歴は自分の発言がどの範囲にまで妥当するかということを考える発想がない
それゆえ発言にその種の限定を施さずに放言して
突っ込まれた後から「こういう意味のつもりだった」と愚劣な言い訳をする
その程度の低能が自分の意図を忖度してもらおうなどは甘えるにも程がある
分際を弁えた方がいいよ 「たしかに俺は勘違いなつっこみをしたが、そうさせたのお前だ。だからお前が悪い。」
という話だな。 悔しさと自尊心が行間から滲み出る名文である。 >>44
皇太弟だと皇室典範を改正する必要がある。色々と面倒だったんだろう。
皇嗣殿下なら、法律をいじらなくてよいし。 >>54
おいおい自分の脳味噌の粗雑さや発言の迂闊さを他人に転嫁しようとしてるのはおまえだぜ
何と言うか自己紹介乙というところだな
「自分の脳内ではそういう設定でした」なんて本当に知能の低い人間じゃなきゃ言えないよ 喧嘩両成敗でおまいら双方とも知能が低いと自覚せよ 所仰如件 上皇 △→太上天皇
上皇后 ×→皇太后
上皇職 ×→院庁、あるいは東宮職にあわせて仙洞職か
仙洞御所 ◎
皇嗣殿下 △→皇太子、皇太弟、儲君(ただし皇子でなく皇弟にも用いられるかは不明、明治までは皇族の子を天皇の養子としたうえでの治定)
皇嗣職 ×→東宮職(天智天皇は弟を東宮としたから東宮は使用可) スレが荒れるのは大抵 不用意な悪態からはじまる
>>41>>45>>49>>53>>56
頭が悪いのか
もっとアホだと
馬鹿が 間抜け
ウスラ馬鹿 低能 低学歴
脳味噌の粗雑 知能の低い人間 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 源氏嫡流(仮にそのようなものがあったとするならば)が摂津源氏か河内源氏かはともかく、武門の主流は京都を活動基盤とした頼光の弟・頼信にはじまり坂東へ勢力を扶植し、武家棟梁となった河内源氏のものとなる。
後に河内源氏の流れを汲む頼朝が鎌倉に幕府を開くが、源氏嫡流意識なるものはこの頼朝が、武家の中での自己と自家の地位を特別視するために作り出したものともいえる。
そして頼朝の先祖を遡及し、頼光の弟の頼信にはじまり、頼義、義家と続く河内源氏を源氏嫡流と見るようになったのであろう。 日本には、天皇制も身分制も無い。
区別が有るだけです。
区別とは差別では無い。
出来る人は出来るが出来ない人は出来ない。
平等社会ではどうでしょう?
私に出来る事がお前には出来ない。ここに差別が生まれる。
平等社会では、同じでなければ成らないのだ。
日本は対等社会出した。
私には出来ない事がお前には出来る。
お前に出来ない事が私には出来る。
ここに、お互いの尊敬と対等が有る。 本来、天皇というのは実在しないんだよ、
テレビに出てきて歩いていたり?
『天皇 人権ない』
説明しなくても、わかるはずなんだけど
『北斗の拳』
北斗や南斗、星座の話もそう
祭祀、代表者(祭祀権)というのも,
他の家だと思う 承久の乱が上皇方の勝利に終わっていたら、平賀(大内)氏が清和源氏の
嫡流という扱いになっていたと思う。
大内惟信は後鳥羽院に仕える軍事貴族となり、右近衛大将くらいの官位に
昇っていたのではないか。
源頼朝の系統が断絶し、源氏御門葉筆頭の平賀(大内)氏が没落したことで、
軍事貴族としての清和源氏は消滅した。
この「軍事貴族としての清和源氏が消滅した」ことが、源氏嫡流という意味も
消失させたように思う。 「仮にこうなっていたら」ということを考えてみることも大切。
そうすることで、史実を分析する助けになることもある。 承久の乱で上皇が勝っちまうという事は、久しぶりに院政が復活するということか。
しかし、院政そのものが多数の武士の上に元天皇が乗っかり、危ういバランス調整を行うという個人芸だからな。
後鳥羽上皇の次が続かないだろう。 院政は後鳥羽もしてるし、江戸後期の光格まで続いているのだが 横レス
>>171
そうではなしに治天が名実ともに日本国の支配者という意味でしょ。それは後鳥羽院が最後だろ。
参考 承久の乱は幕府内部の東西対決だった
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1459210896/l50 認識として価値のある命題は
「もし〜だったら、〜だっただろう。なぜなら〜」
という形をとる
この「なぜなら」の部分、つまり理由付け・根拠付けのない推論などは無価値
ただの妄想の垂れ流し >>70
承久の乱で後鳥羽院が勝っていたら、後鳥羽院が名実ともに治天の君となる。
関東の武家政権も後鳥羽院政の配下となる。そのとき、後鳥羽院は自分に
近い軍事貴族を介して武家を支配しようとするのではないかということだ。
その軍事貴族こそが、新たな「源氏嫡流」になるということだ。
ただし、この体制はいつまでも続かず、やがて史実に近い流れに収斂し、
軍事貴族・源氏嫡流も消滅するのではないかと思う。 足利と徳川が「源氏嫡流」という定義が不確かなものに価値を見いだして巧みに利用した。
征夷大将軍と同様、天下を取った者がその地位に就く。 他のスレにも書いたことなんだけど、
その天皇というの何のことなの
世間でいう、いまの天皇?という話だよ
たま〜にテレビなどに映る人の話 アッキーと言っても
昭恵じゃないよ
明仁だよ!
高島屋提供 皇室アルバムだよね? そもそも院政という語で院が最高の権力者である体制を指すのがアホ
多くの時代院政は摂関政治や武家権力と並立していた 「いまの皇室はニセモノだぞ」
これも有名な話でしょ、何も知らないとか わかりやすくいうと
「次の天皇はあなた」
こういうのは、誰が決めたりしているの? 神代か何かから続いている家らしいけど
誰も住んでいない地に、突如現れて、それが初代天皇? たとえ皇族でも、天皇から何代か離れた諸王になると、人臣の公卿より下の扱いに
なるんだね。皇籍がまだあっても、天皇から距離が出ると、尊貴さが失われて
いくらしい。 戦後の日本は東大国家だよ
皇族は私大卒ばかりで
開成高校を頂点とした偏差値システムでは
中程度の存在
なんだかんだ日本は平等 わが国は世襲身分制を廃止して、東京帝大を出た「天皇の官僚」が新たな学歴貴族となる
近代国家の道を踏み出した。
だが、現在では東大を出ていても、それほど報われなくなっているのではないか?
むしろ、地方大でもいいから医学部を出て、医師になったほうが有利な人生を
歩むことができる。医師こそが現代の貴族階級だ。
わが国の階級構造は、変化してきたように見える。 そうかな。まだまだ東大卒はエスタブリッシュメントだろ。 >>85
皇室が貴いのは日本の魔を払うからだからそれも当然
神職を継がない神主の家系や寺を継がない僧の家系と同じ
継がないのなら貴くはない 民珍党は女系宮家を作ろうと必死だが、そんなもの誰が貴い家系と思うのか?
民珍党は日本の害悪でしかない。 マスコミの騒ぎかたがよく理解できない?テレビ局や報道になんか圧力でもかけられているのか?
はっきりいって天皇は何の役にたっているのか?日本の象徴?だったら着物でも着て出てこいよ!
スーツだろ?
なんかマスゴミに体よく騙されているとしか思えない?視聴率だけとも思えない
マスゴミは右翼主体なんだな!
最低の身分は確保されているというけどw最高の身分を生まれつき保証されているとしか思えないが?
まあいい、しばらく調べてみる・・・過去を調べても無駄だと思うが・・
過去を調べて役に立つのは地震と津波の歴史くらいだろうw 日本の天皇というのは、
コジキだと言っている人がいたけど 船氏 秦氏・・・
このような一族や家があって
系統が違うとか 神武天皇あたりでおかしくなったみたいだな、なんかあったみたいだ・
いわゆる朝鮮に暗殺され、すり変わられてしまったということだ・
そして朝鮮人が天皇になり変った・・
今となってはもう文献だけでは調べようも無い
たとえそんな事件がなかったとは言え各天皇陛下に超人的な能力があるか?どうか?
今の事実をみればわかるだろう?
今は政治も変える事ができない、もうそろそろ税金を無駄遣いするより
天皇制は廃止にするほうが正解とおもうぞ 日本の摂関政治期までの古代貴族政治は魏晋南北朝のパクリ(笑)
実力あっても官位と公家の支持を得ないと、伝統の易姓革命や幕府運営はムリゲーな社会 源頼朝と比べて平清盛の歴史的評価が低いように思う。 本格的武家政権「幕府」を創設した頼朝と比べられたら、
どんな武将も格下に見られるのは致し方が無いが、貴族政治に打撃を与えて、その後の社会構造を転換させたのは
清盛の手柄だろう。 それを簡単には教えられんな。 まず、親方に弟子入りして3年程雑用をこなしてからだ。 >>99
平清盛は娘を入内させて后に立て外孫を天皇にするという
藤原摂関家になり替わろうとしただけであって
新しい組織を立ち上げたわけじゃないだろう
貴族社会に打撃というわけでもない
そもそも平家も源氏も受領クラスの都の中流貴族であって貴族社会の一員 逆だろ。 別に新しい組織(幕府)を立てたから貴族社会に打撃を与えたわけじゃあない。
貴族社会のパイ(官職や本家・領家職、知行国など)が平家に横取りされたわけだから
こりゃあ既存のエスタブリッシュメントには打撃だ。
それに「幕府」つーコトバが一人歩きして現代人に勘違いを与えているが、 鎌倉幕府つーのは、
関東御成敗地と源家の家人(これを御家人と呼ぶ)を管理する源家の家政機関なんだぜ。
摂関家の家政機関と同じ機構である。(政所ー問注所ー侍所)
まあ、総追捕使という軍事・警察職を持っているところは大きく違うがね。
そう考えると平家の家政機関と鎌倉「幕府」の違いもそんなに差があるものではない。
平氏政権も国地頭や守護人も持っていて、これを六波羅「幕府」と呼ぶ人もいる。
武家政権が一通り成長・発展し、一応の完成をみるのは足利義満の頃。 それまでの武家政権は奥州藤原氏や木曽義仲も含めて過渡期の政権と見做すべきである。
清盛ー頼朝ー義満の流れは信長ー秀吉ー家康のラインと相似形と捉えれば理解しやすい。
大体 中世の始まりは12世紀初頭〜鳥羽院政期と言われているし、鎌倉「幕府」の先駆性と後進性を冷静に見れば、
清盛への見方も少し変わってくると思うが、どうかな?
>>104
なんか40年位前の平氏政権観だなあ。80年代後半でもそんな解釈はすでに古かったぞ。 >>105
幕府というのは独立した司法、立法、行政権を持って初めてそういえるのだが
平氏政権はそんなものは持っていない
出世して既存の朝廷を牛耳ったというだけでは幕府とはいえない
実際に後白河法皇のような天皇家のトップの前では平氏政権はあっという間に潰れてしまったし
平家が幕府を持っていたなんてとんでもない >>107
「幕府」というのは後世の呼び名(江戸後期)であり、武家政権自体がその時々の政治状況を背景にした自然発生的なものだ。
当然、「幕府」の定義なんちゅうものは歴史学上存在しない。武家政権各々に対しての評価は個別さまざまであり、
とりあえずは征夷大将軍に就いている政権を「幕府」と呼ぼうぜ、と明治時代の歴史学で決定された。
まず ↑を基本常識として話を進める。
そうすると、鎌倉政権が「独立した司法・立法・行政権」を持ったのはいつか?という疑問が沸くが、
その前に「独立した司法・立法・行政権って何よ? とそっちが気になる。
鎌倉時代と言えども国の基本法規は律令であり、その下位法に公家法や武家法が位置する。
荘園内のもめ事は本所や領家に裁判権がある。これが他人の荘園にまたがると国家マターになる。
御家人同士であると、主人である鎌倉殿マターとなる。 自分は中世の裁判史にとんと詳しくないので間違った認識をしているかもしれないので
違っていたらご教授願いたいのだが、御家人と非御家人の裁判が幕府に持ち込まれるようになったのは、
鎌倉中期以降ではなかったかと思う。御成敗式目の法理が国衙領・公家領に及んだ時期もよく知らない。
それと、「独立した行政権」というのも意味がよくわからない。 守護職の設置を指しているのかもしれんが、
まず、文治の勅許は1年限りの地域限定であり、本格的な設置は1190年である。また守護職の原型は惣追捕使であり、
鎌倉政権の特徴はこれを全国に常置したことにある。 これは平氏政権との決定的な差である。
ただこの惣追捕使は、実質的には朝廷から独立した職であり、朝廷の統制の及ばないものであることは事実であるが、
これとて朝廷の許可を得て設置された既存の役職でもあり、そんなにオリジナリティのある職種ではない。
独立した組織を言い出すと院庁がまさにそれだ。 鎌倉殿の家人や所領を管轄する家政機関がいわゆる「幕府」で、
上皇の所領や北面・西面の武士を管轄するのが院庁である。
鎌倉幕府のプロトタイプは院政である。
摂関家も本所として膨大な所領を有し、荘園には預所を置き家司を派遣して現地支配にあたらせもしている。
「幕府」はこれらの発展系という基本認識が共有できないと、俺が何言ってるかさっぱりわからないだろう。 教科書の悪い所は、ひとつのワードで本来違うものを一緒くたに扱い、学生にそれらが同じものと錯覚させることだ。
俺は「鎌倉幕府」という単語を出来るだけ使わす鎌倉政権と書くようにしている。 「幕府」の語句はどうしても江戸幕府とイメージが重なり、
全国の土地・人民を一元支配している錯覚に陥る。 大体、中世の土地制度の基本は荘園公領制であり、
全国の土地は国衙領と荘園の二本立てで、荘園においては本所・領家・荘官(または地頭)の多層支配である。
公家法も武家法も錯綜している。 鎌倉殿は関東御分国・関東御料など(総じて関東御成敗地)を持つ知行国主・荘園領主である、
という基本性格を考慮せずにあたかも朝廷に代わる新設の全国政権と捉えると本質を見失ってしまう。
明治の先学が国民教育に「幕府」の語を広めてくれたおかげで、小学生にも解り易い日本史教育が出来たが、
大学・社会人レベルの歴史勉強には子ども時代に植え付けられた先入観を取り払うのに苦労する。 概ね同意だけど
平家が社会構造をどのように転換させたの? 社会構造を転換させた <誤>
社会構造を転換させる嚆矢となった<正>
週刊誌の見出しにあんまり突っ込まんとってえな
平安末〜室町中期にかけて荘園・公領の支配権が公家→武家に移ったでしょ。
ここに風穴開けたのは間違いなく平氏である。 何が言いたいかというと、 鎌倉開府(イイクニでもイイハコでもどうでもいいが)によって
中世の幕が開いたわけたわけではなく、 歴史には連続性と不連続性がある。 従来の歴史観では鎌倉開府については
不連続性を強調しすぎるキライがあると以前から考えている。
日宋貿易の意義についても語ってみたいがそれはまたの機会に。
ちょいと清盛さんをヨイショしてみました。 >>97を読んで>>99思いついたけだ。
>100氏
いつも突っ込んでくれるが、君もたまには面白い事書けよ。自由にやっていいスレだ。
こんな天気のいい昼間に2ちゃんねるやってるくらいなんだから、何か世に問いたいことがあるだろ?
エンジョイしようぜ。 >>111
そもそも平家に地頭や守護っていなかったろ。
それじゃやっぱ武士の政権じゃないよ。
やっぱり平家は、貴族化した元武士の政権だよ。
飽く迄藤原とかの延長線上で、まぁ違いは武士に対して動員権を持ってたってくらいか・・・ 歴史の重要性を知らない若い世代にとっては天皇なんざどうでもいい事
年金制度>>>>>>>∞>>>>>>>天皇なんだよ
報道が大騒ぎしても・・何?だろw眞子様?どうでもいいよw
佳子様は可愛いからまあw結局どうでもいいけど 清盛、師直、信長 この3人は時代を切り開いた先駆者
新興勢力の代表として旧来の勢力と対峙し時代を変えようとした
しかし、志半ばで非業の死を遂げ、その成果も中途で終わった。
この3人に共通するのはそれまでの既成概念にとらわれない新発想と
それを推し進める腕力である。
戦争に強く、経済に明るい。 その当時としては革新的指導者であった。
清盛ー師直ー信長 この3者を線でつないでみると、一つの方向性が浮かび上がる
それは天皇制への挑戦である。
旧来の支配層を一掃し、新しい身分秩序を打ち立てようとした彼らは旧勢力との戦いに負け、滅んだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています