妃のいない大王 [無断転載禁止]©2ch.net
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崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home >>90
政治だって対案が必要とは限らない。
改憲案の対案を出さずに、護憲でも立派な意見になる。 >>90
つまり私は卑弥呼が誰かは分からない。
しかし君の意見には反対するという人間なのか。 >>91
そう言われてたよね、今までは。
しかし常識を疑ってみろ。
神武の時代には大物主、事代主、鴨王などがいた。
「主」「王」などは最高位の人物だ。
つまり神武は最高位の人物ではなかった。
だからこそ7世紀に新称号「天皇」にしてあげたのだ。 >>92
>護憲でも立派な意見になる
圧倒的な定説などない卑弥呼は誰か、邪馬台国はどこかという問題と、
護憲が何で同じなんだよw
例えがおかしずぎwww >>94
>そう言われてたよね、今までは。
いや、百襲姫だとか、イスケヨリ姫だとか、記紀の人物に比定しようとする方が多い。 >>96
>記紀の人物に比定しようとする方が多い。
それのどこが間違いなのだ?
卑弥呼が誰なのか見つけられないボンクラが「記紀に卑弥呼は登場しない」と言ってただけじゃないか。
それが固定観念になってるおまえはさらにボンクラだ。 >>96
卑弥呼がヒメタタラ=イスケヨリ姫だと言ってた人物を知らないか?
今探してるのだ。
図書館のレファレンスシステムを利用して聞いたが分からなかった。 >>99
いや安本説じゃあるまいし、それは無理だろう。 >>101
はいはい。時代遅れの昭和世代おつかれちゃんw 神武はいないんだよ、
頭のビョーインに行け
精神科 精神病院 コジキが、ふざけた事してんじゃねーぞ!
と言っている人がいたでしょ 存在しないと書いてあるでしょ、
頭の病院に行ったほうがいいぞ
その病院や施設から出てこないほうが良い 何度、言えばわかるんだ
頭の病院に行け、精神病院というらしいけど、そこだよ 崇神が4世紀初頭、
大和朝廷開始が庄内0期=2世紀末
この120年というスパン自体が、
欠史8代も神武もいたと考古学的に証明できるわけだが、
にもかかわらず、昭和の糞ジジイがいまだに神武はいないなどと言ってる事が、
いかに滑稽で精神病院に近い状況なのかお分かりいただけると思いますwww >>105
はいはい。時代遅れの精神病院・昭和世代おつかれちゃんw そもそも崇神が四世紀初頭である証拠が無い
実在するかもわからない 10代崇神天皇の時代を4世紀初頭とする根拠は、古事記に「山邉道勾岡上」と記される10代崇神天皇有力墓である西殿塚古墳、
または行燈山古墳が、考古学的に広義の布留式前半(4世紀初頭)の蓋然性が高くなっていること、
また、吉備津彦の墓としか考えられない中山茶臼山古墳、
崇神に反乱を起こした武埴安彦の墓の可能性が極めて 高い椿井大塚山古墳、
先代旧事本紀に交野連と記されてるタベノスクネ の墓である可能性が 高い雷塚古墳(森古墳群)、
四道将軍ゆかりとしか考えられない会津・一簣古墳群など、
崇神時代の人物の墓もことごとくこの時期である。
また 日本書紀と古事記では初期天皇の没年干支が違うが、
例えば崇神前後の開化天皇や垂仁天皇の没年干支を記載していない古事記は、
すべて記 載している日本書紀と比べ、むしろ伝承しきれなかった事を正直に伝えており、
逆に記載されている崇神の没年干支は、それ自体が強く伝承されてきたと判断し、
その没年干支は充分信用できると考える。崇神の没年は、考古学とも照合し、西暦318年が妥当であり、
崇神天皇の在位を西暦300年頃からとみる。 崇神はその通りだろう。
神武は2世紀末、大和討伐の中心人物ではなかったし、天皇の地位もなかった。
事績が全く違うんだろうね。
九州南部出身で、卑弥呼共立に関与した、それくらいだろうね。 >>114
まったく同じ意見。
神武の時代は魏志に書かれてるように女王国であった。
それを悟られてはいけないから神武東征を特筆大書して猛々しい男王のイメージを創った。
そういうことだろうね。 しかし、ヒミコ最有力候補がモモソ媛だという、この情けない現実。
4世紀初頭の崇神時代まで生きた人物が卑弥呼だなんて、もういい加減にしなければ。
しかもモモソ媛は寡婦の時期さえないわけだから。
卑弥呼が誰なのか分かりそうなものなのになぁ、
まぁ俺は分かったからこうしてスレを立てたわけだが。
しかしヒメタタラ説を定説にするにはその道のりは果てしなく遠い。 神武 ヒメ
綏靖 ヒメ
安寧 ヒメ
懿徳 孝昭 トヨ
孝安 トヨ
孝霊 孝元 開化
崇神
ヒメはヒメタタラ
トヨはアマトヨツ >>114
>神武は2世紀末、大和討伐の中心人物ではなかったし、天皇の地位もなかった。
討伐というか、ちょこっと隅に住まわせてもらった感じじゃないかな。
三輪山の神との関係とか見るとそんな感じ。
>九州南部出身で、卑弥呼共立に関与した、それくらいだろうね。
筑紫の日向は福岡だよ。
ただ、世嗣ぎではないから筑紫に居続けても無駄だったんだろう。
卑弥呼が天孫族ではないのに君臨していたという可能性を強く考えている。 >>118
>筑紫の日向は福岡だよ。
神武の先妻アヒラツヒメやタギシミミの痕跡は宮崎にしかない。
また宮崎神宮は崇神の代に社殿ができている。
したがって神武は宮崎。
福岡にそんな痕跡は皆無。 >>119
6代孝安までは葛城王朝だと思う。
7代孝霊は磯城の可能性が強いと思う。
当時の磯城(纏向を含む)を支配してたのはニギハヤヒの末裔である物部。
物部の女性であり天皇を産んだウツシコメやイカガノシコメが皇后を名乗る。 >>122
神武は九州ではウダツが上がらなかったから、足跡なんてない。 >>124
>足跡なんてない。
いや宮崎に神武の足跡(先妻や息子)があると言ってるわけだが。 とりあえず天孫族は博多だと思うけどな。
そうすると必然的に高千穂宮も福岡になる。 入れ替わった、入れ替わっている
というのは
ウマヤドか、
誰かの話だと思う
「俺はこいつと旅に出る」という曲 聖闘士星矢のスコーピオン?
なぜか自分の宮(家)を捨て、放棄して、
という謎の解説文があったり
ググってみると、
そういう謎の解説が載っているサイトがあった
他のセイントは、そういう設定ではない? 『太子流』
同じような手法だと思うよ、
本人にしか、わからないような流派
ガンダムのサングラスも同じ流派だと思う
他の人には認識することができない
しかし、わかる人はわかる 太子流と同じような流派、宗派
>シャアが自ら名乗らず、
>またノイズの激しいモニター越しであったため、
>ガトーはシャアと認識できなかった
それと『ボーボボ 田ボ』 >>131
肥国王家姫氏が徐福の末裔になってしまう。 >>126
どんだけ田舎者なんだよ。
恥ずかしくないかw
福岡って副葬品は最先端だが王墓らしきものが極めて希薄なんだよ。
せいぜい平原くらいじゃないか。
その平原も吉備の楯築遺跡あたりに比べたら貧弱そのもの。
弥生時代に群を抜いていたのは出雲、そして吉備。
それが大和に移る。 >>131
アー アナタ ジャカルタ カエル カエル
ジャカルタタイワン カエル カエル
アナタ ニホン デテク デテク
ニホン デテク デテク デテク デテク デテク デテク デテク >>133
どんだけ無知なんだよ。
弥生時代の王墓は九州北部が圧倒的だろう。
出雲や吉備を征して倭国の盟主となるのが筑紫だよ。
大和に移るのはそのあと。 >>135
例えば平原以外にどんな墳丘墓があるの?
周溝墓より墳丘墓の方が位が高いと見るよね、普通。 >>135
>出雲や吉備を征して倭国の盟主となるのが筑紫だよ
あのね、纏向石塚の前段階だけで見ても、
筑紫の平原は吉備の楯築より圧倒的に貧弱。
副葬品だけは立派だが。
でも楯築は盗掘うけてるだろうからあまり関係はないと思うね。 >>137
そもそも、文化が違うのに、同一条件で考える事が問題外
墓の様相が同じだったら比較できるが、全く別文化なのは一目瞭然
副葬品も盗掘でわからん、というなら尚更比べられないだろう?
あれだけの副葬品のある墓が平原遺跡である、という事実、井原三雲からの継続的につづいている様相という事
それは楯築と全く違う様相だ、という事
それに、別の国なら優劣つけるのに意味は無いのだよ
倭国の範囲に吉備が入っているかどうかも怪しいのだから。 >>135
>出雲や吉備を征して倭国の盟主となるのが筑紫だよ。
言葉から考えると、同じ西日本方言でも近畿言葉と北部九州のことばはイントネーションからして全く違う
そのことだけ取っても近畿人が北部九州から移って来たという考えには無理がある。 >>138
はぁ?
それなら、
>出雲や吉備を征して倭国の盟主となるのが筑紫だよ
というお前の話と矛盾するね。
吉備も出雲も平原のような方形墳丘墓ではないのだから。
というか九州は西日本の王ではない。 >>138
>墓の様相が同じだったら比較できるが、
なるほどw
ならば九州にも前方後円墳ができるよね。
その前方後円墳のルーツは東瀬戸内(讃岐、播磨、吉備)だと判明している。
九州よりも早いわけだ。
ということは九州が吉備に指圧されたことを認めるのかな? >>136
>周溝墓より墳丘墓の方が位が高いと見るよね、普通。
根拠がない。 >>138
>あれだけの副葬品のある墓が平原遺跡である、という事実、井原三雲からの継続的につづいている様相という事
>それに、別の国なら優劣つけるのに意味は無いのだよ
>倭国の範囲に吉備が入っているかどうかも怪しいのだから。
そうなんだよ。
筑紫は漢の時代から倭国の中枢だったけれど、吉備も畿内も倭国の領域に含まれていたという根拠がない。
出雲は記紀に出てくるから、倭国とは筑紫から出雲にかけての日本海沿岸の国だったことがわかる。
考古学的にもこのカ国は交流が深い。 >>140
少なくとも、出雲を下して筑紫に王が立った歴史は記紀に残されている。
いずものくにと筑紫への天孫降臨だ。 >>145
>少なくとも、出雲を下して筑紫に王が立った歴史は記紀に残されている。
何の話? >>148
おいおい、考古学の話をしてたのに、なんでいきなり神話の話になってるんだよ。
だいたい高天原がどこかなんて分からないのに筑紫もくそもない。
カッペには困ったものだ。 >>149
高天原がどこかはわからない。
しかし、記紀には出雲から筑紫への権力委譲の過程が具体的な人命とともに記載されており、考古学的にも出雲と筑紫の深い関係は証明できる。
これは無視できない。 ただし、奈良盆地はそれら倭国の中枢とは交流が浅く、記紀の神代には登場しないため、当時はまだ辺境の地であったことがわかる。 >>150
>記紀には出雲から筑紫への権力委譲の過程が具体的な人命とともに記載されており、
具体的に誰?
タケミカヅチか?
>考古学的にも出雲と筑紫の深い関係は証明できる。
出雲は3世紀まで四隅突出墳。
筑紫とはなにも関係がない。
そして4世紀になって前方後円墳もできる。
これは出雲が畿内に屈したという事。
おそらく崇神天皇の出雲振根事件は史実であるのだろう。
つまり畿内には屈したが筑紫は関係がない。
カッペ君、分かったかね? >>152
>具体的に誰?
>タケミカヅチか?
アマテラスから委任されたニニギにである。
>出雲は3世紀まで四隅突出墳。
それは出雲征服後の出雲国造家の墓である。
ニニギの筑紫日向への降臨は、南小路遺跡を基準に考えるなら1世紀頃のこととなる。 >>153
>アマテラスから委任されたニニギにである。
ニニギと出雲は関係がない。
>>出雲は3世紀まで四隅突出墳。
≫それは出雲征服後の出雲国造家の墓である。
出雲国造は崇神の時代、4世紀から。
訳わからんな、このカッペは。 出雲国造家が国造に任命される4世紀以前から出雲で権力を握っていたという説を
取っているのだろう >>155
4世紀以前から筑紫が出雲で権力を握っていたという事か?
ありえない。
3世紀の出雲の副葬品から鏡は出ない。
出雲から鏡が出るのは4世紀以降だ。
あと出雲は弥生中期から3世紀まで四隅突出墳墓が王墓なので、
何でそれが筑紫なのか意味が分からない。
だいたい筑紫なんて出雲や吉備勢力にとっては大陸への玄関口にある物流センター。
今でも港に企業の物流センターがあるよね、あれと同じ。
だから王墓が貧弱で少ない。 出雲の国譲りが1世紀で、これを受けてニニギが筑紫に降臨して伊都国の日向三代が成立する。
出雲国造家は天穂日の10代末裔が4世紀に任命されるが、その間の300年間は四隅突出型墳の時代になる。
鏡は出ないかもしれないが、土器に関しては出雲と筑紫の間に密接な関係があったことがうかがわれる。
大国主を倒して筑紫が全権を掌握した後なので、主従で言えば筑紫が主なのであろうが、実質的に筑紫の分家が半ば独立した自治のようなものを行なっていたのだろう。
傀儡政権とも言えるかもしれない。 どうでもいいが筑紫の話なんてやめてくれ、興味もないし、スレ違い。
他所に行ってくれ。
まぁこの人物が卑弥呼であり、こんな証拠があると提示できるなら別だが。 稲荷山鉄研のヲワケの辛亥の年が471年。
遡ること7世代でオオヒコ。
これは四道将軍の大彦であろうから、
一世代23年と計算したら23×7=161年
471年−161=310年
一世代25年と計算したら25×7=175年
471年−175=296年
四道将軍の大彦はやはり4世紀前後。
崇神はその一世代後。
現代人ではあるまいし一世代30年はあり得ないが、
一応計算すると、30×7=210
471年−210=261年
ギリギリで計算しても大彦は261年。
その一世代後の崇神が258年没などはあり得ない。
したがって古事記の干支が正しいとして崇神は318年没。
この時点で崇神時代まで生きたモモソ媛や、
崇神から15代前のアマテラスも卑弥呼候補ではなくなる。
卑弥呼候補はたった1人、ヒメタタライスズ媛しかいなくなるわけだが。 出雲国造家が国造に任命されるのが4世紀、出雲の国譲りに参加した天穂日の10世孫。
出雲の国譲りが考古学的な伊都国成立の1世紀なら、1世代が約30年なので、
>>160
>現代人ではあるまいし一世代30年はあり得ないが、
で概ね合っているように見える。 >>160
>卑弥呼候補はたった1人、ヒメタタライスズ媛しかいなくなるわけだが。
卑弥呼と同時期の畿内にいた別の姫だな。
神武東征が卑弥呼の時代と重なることになる。
倭国大乱の頃に神武は筑紫を抜け出したことになる。
しかし姫多々良五十鈴のヒメは、隠部を意味するホトをホトタタライスケヨリヒメ本人が嫌ってヒメに言い換えただけだ。
姫始めとかと同じニュアンスだ。
それを卑弥呼にするのは無理がある。
卑弥呼は日御子や日の巫女だろう。 糸島の産宮神社の御祭人に綏靖天皇を安産されたという謎の奈留多姫がいる
正殿にまつられているが、記紀にも名前が無く不思議なんだよね
記紀ではヒメタタライスズが綏靖天皇のお母さんだよね? 欠史八代は後から挿入されたという説がある
後からの挿入であれば実際の母親は記紀から外される事になる >>162
>卑弥呼は日御子や日の巫女だろう
いや”姫巫女”(ひみこ)じゃないの?
姫で巫女でしょ。
神がかった御姫様という日本語だろ。 >>164
あれだけ詳細な逸話が記載されていて、あとから挿入されたというのは無理がある。
欠史八代は逸話が少ないからというが、綏靖天皇については母親との逸話は十分にあると思うのだが。 >>165
それだとヒメミコで、音数が合わない。
狗奴国の男王が卑弥弓呼であることを合わせると、男性でも通用する名前のほうが良いのではないか? むしろ今の日本語に繋がらないのでは?
官名だってそうだし >>162
>しかし姫多々良五十鈴のヒメは、隠部を意味するホトをホトタタライスケヨリヒメ本人が嫌ってヒメに言い換えただけだ。
だから何なんだ。
「ヒメ」であることには何ら変わらない。
ヒメが固有名詞であろうが役職名であろうが、
そのどちらにも対応できてる万能型ヒミコだ。 >>161
>出雲の国譲りが考古学的な伊都国成立の1世紀なら、1世代が約30年なので、
出雲の国譲りが考古学的な伊都国成立とは関係ないので意味がない。
当時の平均寿命が40歳に満たない事は生物学的に判明している。
そんな時代に一世代間30年などあり得ない。
一世代間20年が妥当。 >>170
>出雲の国譲りが考古学的な伊都国成立とは関係ないので意味がない。
出雲の国譲りの結果、ニニギが筑紫に赴任し、日向三代が成立する。
伊都国で最も古い王墓である三雲南小路遺跡がニニギの墓と伝えられている。
出雲における四隅突出型墳の登場も同じ時代である。
一連の政治的変化が反映されていると考えられる。 >>171
>出雲の国譲りの結果、ニニギが筑紫に赴任し、
そんな史実はありません。
>出雲における四隅突出型墳の登場も同じ時代である。
いえ紀元前です、残念w
おい福岡のカッペ。
邪魔だから失せろ。 考古学的に崇神が4世紀初頭になってきた時点で
邪馬台国も卑弥呼(ヒミコ)もトヨも何も難しくない。
(2世紀末)
神武 「ヒメ」タタライスズ
綏靖 「ヒメ」タタライスズ
安寧 「ヒメ」タタライスズ
懿徳 孝昭 アマ「トヨ」ツ
孝安 アマ「トヨ」ツ
孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初) 「中臣」. 神 聞 勝 梨 迹 臣 伊 香 津 御 食 津 臣 宇 佐 津 臣 天 多 禰 伎
「三上」 筑 簟 国 忍 冨 坂 戸 比 昆 川 枯 彦 阿 目 夷 沙 比 止 意 冨 伊 我 都
「物部」 伊 香 色 雄 大 綜 杵 出 石 心 大 臣 大 禰 彦 湯 支 宇 摩 志 麻 治
【天皇】 崇 神 開 化 孝安 懿 徳 安 寧 綏 靖 神武
. 孝 元 孝霊 孝 昭
【鴨】 太田 田 禰 古 阿 田 賀 田 須 大 御 気 主 豊 御 気 主 建 甕 尻 飯 勝 天 日 方 奇 日 方
天トヨ津 ヒメ 蹈 鞴 五 十 鈴 姫 神武を基点とした系図(数字は世代数)
Eはおおよそ布留1期 @はおおよそ庄内0〜1期
「中臣」. E神 聞 勝 D梨 迹 臣 C 伊 香 津 B御 食 津 臣 A宇 佐 津 臣 @ 天 多 禰 伎
「三上」 E筑 簟 D国 忍 冨 C坂 戸 比 昆 B川 枯 彦 A阿 目 夷 沙 比 止 @意 冨 伊 我 都
「物部」 E伊 香 色 雄 D大 綜 杵 C出 石 心 大 臣 B大 禰 A彦 湯 支 @宇 摩 志 麻 治
【天皇】 E崇 神 D孝霊 C懿 徳 B安 寧 A綏 靖 @神武
. D孝 元 C孝 昭
D開 化 C孝安
【鴨】 E阿 田 賀 田 須 D大 御 気 主 C豊 御 気 主 B建 甕 尻 A飯 勝 @天 日 方 奇 日 方
C天トヨ津 @ヒメ 蹈 鞴 五 十 鈴 姫 ホトちゃんでどうだろう。
本人が聞いたら顔を真っ赤にして怒りそうだ。 ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混まじつていました。
そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには、
大和の國のタカサジ野のを
七人行く孃子おとめたち、
その中の誰をお召しになります。
このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前さきに立つておりました。
天皇はその孃子たちを御覽になつて、御心にイスケヨリ姫が一番前さきに立つていることを知られて、お歌でお答えになりますには、
まあまあ一番先に立つている娘こを妻にしましようよ。
ここにオホクメの命が、天皇の仰せをそのイスケヨリ姫に傳えました時に、姫はオホクメの命の眼の裂目さけめに黥いれずみをしているのを見て不思議に思つて、
天地間てんちかんの千人にん勝まさりの勇士ゆうしだというに、どうして目めに黥いれずみをしているのです。
と歌いましたから、オホクメの命が答えて歌うには、
お孃さんにすぐに逢おうと思つて目に黥いれずみをしております。
と歌いました。かくてその孃子は「お仕え申しあげましよう」と申しました。
そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになつて一夜お寢やすみになりました。
その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合やまゆり草が澤山ありましたから、その名を取つて名づけたのです。
山百合草のもとの名はサヰと言つたのです。後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、
アシ原のアシの繁つた小屋に
スゲの蓆むしろを清らかに敷いて、
二人ふたりで寢たことだつたね。 大君時代は妻問婚だから厳密に言うと正后も妃もいないでしょ 姫多々良五十鈴姫なんて、川べりの粗末な小屋に藁を敷いただけだったし。
※後に神武と再会した時に神武が懐かしんでそう歌っている まあ、大らかだし、姫の変わった人柄が感じられて好きなエピソードではあるのだけどね。
卑弥呼のイメージとはだいぶかけ離れている。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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