>>134
後醍醐天皇は大覚寺統の傍流(嫡男ではなかった)だけど、
持明院統も大覚寺統嫡流をも退けて自分の血脈で皇統を繋げたいと願った。
それゆえ、後醍醐を中継ぎ天皇で終わらせようとする鎌倉幕府を憎んだ。武士を嫌っていた。

正中、元弘と反乱に失敗して隠岐に流されつつも後醍醐が脱出・逃亡すると、幕府は光厳天皇を立てた。
鎌倉幕府の手先だった足利高氏(尊氏)は寝返って京都六波羅探題を攻略、新田義貞は鎌倉で北条を滅ぼしてくれた。
1333赤松や楠木に迎えられ京に戻った後醍醐は、光厳天皇の即位や詔書などの無効を宣言、自らの親政を開始。
翌年になって元号を建武と改めたため「建武の新政」と俗に言われるが、実質的には前年から始まっている。

1335北条の残党が鎌倉を占領する中先代の乱が発生。
鎌倉の北条残党を制圧した尊氏は帰京命令に背いて鎌倉に居座った。
尊氏は新田討伐を後醍醐に要請するも、後醍醐は逆に義貞に尊氏追討を命令。
義貞を破った尊氏は1336光厳上皇を奉じて入京、このため後醍醐新政は二年半で瓦解。

入京した尊氏は光厳上皇の弟を光明天皇として立て、ここに北朝が成立。
比叡山に篭り皇子を九州へ派遣したり義貞を北陸へ派遣させていた後醍醐は、1336/11山を降り足利と和睦。
光明天皇に三種の神器を渡すと1336/12吉野へ逃れて南朝を成立させ、光明に渡した神器は偽物だと宣言。
ここに南北朝時代が始まった(1336〜1392)